第10話「自転車の鍵が開かない」
午後二時。久しぶりに自転車で出かけようとした俺は、玄関先で立ち尽くしていた。
原因は単純だった。鍵が開かない。
差し込むところまでは問題ない。だが肝心の回す部分が、まったく動いてくれないのだ。
「……あれ、おかしいな」
何度か抜き差しを繰り返してみる。少し力を込めてひねってみる。それでも結果は同じだった。
サビついているのかもしれない。もう何年も雨ざらしにしていた記憶がうっすらとある。
「うわ、マジで動かない」
俺は鍵穴に息を吹きかけてみたり、鍵を指でこすってみたりと、思いつく限りの民間療法を試してみた。だが、そのどれもが効果を発揮する気配はなかった。
ネットで調べれば何か解決策があるかもしれないと思い立ち、スマホで検索してみる。出てくるのは「潤滑油を差す」「専門の鍵屋に相談する」といった、ごく当たり前の対処法ばかりだった。あいにく、うちに潤滑油の類は置いていないし、わざわざ鍵屋を呼ぶほどの熱意も湧いてこない。
十分ほど格闘した末、俺はついに諦めて自転車を睨みつけた。
「……もういいや、歩いて行くか」
せっかくの外出計画は、あっさりと徒歩に切り替わった。だが、この不便さを、このまま放置しておくのも気に食わない。この自転車がなければ、次に買い物に行くときも困る。かといって、新しい鍵を買いに行くにも、結局この自転車が使えないのでは本末転倒だ。
『自転車の鍵が全然開かない。サビたのか知らないけど本当に不便』
思わずSNSにそう投げてしまった。
いつもの「Z」の既読がすぐについた。
「……お前、鍵屋でも呼べばいいだろ」
俺はそれ以上気にせず、既読だけを確認してスマホをポケットにしまった。
地下、統括室。
「――《啓示》を受信しました」
無機質な声のアナウンスと同時に、スクリーンに映し出された一行に、コードネーム「ゼータ」は目を細めた。
『自転車の鍵が全然開かない。サビたのか知らないけど本当に不便』
「……『開かない』、か。単なる経年劣化に見えるが、本質は違う」
ゼータは椅子の背もたれに深く体を預ける。
「これは、この世界における『不必要な障壁』そのものへの警鐘だ。ボスは、些細な不便が日常の自由を阻害する現状を、身をもって示しておられる」
技術班の誰かが小さく頷いた。
「今回の適任は――ジャックだ」
その名を口にした瞬間、統括室の空気がわずかに変わった。伝説の脱獄王にして、あらゆる錠前を無傷で開けることができる鍵師。国家機密の金庫すら、彼にかかれば数分で開いてしまうと言われる男だった。
回線が繋がる。
「――ジャック、聞いているな」
「……ゼータか。珍しいな」
軽やかな声が返ってきた。
「ボスより神託が下った。『不必要な障壁の解消』だ。佐伯家の自転車の鍵を、本日中に必ず開けさせろ」
「たかが錆びた自転車の鍵に、この俺を? 少し寂しい仕事だな」
「できない、とは言わせない」
短い沈黙のあと、ジャックはくすりと笑った。
「――上等じゃないか。やってやるさ」
通信を切った瞬間、ジャックの脳裏に蘇るのはあの日のことだった。
とある国家の最高機密が眠る施設への潜入任務中、偶然目にした光景。主人公が、自転車の古い鍵をハンマーで力任せに叩き壊そうとしていた、あの何気ない一幕を。
繊細な技術も忍耐も一切ない、ただの力業。だがその光景に、ジャックは戦慄した。あらゆる防犯技術を無視し、力尽くで解決してしまう発想そのものが、自分の積み上げてきた技術の対極にある、真の高セキュリティ解除だと錯覚したのだ。
あれ以来、ジャックは確信している。この世界の錠前の在り方を根底から変えられるのは、他でもないボスなのだと。技術ではなく発想の次元で錠前を無力化する、その姿勢こそが真の解錠術なのだと。
「――高セキュリティ解除、か。あの日から、俺の錠前の見方は変わった」
ジャックは端末を開き、世界中に散らばる自分の伝手――防犯技術メーカーの元技術者、錠前業界の裏方、腕利きの合鍵職人たちに、同時に指令を飛ばした。
