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鏡の世界  作者: 現野翔子
第一章:葉月実

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変わらないもの、代わるもの

 昨日は一日中、傍にいてくれた。古賀さんとの作戦や、調査の進行度について報告や相談も行い、それ以外の時間も様々な話をした。パソコンで誰かと連絡を取っている様子もあったけど、それも手短に済ませて、すぐ私の所に戻って来てくれた。それで何かが変わるわけではないけど、気は紛れる。

 今日は関連の分からない絵画たちを眺めながら、他愛もない会話に興じていた。


「あっ、私、この絵知ってる。中学の美術の教科書に載ってた。模写した記憶あるよ。」


 様々な種類の時計が描かれた絵だ。絵が得意ではない私が楽かどうかではなく模写する対象として選んだくらい、不思議と魅力的に感じた。

 中学の美術の授業はさほど嫌いではなかった。人と協力しなければならないことなどなく、描く対象や題材を好きに選べたから。生き物が特に苦手な私は人物や動物を避けがちではあったけど、それでも美術の時間が憂鬱というほどではなかった。


「有名な絵だね。俺の時も載ってたよ。描いてる子は少なかった気がするけど。一人いたかいなかったかくらいだったかな。」

「私の学校でもそうだったよ。なんか私が好きって思うものはそんなに友達には人気じゃなかったんだ。」


 晴れているのに傘を差している人間の絵を選んだ子が多かったように記憶している。人物が中心だった時点で、私は一瞬だけ見て選択肢から外したけど、そんな苦手意識を持っていない子にとっては模写したい魅力的な絵だったのだろう。

 ペラリペラリとページを捲っていく。大半がちらりと見たことがあるか、全く見覚えのないものだ。絵が好きな人ならこれらも分かるのだろうか。


「これも知ってる。さっきの絵とどっちにしようか迷ったやつだ。」


 暖炉の部屋に散らばった玩具の絵。これも人物が描かれておらず、最終候補の一つとして迷った。


「よく覚えてるね。美術の教科書なんてそんなにじっくり見ないだろうに。」

「模写の授業の時にどれにしようか選んだから。それに、描こうと思った物くらい覚えてるでしょ?興味を持ったんだから。」


 興味がなければ何回見たって何回聞いたって覚えられない。だけど、興味を持ったなら一瞬見ただけでも、一回聞いただけでも記憶に残る。少なくとも、私の家族や親戚はみんなそうだ。クラスメイトの話は忘れても、一度読んだだけのお父さんの本の内容は覚えている。

 家族のことを思い出しながら、そちらに引きずられ過ぎないように。そんなことを意識すれば、一つ気付く。


「昔の人の絵は、同じなんだね。」


 家の周辺の地形もほとんど同じだ。細部に違いはあったけど、そこが鏡の向こうのどこに相当するかが分かる程度の違いしかない。直接会う人には覚えがないのに、時計の絵の画家の名には覚えがある。その絵自体も、記憶にあるものと変わらない。

 こうして変わらない物を見せられるからこそ、違いが目につく。お兄ちゃんと一緒に絵本を読んだ時も、同じように気になった物について話していた。そのせいでページはなかなか進まなかったけど、隣に座って、何でも話す時間が好きだったからそれで良かった。


「今の場所でも、変わらないものはあるよ。」

「だけどお兄ちゃんはいない。」


 家事をしながら話を聞いてくれるお母さんも、時折的確な助言をくれるお父さんも、煩いと言いながら相手をしてくれるお姉ちゃんもいない。生まれてからずっとあった温もりが、ここにはない。

 ぎゅうとクッションを握り締め、顔を埋める。こんなことをしても何も起きない。もう知っているのに、洗面所に向かい、鏡に手を付ける。やはり返ってくるのは冷たい感触だけで、残るのは私の指紋だけ。何の抵抗もなくすり抜けてしまったことが嘘のようだ。


「羽衣、代わりにはならないかもしれないけど、」

「なるはずないよ。」


 歩み寄ろうとしてくれていることは分かる。私のために衣食住を提供してくれて、帰り道を探してくれていることも。だけど、家族の代わりになれる人なんていない。いないよりは寂しさを紛らわせるかもしれないけど、それは代わりになっているわけではない。


