第21話「郵便物がいつも誤配達される」
午後二時。ポストを覗いた俺は、見覚えのない名前が宛名に書かれた郵便物を手に取って首をかしげた。
「……誰だよ、これ」
差出人は何かの保険会社らしい。だが、宛名はこの家の誰とも一致しない、まったく知らない人物の名前だった。
最近、こういうことが続いている。先週は隣の部屋の住人宛てらしい荷物の不在票が間違って届いたし、その前は、うちに届くはずの通販の荷物が、どこか別の家に配達されてしまったらしく、わざわざ探しに行く羽目になった。
「配達員さん、最近代わったのかな」
誤配達そのものは、たまにならどこでも起こりうることだろう。だが、ここ最近の頻度は明らかに異常だった。郵便局に電話で問い合わせても、「申し訳ございません、今後気をつけます」という定型文の返答しか得られない。
今回届いた郵便物も、結局は自分で近所の似た番地の家まで届けに行くしかなさそうだった。知らない人の家のインターホンを押すのは、地味に気が重い作業だ。
「頼むから、ちゃんと確認して配達してくれよ……」
ぶつぶつと呟きながら、俺は宛名をもう一度確認する。この調子では、いつか本当に重要な郵便物が、全然関係ない誰かの手に渡ってしまうのではないかという不安すら湧いてくる。
結局、俺はその郵便物をポストに入れ直し、配達員への伝言メモを書くことにした。地味に面倒な作業だったが、他にできることもない。メモの文面をどう書けば失礼にならないか、妙なところで頭を悩ませる羽目になった。
部屋に戻って、俺はスマホを取り出した。
『郵便物の誤配達が多すぎる。最近毎週のように違う人の郵便物が届く』
いつもの「Z」の既読がすぐについた。
「……お前、それ毎回ちゃんと届け直してるのか」
俺はそれ以上気にせず、既読だけを確認してスマホをポケットにしまった。
地下、統括室。
「――《啓示》を受信しました」
無機質な声のアナウンスと同時に、スクリーンに映し出された一行に、コードネーム「ゼータ」は目を細めた。
『郵便物の誤配達が多すぎる。最近毎週のように違う人の郵便物が届く』
「……『誤配達』、か。単なる物流上のミスに見えるが、本質は違う」
ゼータは椅子の背もたれに深く体を預ける。
「これは、この世界における情報伝達の正確性そのものへの警鐘だ。ボスは、届くべき情報が正しく届かない現状の危うさを、身をもって指摘しておられる」
技術班の面々は、無言のまま頷いた。
「今回の適任は――アンダークだ」
その名を口にした瞬間、統括室の空気がわずかに変わった。主要政府に潜り込む、最高機密のスパイマスター。情報の正確な伝達と秘匿、その両方において世界最高峰の技術を持つ男だった。表舞台に姿を現すことは決してなく、彼が動いた作戦の多くは、今も各国の公文書から完全に抹消されている。
回線が繋がる。
「――アンダーク、聞いているな」
「……ゼータか。任務内容を聞こう」
囁くような声が返ってきた。
「ボスより神託が下った。『伝達の是正』だ。佐伯家周辺の郵便配送の精度を、本日中に完璧な水準まで引き上げろ」
「郵便配送の精度に、この俺を? ……確かに、情報伝達の技術としては本質を同じくするな」
「できない、とは言わせない」
短い沈黙のあと、アンダークは静かに頷いたようだった。
「――承知した。この俺にとって、一通の郵便物も、一通の機密文書も、本質的な違いはない」
アンダークはそう答えると、暗がりの中で小さく頷いた。長年、国家の命運を左右する情報だけを扱ってきた自分にとって、一通の郵便物の行方というのは、これまでにない規模の依頼だった。だが、情報という本質において、それは何一つ変わらないという確信があった。
通信を切った瞬間、アンダークの脳裏に蘇るのはあの夜のことだった。
隣室に潜伏し、ある国家の機密情報を盗み出す準備を進めていたあの夜。隣の部屋で夜更かししていた主人公が、テレビの音量を下げるようにと壁を軽く叩いた、ただそれだけの行為。
その音のパターンを、アンダークは長年の訓練で培った感覚で、最高難度の暗号指令だと解析してしまった。以来、彼は毎朝、ありとあらゆる機密情報をまとめた報告書を、主人公の自宅のポストに投函し続けている。
長年、いかなる暗号も解けないものはないと自負していた男にとって、まさか壁を叩く音の裏に、国家機密をも上回る真意が隠されているとは、予想外の発見だった。その発見こそが、彼の忠誠の起点となった。
「――暗号指令、か。あの夜から、俺の忠誠先は変わらない」
アンダークは端末を開き、世界各地に張り巡らせた自らの情報網――郵便局の内部監察官、配送システムの技術者、各国の郵政当局に顔の利く協力者たちに、同時に指令を飛ばした。
「本日中に、佐伯家周辺の配送システムの誤配達率を徹底的に洗い出し、原因を特定して排除しろ。中途半端な改善は許さない」
「配送システムの誤配達原因の特定を、一夜で? 通常なら長期間の調査が必要な領域ですが」
とある郵便局の内部監察官が、思わず疑問を口にしかけた。長年、地道な現場検証を積み重ねてきた彼にとって、一夜での原因特定という要求は、現場の実態を無視した乱暴な話にしか聞こえなかった。だが返ってきたのは、その監察官が過去に見逃していた配送記録の改ざんの記録だけだった。
それだけで、疑問の声はぴたりと止んだ。
同じ頃、配送システムの技術者も、届いた指令に困惑を隠せずにいた。
