第18話「スマホの電波が入らない」
午後二時。友人からの通話に出ようとした俺は、画面に表示されたアンテナマークを見て顔をしかめた。
せっかくの休日に、久しぶりに友人から誘われた通話だった。それなのに、こんなくだらない理由で会話が台無しになるのは、我ながら情けない話だった。
バーが一本しか立っていない。部屋の隅、ちょうどベッドのあたりだけ、昔から電波の入りが悪いのは知っていたが、今日はそれが輪をかけてひどかった。
「もしもし……もしもーし? 聞こえる?」
通話越しの声が、途切れ途切れにしか届かない。仕方なく、電波の良さそうな場所を求めて部屋の中をうろうろと歩き回る羽目になった。窓際、扉の近く、机の下、思いつく限りの場所を試してみたが、どこも一長一短だった。
窓際まで移動すると、多少マシにはなったものの、それでも会話の途中で何度か通話が切れた。そのたびにかけ直す手間を、相手にも強いることになる。
「悪い、また切れた……」
何度目かの謝罪のあと、ようやく用件を話し終えた頃には、俺はすっかり疲れ果てていた。たかが電話一本で、これほど神経をすり減らされるとは思ってもみなかった。友人も途中から諦め気味に相槌を打つだけになっていたのが、余計に申し訳なかった。
そもそも、この家の周辺は電波が悪いという評判を、契約時に聞いた記憶がある。だが、まさかここまでとは想像していなかった。ゲームのオンライン対戦中に急に接続が切れることも、動画を見ていて急に読み込みが止まることも、日常茶飯事だった。他の通信キャリアに乗り換えるべきかと、何度も考えたことがあるくらいだった。
「これでよく毎月ちゃんと料金取ってるよな」
理不尽な怒りを、契約している通信キャリアにぶつけたところで何も変わらないのは分かっている。それでも、愚痴の一つも言いたくなる気持ちは抑えられなかった。窓口に電話しようにも、この電波では、それすらまともにできる自信がなかった。
『スマホの電波悪すぎ。通話がまともにできない』
思わずSNSにそう投げてしまった。
いつもの「Z」の既読がすぐについた。
「……お前、その部屋、前から電波悪いって言ってたもんな」
俺はそれ以上気にせず、既読だけを確認してスマホをベッドに放った。
地下、統括室。
「――《啓示》を受信しました」
無機質な声のアナウンスと同時に、スクリーンに映し出された一行に、コードネーム「ゼータ」は目を細めた。
『スマホの電波悪すぎ。通話がまともにできない』
「……『電波悪すぎ』、か。単なる通信環境への不満に見えるが、本質は違う」
ゼータは椅子の背もたれに深く体を預ける。
「これは、この世界における電波網の脆弱性そのものへの警鐘だ。ボスは、目に見えぬ空の道が、いまだ不安定なままである現状を、身をもって指摘しておられる。看過できる話ではない」
技術班の面々は、無言のまま頷いた。ゼータの分析に異を唱える者は、この組織には一人もいなかった。
「今回の適任は――レイヴンだ」
その名を口にした瞬間、統括室の空気がわずかに変わった。電波・衛星妨害の分野で右に出る者のいないプロフェッショナル。世界中の通信衛星と地上基地局の弱点を知り尽くしていると言われる男だった。表舞台には決して姿を現さないが、彼が沈黙させた通信網の数は、数えきれないほどだと囁かれている。
回線が繋がる。
「――レイヴン、聞いているな」
「……ゼータか。今日はまた、何を落とせと」
低い声が返ってきた。
「ボスより神託が下った。『電波網の是正』だ。逆に、佐伯家周辺の通信環境を、本日中に最良の状態まで引き上げろ」
「妨害専門の俺に、改善をやれと? 皮肉な依頼だ」
レイヴンは電話越しにも分かるほど、可笑しそうな声色でそう返した。長年、通信を断ち切ることにこそ誇りを持ってきた自分にとって、これほど本末転倒な依頼は他になかった。
「できない、とは言わせない」
短い沈黙のあと、レイヴンは静かに笑った。
「――いいだろう。壊すも直すも、結局は同じ技術の裏表だ」
