一人の時間
夕方になって栄先輩は出かけて行った。明日、学校で修了式があるからだ。帰って来るのは明日の昼過ぎ。それまで私はこの家で留守番をすることになる。もう身分証もあるため、好きに出かけて良いとは言ってくれたけど、これから日が沈む時間に出かける気にもならない。
一人で色々と考えたい気持ちもある。この先どうするのか、どうなるのか。もちろん、学校に入れれば栄先輩の調査を手伝うのだけれど、具体的にどう調べるのかが分からない。誰かから何かを聞き出すようなことは言っていたけど、私にできるだろうか。そう不安も湧いてくるけど、今から悩んでいても仕方ない。
それより目下の問題は夕食だ。朝は漬け物とご飯で済ませ、昼は炒飯を作ってもらえたけど、夜はそうもいかない。自分で何か作らなければならないけど、一人でまともに火を扱ったことがない。三食分くらいの炊かれたお米はある。私が料理を不得手としていると察したのか、炊飯器のスイッチを入れてから行ってくれたのだ。冷蔵庫には卵やウインナーなどそのまま焼けば良いような肉類と、人参やキャベツなど野菜類が揃っている。
明日の朝は漬け物とお米で良いけど、夕食までそれは寂しい。家で食べたような夕食は作れない。昼に作ってもらったことがあるような物くらいならできるだろう。
「よし。」
メニューを決めて、まずしっかり手を洗う。ただの石鹸で良いのだろうか。いつも母はどうしていただろう。念のために食器用の洗剤で丁寧に洗い、流し台下の扉に付けられたタオルできちんと手を拭く。自分で作って食中毒にはなりたくないけど、火を使う予定だからアルコール消毒は使えない。爪の中まで洗ったから問題ないだろう。
流し台の上に立てかけられているまな板を引き寄せ、流し台下の戸棚から包丁を取り出す。家で私のお手伝い用として使っている物より大きく重い。指や爪を切らないように気を付けよう。冷蔵庫から短いウインナーを二本取り出して、輪切りにしていく。
トントンと調子良くは切れない。それほど薄くはなくても良いけど、ある程度厚さは揃えたいからトン、トン、とゆっくりだ。まだ焼いても茹でてもいないけど美味しそう。いつもはつまみ食いをさせてもらえなくても自分で作っている今ならいけると、一切れ口に入れて味わってみる。
「うん、微妙。」
火を通さずに食べる物ではないのだろう。油がベタベタと口に残るだけで、味はさほど感じられない。
つまみ食いは諦めて、ウインナーを切り終える。次は人参だ。見慣れない半透明の袋に入っているけど気にせず取り出す。半分ほどに切って、残りはラップで巻きたい。ラップはどこだろう。片端から順に戸棚を開けていく。流し台上の戸棚を空けると、ラップなのかアルミホイルなのか分からない四角の箱が幾つも見えた。重なっているため落とさないように気を付けつつ出していく。
一つ目は、焦げ付かないアルミホイル、と書かれている。これは違う。二つ目がラップ。必要な分だけ取り出して切るけど、反動でラップ同士がくっついてしまった。手で広げれば人参を包めるくらいの大きさは残っていたため、そのまま使う。冷蔵庫の残りの人参が入っている半透明の袋に戻し、まな板の前に戻った。
これからここで生活するなら、物の場所を把握しておくことも必要だろう。ずっと食事を作ってもらうわけにはいかない。今日のようなことがあれば自分で作らなければならないのだからと、他の同じくらいの大きさの箱も下ろして見る。
野菜保存袋。何だろう。蓋を開けると、先ほど人参が入っていた袋と同じ色の物が入っている。表示を見るに、保存できる期間が少しだけ伸びるようだ。数個の箱は大きさの違う食品保存密閉袋。これは家でも使っていたけど、食品以外の物も保存していた。最後はアルミホイル。何に使うのかは分からない。
全て元の位置に戻して、夕食作りを再開だ。上の部分を切り落として、皮むき器で皮を剥いて。この作業は家でも手伝っていたため、問題なくできる。半月切りも、使う包丁が慣れないから時間はかかるけど、問題ない。
