第9話「タンスが重くて動かせない」
午後一時。俺は珍しく、部屋の模様替えを思い立っていた。
きっかけは些細なことだ。ベッドの位置を窓際に寄せれば、日当たりを気にせず二度寝できるんじゃないかと、ふと思いついたのだ。引きこもり生活も長くなると、こういう謎のこだわりが積み重なっていく。
計画は単純だった。ベッドを窓際にずらし、空いたスペースに、部屋の隅で長年存在感を放っている古い和ダンスを移動させる。祖父の代から使っているという、やたらと重厚な木製の代物だ。
「よし、やるか」
軽い気持ちで取っ手に手をかけた瞬間、俺は己の見積もりの甘さを思い知らされた。
タンスはびくともしなかった。
「……は? うそだろ」
体重を全部かけて押してみても、床とタンスの脚が擦れる、耳障りな音がするだけで、一ミリも動かない。中身を空にすればいくらか軽くなるかと思い、引き出しを全部抜いてみたが、それでも結果は同じだった。この重さの根源は、明らかに引き出しの中身ではなく、タンス本体の圧倒的な質量にあるらしい。
「なんだよこれ、鉛でも仕込まれてんのか」
冗談のつもりで言った台詞だったが、あながち間違っていないような気さえしてくる。試しに横から持ち上げようとしてみたが、指先にかかる負荷だけが増えて、タンスは一センチも浮かなかった。
次に、下に何か滑りやすいものを敷いて、てこの原理で動かそうと試みた。使い古しの雑誌を数冊、タンスの脚の下に無理やり押し込んでみる。だが分厚い雑誌の束ですら、タンスの重量に押し潰され、ぐしゃりと潰れてしまっただけだった。
「マジかよ……」
俺は息を切らしながら、床に座り込んだ。額には、いつもの生活では滅多にかかない汗が浮かんでいる。運動不足の体には、これだけでも十分な重労働だった。
一人暮らしの友人でも呼んで手伝ってもらうべきかとも考えたが、そもそも呼べるほど親しい友人が思い浮かばない現実に、地味に落ち込む羽目になった。実家暮らしの引きこもりに、気軽に頼れる相手などいるはずもなかった。
結局、俺はタンスを部屋の隅に残したまま、模様替え計画を早々に断念することにした。だが、諦めきれない未練だけが、胸の内でくすぶり続けていた。せっかく思いついた窓際のベッドという構想が、こんな形で頓挫するのは、どうにも納得がいかなかった。
『タンス重すぎて一ミリも動かない。模様替えしたいのに詰んだ』
思わずSNSにそう投げてしまった。
いつもの「Z」の既読がすぐについた。
「……お前、そんなことで模様替えを諦めるのか」
俺はそれ以上気にせず、タンスに寄りかかったまま、しばらくその場でぼんやりとスマホをいじり続けた。
地下、統括室。
「――《啓示》を受信しました」
無機質な声のアナウンスと同時に、スクリーンに映し出された一行に、コードネーム「ゼータ」は目を細めた。
『タンス重すぎて一ミリも動かない。模様替えしたいのに詰んだ』
「……『重すぎて動かない』、か。単なる家具の重量への不満に見えるが、本質は違う」
ゼータは椅子の背もたれに深く体を預ける。
「これは、この世界における『動かせないもの』そのものへの挑戦だ。ボスは、既存の重厚長大産業のあり方そのものに、疑問を投げかけておられる」
技術班の誰かが小さく頷いた。
「今回の適任は――アイアンだ」
その名を口にした瞬間、統括室の空気がわずかに変わった。世界有数の鉄鋼・重工業コングロマリットを率いる会長。ありとあらゆる巨大構造物の設計と搬送に精通する男だった。普段は橋梁やダム、超高層ビルといった国家規模の案件しか扱わない、この組織屈指の大物である。
回線が繋がる。
「――アイアン、聞いているな」
「……ゼータ君か。今日はまた何用かね」
穏やかだが、どこか重みのある声が返ってきた。
「ボスより神託が下った。『不動の解消』だ。佐伯家にある家具一点を、本日中に確実に移動可能な状態にしろ」
「たかが家具一つの移動に、私の重工業をか。……面白い、聞こう」
「対象は木製の和ダンス。詳細な重量、構造は不明」
アイアンは小さく笑ったようだった。
「不明とは、また挑戦しがいのある話だ。この年になっても、正体不明の重量物というのは心が躍る」
「できない、とは言わせない」
「言うまでもない。動かせないものなど、この世に存在しないと証明するのが、私の仕事だ」
通信を切った瞬間、アイアンの脳裏に蘇るのはあの日のことだった。
自社ビルの経営判断のミスが招いた巨額損失。責任を一身に背負い、屋上の縁に立って下を見下ろしていたあの日。真下の窓から突然聞こえてきたのは、緊迫感のかけらもない、気の抜けた一言だった。
「――そこ、引っ越しの邪魔なんですけど」
その一言で、張り詰めていた何かが、あっけなく緩んだ。死のうとしていた自分が、誰かの日常の些細な作業の妨げになっている。その事実の滑稽さに、思わず笑いがこみ上げてきたのを覚えている。
