第1話「コーヒーがぬるい」
午後二時。カーテンの隙間から差し込む光が、床に散らばったスナック菓子の袋とペットボトル、脱ぎっぱなしのパーカーを照らしている。
俺、佐伯陸、二十二歳。
大学受験に一度失敗してから、なんとなく浪人するタイミングを逃し、なんとなく就活もせず、気づけばもう三年、実家の二階の自室に引きこもっている。カーテンを開ける習慣も、とっくに手放した。
別に世界がどうとか、そんな大それたことは何も考えていない。
今日も今日とて、昨日の夜に淹れたインスタントコーヒーの残りをマグカップで温め直すこともせず、ぬるいまま啜って、俺は寝転がったままスマホを開く。
窓の外では、近所の誰かが芝刈り機を回している音がする。俺には関係のない世界の音だ。
カレンダーも見ていないから、今日が何曜日かもよく分からない。平日も休日も、俺の部屋の中では等しく同じ一日として過ぎていく。
それでいい、と思っている。誰にも急かされず、誰にも期待されず、ただ電気代とネット回線さえ保証されていれば、それ以上の贅沢はいらない。
「……ぬるっ」
わざわざキッチンまで湯を沸かしに行くのも面倒だ。かといって、我慢して飲むほどの根性もない。
この中途半端さが、俺という人間のすべてを物語っている気がする。
『コーヒーぬるい。誰か俺の部屋に瞬間湯沸かし器持ってきて』
いつものSNSアカウントに、いつもの調子で愚痴を投げる。
フォロワーは三人しかいないが、そのうちの一人、アイコンが謎の幾何学模様の「Z」だけは、必ず数秒以内に既読をつける。今日も例外ではなかった。
「……既読はやっ。暇なのか?」
俺はそれ以上気にせず、ソシャゲのログインボタンを押した。今日のログインボーナスは、いつもと変わらないただの強化石だった。
地下、正確には地下という概念すら陳腐に感じられるほど深い場所に、その施設はある。
分厚いコンクリートと、幾重ものセキュリティゲートの奥、統括室と呼ばれる部屋だけが、この星でもっとも重要な情報を扱っている。
「――《啓示》を受信しました」
無機質な声のアナウンスと同時に、統括室のメインスクリーンに一行の文字列が映し出される。
『コーヒーぬるい。誰か俺の部屋に瞬間湯沸かし器持ってきて』
コードネーム「ゼータ」――この組織すべての頂点に君臨する絶対的支配者にして、主人公の「ネットの友達」――は、椅子の上で長い足を組み替え、画面を見つめたまま静かに笑った。
周囲に控える技術班の面々が、一斉に息を呑む。
「……なるほど。『瞬間』、か」
ゼータの指先がキーボードの上を滑る。
「単なる室温管理への不満に見える。だが本質は違う。『瞬間』というキーワードは、人類のエネルギー変換効率そのものへの警鐘だ。今この瞬間にも、無駄に失われている熱量が世界中にどれほどあるか。ボスは、それを指摘しておられる。……我々の対応が、あまりに生ぬるかった証だ」
回線の向こうに、一つのコールを繋ぐ。
呼び出す相手は、アルファベットの先頭を飾る男――経済部門を裏で丸ごと背負う男だ。
「――アルファ、聞いているな」
「ゼータ様。このアルファ、いつでも待機しております」
「ボスより新たな神託が下った。『瞬間』だ。日本国内の給湯器・電気ケトルの平均沸騰時間を、本日二十四時までに四割短縮しろ」
「四割……承知いたしました」
「主要メーカーの新型モデルも緊急ローンチさせろ。生ぬるい対応は、ボスへの侮辱に等しい」
「はっ」
通話を切った瞬間、アルファの脳裏に蘇るのはあの夜のことだった。
世界最大級のメガコープの舵を取りながら、株価の暴落と共に何もかも失いかけていた夜。逃げるように歩いていた住宅街で、二階の窓から降ってきたのはたった一言――「うるさい、足音が響く」。
それだけで、砕け散っていた何かが、音を立てて組み上がった。あの一言に応えられるなら、全資産を差し出すことなど安いものだ。
「――四割、必ず」
アルファは自室の壁一面のモニターに向かって号令をかけた。
真夜中の東京で、世界中の特許庁、家電メーカーの研究開発部門、そして名だたる商社の役員たちの携帯電話が、時差など無視するように一斉に鳴り始める。