問題はここからだ。焼きたいけど、私は家で焼く係になったことがない。そのため、お母さんの言葉と調理実習の経験に頼るしかない。下の戸棚からフライパンと油を取り出し、手順を思い出しつつ作業を進める。フライパンを温めてから油を引く、で合っていたはずだ。見ていても温まっているかどうか分からないため、フライパンの上に手をかざして温度を確かめる。どのくらいまで待てば良いのだろう。温かいと感じるくらいか、熱くなるまで待つのか。分からないため熱くなる一歩手前くらいでウインナーと人参を入れる。後は焦げ付かないように混ぜつつ待てば良いだけだ。
できたと思って、皿に乗せる。台所の机に運んだところで、外がすっかり暗くなっていることに気付いた。台所と流しの前の電気しか付いていないため、部屋は真っ暗だ。時計を見ても、私のいつもの夕食より遅い。
一仕事終えた気分で、カーテンを閉める。台所で席に着けば、初めての一人の夕食だ。
「いただきます。」
声も返ってこない、自分の出す音しかしない。何か物足りない。それは調味料を忘れたせいか。ウインナーの塩気と人参の甘さで美味しく食べることはできるため、今日はこれで妥協しよう。
いつもはするお代わりもせず、質素な夕食を終える。帰って来たら栄先輩に料理を教えてもらおう。こんな夕食、二度としたくない。きちんとした食事を作っても一人であることには変わりないけど、少しは気分も上がるだろう。
「ごちそうさまでした。」
美味しかったと伝える相手もいない。なるべく夜にはいてもらおうか。そんなことを検討しつつ、洗い物にかかる。昼に伏せた食器が水切り籠に入ったままだけど、その皿が入っていた場所は分からない。仕方ないのでそのままにして、今洗った物を空いている箇所に並べていった。
宿題も何もないため、するべきことはない。後は自分の好きな時間にお風呂に入って、寝るだけだ。暗いだけで気分が沈み込むそうなため、居間の電気も付けて、できそうなことを探す。
ローテーブルにソファ、パソコンと周辺機器、幾つもの棚には全て目隠しの布が掛けられている。低い棚の一つには洗濯用品が片付けられていると知っているけど、天井近くまで届くほど高い、私の家のテレビが置いてある面をほぼ覆う幅の棚には何が入っているのだろう。
ぺらりと布を捲れば、見える範囲は全て本だ。難しそうな題で、私には何について書かれているのか分からない物が多い。それに、食後にあまり集中すると消化に悪い。家族といる時はゆっくり話して過ごすのだけど、今は何をしよう。
ざっと見たところ、興味を持てる題の本がなかったため、今日は早く休むことにしようと、浴室に向かう。
ここも私の自宅と同じため、お母さんから教わった方法でお湯を溜められる。栓をしたら、お湯の電源を入れて、お湯張りボタンを押すだけだ。曲が鳴って溜まったことを教えてくれる。
溜まるまで居間のソファでクッションを抱えて過ごす。ぼんやりと考え事をすれば、悪い方向に行ってしまいそうだから、努めて何も考えない。明日の昼前まで一人だとか、朝食も一人だとか、お風呂から上がっても誰もいないだとか、考えても変わらないのだから。
先に服を用意しておこうと取って来ると、ちょうど自宅でも聞き慣れた曲が鳴り始めた。台所も居間も電気を付けたまま、風呂に入る。昨日はそれどころではなかったから何も思わなかったけど、シャンプーもボディソープも香りが違う。ここは私の家ではないのだと、何度突き付けられるのだろう。体は温かいのに、気分は沈む。この先も帰れるまで何度でも、自宅のことを思い出すのだろう。
晴れない気分のまま、着替えを済ませ、居間のソファに寝転ぶ。物が少ないせいもあるけど、人がいないせいもあって、部屋がやたら広く感じる。自分の部屋にいる時はいつも一人だから、もしかしたら気にならないかもしれない。
部屋に上がっても、一度気付けばずっと気になってしまう。ここにある物の全てが自宅とは違う。全て新品で、元からある物だって私の物ではない。寝る時にいつも抱えるぬいぐるみも、勉強の支えとするぬいぐるみもいない。好きな小説の一冊も、好きなCDの一枚も無い。自分の部屋とは思えない生活感の無さだ。布団に潜っても静けさが耳につく。誰かが隣の部屋にいるという安心感もない。この家の中に、私一人だ。