レイヴンはそう答えると、モニターの前で小さく肩をすくめた。長年、電波を断ち切ることにばかり心血を注いできた自分に、繋げという依頼が来るとは、キャリアの中でも初めてのことだった。
通信を切った瞬間、レイヴンの脳裏に蘇るのはあの日のことだった。
秘密裏に潜伏していた郊外の基地で、大規模な電波妨害作戦の準備をしていたあの日。突如として、主人公がゲームに苛立ち、手にしていたスマホを机に思い切り叩きつけた。その瞬間に発生したごく微弱な電磁波の揺らぎが、なぜか基地のモニター群を軒並みショートさせたのだ。
幾重にも施したシールドと防護策を、たった一度の八つ当たりで貫かれた。レイヴンは戦慄した。長年かけて磨き上げてきた自分の技術の、その裏をいとも容易く突かれたのだと。
国家規模の防諜システムすら突破してきたはずの自分が、無自覚な苛立ちの表現一つに敗北した。その事実は屈辱であると同時に、抗いようのない説得力を持って彼の心に刻み込まれた。
「――電波網の裏、か。あの日から、俺の技術は児戯に等しいと思い知らされた」
レイヴンは端末を開き、世界中に散らばる自らの協力者――通信衛星の管制官、地上基地局のエンジニア、電波監理の専門家たちに、同時に指令を飛ばした。
「本日中に、佐伯家周辺の基地局の出力と設置角度を最適化しろ。ついでに、周辺一帯の電波干渉源をすべて洗い出して排除しろ。中途半端な改善は許さない」
「一世帯のために、周辺一帯の基地局を再調整しろというんですか。他の利用者への影響が出ますが」
とある通信会社のエンジニアが、思わず疑問を口にしかけた。長年、多数のユーザーの公平性を第一に考えてきた彼にとって、特定の一世帯を優先する調整というのは、業務倫理に反するようにすら感じられた。だが返ってきたのは、そのエンジニアが過去に見逃していた基地局の点検不備の記録だけだった。
それだけで、疑問の声はぴたりと止んだ。
同じ頃、通信衛星の管制官も、届いた指令に困惑を隠せずにいた。
「衛星の姿勢制御まで変更しろというんですか。軌道計算からやり直す必要がありますが」
長年、寸分の狂いもない精密な軌道計算を誇りとしてきた管制官にとって、急な変更というのはこの上ない負担だった。だが、その管制官のもとにもすぐに、彼が過去に関与した打ち上げ費用の不正流用の記録が届けられた。それだけで、管制官は黙々と軌道の再計算に取り掛かることになった。深夜にもかかわらず、地上の管制センターでは緊急の姿勢制御コマンドが次々と発行されていった。
深夜のうちに、世界中の通信インフラで、佐伯家周辺の電波環境が静かに最適化されていく。基地局のアンテナ角度が微調整され、干渉源となっていた老朽化した設備までもが、こともなげに交換されていった。
同時に、いくつかの国の電波監理当局では、通常とは異なる経路で届けられた周波数割り当ての見直し申請が、示し合わせたように同じ夜に殺到していた。誰も、その理由を説明できないままに。
とある電波監理当局の担当官は、深夜に届いた大量の申請書を前に、頭を抱えていた。
「これだけの精度で干渉源を特定した資料なんて、普通の調査じゃ絶対に作れないぞ。一体どこから来た情報なんだ」
同僚たちと確認し合っても、誰一人として出所の見当がつかなかった。だが内容の精度は本物で、これまで何年も原因不明とされてきた干渉問題が、まるでプレゼントのように一覧化されている。疑う理由よりも、活用しない理由の方が見当たらなかった。
その疑問への答えは、結局誰にも用意されないまま、申請書は次々と承認されていくことになった。
ゼータは画面の端に映る佐伯家周辺の電波状況データを、そっと見つめる。
「ついでに、佐伯家の部屋の中、電波が特に弱かった場所についても、恒久的に改善しておけ」
「……了解した」
「二度と、ボスの通話を途切れさせるな」
レイヴンのその一言には、単なる業務連絡以上の重みがこもっていた。
「いつものやつだ」
小さくそう呟いて、ゼータは通信を切った。統括室には、また静寂が戻る。
翌朝。
俺は、寝起きのままスマホを確認して目を疑った。
