第8話「ゴキブリが出た」
午後十一時。深夜の静けさの中、俺は部屋の隅で息を殺していた。
事の発端は、ほんの数分前。ゲームに集中していたところ、視界の端を黒い何かが猛スピードで横切ったのだ。
「……は?」
見間違いであってほしいという願いも虚しく、それは俺の勉強机の下、ちょうど死角になる位置で、ぴたりと静止していた。あの艶やかな黒い甲殻と、長い触角。見間違えようもない、あの虫だ。
俺は椅子ごとじりじりと後退した。この部屋には、殺虫剤の類は一切置いていない。用意周到さとは無縁の生活を送ってきたツケが、まさかこんな形で回ってくるとは思わなかった。
「な、なんで……冬場じゃなかったのかよ、お前ら」
震える声で誰にともなく問いかけてみるが、当然返事はない。相手は微動だにせず、まるでこちらの出方を窺っているようにさえ見えた。
スリッパを武器として構えてみるものの、あの俊敏さを思い出すと、とても踏み込む勇気は出てこない。かといって、部屋から出ればいなくなるという保証もない。奴らは物陰に潜む才能に長けている。今この瞬間、視界から消えたら最後、今夜はもう眠れない。
意を決して、俺はスリッパを振り下ろした。狙いは外れ、奴はあっという間に机の脚を伝って姿を消した。
「くそっ、はやっ……」
俺は部屋の明かりを全部つけ、家具という家具を一つ一つ確認して回った。ベッドの下、本棚の隙間、ゲーム機の裏。だが、どこにも姿はない。見えないということは、いつどこから再び現れるか分からないということでもある。恐怖はむしろ増していった。
十分近く格闘した末、俺はついに諦めて部屋の中央に座り込んだ。息はすっかり上がっていた。たかが数センチの虫一匹相手に、これほど消耗させられるとは思ってもみなかった。
一度は姿を見失い、もう出ていったのかもしれないと安堵しかけた瞬間、視界の隅で再びあの黒い影がちらついた。心臓が跳ね上がる。奴は明らかに、こちらの油断を見計らったかのようなタイミングで姿を現しては消えを繰り返していた。
やがて、耐えかねた俺はスマホを取り出した。もはや誰かに助けを求めるしかない。指先はまだ小刻みに震えていた。
『家にGが出た。誰か退治してくれ、マジで頼む』
震える指で、いつものSNSアカウントにそう投げた。今夜ばかりは、いつもの軽い調子の愚痴とは違う、切実な訴えだった。
いつもの「Z」の既読が、いつも以上に早くついた気がした。
「……いや、そんな速攻で解決できる問題じゃないだろ、これ」
俺は震える声でそう呟きながらも、スマホの画面から目を離せずにいた。奴の姿は、いつの間にかまた見えなくなっていた。
地下、統括室。
「――《啓示》を受信しました」
無機質な声のアナウンスと同時に、スクリーンに映し出された一行に、コードネーム「ゼータ」は、これまでにないほど深く目を細めた。
『家にGが出た。誰か退治してくれ、マジで頼む』
「……『G』。単なる不快な害虫の出現に見えるが、本質は違う」
ゼータは椅子から静かに立ち上がった。統括室の空気が、これまでとは明らかに違う緊張感を帯びる。
「これは、ボスの安寧な生活空間に対する明確な脅威の出現だ。放置すれば、ボスの安眠と精神の平穏が損なわれる。断じて看過できない」
技術班の面々が、一斉に居住まいを正した。
「今回の適任は――ハデスだ。この案件に、通常戦力は要らない。最大戦力を投入する」
統括室に控えていた者たちの間に、かすかなどよめきが走った。虫一匹の駆除に、あの男を動かすというのか。誰もが同じ疑問を抱いたが、口に出す者は一人もいなかった。ゼータの決定に異を唱えるという選択肢は、そもそもこの組織には存在しない。
