第19話 夜の訪問者(前)
夜、リサさんがやってきた。
肩に小さなトートバッグを提げ、そっと扉を叩く姿には、どこか遠慮がちな気配が漂っていた。玄関の明かりに照らされた彼女の表情は、いつもの穏やかさの奥に、わずかな緊張を宿していた。
「和義さんが……歌帆さんのこと、心配してて」
民宿の近くに、見知らぬ男が乗った車が長時間停まっていたという。
智が泊まろうとしたのだが、和義さんは「嫁入り前の娘なのに」と反対し、その代わりにリサさんが来てくれたらしい。リクトくんは、美子さんが預かってくれているとのことだった。
「昼間、知らない車がずっと停まってたんです。私が近づいたら、急に走り去って……」
リサさんの声に、かすかな不安が混じっていた。
「……変な男、私も見た」
ぽつりと言うと、リサさんが驚いたようにこちらを見た。
「若い人……ですよね?」
「うん。目つきが、何かを探してるみたいだった」
リサさんは内ポケットから、小さく折りたたんだ紙を差し出した。
「駐在さんの連絡先です。よかったら、登録しておいてください」
その丁寧さが、彼女らしいと思った。
けれど、今どきはスマホのメッセージで送る方が早いのに、と少し不思議にも感じた。
——そういえば、私、リサさんの連絡先を知らない。
仲良くなれたと思っていたのは、私の一方的な思いだったのかもしれない。
そんな寂しさが、胸の奥でちくりと痛んだ。
「これ、お父様とお母様へ」
そう言って差し出されたのは、ガラスの蓋つき容器。
中には、平らな団子に餡子がのった素朴なお菓子が並んでいた。
「あかつけだんご、っていうそうです。澄江さんに教えていただいて……」
小麦粉を水で溶いてゆで、餡子をまぶす、昔ながらの郷土菓子だという。
「仏壇に……手を合わせてもいいですか?」
ふたり並んで線香に火をつける。細く昇る煙の前で、リサさんは静かに両手を合わせていた。
「そうだ、これ。誕生日プレゼント」
私はヘアドライタオルと植物図鑑をリサさんに手渡す。
「これを私とリクトに……。ありがとうございます」
開けて良いですか?と聞きながら彼女は包装を解いた。
「リサさんのイメージで青にしたんだ」
そんなに高いものじゃないから気にしないでと言い添える。
食事の前にお風呂にして、リサさんに先に入ってもらった。
「歌帆さん、このタオルすごく水を吸います」
風呂上がりに無邪気に喜ぶリサさんは、いつもよりも子供っぽく見えた。
お互い、パジャマに着替える。
さっき感じていた胸の痛みは消えていた。
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台所へ移動して、夕飯の支度を始める。
夕食は、リサさんが持ってきてくれた夏野菜の煮浸しと出汁巻き卵。
私はご飯を炊いて、梅干しを添えた。
「簡単なもので……すみません」
「ううん。すごく嬉しい。こういう家庭の味、久しぶりで……」
久しぶりに誰かと一緒に作った夕食は、普段の一人分とは全く違う温かさがあった。
美子さんにもらった梅酒と、島の焼酎があった。
「リサさん、お酒は大丈夫?」
「ええ、少しなら……」
冷えた梅酒を炭酸で割って出すと、彼女は「いただきます」と微笑んだ。
「女子会、だね」
私が笑うと、リサさんも少し照れたように笑った。
その笑顔が、いつもより少し幼く見えて、心が和んだ。
「歌帆さん、なんだか柑橘の匂いがしますね。蜜柑とは違う……」
風呂上がりに、レールデュパラディを吹きかけていた。
「あ、これ。智がくれた香水。リサさん、苦手だった?」
「いえいえ。良い匂いだと思って。歌帆さんは、智さんとどのくらい……お付き合いされてるんですか?」
「大学に入ってからだから……もう四年くらいかな」
「そうですか。おふたり、とてもお似合いです」
リサさんの口元が、ふと寂しげに歪んだ。その表情に、何か深い事情があるのを感じ取った。
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ずっと気になっていたことを、私は聞いてみた。
「……リサさん、省吾さんと付き合ってるの?」
「違います。とても……いい方ですけど。私は……リクトがいますから」
一瞬だけ、頬が赤らんだように見えた。お酒のせいだけではない気がした。
「リクトくん、省吾さんに懐いてるし、いい関係だと思うよ。リサさんだって、まだ若いし……」
言ってしまってから、自分の言葉が無神経だったことに気づく。
以前、リサさんに失礼なことを言った男のことを思い出して、心が沈んだ。
「……ごめん。余計なこと言っちゃった」
「大丈夫です。……気にしてませんから」
リサさんは少しだけ微笑んで、グラスの縁をなぞった。
「元夫……リクトの父のことですが。あの人のせいで、人を好きになるのが怖くなってしまったんです」
私は黙って、続きを待った。
「母が亡くなったとき、そばにいてくれて。……すごく、嬉しかった」
それは、どこか今の智にも似ていると思った。人の弱さに寄り添ってくれる優しさ。
「でも、順番が逆になって。結婚する前にリクトを授かりました。父は怒りましたけど、彼との結婚は認めてくれて……」
それでも、別れた理由はひとつだった。
「リクトを……いらないって言ったんです」
「……どうして」
「顔を変えていたんです。整形していたんです、あの人」
あまりに唐突な言葉に、息を呑む。
「私は全然気づきませんでした。リクトが生まれたとき、最初は喜んでいた。でも、だんだん様子が変わっていって」
「もしかして……リクトくんを見て、それがばれると思ったの?」
「リクトが私に似ているって笑ってたんです。でも今思えば……」
リサさんのグラスが空になっていた。
「どっちがいい?」
焼酎に目をやるリサさんに、新しいグラスを差し出す。
氷を入れて、焼酎と水を順番に注ぐと、彼女はそっと一口飲んだ。
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「ある日、親子三人で出かけた先で……彼の昔の知り合いに会いました」
その男は嫌な笑いを浮かべながら、スマホに保存された高校時代の写真を見せてきたという。
「少し雰囲気は違ってましたけど、私にはあまり違いが分からなくて」
「その男、なんでそんなことを……?」
「……悪ふざけだったみたいです」
軽い気持ちで人の秘密を暴くような行為に、背筋が寒くなる。
「それから、彼はリクトに嫉妬するようになりました。赤ちゃんに手がかかるのは当然なのに、機嫌を損ねて……」
元夫の言動は次第にエスカレートし、リサさんが買い物に行くのも嫌がるようになった。
「やめてって言ったら、今度は離婚すると脅すようになって。ある日、『リクトを施設に入れて、二人で暮らそう』って言われました。……それが幸せなんだって」
あまりにも重い現実に、言葉が出なかった。
「私は、『あなたとリクトなら、リクトを選ぶ』って言いました」
その言葉に激怒した元夫は、署名済みの離婚届を置いて出ていったという。
リサさんは、それに名前を書き込み、役所に出した。
「その後……大丈夫だった?」
「実家に戻りました。でも、元夫は何度も訪ねてきて……復縁を求めて」
リサさんの語る声は静かだったけれど、それがかえって胸を締めつけた。
「島に来たのは、彼に会いたくなかったから……それと、母を探すためでもありました」
「お母さんを……?」
後半に続きます。




