第17話「地図アプリの案内が違う」
午後三時。俺は見知らぬ住宅街の真ん中で、スマホを片手に立ち尽くしていた。
今日は珍しく、電車を乗り継いで隣の市まで出かけてきた。目的は、限定グッズを扱っている小さな専門店。ネットで見つけた店で、どうしても実物を見てみたくなったのだ。
駅を出るところまでは順調だった。だが、地図アプリの案内に従って歩き始めた途端、雲行きが怪しくなった。
「……次の角を右です、って言われたけど、右にあるの民家の塀なんだけど」
画面の中の青い矢印は、確かに右を指している。だが目の前にあるのは、行き止まりにしか見えない細い路地と、誰かの家の庭先だった。
仕方なく、アプリの指示を無視して少し先まで進んでみる。すると今度は、地図上では大通りのはずの場所が、実際には工事中のフェンスで塞がれていた。
「なんだよこれ、全然合ってないじゃん」
現在地を示す青い点は、なぜか俺の実際の位置から少しずれた場所を彷徨っている。画面を見ながら歩けば歩くほど、目的地から遠ざかっているような気さえしてきた。
引きこもりの俺にとって、知らない街を歩くこと自体が大きな試練だ。ただでさえ心細いところに、頼みの綱の地図まで当てにならないとなれば、苛立ちは募る一方だった。
慣れない靴で歩き続けたせいか、足の裏がじわじわと痛み始めている。水分も持ってこなかったので、喉もからからだった。こんな思いをしてまで行く価値のある店なのかと、自問する気持ちすら湧いてくる。
人に道を尋ねようにも、住宅街には人影がほとんど見当たらない。たまに通りかかった人も、こちらが声をかける前に足早に去ってしまう。
「……もう帰ろうかな」
結局、目的の店には辿り着けないまま、俺は一時間近く迷い続けた末に、来た道を引き返すことにした。
帰りの電車の中で、ようやく苛立ちが爆発した。
『地図アプリの案内が全然合ってない。迷いに迷って結局店に行けなかった』
いつもの「Z」の既読がすぐについた。
「……お前、そんな遠出してたのか」
俺はそれ以上気にせず、既読だけを確認してスマホをポケットにしまった。
地下、統括室。
「――《啓示》を受信しました」
無機質な声のアナウンスと同時に、スクリーンに映し出された一行に、コードネーム「ゼータ」は目を細めた。
『地図アプリの案内が全然合ってない。迷いに迷って結局店に行けなかった』
「……『案内が合ってない』、か。単なる地図アプリの不具合に見えるが、本質は違う」
ゼータは椅子の背もたれに深く体を預ける。
「これは、この世界における道標そのものへの警鐘だ。ボスは、人々を正しく導くべき仕組みが、いまだ不確かなままである現状を、身をもって指摘しておられる。看過できる話ではない」
技術班の面々は、無言のまま頷いた。
「今回の適任は――クィーンだ」
その名を口にした瞬間、統括室の空気がわずかに変わった。ヨーロッパの裏社会を束ねる、大貴族の当主。古くから続く名門の血筋と、各国の要人に通じる広大な人脈を併せ持つ、気品に満ちた女だった。
回線が繋がる。
「――クィーン、聞いているな」
「……ゼータ。あなたから直々にご連絡とは、光栄ですわ」
優雅な声が返ってきた。
「ボスより神託が下った。『道標の是正』だ。地図・案内に関わるあらゆる情報の精度を、本日中に飛躍的に向上させろ」
「地図の精度、ですの? わたくしの領分とは少し違う気もしますけれど」
「できない、とは言わせない」
短い沈黙のあと、クィーンは上品に笑った。
「――ふふ。かしこまりましたわ。むしろ、腕が鳴りますこと」
クィーンは通信を終えると、窓の外に広がる古い石造りの街並みを見渡した。代々受け継がれてきた屋敷から眺めるこの景色は、何世紀も前からほとんど変わっていない。だが、この街の地図が正確であることを、彼女はこれまで一度も疑ったことがなかった。今夜だけは、その当たり前を疑うことになりそうだった。
