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鏡の世界  作者: 現野翔子
序章

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この場所での身分証

 うとうとしながらお風呂に入った記憶はある。その後、居間のソファでクッションを抱えながら何かを話したことも覚えている。しかし、きちんと自分で寝台に入っただろうか。今、寝台の上にいるから、きっと寝ぼけながらも部屋に戻れたのだろう。間違えて鏡の向こうの自分の部屋と同じ部屋に入っても、埃塗れになるだけで事故は起きない。何も心配することはないだろう。

 昨日買ってもらった服に着替え、櫛で髪を梳かす。髪ゴムは着けてこちらの世界に持ち込んだ物だ。脱いだ物を持って降りて、脱衣所の洗濯籠に入れる。顔を洗ってぱっちり目を覚ますまでは、自分の家にいた時と同じだ。そこに見える物は違うけど、大きく異なる作りではないことが、少しだけ私を安心させてくれる。

 少し不安になるのは洗濯機が既に回っていることか。もしかしてゆっくり寝過ぎただろうか。そっと台所に向かうと、栄先輩が食器を流しに浸けるところだった。


「おはようございます。」

「ああ、おはよう。俺はこれから出かけるけど、ある物を好きに食べて。それと、時間があれば洗濯物を干しておいてくれる?」

「はい。」


 他にすることなどあるはずがない。物を片付けた部屋も埃だらけだったけど、勝手に掃除はやめておいたほうが良いだろうから、干したら大人しくしておこう。


「物干し台はあれ。」


 庭に出られる窓の傍に立てかけられている。簡単に開けられる折り畳み式の物だろう。


「ハンガーと洗濯挟みはその傍の棚に入ってる。じゃ、行ってくる。」

「はい、行ってらっしゃい。」


 今日は台所から見送り、自分の朝ご飯のために冷蔵庫を漁る。出来合いの物はあまり入っていないため、朝から自分で作る必要がありそうだ。漬物はある。食器棚や中身の見えない棚を開けては閉めと確認するけど、即席麺やみそ汁、お吸い物の類は見当たらない。即席麺は休みの日の昼食の定番ではないのか。朝ご飯がパンばかりでもスープ類があって良さそうなものなのに、ない。冷蔵庫にパンは入っていなかったからあまり食べない人なのかもしれない。

 炊飯器にご飯は入っている。みそ汁やお吸い物には、だしが必要だったはずだ。どうやって取ったか思い出したい。調理実習の時の記憶を、もしくはお母さんが作っていた様子を思い出せ。作っている後ろ姿や完成品を出してくれる姿は思い浮かぶのに、肝心の調理手順は分からない。今日は諦めよう。

 もうご飯に漬け物だけで良い。この季節なら汁物もいつもは付けるけど、即席で作れる物も見当たらず、作り方も思い出せないのだから仕方ない。


 食べ終えて、流しに食器を浸ける。既にお茶碗と箸、平たい皿が入っている。これも洗ったほうが良いだろうか。先に歯磨きと洗濯物が終わらせてから考えよう。

 洗面所ではまだ洗濯機が動いている。そのため安心して昨日買ってもらった桃色の歯ブラシで歯を磨く。昨日だけで一体私に幾ら使わせてしまったのだろう。少し沈みかけた思考を、いやいやこれから調査に協力することで返せば良いだけ、と無理矢理引き上げる。その調査も学校に受かってから始まるようであるため、協力できるかどうか、まだ確定できていないことが問題だ。考えても仕方のないことを考えつつ、歯を磨き終えた。まだ洗濯機は止まらない。先に洗い物を済ませよう。それならできる。

 軽く水で流してから、スポンジを手に取って、洗剤を付けて。洗う手順はどの食器でも同じだ。料理のように複雑なことはない。もたもたしていたら焦げてしまったり、汁が減ってしまったりという心配もない。流し台の横に置かれている籠が水切り籠だろうか。網がひっくり返された状態になっているため、それを戻して、置いていく。綺麗に重ねると乾きにくいとお母さんが言っていたことは覚えているため、少しずらすように重ねて置く。