「仕分けシステムの根本的な見直しを、たった一夜でやり切れというんですか。理論的に無理があります」
だが、その技術者のもとにもすぐに、彼が過去に関わった設備更新費用の不正流用の記録が届けられた。それだけで、技術者は黙々と作業に取り掛かることになった。深夜にもかかわらず、各地の仕分けセンターで緊急の設備交換作業が次々と進められていった。
深夜のうちに、世界中の郵便配送システムで、仕分けの精度が静かに向上していく。老朽化した読み取り機器の更新、人為的ミスを減らすための工程の見直し、これまで放置されてきた課題の数々が、こともなげに解消されていった。
同時に、いくつかの国の郵政当局では、通常とは異なる経路で届けられた配送精度改善の報告書が、示し合わせたように同じ夜に提出されていた。誰も、その理由を説明できないままに。
とある郵政当局の担当官は、深夜に届いた大量の報告書を前に、頭を抱えていた。
「これだけ詳細な改善提案、普通の現場調査じゃ絶対に作れないぞ。一体どこから来た情報なんだ」
同僚たちと確認し合っても、発行元の記録がどこにも見当たらない。それでも内容の精度は本物で、これまで何年も解決できなかった誤配達の原因が、まるでプレゼントのように一覧化されていた。
その疑問への答えは、結局誰にも用意されないまま、報告書は次々と現場に導入されていくことになった。
ゼータは画面の端に映る佐伯家周辺の配送データを、そっと見つめる。
「ついでに、佐伯家宛の郵便物については、今後常に最優先で正確に配達されるよう恒久的な体制を整えておけ」
「……了解した」
「二度と、ボスの元に誤った情報を届けるな」
アンダークのその一言には、単なる業務連絡以上の重みがこもっていた。
「いつものやつだ」
小さくそう呟いて、ゼータは通信を切った。統括室には、また静寂が戻る。
翌朝。
俺は、いつものようにポストを確認しに行った。
今日届いていたのは、確かに佐伯家宛の郵便物だけだった。見覚えのない名前も、間違った配達票も、どこにも見当たらない。
「……あれ、今日はちゃんとしてる」
半信半疑のまま、俺はしばらく郵便物の宛名を一つ一つ確認した。だが、どれも正しく俺たちの家宛のものばかりだった。
リビングに戻ると、妹の葵が朝食を食べながらニュースを眺めていた。
「お兄ちゃん、なんかニュースで、全国の郵便局が一斉に配送システムを見直したって話やってたよ」
「見直し?」
「なんか、複数の郵便局が示し合わせたみたいに、同じ夜に誤配達対策を強化したんだって。業界団体も原因が分からないって驚いてた。しかも一局だけじゃなくて、世界中で同時にって言うから、余計に不気味だよね」
俺には、それが昨日の自分の呟きと関係あるなんて、想像もつかなかった。ただ、あっさり正確になった郵便配達だけが、妙に現実離れしていた。
キッチンから母さんが顔を出した。
「そういえば、朝のニュースでもやってたわね。全国の郵便配送で、似たような改善が同時に進んだって」
母さんは首をかしげながら、朝食の準備を続けていた。
父さんも新聞を畳みながら会話に加わってきた。
「うちの取引先にも配送関係の会社があるんだが、朝から問い合わせが殺到してるらしいぞ。何が起きてるんだか」
「へえ、そうなんだ」
「それだけじゃないぞ。海外の郵便業界でも、似たような改善情報が同じ夜に一斉に出回ったらしい。前代未聞の話だと、業界紙が特集を組むほどの騒ぎになってるんだと」
俺が興味なさそうに相槌を打つと、父さんは苦笑いを浮かべた。
「お前は本当に、世の中のことに興味がないな。まあ、それも一つの生き方か」
「別にいいだろ、それで」
俺はそう言い返しながらも、内心では少しだけ気恥ずかしさを感じていた。
テレビをつけると、コメンテーターが困惑気味に「郵便業界の常識を覆す一夜」だと語っている。
「複数の独立した郵便局が、示し合わせたかのように同時多発的な改善を実行しました。業界関係者も、この偶然の一致に驚きを隠せない様子です」
画面には、困惑気味の別の専門家も映し出されていた。
「通常、この規模の仕分けシステムの改善には、数年単位の設備投資と検証が必要です。それが一夜にして、しかも複数の独立した機関から同時に処理されるというのは、業界の常識では説明がつきません」
司会者が神妙に頷きながら、話を締めくくった。
「引き続き、この謎めいた同時多発的な改善劇について、続報が入り次第お伝えします」
神妙な顔をした専門家が「物流管理技術の飛躍的進歩」だと真顔でコメントしていたが、俺には正直どうでもいい話だった。
「へえ。世の中、いろいろ大変だなあ」
「お兄ちゃんは何にも興味ないもんね。……でもまあ、誤配達なくなってよかったじゃん」
俺はソファに寝転がったまま、スマホを開いた。「Z」から今日もスタンプが一つ届いている。
『おはよう』
俺はそれに「おは」とだけ返し、すっきりした気分でソシャゲを起動した。もうインターホンを押しに行く心配をしなくていいというだけで、肩の荷が下りたような気分だった。
これから届く郵便物は、ちゃんと自分宛のものだけなのだろうという、根拠のない確信めいたものが胸の中にあった。もっとも、その確信の裏にどれほど大掛かりな出来事が起きていたかなど、俺には知る由もなかったのだが。
窓の外では、世界中の情報伝達網が一夜にして精度を高めていたこと――ある男が壁を叩く音への忠誠を胸に、情報網を叩き起こして回っていたことなど、俺は知る由もなかった。