通信を切った瞬間、クィーンの脳裏に蘇るのはあの日のことだった。
敵対勢力との一触即発の交渉を控え、護衛とはぐれて見知らぬ街で道に迷っていたあの日。途方に暮れていたところに、ゲームの買い出し帰りらしい一人の青年が通りかかった。
藁にもすがる思いで道を尋ねると、青年は面倒くさそうに、ろくに考えもせず、適当な方向を指さした。
言われるままに進んだ先で待っていたのは、敵対勢力が待ち構えていたはずの会合場所だった。だが、なぜかその敵対勢力は、内部の些細な仲違いから自壊しており、交渉するまでもなく勝負がついていたのである。
クィーンは確信した。あの青年が指さした方向には、最初から全てを見通した計算があったのだと。
名門の当主として、幼い頃から数え切れないほどの謀略と駆け引きを見てきた彼女にとって、これほど鮮やかな一手は初めての経験だった。何の意図もなさそうな素っ気ない仕草の裏に、盤面全体を支配する深謀が隠されている。そう信じることでしか、あの日の出来事を説明できなかったのだ。
「――道を示す者、か。あの日から、わたくしの進むべき道は決まっておりますわ」
クィーンは端末を開き、ヨーロッパ全土に張り巡らせた自らの人脈――地図製作会社の重役、測量技術者、各国の交通当局に顔の利く名士たちに、同時に指令を飛ばした。
「本日中に、主要な地図アプリの位置情報と経路案内を、徹底的に精査させなさい。誤りは一つも残してはなりませんわ」
「地図データの全面的な精査を、たった一夜で? 通常なら数年がかりの作業ですが」
とある地図製作会社の重役が、思わず疑問を口にしかけた。長年、慎重な検証と段階的な更新を積み重ねてきた彼にとって、一夜での全面精査という要求は、業界の作法そのものを否定されるに等しかった。だが返ってきたのは、その重役が過去に見逃していた重大な測量ミスの隠蔽記録だけだった。
それだけで、疑問の声はぴたりと止んだ。
同じ頃、測量技術者の一人も、届いた指令に困惑を隠せずにいた。
「全世界の道路情報を再測量しろというんですか。どう考えても、時間が足りません」
だが、その技術者のもとにもすぐに、彼が過去に関わった公共工事の不正の記録が届けられた。それだけで、技術者は黙々と作業に取り掛かることになった。夜通しドローンと衛星画像を駆使して、世界各地の道路網が次々と再確認されていく。
深夜のうちに、世界中の地図データが静かに書き換えられていく。細い路地の通行可否、工事中の区間、閉鎖された施設の情報、これまで放置されてきた誤りの数々が、こともなげに修正されていった。
とある測量事務所の若手職員は、深夜に突然更新され続ける画面を前に、目を疑っていた。
「これ、昨日まで誰も気づいてなかった道路の誤りが、全部直ってる……誰がやったんですか」
先輩に尋ねても、首を横に振るばかりだった。誰の仕事なのかも分からないまま、ただ精度だけが確実に向上していくという、不気味で、どこか心強い夜だった。
同時に、いくつかの国の交通当局では、通常とは異なる経路で届けられた道路標識の更新申請が、示し合わせたように同じ夜に殺到していた。誰も、その理由を説明できないままに。
とある交通当局の担当官は、深夜に届いた大量の申請書を前に、頭を抱えていた。
「これだけの精度で標識の誤りを指摘した資料なんて、普通の調査じゃ絶対に作れないぞ。一体どこから来た情報なんだ」
同僚たちと確認し合っても、誰一人として出所の見当がつかなかった。だが内容の精度は本物で、これまで何年も放置されてきた標識の不備が、まるでプレゼントのように一覧化されている。疑う理由よりも、活用しない理由の方が見当たらなかった。
その疑問への答えは、結局誰にも用意されないまま、申請書は次々と承認されていくことになった。
ゼータは画面の端に映る主人公の外出履歴データを、そっと見つめる。
「ついでに、ボスが次に向かう予定の場所については、経路案内を特別に最適化しておけ」
「……かしこまりました」