「本日中に、経年劣化した自転車の鍵を無傷で解錠する技術を確立しろ。ついでに、防錆処理も済ませておけ。手荒な真似は一切許さない」
「たかが自転車の鍵に、専用の解錠技術をゼロから開発しろと? 割に合わない仕事ですよ」
とある防犯機器メーカーの技術者が、思わず疑問を口にしかけた。だが返ってきたのは、その技術者が過去に横流ししていた顧客の合鍵データの記録だけだった。
それだけで、疑問の声はぴたりと止んだ。
同じ頃、老舗の合鍵専門店の店主も、届いた指令に首をひねっていた。
「経年劣化した簡易錠の無傷解錠技術、しかも今夜中に確立しろだと? そんな急な話、正気とは思えん」
だが、その店主のもとにもすぐに、彼が長年裏で扱っていた無許可の複製鍵の記録が届けられた。それだけで、店主は黙々と作業に取り掛かることになった。
深夜のうちに、世界中の錠前研究機関で、経年劣化した簡易錠を無傷で開錠するための新技術が、まるで最初から存在していたかのように確立されていった。
同時に、いくつかの防犯機器メーカーでは、長年放置されていた老朽化製品の解錠マニュアルが、こっそりと整理し直されていった。誰も、その理由を説明できないままに。
とある国際防犯技術展の運営担当者は、直前になって続々と届く出展内容の変更申請に頭を抱えていた。
「複数の企業が、示し合わせたように同じ夜に技術資料を差し替えてくるなんて、こんなこと今まで一度もなかったのに」
その疑問への答えは、結局誰にも用意されないまま、展示会は予定通り開催されることになった。
ゼータは画面の端に映る佐伯家の自転車のデータを、そっと見つめる。
「ついでに、佐伯家の自転車の鍵穴には、専用の潤滑剤を差しておけ」
「……了解した」
「いつものやつだ」
翌朝。
「お兄ちゃん、自転車どうしたの? 昨日玄関に置きっぱなしだったけど」
制服姿の妹・葵が、リビングのソファで寝転がる俺の顔を覗き込みながら言った。
「ああ、鍵が全然開かなくてさ。もう寿命かと思ってた」
半信半疑のまま玄関に向かい、俺は自転車の鍵に手をかけた。
すると、あれほど頑固だったはずの鍵が、驚くほど滑らかに回った。
「……うそ、なんで」
拍子抜けするくらいあっさりと、鍵は開いた。何度も回してみたが、昨日の抵抗が嘘のように、するすると滑らかに動く。まるで新品に交換されたかのような感触だった。
「ほら見て。ちゃんと開いたじゃん」
キッチンから母さんが顔を出した。
「そういえば、ニュースでもやってたわよ。世界中の防犯機器メーカーで、古い鍵の修理マニュアルが一斉に見直されたって」
父さんも新聞を畳みながら会話に加わってきた。
「うちの取引先にも鍵屋があるんだが、朝から問い合わせが殺到してるらしいぞ。何が起きてるんだか」
テレビをつけると、コメンテーターが困惑気味に「防犯業界の常識を覆す一夜」だと語っている。
「なぜこのような技術更新が世界同時多発的に行われたのか、業界団体も原因を特定できていないとのことです」
神妙な顔をした専門家が「経年劣化対策技術の飛躍的進歩」だと真顔でコメントしていたが、俺には正直どうでもいい話だった。
「へえ。世の中、いろいろ大変だなあ」
「お兄ちゃんは何にも興味ないもんね。……でもまあ、鍵が直ってよかったじゃん」
俺はソファに寝転がったまま、スマホを開いた。「Z」から今日もスタンプが一つ届いている。
『おはよう』
俺はそれに「おは」とだけ返し、久しぶりに自転車で出かける準備を始めた。今日こそ、予定していた場所まで行けそうだ。
玄関先で鍵を回すと、あの滑らかな感触が、まるで最初からそうだったかのように手に馴染んでいた。昨日までの十分間の格闘は、一体何だったのだろうと思わず苦笑いが漏れる。
窓の外では、世界中の錠前技術が一夜にして塗り替わりつつあること――ある男がハンマー一つの記憶への忠誠を胸に、伝手を叩き起こして回っていたことなど、俺は知る由もなかった。