その名を口にした瞬間、統括室の空気が張り詰めた。世界各地の紛争地帯を渡り歩く、民間軍事会社の最高司令官。国家に匹敵する武力を、私兵として抱える男だった。
回線が繋がる。
「――ハデス、聞いているな」
「……ゼータからの直接連絡とは、珍しい。本題を聞こう」
低く落ち着いた声が返ってきた。
「ボスより緊急神託が下った。『Gの排除』だ。佐伯家内に出現した対象を、本日中に完全に無力化しろ。ボスの安眠を、何よりも優先しろ」
「……対象の詳細を」
「体長数センチ、黒褐色、俊敏。屋内に潜伏中」
ハデスは一瞬、沈黙した。回線の向こうで、何かの資料をめくるような音が響く。
「――対象の脅威度評価、完了。機動性、隠密性ともに、通常の駆除方法では対処不能と判断する。生物兵器並みの警戒レベルを適用する」
「大袈裟に聞こえるが、それでいい。むしろそれくらいでちょうどいい」
「……了解した。過剰と言われようが、確実性を取る。全力で当たる」
「できない、とは言わせない」
「言うまでもない。俺たちは、失敗というものを知らない」
通信を切った瞬間、ハデスの脳裏に蘇るのはあの日のことだった。
新型無人機部隊の実戦演習を、佐伯家近くの空き地で密かに実施していたあの日。完璧な編隊飛行を披露するはずだった無人機の群れが、上空を通過した刹那、何の前触れもなく一斉に制御を失い、次々と墜落していった。
原因を解析した結果、判明したのは信じがたい事実だった。主人公が二階の窓から、ゴミ出しのついでに放り投げた、硬いフランスパンの欠片。その一つが、たまたま先頭機の受信アンテナに命中し、通信網全体に致命的な干渉を引き起こしていたのだ。
たった一欠片のパンで、最新鋭の無人機部隊が全滅した。その事実を前にしたとき、ハデスは戦慄した。長年、世界中の戦場で磨き上げてきた自分たちの技術など、この男の前では児戯に等しいのだと。
「――圧倒的な武力差、か。あの日から、俺たちの忠誠先は決まっている」
あの日以来、ハデスは幾度となく自問してきた。国家すら恐れる自分たちの武力とは、一体何のためにあるのか。答えは、あの墜落現場に立った瞬間、既に出ていたのかもしれない。真に守るべき対象は、ただ一人。この世界のどこかで、今夜も何も知らずに眠っている、あの男だけだ。それ以外の全てが、取るに足らないものに思えた。
ハデスは端末を開き、世界各地に展開する自社の部隊――対テロ特殊部隊出身の隊員、元情報機関の分析官、最新鋭の偵察ドローンを操るオペレーターたちに、同時に招集をかけた。
「目標はゴキブリ一匹。だが、失敗は許されない。総力を挙げろ」
「……ゴキブリ一匹に、うちの精鋭部隊をですか。いくらなんでも過剰では」
現場指揮を任されたベテラン隊員の一人が、思わず疑問を口にしかけた。だが返ってきたのは、その隊員が過去の任務で独断専行し、揉み消していた重大な失態の記録データだけだった。
それだけで、疑問の声はぴたりと止んだ。
同じ頃、作戦の指揮系統に組み込まれた衛星管制の担当官も、モニターに映る指令内容を見て眉をひそめていた。
「対象が虫一匹の駆除に、偵察衛星のリソースを割くのか。他の任務に支障が……」
だが、その担当官のもとにもすぐに、彼自身が過去に関わった不透明な予算流用の記録が届けられた。以降、彼が異論を挟むことは二度となかった。
深夜、佐伯家の周辺は、誰にも気づかれることのないまま厳重な包囲網に包まれていた。上空には振動と音を一切発しない改良型の偵察ドローンが数機、静かに滞空する。庭先には赤外線センサーを備えた極小の探知機が、音もなく設置されていった。