あの日以来、アイアンは確信している。この世界で本当に何かを動かし、何かを止める力を持っているのは、他でもないボスなのだと。自分の重工業のすべてを、その男に捧げることが、生き延びた意味なのだと。
その日を境に、アイアンの経営方針は一変した。それまで利益率だけを追い求めていた会社を、誰かの些細な困りごとのために、いつでも全力を尽くせる組織へと作り変えた。傍から見れば非効率極まりない体制だが、当人にとってはこれ以上ない生き甲斐になっていた。
「――人生観を改める、か。あの日から、私の仕事の意味は変わった」
アイアンは端末を開き、傘下の企業群――重機メーカーの技術者、建築構造の専門家、特殊搬送業者の熟練スタッフたちに、同時に指令を飛ばした。
「本日中に、家庭用家具一点の完全な構造解析と、搬送計画を立案しろ。対象の材質、内部構造は不明。徹底的に調べ上げろ」
「家庭用の家具一点に、構造解析班をですか。うちは橋梁や高層ビルの案件を優先すべきでは」
とある技術部門の幹部が、思わず疑問を口にしかけた。だが返ってきたのは、その幹部が過去に関わった手抜き工事の詳細な記録データだけだった。
それだけで、疑問の声はぴたりと止んだ。
同じ頃、搬送計画を任された特殊運送会社の現場責任者も、指令書を前に困惑を隠せずにいた。
「家庭用のタンス一点に、橋梁搬送レベルの計測車両を投入しろと? うちの機材は、そんな用途のために作られていないんですが」
だが、その責任者のもとにもすぐに、彼の会社が過去に起こした重大な計測ミスの隠蔽記録が届けられた。以降、彼が異論を挟むことは二度となかった。
深夜、佐伯家周辺には、誰にも気づかれることのないまま、精密な計測機材を積んだ車両が静かに横付けされていた。壁越しに透過する特殊なスキャナーが、対象のタンスの内部構造を隅々まで解析していく。
「――構造解析、完了。内部に、通常のタンスにはあり得ない密度の異物を確認」
現場責任者からの報告に、アイアンはわずかに眉をひそめた。
「異物の正体は」
「古い金属製の重り、複数。おそらく、何十年も前に何者かが意図的に仕込んだものと推測されます。恐らくは移動時の転倒防止か、あるいは重厚感を演出するための意匠でしょう」
「なるほど。先代の誰かが、盗難防止か、あるいは単なる悪戯で仕込んだのだろう。放置しておく理由もない。撤去しろ」
「了解。ただし、家具本体を傷つけずに内部の異物だけを除去するには、相応の技術が必要です」
「だからこそ、我々に声がかかったのだろう。やれ」
アイアンは静かにそう告げると、端末の向こうで小さく笑った。祖父の代から受け継がれてきたであろう、名も知らぬ他人の悪戯の後始末に、世界屈指の重工業企業の技術力が動員される。この状況の滑稽さを、誰よりも本人が一番よく理解していた。
深夜のうちに、極小の作業ロボットが家具の隙間から静かに侵入し、内部に仕込まれていた重りの数々を、一つも傷をつけることなく丁寧に取り除いていった。作業が完了する頃には、あれほど動かなかったはずのタンスは、拍子抜けするほど軽やかな重量へと変貌していた。
同時に、家具の脚部にも、極めて滑らかな摩擦係数を実現する特殊な素材が、気づかれないよう塗布されていく。もう二度と、この家具が誰かの模様替えの障害になることはないはずだった。
作業を終えた技術チームの一人が、無線越しに小さく漏らした。
「……こんな高度な技術、家具一つのために使う日が来るとは思いませんでした」
「文句があるなら言ってみろ」
アイアンの静かな一言に、技術者は慌てて口をつぐんだ。
同じ頃、世界各地の重工業関連の学会やニュースサイトでは、正体不明の非破壊構造解析技術に関する情報が、示し合わせたように同時多発的に流出し始めていた。誰が発信元かも分からぬまま、業界内は静かな混乱に包まれていく。
とある国際学会の運営担当者は、深夜に届いた匿名の論文投稿の山を前に、頭を抱えていた。
「同じ夜に、世界中の研究機関から似たような論文が一斉に? しかも査読プロセスも無視した投稿方法で……一体何が起きてるんだ」
その疑問への答えは、結局誰にも用意されないまま、論文だけが静かに業界標準として広まっていくことになる。誰もが不気味さを感じながらも、その恩恵にはしっかりとあずかっていた。
ゼータは画面の端に映る佐伯家の部屋の間取りデータを、そっと見つめる。
「ついでに、佐伯家の他の家具にも同様の点検を行っておけ。今後、同じ問題が起きないように」
「……了解した」
「いつものやつだ」
小さくそう呟いて、ゼータは通信を切った。統括室には、また静寂が戻る。
翌朝。
俺は、昨日の悔しさを引きずったまま、なんとなくもう一度タンスに近づいてみた。ダメ元で、軽く指先で押してみる。
「……あれ?」