ドイツの技術顧問は寝間着のまま緊急会議に呼び出され、深センの工場ラインは即座に二十四時間稼働へと切り替えられた。
関連株の買い注文は、市場が開く何時間も前から静かに、しかし途方もない規模で積み上がっていく。誰も、命令の出所を知らない。ただ、逆らってはいけないという確信だけが、指示系統の末端にまで伝わっていった。
「ヒーターコイルの材質を根本から変える? 四割の短縮なんて、そんな……」
深夜に叩き起こされたとある大手メーカーの技術部長は、震える声で反論しかけた。
だが受話器の向こうから返ってきたのは、部長個人の非公開の資産状況をすべて把握しているとしか思えない、静かで具体的な一言だけだった。
「できない、とは言わせない」
それだけで、反論は消えた。
世界中の研究所で、これまで数年がかりだったはずの技術検証が、一晩で強引に前倒しされていく。誰も気づかないところで、静かな革命が進んでいた。
ゼータは画面の隅、俺の自宅の住所を示す地図データにそっと目をやる。
「佐伯家の給湯器も、最新式に交換しておけ。もちろん無償で、匿名で」
「かしこまりました」
「いつものやつだ」
小さくそう呟いて、ゼータは通信を切った。統括室には、また静寂が戻る。
翌朝。
「お兄ちゃん、ちょっとニュース見た?」
制服姿の妹・葵が、リビングのソファに寝転がる俺の顔の前にリモコンを突きつけてきた。
テーブルの向こうでは、父さんが出勤前のトーストを咥えながらテレビに目をやっている。
「見るわけないだろ、朝のニュースなんて」
「昨日の夜から日本中の電気ケトルと給湯器メーカーの株がすごいことになってて、なんか新製品が『お湯が四秒で沸く』とかって、ネットでバズってるんだけど」
「四秒? そんなのあり得ないだろ」
「知らないよそんなの。あ、あとうちの給湯器、いつの間にか新しいのに変わってるし。業者さん来た?」
「知らねえ。親父が勝手に契約したんじゃないの」
父さんが新聞から顔を上げずに答える。
「いや、俺は何も頼んでないぞ。……まあ、いいじゃないか、新しくなったんなら」
キッチンから顔を出した母さんも会話に加わる。
「お母さんも知らないわよ。でも助かるわね、電気代少し安くなるといいけど。それより陸、いつまでソファで寝転がってるの」
「うるさいなあ……」
俺はソファから重い腰を上げ、キッチンに向かう。
父さんがトーストを食べ終え、鞄を持ちながらふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、給湯器の音、前より静かになった気がするな。まあ、気のせいか」
「気のせいでしょ」
俺はそう返して、それ以上気にも留めなかった。何気なくケトルのスイッチを入れると、驚くほどの速さで沸騰音が響いた。
「……お、はやっ」
「でしょ? なんか国内メーカー全社が急にすごい技術発表したらしくて、お母さんのママ友グループでも話題になってるらしいよ。テレビでも専門家が『前代未聞の同時開発』とか言っててウケる」
「へー。世の中、いろいろ大変だなあ」
テレビの画面には、寝不足なのか隈のできたコメンテーターが、興奮気味に「業界の常識を覆す一夜」だと語っている姿が映っていた。
葵はそれを横目に、リモコンでチャンネルを次々変えていく。
「あ、この番組でも同じ話してる。すごいね、日本中お湯の話ばっかり」
「そんなに騒ぐことか? お湯なんて、沸けばいいだろ」
「お兄ちゃんは何にも興味ないもんね。……でもまあ、うちの給湯器がタダで新しくなったのはラッキーじゃん」
俺はケトルからマグカップに湯を注ぎ、コーヒーの粉を溶かす。湯気がふわりと立ち上る。
「……あっつ」
熱すぎるコーヒーに軽く舌を火傷しながら、俺はソファに戻ってスマホを開いた。
フォロワー「Z」から、今日も他愛のないスタンプが一つ届いている。
『おはよう』
俺はそれに「おは」とだけ返し、ソシャゲを起動した。今日もガチャは爆死しそうな予感がする。
窓の外では、世界の給湯器業界が一夜にして音を立てて塗り替わりつつあること――ある男が「四秒で沸くお湯」のために全資産と人脈を懸けて世界中を駆け回っていたことなど、俺は知る由もなかった。




