夜の訪問者(後)
「ある日、父宛ての手紙を見つけました。差出人の名字は『日高』で、住所は山口県柳井市栗平――この島のものでした」
「日高……?」
「名前のほうは滲んでいて、よく読めませんでした。でも、女性の名前のように見えたんです」
「どうして女性だと?」
「文字が、とてもきれいでした。……それに、名前の最後の字が『帆』だったんです。母の名前が千帆だったこともあって、余計に気になりました」
それと、とリサさんは続けた。
「父が電話しているときに、受話器の向こうから女性の声が聞こえたことがありました。そのとき父は、相手を『ひだかさん』と呼んでいたんです」
私が自己紹介したときに、彼女が驚いていた理由が分かった。
彼女の話を聞いて、手紙の差出人は母のことかもしれないと一瞬思った。でも、母の名前「歌乃」を見て、下の漢字を帆と見間違えるはずがない。
母の字は丁寧だが、きれいといえる字ではない。
そして、島には……「日高」が多い。
リサさんは二十七歳だったと言っていた。誕生日を迎えたから、今は二十八歳。
その頃、母は島に暮らしていた。もし、子どもを産んだなんてことがあったら、きっと誰かが気づいたはずだ。
「私がその手紙を手にしていたら、母が慌てて取り上げて……。前から何か隠している気がしてたんですけど」
リサさんは気持ちを落ち着けるように、お酒を口にした。
「高校の修学旅行が海外で、パスポートを作るのに戸籍謄本がいるって言われたんです。でも両親がずっと家にいなくて、取りに行ってもらう機会がなくて。だから、私が行くことにしました」
急に話が変わったので、私は戸惑った。
「戸籍謄本って本籍地の役所でしか出せないんだっけ。最寄りの役所がたまたまそうだったのかな」
「父の免許証で本籍地を確かめたんです」
「免許証で本籍地って分かるの? 私の免許証、住所しか載っていないけど……」
「二十年くらい前の法改正で載らなくなったそうなんです。でも父は、記念に古い免許証を持っていました」
そういえば免許更新のとき、前の免許証を返してもらえることもあると私も聞いたことがあった。
「私の父は、いろいろなものを取っておく人でした。よく分からないものをまとめて保管している部屋まであって」
「専用の部屋まであったんだ」
「そうなんです。古い免許証には穴が開けられてましたけど、本籍地は読めました。聞くより早いと思って、メモを取って」
リサさんの表情が陰った。
「役場に行って謄本を取ったら、養女と書いてあったんです」
なぜか、ひどく喉が渇いた。
ふたりともグラスが空だった。私は梅酒をそのまま、リサさんは焼酎と水を注いだ。
冷蔵庫にキュウリの漬物があったので、切ってテーブルに出した。
「母に、そのことを聞いたら、顔色が変わって。『ごめんなさい』って、何度も謝ってきました。その数か月後に、母は亡くなりました。……何も伝えないままに」
私は何か言おうとしたが、言葉が思いつかなかった。
「父は『今は話せない』としか言いませんでした。私は父にそっくりなんです。だから、きっと父と……育ててくれた母とは別の女性との間に生まれた子なんだって……。本当の母が、この島にいるんじゃないかと思ったんです」
私は梅酒を注ぎ足した。
「日高という名字の女性。その手紙だけが、私の手がかりでした。だから、ここに来たんです」
「……リクトくんと、一緒に?」
「はい。……でも、本当の母は見つかりませんでした」
「どうして、この島に残ったの」
「省吾さんのこと歌帆さんはご存知ですか。その、事故のこと」
私は頷いた。
「省吾さん、事故でしばらく声が出せなくなったけど、リクトに話しかけられたのがきっかけで話せるようになったそうなんです」
彼らの間の特別な空気は、それが理由だったのか、と私は思った。
「美子さんが言ってくれたんです。『ここにいて大丈夫だから』って。その言葉に……救われたんです」
私もこの島に来て、母の死で沈んでいた心が軽くなったのを感じていた。
「意味があったのかは分かりません。でも、ここに来なかったら……歌帆さんとも出会えなかった」
「……そうだね」
私たちの間に、温かい沈黙が流れた。
そのときだった。庭の方で足音がした。
「智……?」
思わずそう言ったが、潮音から来るなら玄関の方が近いはずだ。
――「今日は裏から入ってこないの?」
――「さすがに一度言われたら覚えるよ」
(誰?)
隣の家の人だろうか? でも、あそこは空き家になっているはず。家に明かりもついていない。
縁側から庭を見た。
隣家との境に、人影が立っていた。
街灯の届かない暗がりで顔は見えなかったが、智でないことはすぐに分かった。
心臓が早鐘のように鳴る。
私は声を出すことができなかった。
「あなた……誰ですか!」
リサさんが、震える声で叫んだ。
返事はなかった。ただ、かすかな息遣いだけが聞こえる。
それは、何かにすがるような切実さを孕んでいた。
「出ていってください!」
リサさんの声は、凛としていた。私はその背中にそっと手を添える。
男はしばらく佇んでいたが、やがて踵を返し、静かに去っていった。
「……大丈夫?」リサさんに問われ、私は小さく頷いた。
駐在さんに連絡したら、すぐに家に来てくれた。
周囲を見回ってくれたが、不審者の姿はなかったという。
潮音に避難することも考えたが、今さら夜道を歩くのはためらわれた。時計を見ると、二十一時を過ぎている。電話をかけるには遅い時間だった。
智も疲れているはずだ。今日は早朝からずっと車を運転してくれていた。呼び出すのは気が引けた。
私たちは窓を閉め、鍵をかけた。台所を片付ける間、どちらも無言だった。きちんと施錠できているか互いに確認しあってから、床に就いた。
先ほどの騒ぎが嘘のように、夜の島は静寂に包まれていた。