「二度と、ボスを道に迷わせるような真似はなさらぬよう」
クィーンのその一言には、単なる業務連絡以上の気迫がこもっていた。
「いつものやつだ」
小さくそう呟いて、ゼータは通信を切った。統括室には、また静寂が戻る。
翌朝。
俺は、昨日の悔しさをまだ引きずったまま、スマホの地図アプリを開いてみた。
「……あれ?」
昨日迷い込んだ住宅街の路地が、地図上では細かく修正されている。工事中のフェンスも、通行止めの表示付きで示されていた。
半信半疑のまま、昨日行けなかった店までの経路を検索してみる。すると、これまでとは打って変わって、驚くほど的確な案内が表示された。
現在地を示す青い点も、俺の実際の位置にぴたりと重なっている。曲がり角ごとの表示も、昨日のように的外れな方向を指すことなく、素直に道なりの経路を示していた。
「……昨日の苦労、何だったんだよ」
思わず苦笑いが漏れる。あれほど頼りなかったはずの地図が、まるで別のアプリのように優秀になっていた。
リビングに降りると、妹の葵が朝食を食べながらニュースを眺めていた。
「お兄ちゃん、なんかニュースで、世界中の地図アプリが一斉に修正されたって話やってたよ」
「修正?」
「なんか、複数の地図会社が示し合わせたみたいに、同じ夜に大量のデータを更新したんだって。業界団体も原因が分からないって驚いてた。しかも一社だけじゃなくて、世界中で同時にって言うから、余計に不気味だよね」
俺には、それが昨日の自分の呟きと関係あるなんて、想像もつかなかった。ただ、あっさり正確になった地図の表示だけが、妙に現実離れしていた。
キッチンから母さんが顔を出した。
「そういえば、朝のニュースでもやってたわね。世界中の地図業界で、似たような更新が同時に進んだって」
父さんも新聞を畳みながら会話に加わってきた。
「うちの取引先にも測量関係の会社があるんだが、朝から問い合わせが殺到してるらしいぞ。何が起きてるんだか」
「へえ、そうなんだ」
「それだけじゃないぞ。海外の地図業界でも、似たような更新情報が同じ夜に一斉に出回ったらしい。前代未聞の話だと、業界紙が特集を組むほどの騒ぎになってるんだと」
俺が興味なさそうに相槌を打つと、父さんは苦笑いを浮かべた。
「お前は本当に、世の中のことに興味がないな。まあ、それも一つの生き方か」
「別にいいだろ、それで」
俺はそう言い返しながらも、内心では少しだけ気恥ずかしさを感じていた。
テレビをつけると、コメンテーターが困惑気味に「地図業界の常識を覆す一夜」だと語っている。
「複数の独立した地図会社が、示し合わせたかのように同時多発的なデータ更新を実行しました。業界関係者も、この偶然の一致に驚きを隠せない様子です」
画面には、困惑気味の別の専門家も映し出されていた。
「通常、この規模の地図データの更新には、数年単位の測量と検証が必要です。それが一夜にして、しかも複数の独立した企業から同時に処理されるというのは、業界の常識では説明がつきません」
司会者が神妙に頷きながら、話を締めくくった。
「引き続き、この謎めいた同時多発的な更新劇について、続報が入り次第お伝えします」
神妙な顔をした専門家が「位置情報技術の飛躍的進歩」だと真顔でコメントしていたが、俺には正直どうでもいい話だった。
「へえ。世の中、いろいろ大変だなあ」
「お兄ちゃんは何にも興味ないもんね。……でもまあ、地図が直ってよかったじゃん」
俺はソファに寝転がったまま、スマホを開いた。「Z」から今日もスタンプが一つ届いている。
『おはよう』
俺はそれに「おは」とだけ返し、久しぶりに正しく道案内してくれる地図アプリを眺めながら、次の外出計画を立て始めた。
窓の外では、世界中の地図データが一夜にして書き換えられていたこと――ある女が道を尋ねた一瞬の記憶への確信を胸に、ヨーロッパ中の人脈を叩き起こして回っていたことなど、俺は知る由もなかった。