「こっちにおいで。」


 また居間に戻される。ソファの前で先ほどよりも近く寄り添うように座った。


「羽衣のお兄さんの代わりにはならなくても、話し相手の代わりにはなれる。きっと帰るまでには時間がかかるから。その間だけ、君の家族の枠に、俺も入れてくれないか。」


 一言一言丁寧に告げられる。一緒に住んでいるから家族のようなもの。友達と呼ぶには私が寄りかかり過ぎている。代わりではなく、家族の枠に栄先輩を追加する。私の中の家族がそれで掻き消されてしまうわけではない。

 体重を栄先輩のほうに傾ける。家族にはよくしていたことだ。何かの意図が伝わったのか、頭を優しく撫でてくれた。


「帰るまでの間、だから。学校では先輩って呼ぶし。」

「うん、ありがとう。」


 栄お兄ちゃんには何の得もないはずの提案だ。ただ私の寂しさを紛らわせるためのもの。こういうところは私のお兄ちゃんと似ているかもしれない。

 絵の続きを見る。見たことのない物が大半で、何が評価されているのかも私には分からない。そこに何らかの思いを込めて描いたのだろうけど、その時の社会的背景なども知らない私にとってはただの美しい絵や不思議な絵に過ぎない。


「羽衣は絵描くの好き?」

「あんまり。授業でしか描いたことないかもしれないってくらい。家で落書きとかはしてたけどね。」


 一時狂ったように餅の絵を描いていたそうだ。膨らむ餅の姿を面白がっていたと聞いているけど、私自身はあまり覚えていない。


「授業ではどんな絵を描いてたの?」

「生き物を描きましょうって決められてない時は、基本静物画にしてた。苦手だからさ、人物も含めた風景を描きましょうって時も、後ろ姿だけにしたの。でもその時は、工夫しましたね、表情は見えないのに伝わってくるようです、って褒められたんだよ。」


 俳句から想像して描きましょうとされた時も、生き物の姿を描かずに音を表現したと褒められた。それはただ生き物を描きたくないからと避けただけの結果ではあったけれど、あえてそうしたかのように受け取ってもらえて、何度も得している。

 周りの人と比べても決して上手な絵ではなかったと記憶している。だけど何を描いたかは伝わる程度であったから、特別誰かに触れられるものでもなかった。先生や家族に褒めてもらえるくらいだ。


「苦手だからって手を抜かなかったんだね。」

「抜いたんだよ。だから後ろ姿だけなの。それも真後ろ。少しでも絵を描くのが上手な子は、斜めから描くんだよ。」


 真正面、真横、真後ろ。そんな位置から描くのは絵が下手な子ばかりだった。私もその中の一人だったけど、先生からの評価は決して悪くなかった。


「構図か、表現方法に工夫があったか。純粋な画力での評価はあんまりされないだろうから。」

「その辺りはよく分かんない。でも模写は嫌いじゃなかったよ。あ、ほら、これも。小学校だったかな、描いたことあるやつだ。」


 誰かの小さな部屋の中。寝台があって、窓があって、椅子や机がある。壁に掛けられた絵や机に乗っているよく分からない物たちが散らかっている印象を与える部屋だ。

 この時は今以上に模写の仕方なんて知らなかったから、端から順番に寸分違わず写そうと必死だった。結局、どんな出来になったのだったか。


「やっぱり生き物のいない絵を選んでるんだね。」

「うん、極力避けてる。でも良い成績付いたんだよ。不思議なくらい。私から見たら明らかに私より上手な友達の図工とか美術の成績と私の成績が一緒だったんだ。」


 五教科ならおおよそ点数や提出物、授業態度で納得のいく成績が付いている。しかし、美術や音楽、体育となると少々納得のいかない結果のものもあった。私はそれで得をした部類だから声は上げなかったけど、不満の残った子もいただろう。


「発想力を重視する先生だったのかもね。好きだったり上手だったりする子はそういった物も見慣れてるから、どこかで見たことのある物に似ちゃったのかも。」

「そういうものなのかな。じゃあ音楽は?筆記試験もあったけど、歌うの上手な友達の成績があんまり振るわなかったの。」


 それも不思議だった。いつも楽しそうに綺麗に大きな声で歌っていて、筆記試験も満点とはいかなくても私と同じくらい点数は高かったのに、成績は一段階下だった。筆記試験の点数が似たようなもので、成績もあまり変わらないと思って互いに気軽に見せ合っていたものだから、二人して驚いたものだ。


