第2話「工事の音がうるさい」
午前十時。本来なら俺がまだ夢の中にいるはずの時間に、ドガンッ、という重い振動が部屋中に響いた。
窓の外、道路の向こうで朝から工事をやっているらしい。昨日までは気にならなかったのに、今日に限って妙にタイミングが悪い。
もう何年もこの部屋で昼夜逆転生活を送っていると、世間の生活リズムというものにいちいち腹が立つようになる。向こうにとっては当たり前の朝でも、俺にとっては深夜も同然なのだ。
枕元のカーテンの隙間から、朝の光がやけに眩しく差し込んでくる。普段なら見ることのない角度の光だった。
布団の中で、俺はしばらく耳を澄ませていた。重機の音は一定のリズムで続いている。工事関係者にとっては当たり前の日常音なんだろうが、こっちにとっては拷問に近い。
「……は? 何時だと思ってんだ」
俺はベッドの中でスマホを掴み、寝ぼけ眼のまま画面をタップする。
ゲームのイベントが今日リセットされるから、本当は昼までぐっすり寝て、夜通し周回するつもりだった。その予定が、朝一番の重機の音で台無しになろうとしている。
『近所の工事うるさすぎ。静かにしてくれ、頼むから』
いつものSNSに、寝起きの苛立ちをそのままぶつける。
投稿してすぐ、いつものように「Z」の既読がつく。
「……相変わらず早いな」
俺は布団を頭からかぶり、二度寝を試みた。工事の音は、しばらく続いていた。
耳栓を探して部屋中を漁ったが、どこに仕舞い込んだかも覚えていない。結局、枕を折り曲げて頭に巻きつけるという原始的な方法で対抗するしかなかった。
地下、統括室。
「――《啓示》を受信しました」
スクリーンに映し出された一行に、コードネーム「ゼータ」は目を細めた。
『近所の工事うるさすぎ。静かにしてくれ、頼むから』
「……『静かに』、か。単なる騒音への不満に見えるが、本質は違う」
ゼータは椅子の背もたれに深く体を預ける。
「これは、秩序と静寂に対する根源的な希求だ。ボスは、この世界に本来あるべき『静けさ』が失われつつあることを、身をもって示しておられる」
技術班の誰かが小さく頷いた。異論を挟む者はいない。
「今回の適任は――ブリッツだ」
その名を口にした瞬間、統括室の空気がわずかに張り詰めた。国際手配中の爆弾魔にして、世界の武器密売網を裏で仕切る男。ゼータ以外の誰もが、直接の通信を避けたがる相手だった。
回線が繋がる。
「――ブリッツ、聞いているな」
「……ゼータか。何用だ」
低く掠れた声が返ってきた。
「ボスより神託が下った。『静寂』だ。佐伯家近隣で進行中の道路工事を、本日中に完全に終わらせろ。ただし、騒音は一切許されない」
「工事を、今日中に? しかも無音で……本来なら数か月はかかる規模だぞ」
「できない、とは言わせない」
短い沈黙のあと、ブリッツは低く笑った。
「――上等だ」
通信を切った瞬間、ブリッツの脳裏に蘇るのはあの夜のことだった。
裏路地のアパートの一室で、極秘裏に新型爆薬の起爆実験を行っていた夜。物音を悟られるはずのない完全な防音室のはずが、隣室から漂ってきた誰かの消臭スプレーの成分が、換気口を通じて実験系に入り込んだ。
化学反応は起爆装置の回路を静かに、跡形もなく無力化した。爆弾は不発に終わり、証拠はきれいさっぱり消え去った。
あのとき初めて悟ったのだ。自分の積み上げてきた技術など、この空間そのものを支配する何者かの手のひらの上にすぎないのだと。
「――超次元の空間支配、か。まったく、敵わないな」
ブリッツは自嘲気味に呟き、端末を開いた。
世界中に散らばる元部下たち――解体のプロ、精密爆破の専門家、地質工学者たちに、深夜にもかかわらず一斉に招集がかかる。
「振動も、粉塵も、音も出すな。ただし工期は今日一日で終わらせる。やり方は自分で考えろ」
普通ならあり得ない指示に、現場の誰もが息を呑んだ。だが誰も、逆らおうとはしなかった。ブリッツの名を知る者は、この業界に一人もいないからだ。誰もが従うのは、ただその筋から流れてくる指示の重みだけだった。
「一晩で……正気か? しかも痕跡ゼロだと?」
招集された解体屋の一人が、思わず声を漏らした。だが返事の代わりに届いたのは、彼自身の過去の仕事ぶりを一つ残らず記録したファイルだけだった。それだけで、口を開く者はいなくなった。
深夜のうちに、極小の精密発破剤が地中の要所要所に音もなく仕込まれていく。振動を殺すための特殊な緩衝材が、通り一帯の地下に隙間なく敷き詰められた。
現場監督すら知らないうちに、道路の下ではアスファルトの入れ替えから配管の補修まで、すべての工程が同時並行で進んでいた。
朝までに、数か月分の工程が、まるで最初から何もなかったかのように、静かに完了していた。
ゼータは画面の端に映る佐伯家周辺の地図を、そっと見つめる。
「ついでに、佐伯家の前の道路も舗装し直しておけ。もちろん無音で、痕跡も残さず」
「……了解した」
「いつものやつだ」
翌朝。
「お兄ちゃん、外見た? 工事終わってるんだけど」
制服姿の妹・葵が、寝癖のついた俺の顔を覗き込みながら言った。
「は? 昨日始まったばっかりじゃなかったっけ」
「そうだよ。なのに今朝見たら、道路がもう新品みたいにきれいになってて、機材も何もかも消えてる」
窓の外を見ると、確かに昨日まであった工事の柵も重機も、跡形もなくなっている。舗装だけが、やけに真新しく光っていた。
「静かだったし、ぐっすり眠れたな……」
「お兄ちゃんが寝てる間に何があったんだろうね」
キッチンから母さんが顔を出した。
「そういえば、ニュースでやってたわよ。全国のあちこちで、工事中の道路が一晩でいっぺんに完成したって」
テレビをつけると、コメンテーターが困惑気味に「前例のない同時完工」だと語っている。
「振動も騒音も一切記録されていない、原因不明の高速施工だそうです」
専門家らしき人物が神妙な顔で「従来工法の常識を根底から覆す事態」だとコメントしていたが、俺には正直どうでもいい話だった。
「へえ。世の中、いろいろ大変だなあ」
「お兄ちゃんは何にも興味ないもんね。……でもまあ、静かになったのはいいことじゃん」
俺はソファに寝転がり、スマホを開いた。「Z」から今日もスタンプが一つ届いている。
『おはよう』
俺はそれに「おは」とだけ返し、ソシャゲを起動した。今日は久しぶりに、静かな部屋でゆっくりイベント周回ができそうだ。
窓の外では、世界中の建設業界が一夜にして塗り替わりつつあること――ある男が「超次元の空間支配者」への忠誠を胸に、部下たちを叩き起こして回っていたことなど、俺は知る由もなかった。




