表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
20/24

第19話 夜の訪問者(前)

 夜、リサさんがやってきた。


 肩に小さなトートバッグを提げ、そっと扉を叩く姿には、どこか遠慮がちな気配が漂っていた。玄関の明かりに照らされた彼女の表情は、いつもの穏やかさの奥に、わずかな緊張を宿していた。


「和義さんが……歌帆さんのこと、心配してて」


 民宿の近くに、見知らぬ男が乗った車が長時間停まっていたという。

 智が泊まろうとしたのだが、和義さんは「嫁入り前の娘なのに」と反対し、その代わりにリサさんが来てくれたらしい。リクトくんは、美子さんが預かってくれているとのことだった。


「昼間、知らない車がずっと停まってたんです。私が近づいたら、急に走り去って……」


 リサさんの声に、かすかな不安が混じっていた。


「……変な男、私も見た」


 ぽつりと言うと、リサさんが驚いたようにこちらを見た。


「若い人……ですよね?」


「うん。目つきが、何かを探してるみたいだった」


 リサさんは内ポケットから、小さく折りたたんだ紙を差し出した。


「駐在さんの連絡先です。よかったら、登録しておいてください」


 その丁寧さが、彼女らしいと思った。

 けれど、今どきはスマホのメッセージで送る方が早いのに、と少し不思議にも感じた。


 ——そういえば、私、リサさんの連絡先を知らない。


 仲良くなれたと思っていたのは、私の一方的な思いだったのかもしれない。

 そんな寂しさが、胸の奥でちくりと痛んだ。


「これ、お父様とお母様へ」


 そう言って差し出されたのは、ガラスの蓋つき容器。

 中には、平らな団子に餡子がのった素朴なお菓子が並んでいた。


「あかつけだんご、っていうそうです。澄江さんに教えていただいて……」


 小麦粉を水で溶いてゆで、餡子をまぶす、昔ながらの郷土菓子だという。


「仏壇に……手を合わせてもいいですか?」


 ふたり並んで線香に火をつける。細く昇る煙の前で、リサさんは静かに両手を合わせていた。


「そうだ、これ。誕生日プレゼント」


 私はヘアドライタオルと植物図鑑をリサさんに手渡す。


「これを私とリクトに……。ありがとうございます」


 開けて良いですか?と聞きながら彼女は包装を解いた。


「リサさんのイメージで青にしたんだ」


 そんなに高いものじゃないから気にしないでと言い添える。

 食事の前にお風呂にして、リサさんに先に入ってもらった。


「歌帆さん、このタオルすごく水を吸います」


 風呂上がりに無邪気に喜ぶリサさんは、いつもよりも子供っぽく見えた。

 お互い、パジャマに着替える。


 さっき感じていた胸の痛みは消えていた。


 ---


 台所へ移動して、夕飯の支度を始める。


 夕食は、リサさんが持ってきてくれた夏野菜の煮浸しと出汁巻き卵。

 私はご飯を炊いて、梅干しを添えた。


「簡単なもので……すみません」


「ううん。すごく嬉しい。こういう家庭の味、久しぶりで……」


 久しぶりに誰かと一緒に作った夕食は、普段の一人分とは全く違う温かさがあった。


 美子さんにもらった梅酒と、島の焼酎があった。


「リサさん、お酒は大丈夫?」


「ええ、少しなら……」


 冷えた梅酒を炭酸で割って出すと、彼女は「いただきます」と微笑んだ。


「女子会、だね」


 私が笑うと、リサさんも少し照れたように笑った。

 その笑顔が、いつもより少し幼く見えて、心が和んだ。


「歌帆さん、なんだか柑橘の匂いがしますね。蜜柑とは違う……」


 風呂上がりに、レールデュパラディを吹きかけていた。


「あ、これ。智がくれた香水。リサさん、苦手だった?」


「いえいえ。良い匂いだと思って。歌帆さんは、智さんとどのくらい……お付き合いされてるんですか?」


「大学に入ってからだから……もう四年くらいかな」


「そうですか。おふたり、とてもお似合いです」


 リサさんの口元が、ふと寂しげに歪んだ。その表情に、何か深い事情があるのを感じ取った。


 ---


 ずっと気になっていたことを、私は聞いてみた。


「……リサさん、省吾さんと付き合ってるの?」


「違います。とても……いい方ですけど。私は……リクトがいますから」


 一瞬だけ、頬が赤らんだように見えた。お酒のせいだけではない気がした。


「リクトくん、省吾さんに懐いてるし、いい関係だと思うよ。リサさんだって、まだ若いし……」


 言ってしまってから、自分の言葉が無神経だったことに気づく。

 以前、リサさんに失礼なことを言った男のことを思い出して、心が沈んだ。


「……ごめん。余計なこと言っちゃった」


「大丈夫です。……気にしてませんから」


 リサさんは少しだけ微笑んで、グラスの縁をなぞった。


「元夫……リクトの父のことですが。あの人のせいで、人を好きになるのが怖くなってしまったんです」


 私は黙って、続きを待った。


「母が亡くなったとき、そばにいてくれて。……すごく、嬉しかった」


 それは、どこか今の智にも似ていると思った。人の弱さに寄り添ってくれる優しさ。


「でも、順番が逆になって。結婚する前にリクトを授かりました。父は怒りましたけど、彼との結婚は認めてくれて……」


 それでも、別れた理由はひとつだった。


「リクトを……いらないって言ったんです」


「……どうして」


「顔を変えていたんです。整形していたんです、あの人」


 あまりに唐突な言葉に、息を呑む。


「私は全然気づきませんでした。リクトが生まれたとき、最初は喜んでいた。でも、だんだん様子が変わっていって」


「もしかして……リクトくんを見て、それがばれると思ったの?」


「リクトが私に似ているって笑ってたんです。でも今思えば……」


 リサさんのグラスが空になっていた。


「どっちがいい?」


 焼酎に目をやるリサさんに、新しいグラスを差し出す。

 氷を入れて、焼酎と水を順番に注ぐと、彼女はそっと一口飲んだ。


 ---


「ある日、親子三人で出かけた先で……彼の昔の知り合いに会いました」


 その男は嫌な笑いを浮かべながら、スマホに保存された高校時代の写真を見せてきたという。


「少し雰囲気は違ってましたけど、私にはあまり違いが分からなくて」


「その男、なんでそんなことを……?」


「……悪ふざけだったみたいです」


 軽い気持ちで人の秘密を暴くような行為に、背筋が寒くなる。


「それから、彼はリクトに嫉妬するようになりました。赤ちゃんに手がかかるのは当然なのに、機嫌を損ねて……」


 元夫の言動は次第にエスカレートし、リサさんが買い物に行くのも嫌がるようになった。


「やめてって言ったら、今度は離婚すると脅すようになって。ある日、『リクトを施設に入れて、二人で暮らそう』って言われました。……それが幸せなんだって」


 あまりにも重い現実に、言葉が出なかった。


「私は、『あなたとリクトなら、リクトを選ぶ』って言いました」


 その言葉に激怒した元夫は、署名済みの離婚届を置いて出ていったという。

 リサさんは、それに名前を書き込み、役所に出した。


「その後……大丈夫だった?」


「実家に戻りました。でも、元夫は何度も訪ねてきて……復縁を求めて」


 リサさんの語る声は静かだったけれど、それがかえって胸を締めつけた。



「島に来たのは、彼に会いたくなかったから……それと、母を探すためでもありました」


「お母さんを……?」

後半に続きます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