温室へ
賭けの結果は授業時間が足りなくなるという時間切れにより、引き分けに終わった。少々の落胆を見せた桃園さんもすぐに復活し、午後の授業を待たずにあの騒がしさを取り戻していた。
そして放課後。今日は忘れず鏡操の教科書も持って来た。赤坂くんの隣の席を借りて、八限目の始まりだ。
「今日は鏡操適性者の責務から行こう。」
指示されて教科書の該当箇所を開く。責任や倫理といった言葉が並んでいる。
「知っての通り、鏡操適性者は予め鏡を用意しておけば、無適性者に気付かれず出入りができる。特に特級適性者は覗き見ることや盗み聞きすることが可能だ。その他の適性者でも頭部の一部だけ出せば同じことができる。しかし、それらはよく考えた上で行わなければならない。」
出入りが制限されている場所は当然、鏡を通って入ってもいけない。気付かれない可能性は高いけど、それは犯罪行為であると深く認識し、自ら行動を戒める必要がある。
「ばれないからして良いのか、罰せられるからしてはいけないのか。なぜ、そのような法や規則があるのかをよく考え、自分も同じことをされて恐怖を感じないかを想像してみるといい。」
多くの人が持たない適性を持っている者の責任。その力を役立てることではなく、悪用しないことが強調されている。
「それでもそのような悪戯をする者は後を絶たない。二人はトイレの鏡にたくさん指紋がついているのを見たか?」
手は洗うけど、鏡はそんなに注視しない。それこそ、体育の授業の後くらいだ。運動した後でもなければ髪留めがずれるなんてことも起きない。今日見た時はさほど気にならなかった。
「いえ、見てません。」
「俺も気にならなかったけど。」
「覗かれたりしたくないから、みんなが使う前に触って確認するんだ。特に高い適性を持つ者は体調不良の危険も低く確認できる。」
そんなに覗きたいのか。私には理解できない感覚だ。
「本当にそんなことする人がいるんですか?」
「異性のトイレや寮から繋がっているのは年に一回もないが、同性のトイレ同士を繋げる悪戯なら毎年起きているそうだ。」
迷惑な人がいるようだ。周りが慌てているのが楽しいのだろうか。困ったことだ。
他にも鏡操適性者が意識すべき規範などを聞き、本日の授業は終了だ。長かった一日となった。これがこれからは毎日続くのか。調査云々を言うなら部活などしている場合ではないかもしれない。
先生を見送り、伸びをしていると赤坂くんに笑われてしまった。
「お疲れだな。」
「そりゃ、八限受けてるんだから。今日は体育もあったし。」
「でも羽衣は限界までやってなかっただろ。」
シャトルランは良い成績でなくとも問題ない。全力で走った直後に昼食なんて食べたくなかった。
「天女は頑張ってた。私も頑張った。賭けは引き分けだったから、デートに行こう。代わりに天女の頼みも聞く。」
から、という言葉とその後が繋がっていない。引き分けだったなら誰も何もないのではないか。そもそも今からデートと言って、どこに行くつもりなのか。私には赤坂くんと温室に行く約束もある。
そこまで考えたところで、古賀さんが会話に混ざって来ていた事実に気付く。教室にいたかどうかさえ、記憶に定かでない。
「羽衣は俺と温室デートだから。」
「そう、お邪魔虫は帰って。」
行くのは部活見学だ。何を張り合っているのか。三人で行けば良いだけのことだ。園芸部の活動場所なら、二人で行ったところで二人きりにはならないのだから。
「お邪魔虫はお前だろ?」
「レッドは天女に気がある。天女、危ないから二人で会わないほうがいい。」
どこから古賀さんはそう判断したのだろう。追及したい気持ちもあるけど、今日は早く温室に向かいたい。どちらかを選べば長くなると推測できるため、どちらも折れざるを得ない答えを提示しよう。
「私は赤坂くんとも古賀さんとも仲良くしたいな。それに、私がこれから行くのは温室なんだ。古賀さんはそこでもいい?」
「いい。レッドが帰ってくれるならもっといい。」
「先に言ってたのは俺だっつの。」
二人とも納得してくれたようであるため、三人で教室を出る。三人で集まっている姿を見せたくないと先週言っていた気がするけど、あれは定期的に情報交換をしている姿を見せたくないといった程度のものだったのだろうか。