「熱源反応、確認。第二階、対象の部屋、勉強机の裏」
「侵入班、突入。対象の生体反応を維持したまま、確保せよ。決して部屋を荒らすな」
「了解。侵入班、通気口より進入開始」
「二番、対象の移動を確認。壁伝いに東へ。捕捉班、包囲を狭めろ」
「三番より本部。対象、家具の隙間に再度潜伏。粘着シート、展開準備完了」
「焦るな。ボスの安眠を妨げるような物音は、一切許されない」
無線越しに交わされる緊張感あふれるやり取りは、まるで国家元首の警護作戦さながらだった。暗視ゴーグルを装着した隊員が二名、窓の隙間からわずかに開いた通気口を通じ、まるで幽霊のように音もなく部屋へと侵入した。俺がぐっすりと眠りについている、その真横で。
対象の捕獲は、拍子抜けするほど一瞬で完了した。特殊な粘着シートを用いた、痕跡を一切残さない確保作戦。隊員たちは、寝息を立てる俺の様子を確認すると、静かに窓の外へと撤収していった。
「対象確保完了。生体反応、正常。作戦目標達成」
無線越しに響いた報告に、統括室のハデスは小さく頷いた。緊張していた頬が、わずかに緩んだのが分かった。長年、数々の紛争地帯を渡り歩いてきた男が、たった一匹の害虫の確保報告に、これほどの安堵を覚えるとは自分でも予想していなかった。
「よくやった。念のため、対象は隔離コンテナに移送し、再放出は行うな。佐伯家周辺半径一キロの下水設備、老朽家屋、空き地に至るまで、同種の潜伏可能性を徹底的に洗い出せ」
「一キロ圏内、すべてですか。数百件規模になりますが」
「やれ。ボスの安眠のためだ」
その一言で、部隊は即座に散開した。深夜のうちに、佐伯家周辺の見慣れない場所――側溝の蓋の裏、電柱の根元、放置された空き家の床下に至るまで、痕跡一つ残さぬ点検が進められていく。近隣住民の誰一人として、その存在に気づくことはなかった。
同時に、この夜だけは世界各地の関連機関にも、奇妙な緊張が走っていた。とある国の防衛当局は、自国上空を通過した無数の無許可飛行体を捕捉し、緊急会議を招集した。だが調査を進めるほど、それらの機体がどの国の保有機とも一致しないという奇妙な結論にたどり着き、担当者たちは首を傾げるばかりだった。
「所属不明機、目的不明、攻撃性なし……報告書に何と書けばいいんだ、これは」
会議室の誰かが漏らしたその一言は、結局誰の耳にも届かないまま、静かに記録の彼方へと消えていった。
隔離コンテナに収められた対象を前に、現場責任者がハデスに無線で問いかけた。
「――対象の処遇について、指示を」
「厳重に監視の上、生かしておけ。ボスの安眠を脅かした存在ではあるが、無闇に命を奪うことは望まれていない。……おそらくは」
「了解した。念のための措置として承知する」
理屈の通らない指示だったが、誰もそれ以上は尋ねなかった。
同時に、佐伯家周辺の排水設備や外壁の点検も、この機会にとばかりに徹底的に行われていた。将来的な再侵入の可能性を、完全に断つためだった。
ゼータは画面の端に映る佐伯家の間取りデータを、そっと見つめる。
「ついでに、佐伯家全体の防虫対策も、今後発生しない水準まで徹底しておけ」
「……了解した」
「いつものやつだ」
小さくそう呟いて、ゼータは通信を切った。統括室には、また静寂が戻る。
翌朝。
俺は、驚くほどすっきりとした目覚めを迎えていた。
昨夜あれほど恐怖したはずのことが、まるで夢だったかのように記憶が曖昧になっている。恐る恐る勉強机の下を覗き込んでみたが、そこにはもう、あの黒い影はどこにもなかった。
「……あれ、いなくなってる」