 そろそろだろうかと洗濯機の様子を見に戻る。ピーッピーッと鳴っているのは終わった合図だ。洗濯籠に入れようとしたところで、自分の服が入っていることに気付く。小さな洗濯籠一つにしては少々重いそれを抱えたまま、周囲を見渡すけど、洗濯籠や代用できそうな物はない。バケツは止めたほうが良いだろうか。一回自分の服を出そうと洗濯籠に目を遣ると、それは二つ重なっていた。見た目のわりに重いはずだ。下になっていたほうに洗濯物を入れ、居間に向かった。

 先ほど見た通り、簡単に開く物干し台だ。窓を開ければ少々冷たい風が入ってくるものの、洗濯物を干す間だけだ。上着を取ってくるほどのことではない。少し我慢しつつ、きちんと一つ一つ伸ばして干していく。これもお母さんの手伝いで教えてもらっているため、私もできるのだ。火を使わないなら小さい頃に手伝いたいと言っても聞き入れてくれていた。


「うん、いい天気。」


 雲一つない晴天だ。雨は降りそうにない。この時間に家に一人でいることなんてないから、何となく声に出してみた。こうして一人暮らしの人は独り言が増えていくのだろうか。栄先輩の独り言は聞いていないから、性格の問題かもしれない。

 居間に戻って窓を閉めるけど、他にすることはない。服類は昨日全て片付け、他人の家を好き勝手にするのは気が引ける。この家にはテレビもないから、意味もなく眺めて時間を潰すこともできない。パソコンは勝手に使ってはいけないだろう。そもそも開けるためにパスワードが必要なら使えない。私が見た範囲には他の遊び道具もなかった。

 なんとなくクッションを抱え、ソファにうつ伏せになる。自分の家ならぬいぐるみを抱えつつ両親と話すことだってできるのに、今は連絡一つ取ることができない。通り抜けた瞬間にすらお母さんの姿が見えなかったのだ。どれだけ鏡の前に立ったって、話すことなどできないだろう。

 今日は友達の家に遊びに行く予定だったのに。来なくなって驚いているだろうか。それとも、鏡を通り抜けて行ったと聞いているだろうか。ああ、誕生日を祝ってあげられなかったな。念だけでも伝われと祈りを捧げるように手を組む。


「美優ちゃん、お誕生日おめでとう。私はよく分かんない所にいるよ、できたら助けて。」


 小声で言ってみるけど、届くわけはないだろう。私は何をしているのだろうと脱力したところで、玄関が開く音がする。危ない、もう少し早く帰ってきたら、変なことをしているところを見られていた。

 寝転んだまま居間に入って来る栄先輩を迎える。


「お帰りなさい。」

「ただいま。ほら、これ。」


 渡された一枚のカードには私の名前と生年月日が記載されている。


「何ですか、これ。」

「身分証だよ。おめでとう。これで晴れて君もこの世界の、この国の住民だ。」


 厚みがあり、少々力を入れても折り曲げられないくらいの強度がある。どこに保管しておこう。昨日は財布を買っていないから、鞄に直接入れることになる。無くさないだろうか。

 こんなに簡単に身分証が手に入るのか。これを手に入れるために私は何もしていないけど、栄先輩が頑張ってくれたのだろう。ソファに座り直して姿勢を正す。


「ありがとうございます。どうやって手に入れたんですか?」

「色々伝手があるから。このことは誰にも言わないように。」


 合法的に入手した物なのか不安になってきた。


「もしかして偽造……?」

「まさか。正真正銘、本物の身分証。ちょっと正規の手続きを省略しただけで、本物の役人が作ってくれた物だから。」


 不正入手だ。私は今、犯罪者になっている。恐る恐る身分証を栄先輩に押し返すけど、隣に座って受け取りを拒否された。


「え、これ、あの、大丈夫ですか?」

「もちろん。正規の手続きもしたことになってる。これで入試も受けられる。そこで、君の身分や経歴の設定を共有しておこう。」


 設定、とは。なんだか嫌な予感がする。


「まず、君は俺の遠縁。これはもう覚えてくれた?」

「ええ、まあ、はい。」


 にこやかに話してくれるのがこれほど胡散臭く思えるなんて驚きだ。


「次に、君は記憶の大半を失ってる。」

「はあ?あ、ごめんなさい。でも、なんで、そんなふうにする必要があるんですか?」


 突拍子もないことを言われて、悪意を込めた声を出してしまった。だけど、意味が分からなすぎる。


「鏡の向こうから来たことを言えないのは分かってくれるよね?」

「はい。普通に生活して、帰る方法を探すためですよね。」


 頭のおかしい人だと思われれば、病院に入れられて、帰る方法を探すどころではなくなってしまう。


「そのことを完全に隠すには、この世界に存在しないはずの物についても言えない。君の家族や出身地、近隣の住民、中学までの友人、などについてだね。遠い地域として話した場合、調べられれば嘘がばれてしまう。そうなれば、誰にどう聞かれても君が答えられない理由が必要になる。」