「こうやって三人で動く分には構わないんだね。」
「私は天女目当て。おまけが付いてるだけ。」
虫とかおまけとか散々な扱いだ。なぜそんなに二人が良いのだろう。赤坂くんも編入生だから、そんなに嫌いになる事件もまだ起きていないはずだ。一目で何か気に食わなかったのだろうか。
他人のことなど考えても分からない。それより、古賀さんが言ってくれた条件のため、私の頼みを考えよう。私は古賀さんに何をしてほしいだろう。
「ああ、そうだ。古賀さん、私は古賀さんに、私とも赤坂くんとも仲良くしてほしいな。」
「さすが天女。もちろん天女とは私も仲良くしたい。そんなの全然頼みじゃない。可愛い。きっとレッドもそう思ってる。可愛すぎて何も言えないだけ。子どもにはよくあること。」
同い年なのに子どもと表現する。その上、古賀さん自身は少し饒舌になっている。
「羽衣の〜、愛い願い聞く〜、花の道〜、言葉失う〜、鳥の〜羽ば〜たき〜。」
短歌の節に乗せられている。機嫌が良くなるとこうなるのだろうか。羽衣と羽衣や、愛いと羽衣が掛けられていることは分かるけど、肝心の何が言いたいかはよく分からない。愛いだから褒めてくれてはいるのだろう。
口元を抑えていた赤坂くんも気を取り直したようで、口を開く。
「鳥の音の〜、如き囀り、愛い声は〜、飛び立つ羽衣、花の色かな〜。」
なぜ咄嗟に同じように返せるのか。全体としての意味はやはりよく分からないけど、古賀さんと同じように愛いと羽衣を掛けてくれているなら、声が可愛いと褒めてくれているのだろう。歌の中の表現としての鳥の囀りのようと言ってくれているだけだろうか。あくまで表現の一種と意識しないと、照れてしまいそうだ。
赤坂くんから目を逸らして古賀さんを見れば、なんだか目が輝いている気がする。
「同じように返してもらえたのは初めて。みんなポカンとするだけだったから。」
「子どもじゃないから理解できたんだよ。」
気になったらしい。大人でも和歌で会話する人は稀だと思うけど、赤坂くんにはそれが大人の行為に見えたようだ。
「じゃあさ、古賀さんのはどんな意味だったの?赤坂くんのは?」
運動靴に替えて、森の中を進みながら解説を受けていく。自分で理解できたほうが素敵な雰囲気を感じ取れたかもしれないけど、分からなかったのだから仕方ない。
「天女のお願いが可愛かったって意味。」
「へえ、ありがとう。赤坂くんは?」
「え?いや、俺は、まあいいだろ。ほら、今日も部活見学するんだから。温室で昨日の先輩が待っててくれるかもしれないな。」
教えてくれないようだ。それより温室だ。学校に温室があるなんて驚く。敷地も非常に広く、いくつもの部活のコートなどが点々と存在するだけで場所やお金に余裕があるのだと感じられるけど、それ以上に色々な設備が必要だろう温室まで揃っている。
鏡界学校は学費が高いのだろうか。しかし、鏡操の授業の情報を元にすれば、鏡操適性者の数自体が限られている。その中で高い学費を払うことのできる家庭に限れば、特級でも通えない子が出てしまうのではないだろうか。
「ここって色々あるよね。温室まで揃ってる。」
「機嫌を取って国のために力を役立ててもらおうという算段。」
「まじかよ。」
「嘘。知らない。」
古賀さんが言っても冗談に聞こえない。和歌の時も冗談の時も、真面目な話をする時も同じ調子だ。
「だけど、中らずといえども遠からず。私はそう思う。学費が等級で違うから。特級は全額免除、一級も一部免除。だから天使と天女は全額免除になってる。」
「へえ、そうなんだ。」
学費に関しては栄お兄ちゃんの負担にはなっていないようだ。生活面でお世話になっていることは忘れてはいけないけど、少し心が軽くなった気がする。
同時に寮での扱いに関して、疑問も生じる。学費が一部でも免除になっている人のほうが一人部屋だったり、部屋が広かったり、優遇されていた。それだけ貴重な才能で確保したい人材ということなのだろうか。
「一級は一クラスから二クラス分いるけど、特級は全学年合わせても二人だけだもんな。すんげぇ珍しいんだろ?」
「一学年に二人もいる、って他クラスの先生が言ってた。いるかいないかが通常と分かる。そして、いないのが基本。」