タンスは、まるで最初から羽根でも生えていたかのように、あっさりと滑るように動いた。
「うそだろ、なんで」
驚いて何度も押し引きを繰り返してみたが、昨日の重さが嘘のように、タンスは自由自在に動く。試しに反対側からも押してみたが、結果は同じだった。あれほど格闘して一ミリも動かなかったものが、今は片手だけで軽々と滑っていく。
「昨日の俺の苦労、何だったんだよ……」
拍子抜けしすぎて、しばらくその場に立ち尽くしてしまった。だがせっかくの機会だ。俺は半信半疑のまま、そのままの勢いで模様替えを進めることにした。ベッドを窓際に、タンスを反対の隅に。計画通りの配置が、あっという間に完成していく。
リビングに降りると、妹の葵が朝食を食べながらニュースを眺めていた。
「お兄ちゃん、なんかニュースで、世界中の重工業メーカーが一斉に妙な動きしてるって話やってたよ」
「妙な動き?」
「なんか、家庭用の家具の構造解析技術を急に開発したとかで、業界内で話題になってるんだって。しかも一社だけじゃなくて、世界中のメーカーが同時にって言うから、余計に不気味だよね」
俺には、それが昨日の自分の呟きと関係あるなんて、想像もつかなかった。ただ、あっさり動くようになったタンスの軽さだけが、妙に現実離れしていた。
キッチンから母さんが顔を出した。
「そういえば、お父さんの会社でも、取引先の重工業メーカーから急に問い合わせが増えたって言ってたわね」
父さんも、出勤前の身支度をしながら会話に加わってきた。
「ああ、うちの取引先も朝から大騒ぎだ。何でも、家具の内部構造を非破壊で調べる新技術を、業界大手が一斉に発表したらしくてな。特許出願も同時多発的だったとかで、業界団体が困惑してるらしい」
「へえ、そうなんだ」
「それだけじゃないぞ。海外の重工業関連の学会でも、似たような技術情報が同じ夜に一斉に出回ったらしい。前代未聞の話だと、業界紙が特集を組むほどの騒ぎになってるんだと」
俺が興味なさそうに相槌を打つと、父さんは苦笑いを浮かべた。
「お前は本当に、世の中のことに興味がないな。まあ、それも一つの生き方か」
「別にいいだろ、それで」
俺はそう言い返しながらも、内心では少しだけ気恥ずかしさを感じていた。
テレビをつけると、コメンテーターが困惑気味に「重工業界の常識を覆す一夜」だと語っている。
「複数の大手メーカーが、示し合わせたかのように同種の技術を同時発表しました。業界関係者も、この偶然の一致に驚きを隠せない様子です。当社の取材に対し、各メーカーはいずれも『自社独自の研究成果』であると主張しており、真相は依然として謎に包まれたままです」
神妙な顔をした専門家が「非破壊検査技術の進化がもたらした必然」だと真顔でコメントしていたが、俺には正直どうでもいい話だった。
画面には、困惑気味の別の専門家も映し出されていた。
「通常、この種の技術革新には数年単位の開発期間が必要です。それが一夜にして、しかも複数の独立したメーカーから同時に発表されるというのは、統計的にほぼあり得ない事態と言わざるを得ません」
司会者が神妙に頷きながら、話を締めくくった。
「引き続き、この謎めいた同時多発的な技術革新について、続報が入り次第お伝えします」
「へえ。世の中、いろいろ大変だなあ」
「お兄ちゃんは何にも興味ないもんね。……それより、模様替え終わったの?」
「ああ、なんか知らないけどタンスが急に軽くなっててさ。おかげで一瞬で終わった」
「へえ、よかったじゃん」
葵はそう言って興味なさそうにスマホの画面に視線を戻した。それでも、家の中の家具が一つ、以前よりずっと使いやすくなったという事実だけは、ちゃんと届いているようだった。俺は、驚くほどすっきりとした気分で、模様替えの完了した部屋を見渡した。
俺はソファに寝転がったまま、スマホを開いた。「Z」から今日もスタンプが一つ届いている。
『おはよう』
俺はそれに「おは」とだけ返し、模様替えの終わった部屋を眺めながらソシャゲを起動した。窓際に寄せたベッドに寝転がると、いつもとは違う角度から光が差し込んでくる。悪くない眺めだった。
空いたスペースには、前から欲しかった小さな棚でも置けそうだ。次の模様替えの計画が、もう頭の中で膨らみ始めていた。今度は何をつぶやいたら、また世界のどこかが動くことになるのか。もちろん、そんなことは俺の知る由もない話だったが、少なくとも今この瞬間の満足感だけは、紛れもなく本物だった。
窓の外では、世界有数の重工業コングロマリットが一夜にして一つの家具のために全力を尽くしていたこと――ある男が屋上での一言への忠誠を胸に、傘下の技術者たちを叩き起こして回っていたことなど、俺は知る由もなかった。軽くなったタンスの引き出しを開け閉めしながら、俺はただ、今日という一日の始まりを、いつも通りのんびりと過ごすだけだった。




