第4話「Wi-Fiが重い」
午後八時。今夜は久しぶりのランキング戦。気合を入れてログインしたところまではよかった。
だが画面はさっきからずっと、ぐるぐると回る読み込みマークを映したままだ。
「……は? なんだよこのタイミングで」
もう一度アプリを再起動してみる。それでも変わらない。ルーターの様子を見に行くのも面倒で、俺はベッドの上でスマホを振ってみたり、電波が入りやすい体勢を探ったりと、意味のないことを繰り返した。
隣の部屋からは、妹が動画を見ているらしい笑い声が漏れてくる。あっちは普通に繋がっているということだろうか。
「うちの回線だけ遅いってどういうことだよ」
苛立ちがピークに達した頃、ようやく画面が動き出した。だが時すでに遅く、ランクマッチはとっくに終わっていた。
『Wi-Fi重すぎ。肝心なときに限って回線落ちるのマジで許せない』
俺はSNSにその怒りをそのままぶつけた。
いつもの「Z」の既読がすぐについた。
「……相変わらず早いな」
俺はスマホを枕元に放り、諦めて布団に潜り込んだ。
地下、統括室。
「――《啓示》を受信しました」
スクリーンに映し出された一行に、コードネーム「ゼータ」は目を細めた。
『Wi-Fi重すぎ。肝心なときに限って回線落ちるのマジで許せない』
「……『回線落ち』、か。単なる通信環境への不満に見えるが、本質は違う」
ゼータは椅子の背もたれに深く体を預ける。
「これは、この世界の通信インフラそのものの脆弱性への警鐘だ。ボスは、肝心な瞬間に人類の繋がりが途切れることの危うさを、身をもって示しておられる」
技術班の誰かが小さく頷いた。
「今回の適任は――ディープだ」
その名を口にした瞬間、統括室の空気がわずかに引き締まった。世界の通信網を裏で掌握する天才ネットワーク・インフラエンジニア。今この瞬間も、世界中のデータの流れを一人で監視していると言われている男だった。
回線が繋がる。
「――ディープ、聞いているな」
「……ゼータか。何用だ」
淡々とした声が返ってきた。
「ボスより神託が下った。『通信の安定』だ。世界中の通信インフラを本日中に見直し、遅延と切断を限りなくゼロに近づけろ」
「世界中の、だと? 老朽化した基幹回線も含めてか。規模が違いすぎる」
「できない、とは言わせない」
短い沈黙のあと、ディープは小さく息を吐いた。
「――上等だ。やってやる」
通信を切った瞬間、ディープの脳裏に蘇るのはあの夜のことだった。
回線にキレた主人公が、苛立ちのままベランダから投げ捨てたルーター。それが物理的にありえない軌道を描いて夜空を飛び、遠く離れたディープの秘密基地の受光アンテナに、狙いすましたかのように直撃した夜のことを。
幾重にも張り巡らせていたはずの防壁システムが、たった一つの家電の衝突であっさりと沈黙した。原因を解析しようにも、そこにあったのはただの型落ちルーターの残骸だけだった。
あれ以来、ディープは確信している。この世界の通信そのものを陰で支配しているのは、他でもないボスなのだと。
「――防壁一撃粉砕、か。あの日から、俺の技術など児戯に等しい」
ディープは端末を開き、世界中に散らばる自分の配下たち――海底ケーブルの保守技術者、通信衛星の管制官、各国の基地局エンジニアたちに、同時に指令を飛ばした。
「本日中に、老朽化した基幹回線をすべて刷新しろ。遅延の原因になっているルーティングも洗い直せ」
「基幹回線を一斉に? そんな大規模な切り替えを無停止でやれというのか、正気の沙汰じゃない」
とある通信大手の役員が、震える声で抵抗しかけた。だが返ってきたのは、その役員が長年隠していた設備点検記録の改ざんの詳細だけだった。
それだけで、抵抗の声はぴたりと止んだ。
深夜のうちに、世界中の通信設備が静かに刷新されていく。老朽化したルーターや中継機器が次々と最新型に置き換えられ、混雑していたルーティング経路も、まるで最初から用意されていたかのように整理されていった。
同時に、いくつかの国では長年悩まされていた通信障害の原因不明の頻発も、まるで嘘のようにぴたりと収まっていった。誰も、その理由を説明できないままに。
ゼータは画面の端に映る佐伯家周辺の通信網データを、そっと見つめる。
「ついでに、佐伯家のルーターも最新機種に交換しておけ。もちろん無償で、匿名で」
「……了解した」
「いつものやつだ」
翌朝。
「お兄ちゃん、ニュースで見たんだけど、なんか世界中の通信会社が一斉に設備を更新したって話題になってるよ」
制服姿の妹・葵が、リビングのソファで寝転がる俺の顔を覗き込みながら言った。
「は? そんな話、聞いたことないけど」
「それが本当みたいで、昨日まで繋がりにくかった地域も、今朝から急にサクサクになったって、ネットで大騒ぎになってるの」
半信半疑のまま、俺はスマホを開いてゲームを起動してみた。読み込みマークは、これまで見たこともない速さで消えていった。
「……うそ、はやっ」
「ほら見て。うちのルーターもいつの間にか新しいのに変わってるし」
キッチンから母さんが顔を出した。
「そういえば、ニュースでもやってたわよ。世界中の通信会社が一夜にして設備を刷新したって」
テレビをつけると、コメンテーターが困惑気味に「通信業界の常識を覆す一夜」だと語っている。
「なぜこのような大規模更新が世界同時に行われたのか、専門家の間でも見解が分かれています」
神妙な顔をした専門家が「未知の技術革新」だと真顔でコメントしていたが、俺には正直どうでもいい話だった。
「へえ。世の中、いろいろ大変だなあ」
「お兄ちゃんは何にも興味ないもんね。……でもまあ、回線が速くなったのはいいことじゃん」
俺はソファに寝転がったまま、スマホを開いた。「Z」から今日もスタンプが一つ届いている。
『おはよう』
俺はそれに「おは」とだけ返し、ソシャゲを起動した。今日こそ、快適な回線でランクマッチに挑めそうだ。
窓の外では、世界中の通信インフラが一夜にして塗り替わりつつあること――ある男が投げ捨てられた一台のルーターへの忠誠を胸に、部下たちを叩き起こして回っていたことなど、俺は知る由もなかった。