たった二人が多いと判断されるほど珍しい。この学校においては重要な分類である鏡操適性の等級だけど、私にとっては鏡の向こうの家に帰るために必要な適性というだけだ。中間試験後に禁域について知っている葉月くんに近づく機会がやって来る。早く試験にならないだろうか。
去年までの鏡操の授業の様子を聞きつつ、温室を見つけた。
「あれが温室。普段はデートとか言っても入れてもらえない。以前、試した馬鹿がいた。」
温室は体育館程度の大きさがあるだろうか。これを部員だけで全て世話しているなら相当大変だろう。中で何人も葉っぱの様子を観察している。入口付近の人がこちらに気付き、近づいてくれた。昨日の園芸部の先輩だ。
「いらっしゃい、来てくれたのね。なら、まずは軽く服を払って、中に入って。」
一つ扉をくぐるけど、そこは狭い部屋のようになっていて、もう一重扉がある。この部屋にはツルツルした見た目の薄く透明なコートと、手の消毒液、そして足元には透明な液体の薄く張った箱が置かれている。
学校の温室がどこかの研究施設のように厳重だ。配合でもしているのだろうか。
「で、靴の裏をしっかり消毒して。はい、手も消毒。」
「厳重なんですね。」
「手前はまだいいんだけれど、奥はしっかり管理してる部分なの。見学は手前の部分でだけ受け入れてるのよ。はい、これ着て。はい、案内するわね。」
内側の扉をくぐり、苺狩りのような棚の間に入る。列ごとに花の名前が記載されているようだけど、聞いたことのない名も多い。今蕾のものも、葉のものも、芽が出ているだけのものもある。
「温度で部屋が分けられていて、さらに使用用途によって分けて育てているの。この列は日常的に使う物を順番に育ててる感じね。大半は華道部に提供して、一部がそれから職員室や校長室に飾られることになる。園芸部は育てたり、花壇の配置を考えたりはするけど、生けるのは他の部よ。」
同じ植物を扱う部同士、関わりが深いのだろう。
「こっちは中庭とかの花壇用。基本は花壇で種から育てているのだけど、それだと上手くいかないものとか、病気で枯れてしまうこともあるから、その分ね。あとは一度育ててみたい、とかそんなものも植わっているわ。」
端のほうに一種類当たりの数が少ないものがまとめて植えられている。人の名前が書かれている植木鉢もある。気になった植物の説明を受けつつ奥に進めば、入口と同じような扉が見えた。
「あれは?」
「より繊細な植物を育てている区画ね。もっと厳重に消毒とかして入るの。部員以外は立ち入り禁止よ。」
入口と同じように消毒液や半透明な服が置かれている。そこの説明なども受けて、また植物について聞いていく。そうこうしているうちに別の区画も大雑把に一周し終え、入口付近にまで戻って来た。
内容が盛沢山で花の名前などは覚えられていないけど、楽な部活ではないことが分かった。
「やることが多いんですね。」
「分担するから一人当たりの負担はそう重くないわ。手は抜けないけどね。」
情報収集を主として考えるなら、園芸部ではその余裕がなくなるかもしれない。接点さえあれば、七不思議の情報くらいは聞き出せる。
「はい、見学させてくれてありがとうございました。」
「三人とも興味を持って聞いてくれたから、説明していても楽しかったわ。次はぜひ、部員として来てほしいわ。」
見送られて温室を後にする。木々で見えなくなったことを確認して、ほっと一息。ぜひなんて言われると少々申し訳ない気もするけど、これは仕方のないことだ。私は部活動に専念する気がないのだから。
「羽衣は何部にするか決めたか?」
「うん、華道部にする。七不思議について調べる時間も確保できそうだし、情報が集まるっていう園芸部との接点も得られる。情報を集めてるっていう新聞部に関しては、染谷さんと仲良くなったら教えてもらえるかなって。」
「探偵は有能。部活動以上に七不思議に熱心。」
また新しい呼び名だ。それだけ調査力に長けているという誉め言葉なのか、何か他の意味を込めているのか。
「その探偵はどういう命名?」
「染谷真実は真実と書く。真実を明らかにするのは探偵。実際、七不思議の一つを解き明かした。」
名前とも掛かっていたようだ。明日こそ、染谷さんに話しかけよう。