念のため、部屋中をもう一度見回してみる。ベッドの下も、本棚の隙間も、昨夜あれほど恐れていたはずの場所が、今朝は妙に静かで清潔にすら感じられた。気のせいだと分かっていても、どこかほっとしている自分がいた。
半信半疑のまま部屋を出ると、リビングで妹の葵が、真剣な顔でスマホを見つめていた。
「お兄ちゃん、これ見て。昨日の夜、うちの近所で変な光が飛んでたって、近所のグループチャットで騒ぎになってるんだけど」
「変な光?」
「なんか、音もなく空を飛ぶ光の点が何個も目撃されたらしくて。UFOじゃないかって話まで出てる」
俺には全く心当たりがなかった。ただ、部屋にいたはずの奴の姿が跡形もなく消えていたことだけが、妙に引っかかっていた。まさか関係があるとは、夢にも思わなかったが。
キッチンから母さんが顔を出した。
「そういえば、朝のニュースでも似たようなこと言ってたわね。全国各地で、深夜に謎の飛行物体が目撃されたって」
父さんも、出勤前だというのにテレビの前から動こうとしなかった。
「うちの取引先にも防衛関連の企業があるんだが、朝から社員がやけにピリピリしてるってメールが来てたぞ。何かの演習だったのかもな」
父さんは首をひねりながら、コーヒーを一口啜った。
「へえ、そうなんだ」
「それだけじゃない。海外のニュースでも、似たような目撃情報が同じ夜に相次いでいるらしい。国際的な合同演習だったんじゃないかって、ネットでは専門家気取りの連中が好き勝手言ってるよ」
テレビをつけると、コメンテーターが困惑気味に「安全保障の常識を覆す一夜」だと語っている。
「政府関係者は、これは民間の実証実験であるとコメントしていますが、詳細は明らかにされていません」
司会者が神妙な顔で付け加える。
「なお、当該団体からの正式なコメントは、現時点で一切得られていません」
画面が切り替わり、海外の識者らしき人物が神妙な面持ちでインタビューに答えていた。字幕には「同一時刻に世界十数か国で類似の目撃情報、組織的な関与の可能性」と表示されている。
神妙な顔をした専門家が「未確認の新型偵察技術の可能性」だと真顔でコメントしていたが、俺には正直どうでもいい話だった。それより気になるのは、昨夜のあいつの行方だ。
「へえ。世の中、いろいろ大変だなあ」
「お兄ちゃんは何にも興味ないもんね。……それより、ちゃんと部屋掃除しなよ。虫とか湧くよ」
「……もう湧いた後だよ、たぶん」
俺は小さくそう呟いたが、誰の耳にも届かなかった。
葵はそれ以上追及することもなく、朝食の続きに戻っていった。俺だけが、昨夜の一部始終を知る唯一の人間として、この妙な静けさの意味を噛み締めていた。もっとも、その静けさの裏でどれほど大掛かりなことが起きていたかまでは、想像すらしていなかったが。
リビングのソファに寝転がり、スマホを開く。「Z」から今日もスタンプが一つ届いている。
『おはよう』
俺はそれに「おは」とだけ返し、久しぶりに何の不安もない部屋の中で、ソシャゲを起動した。ゆっくり寝転がっても、もう誰かに見られている気配はしない。
床に寝転んだまま天井を見上げていると、ふと昨夜の恐怖が嘘のように感じられた。あれほど怯えていたはずなのに、今はもうただの笑い話にしかなっていない。人間の記憶とは、案外いい加減にできているものらしい。
窓の外では、世界最強クラスの民間軍事組織が一夜にして小さな害虫一匹のために総力を挙げていたこと――ある男が一欠片のフランスパンへの忠誠を胸に、精鋭部隊を叩き起こして回っていたことなど、俺は知る由もなかった。今夜も、俺の部屋は静かなままだ。あの数センチの侵入者が去った後の静寂は、思っていたよりもずっと心地よかった。