アンテナマークが、いつになく多く立っている。部屋のどこにいても、途切れることなく信号が届いているようだった。試しにベッドの上でも確認してみたが、これまで最も電波が弱かったはずの場所ですら、満タンの表示のままだった。
「……マジかよ」
試しに友人に電話をかけてみると、これまでとは比べ物にならないほどクリアな音声で通話ができた。雑音一つなく、まるで隣の部屋から話しかけられているかのような明瞭さだった。
「……あれ、なんか電波よくなってる?」
友人にそう伝えると、電話の向こうで怪訝そうな声が返ってきた。「お前の方がおかしかったんだろ」という、身も蓋もない指摘だったが、反論する材料もなかった。
リビングに降りると、妹の葵が朝食を食べながらニュースを眺めていた。
「お兄ちゃん、なんかニュースで、世界中の通信会社が一斉に基地局を調整したって話やってたよ」
「調整?」
「なんか、複数の通信会社が示し合わせたみたいに、同じ夜に大規模な電波環境の改善をしたんだって。業界団体も原因が分からないって驚いてた。しかも一社だけじゃなくて、世界中で同時にって言うから、余計に不気味だよね」
俺には、それが昨日の自分の呟きと関係あるなんて、想像もつかなかった。ただ、あっさり良くなった電波の入り方だけが、妙に現実離れしていた。
キッチンから母さんが顔を出した。
「そういえば、朝のニュースでもやってたわね。世界中の通信業界で、似たような改善が同時に進んだって」
母さんは首をかしげながら、朝食の準備を続けていた。
父さんも新聞を畳みながら会話に加わってきた。
「うちの取引先にも通信関係の会社があるんだが、朝から問い合わせが殺到してるらしいぞ。何が起きてるんだか」
「へえ、そうなんだ」
「それだけじゃないぞ。海外の通信業界でも、似たような改善情報が同じ夜に一斉に出回ったらしい。前代未聞の話だと、業界紙が特集を組むほどの騒ぎになってるんだと」
俺が興味なさそうに相槌を打つと、父さんは苦笑いを浮かべた。
「お前は本当に、世の中のことに興味がないな。まあ、それも一つの生き方か」
「別にいいだろ、それで」
俺はそう言い返しながらも、内心では少しだけ気恥ずかしさを感じていた。
テレビをつけると、コメンテーターが困惑気味に「通信業界の常識を覆す一夜」だと語っている。
「複数の独立した通信会社が、示し合わせたかのように同時多発的な電波環境の改善を実行しました。業界関係者も、この偶然の一致に驚きを隠せない様子です」
画面には、困惑気味の別の専門家も映し出されていた。
「通常、この規模の基地局再調整には数ヶ月単位の計画と工事が必要です。それが一夜にして、しかも複数の独立した企業から同時に処理されるというのは、業界の常識では説明がつきません」
司会者が神妙に頷きながら、話を締めくくった。
「引き続き、この謎めいた同時多発的な改善劇について、続報が入り次第お伝えします」
神妙な顔をした専門家が「通信技術の飛躍的進歩」だと真顔でコメントしていたが、俺には正直どうでもいい話だった。
「へえ。世の中、いろいろ大変だなあ」
「お兄ちゃんは何にも興味ないもんね。……でもまあ、電波よくなってよかったじゃん」
葵はそう言って、興味なさそうにスマホの画面に視線を戻した。
俺はソファに寝転がったまま、スマホを開いた。「Z」から今日もスタンプが一つ届いている。
『おはよう』
俺はそれに「おは」とだけ返し、快適な電波環境でソシャゲを起動した。もう通信切れに悩まされる心配はなさそうだった。
部屋のどこに移動しても、アンテナマークは安定して満タンのままだった。これまで無意識に避けていたベッドの上での通話も、今日からは何の気兼ねもなくできそうだ。もっとも、その裏にどれほど壮大な出来事があったかなど、想像すらしていなかったのだが。
窓の外では、世界中の通信インフラが一夜にして最適化に沸いていたこと――ある男がたった一度の八つ当たりへの敗北感を胸に、協力者を叩き起こして回っていたことなど、俺は知る由もなかった。満タンのアンテナマークだけが、いつもと違う快適な一日の始まりを告げていた。