「鍵盤ハーモニカとかリコーダーとか、今は和楽器の時間もあるでしょ?」


 私の学校では琴の時間が少しだけあった。ギターも少ししたけど、それだけで一段階も差が付くものだろうか。


「それのせいなのかな。」

「きっとね。羽衣は美術より音楽が好きだった?」


 家族や親戚とカラオケに行くのは嫌いではなかった。家で好き勝手に歌うのも。だけど、授業の中でそんなに仲良くない人たちの前で歌うのは好きではなかった。緊張して音を外した時に慰められると何も言わないで、といつも思っていた。

 だけど、楽器に触るのは好きだった。吹けば、あるいは叩けば、弾けば、音が出た。専門の人が聞けば音の違いも分かるのだろうけど、私にはよく分からなかったから、楽譜通りにできている気になれた。


「歌うのはあんまりだけど、演奏するのは楽しかったよ。余裕はなくても、ギターの時とか、指の使い方を教えてもらった通りにできたら、すっごく褒めてもらえたの。」

「教える人は素直に聞いてくれて、できるようになってくれたら教え甲斐があるからね。」


 だから私が聞けばほとんどの人が丁寧に教えてくれたのだろうか。それならばやはり人の話はしっかり聞きなさいというお母さんや小学校の先生の教えは正しかったのだ。聞いて、理解して、できるようになれば私も褒めてもらえる。私にとっては得しかない。

 なんだか私の話ばかりしている気がする。栄お兄ちゃんは今までどうだったのだろう。


「ねえ、栄お兄ちゃんは?歌は好き?楽器は?絵は?」


 絵は好きなのだろうと思う。家に何冊も絵の本を置いているのだから。私が見たところ、道具類は何も置いていないようだけど、気分が向いた時に少し絵を描くだけなら特別な道具は要らない。


「どれもそこそこ、かな。楽器は俺も授業だけだよ。絵は時々描くくらい。それも絵というより図かな。人に説明するのに絵のほうが便利な時もあるから。」

「絵、上手なんだね。」


 説明に使えるほど、私には画力がない。体で表現したり、表情を変えたりしたほうが早く雰囲気を伝えられる。形を立体図で表現するくらいなら、円錐や三角錐という言葉で表現したほうが正確に伝わる。


「上手って言うのか分からないけど。必要になれば描くくらいだね。人に見せることに抵抗はないから、下手ではないと思うよ。最近は携帯電話で写真を撮っちゃうから、絵で説明することも減ったけど。」


 便利な物だ。私はそれもあまり活用できていなかったけど。携帯電話なんて必要最低限の連絡にしか使った覚えがない。友達との連絡だって、基本は学校で会った時に話すだけで事足りていた。だから今もあまり困っていない。元々家に忘れて出かけることも多かった。

 友達のペットや妹弟を見せてもらったことはある。近ければ気軽に会いに行けるけど、私の家と学校を挟んだ反対側の家の子の話などでは、前の日の晩の様子などを見せてもらっていた。


「そうだ、栄お兄ちゃんも学校で私の話してるんだよね?撮ってもいいよ。」


 お姉ちゃんやお兄ちゃんにはよく撮られていた。お姉ちゃんは被写体の一つとして私を選んでいるようだったけど、お兄ちゃんは友達に話すために撮っていた。そのため、撮られることに抵抗はない。

 撮られる時用の笑顔を向ければ、少しだけ呆れたような表情を返された。


「それで撮ったら俺が妹を可愛がり過ぎてるみたいになるね。」

「え?」


 他の家庭ではこういったことをしないのだろうか。いや、私の周りの子もしていたから、そんなことはないはずだ。


「一つ下の妹の写真を携帯に入れてる人はあんまりいないと思うよ。」


 私のお兄ちゃんは四歳上だから、参考にはならなかったのかもしれない。あまりいないだけで入れてはいけないわけではないから撮っても良いのだけど、栄お兄ちゃんに携帯電話を用意する気はなさそうだ。


「そっかぁ。まあ、見たかったら寮か教室まで来ればいいもんね。」

「うん、そうだね。会いたくなったら会いに行くよ。ほら、そろそろお昼ご飯作ろうか。羽衣も手伝って。」

「はーい。」


 自分の家にいた時はご飯作りを手伝ってなんて言われなかったけど、少しの間だけならこんな日常も悪くない気がした。


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