 答えてはいけない。家族や友人のことを一切口に出してはいけない。強く意識していなければ言ってしまいそうだ。


「うっかり話してしまうかもしれません。」

「曖昧な形でなら大丈夫。ぼんやりと思い浮かんだとか、夢に出てきたとか言えば良い。固有名詞だけは避けて。そうすれば記憶喪失だから曖昧になって、色んなイメージが混ざってるんだろうと誤魔化せる。」


 なるべく答えないようにして、話す時はぼかして言う。


「私はどうやってこの家に来たことにするんですか?」

「君は分かってなくてもいい。君の記憶がはっきりするのは、この家に着いてから。つまり事実と同じ。ただし、気付いたらこの家のソファで寝ていた、としてほしい。」


 洗面台の鏡から出てきた、ではなくソファで寝ていた。だけど、気付いたらソファの上でもどうして、とは聞くだろう。


「それ以前の記憶が曖昧なだけで、目覚めてからの頭ははっきりしてるんですよね?だったらやっぱりどうしてここに、とはなると思います。」

「そうだね。俺が君を病院から引き取った、としよう。俺の遠縁で記憶喪失というだけで、相手は勝手に色々想像してくれるから。」


 記憶喪失で病院に。記憶がないなら、それ以前のことを私が答えられなくとも不自然ではない。それでも、多少は栄先輩に聞かないだろうか。


「入院前のことを私は聞いていないんですか。」

「知らなくていい、思い出さなくていい、って言われたということで。」


 何か辛いことがあったと相手は想像することだろう。分かった上で隠すのは騙すのと同じではないか。


「私はこの家に来てからしかはっきりとは覚えていない。その前は病院にいたとは聞いているけど、入院前のことは教えてもらえなかった。そして、この家で初めて会った栄先輩に遠縁だと言われて、一緒に住んでいる。ってことですか?」

「そういうこと。」


 これで何個の嘘だろう。幸先不安だ。この身分証も正規品ではないようで、なんだか後ろめたい。


「本当にこれで帰れるんでしょうか。」

「その方法を探すために、これが必要なんだ。」

「こんなことして帰ってもいいんでしょうか。」


 身分証を偽りで入手することは犯罪ではないか。栄先輩以外の全ての人に嘘を吐き通して、この場所での私が規定されていくことは悪いことではないか。


「君は帰りたいんだよね?」

「そうですけど。」

「従わないなら君をどこかに捨てちゃおうか。そうすれば君は全てを話すことができる。もちろん、その身分証は持って行くといいよ。」

「え?」


 身を寄せる先はない。警察を頼っても、頭のおかしい人扱いだろう。身分証のことを話せば私が犯罪者として捕まってしまう。どこでどう働いて良いかも分からない。住所がなくても雇ってもらえるのか。


「君はここを出て、どう生きていくつもり?」


 寝る所もない、食べ物も買えない。寒くても着ている物だけで夜を凌がなくてはならない。頼れる人もいない。それどころか知っている人すらいない。

 独りだ。寒くて、寂しくて、お腹が空くだろう。想像だけで涙が滲む。


「ごめんね、意地悪言って。だけど、これで君は俺に従うしかないと分かったよね。だから、君は不本意でも嘘を吐かないといけない。俺に、嘘を吐かされてるんだ。」


 栄先輩のせいということにすれば良いと言ってくれているのだろうか。私が自分で悪いことをしているわけではなくて、栄先輩に脅されていると言い訳できる。


「ごめんなさい、我が儘を言いました。」

「いや、俺も悪かった。褒められた手法じゃないのは分かってる。だけど、調査のために、君の素性を全ての人間に隠しておきたかった。君が鏡から出て来たことは、本当に俺しか知らない事実なんだ。」


 そこまでして調べたいこと。栄先輩しか知らないとこうも強調するのは、それが一番言ってはならない事実だということか。

 これらは仕方のない嘘だ。せめて積極的には言わないようにしよう。そう私は心を決めた。


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