ガサガサと寝返りを何度も打って、パチパチと目を瞬かせる。暗さに慣れても、一人には慣れない。たった一晩だ。そう言い聞かせても、時間の過ぎる速度が変わるわけはない。一昨日まで誰も使っていなかったこの部屋に人の気配など残っているはずもなく、より一層、寝るような時間なのに一人なのだと意識させられる。
せめてと人の痕跡の残る一階に毛布を持って降りる。寝台よりは寝心地の良くないソファに身を預け、クッションをぬいぐるみ代わりに抱きしめる。それでも一人の感覚は拭えない。部屋の電気を点けて、たくさんある本の題を一冊ずつ丁寧に指でなぞっていく。気になった物があれば読もうと思いつつ、結局は全て素通りするだけだ。
気紛れに取り出して、目次もなぞる。前書きにも目を通すけど、目が文字を認識したがらない。ペラペラと捲ってみても、落書き一つないことが分かるだけで、頭に入るものはない。
そんなことを繰り返しているうち、窓から光が差し込んだ。まだ起きる時間ではないけど、もう朝だからと言い訳して、二階に毛布を持って戻る。少しでも一人を感じる時間を減らそうと、急ぎ朝の用意を済ませて、洗面台の鏡と睨めっこ。向こう側に両親はいるのだろうか。いや、普段ならまだどちらも寝ている時間だろう。お父さんが山に入る日なら朝早いこともあるから、もしかしたらどちらかがいるかもしれない。
映っているのは私一人だ。手を付けても硬く冷たい感触が返ってくるだけで、すり抜ける気配はない。向こう側から伸びてくる手だってない。顔を洗って、手を濡らして試してみても結果は同じだ。
「はぁ。」
思わず出る溜め息に気付いて、急いで口を手で塞ぐ。溜め息を吐くと幸せが逃げると教えてくれたのも美優ちゃんだった。
頭を横に激しく振って、思考を打ち消す。まずは朝食だ。居間の電気も点けたまま、さらに台所の電気も点ける。あまり食欲はないけど、食べておかないと悪いことばかり考えてしまいそうだ。
のそのそと朝食の用意をし、黙ってご飯を口に運ぶ。よく噛んで、お茶を飲んで。どんどん昇ってくるお日様も無視して、もたもたと洗い物をする。歯を磨くついでにもう一度顔を洗ってみても、もやもやした感覚は消えてくれない。
太陽の光を浴びれば変わるかもしれない。そう期待して、家を出ようとしたところで、鍵を預かっていないことに気付いた。出かけて良いとは言われているけど、これは家を空けないほうが良いのではないか。そう思い至ってしまえば足を踏み出すことなどできず、庭で妥協する。花も野菜も植わっていないけど、雑草は蔓延っていない。ブチブチと幾つか千切ってみても、楽しさはない。一輪車か何かないかと探してみるけど、やはり見当たらない。
縁側に腰かけて、ぼんやりと空を眺める。動いているのかいないのか分からない白い雲が漂っている。建物の近くの雲を見れば、ゆっくりとではあるが移動していると分かる。分かったところで何か得られるものがあるわけでも、気分が晴れるわけでもない。
今度は玄関の側に回り、外を眺めてみる。昨日見たように、大きな外観の変化はない。だけど、家の前に置いている物も異なり、そこに見知った近所の人も幼い頃からの友人も住んでいないことを分からされる。自宅なら車を置いている空間にも、籠の付いていない自転車が一台置かれているだけだ。
犬の散歩の人が通り過ぎて、買い物に向かった人が戻ってきて、車も何台か往復して。時間がそうして過ぎていく。
「おはようさん、引っ越してきたのかい?」
「え、あ、はい。」
前を通りかかったおばさんに話しかけられた。
「一人でお留守番だね。幾つなんだい?」
「今は十五歳です。」
「次から高校生だね。お兄さんと同じ所に通うのかい?」
お兄さん?栄先輩の妹だと思われたのだろうか。同じ所に通って欲しいようだけど、まだ試験を受けていないため、通えるかどうかは分からない。
「いえ、まだ分からなくて……」
「受かってるといいね。うちの子もねえ、――」
これは長くなりそうだ。話し好きの近所の人に捕まった時に、一人で上手く逃れられた覚えがない。
早く帰って来て、と願いつつ相槌を打って話を聞いていった。




