第14話「チーターがムカつく」
午後九時。今夜も今夜とて、ランクマッチに挑んでいた俺は、画面の前で言葉を失っていた。
今日こそはと意気込んで、久しぶりに集中して臨んだ試合だった。序盤は順調に立ち回れていたはずなのに、雲行きが怪しくなったのは中盤に差し掛かった頃からだった。
相手チームの一人が、明らかにおかしい。壁の向こうにいるはずの俺の位置を、寸分の狂いもなく撃ち抜いてくる。物陰に隠れた瞬間を、まるで最初から知っていたかのように狙い澄まされる。
「……は? なんだよそれ」
一度や二度なら偶然で片付けられる。だが、これだけ露骨に続けば、疑いようもなかった。チート行為以外に説明のつかない動きだった。味方からも「これは酷い」というチャットが次々と流れてくるほどの、あからさまな不正だった。
結果は当然のように大敗。積み上げてきたはずのランクポイントが、ものの数分でごっそりと溶けていく。画面に表示された相手のプレイヤー名を、俺は苛立ち紛れに何度も睨みつけた。
リプレイを見返してみても、疑いの余地はなかった。壁抜けの視認、不自然なまでに正確なエイム、明らかに人間の反応速度を超えた動き。これだけの証拠が揃っていれば、誰の目にも一目瞭然だった。
運営に通報する機能はあるにはあるが、これまで何度も使ってきて、まともに機能した試しがない。結局、泣き寝入りするしかないのだろうという諦めが、じわじわと胸に広がっていく。
「くそ、あんな奴のせいで……」
積み上げてきた時間と労力を、たった一人の不正行為者に台無しにされる理不尽さ。悔しさのあまり、俺はコントローラーを握りしめたまま、机に突っ伏して唸った。今夜のために調整してきた装備も、練習してきたエイムも、すべてが無意味に感じられた。
「あーもう、消えてほしいわ、ああいうの」
思わず漏らした一言のあと、俺はスマホを取り上げてSNSを開いた。指先はまだ苛立ちで小刻みに震えていた。
『露骨なチーターに当たって全滅した。ああいうのマジで消えてほしい』
いつもの「Z」の既読がすぐについた。
「……お前、そういうときこそ休憩しろって」
俺はそれ以上気にせず、既読だけを確認してコントローラーを投げ出した。
地下、統括室。
「――《啓示》を受信しました」
無機質な声のアナウンスと同時に、スクリーンに映し出された一行に、コードネーム「ゼータ」は目を細めた。
『露骨なチーターに当たって全滅した。ああいうのマジで消えてほしい』
「……『消えてほしい』、か。単なるゲーム内のトラブルに見えるが、本質は違う」
ゼータは椅子の背もたれに深く体を預ける。
「これは、この世界における不正と公正さの在り方そのものへの警鐘だ。ボスは、努力を踏みにじる不正行為者の存在そのものへの粛清を望んでおられる。看過できる話ではない」
技術班の面々は、無言のまま頷いた。
技術班の誰かが小さく息を呑んだ。
「今回の適任は――ネメシスだ」
その名を口にした瞬間、統括室の空気が明らかに張り詰めた。国家要人を対象とする粛清部隊の長。世界中の政変の裏側に、その名が囁かれる男だった。表舞台に姿を現すことは決してなく、彼が動いた事件の多くは、いまだ未解決のまま歴史の闇に埋もれている。
回線が繋がる。
「――ネメシス、聞いているな」
「……ゼータか。今宵の任務内容を」
低く冷たい声が返ってきた。
「ボスより神託が下った。『不正者の排除』だ。対象はオンラインゲーム上で不正行為を働く一人物。ただし、手段は物理的な排除ではなく、社会的・技術的な排除に限定する。あくまで、公正さを取り戻すための措置だ」
「……物理的な排除ではない、と。それは私への依頼として、些か手緩いのでは」
ネメシスの声には、微かな不満が滲んでいた。長年、最も苛烈な手段でしか任務を遂行してこなかった男にとって、穏当な処理というのは慣れない領域だった。
「今回はそれで十分だ。ボスの望みは、あくまで公正な環境の回復にある」
ネメシスは一瞬、沈黙した。
「――承知した。私の流儀とは異なるが、ボスの意向とあらば」
「できない、とは言わせない」
「言うまでもない」
ネメシスは端的にそう告げると、通信を切る間際に小さく付け加えた。
「――今回ばかりは、私にとっても因縁のある依頼だ」
通信を切った瞬間、ネメシスの脳裏に蘇るのはあの夜のことだった。
とある要人の暗殺任務のため、屋根裏に潜伏していたあの夜。物音一つ立てず息を潜めていた最中、階下から聞こえてきたのは、対戦ゲームに負けたらしい主人公の、力の抜けた呟きだった。
「あーもう、死にたい……」
その一言を耳にした瞬間、ネメシスは凍りついた。潜伏がすでに露見し、こちらの存在を察知した相手が、絶望のあまり漏らした最後の言葉なのだと誤解したのだ。手練れの粛清者としての矜持よりも先に、任務の完全な失敗という結論が、頭の中を支配した。
その日、ネメシスは屋根裏から静かに降り、武器を置いて主人公の前に姿を現し、無条件降伏を申し出た。もちろん、主人公はゲームの結果に落ち込んでいただけで、屋根裏に何者かが潜んでいたことにすら気づいていなかったのだが。
長年の粛清者としてのキャリアの中で、これほど呆気ない幕引きは初めてだった。だがネメシスにとって、それは屈辱ではなく、むしろ新たな忠誠の始まりだった。任務の対象として見ていたはずの相手が、いつしか唯一絶対に守るべき存在へと変わっていた。
「――絶望の言葉、か。あの夜から、私の忠誠先は変わった」
ネメシスは端末を開き、世界各地に展開する自らの情報網――ゲーム業界に潜り込ませた元エンジニア、不正対策専門のハッカー、各国のプロバイダに顔の利く元スパイたちに、同時に指令を飛ばした。
「対象アカウントの不正行為の証拠を、完全な形で収集しろ。使用しているハードウェアの識別情報まで特定し、あらゆるプラットフォームから恒久的に締め出せ」
「一介のチーター一人のために、ここまでの規模の情報網を動かすんですか。うちの本来の任務に支障が出ます」
とある元エンジニアが、思わず疑問を口にしかけた。長年、国家間の諜報活動を裏で支えてきた誇りある技術者にとって、たかがゲーム内の不正行為への対応は、屈辱的とすら感じられる案件だった。だが返ってきたのは、そのエンジニアが過去に開発に関与した、違法な改造ツールの流通記録だけだった。
それだけで、疑問の声はぴたりと止んだ。エンジニアは青ざめた顔のまま、無言で作業に取り掛かった。
同じ頃、各国のプロバイダに顔の利く元スパイも、届いた指令に困惑を隠せずにいた。
「特定の一個人の通信記録をここまで洗い出せというんですか。いくら私でも、これは些か行き過ぎでは」
長年、国家間の機密情報を扱ってきた元スパイにとっても、一個人のオンラインゲームの記録という対象の小ささは、些か拍子抜けするものだった。だが、その元スパイのもとにもすぐに、彼が過去に横流ししていた機密情報の取引記録が届けられた。それだけで、元スパイは黙々と調査作業に取り掛かることになった。長年隠し通してきたはずの過去が、こうも簡単に握られていることに、彼は背筋が凍る思いだった。
深夜のうちに、世界中のゲームプラットフォームで、対象のアカウントに関する不正行為の証拠が次々と集約されていく。使用していた改造ツールの出所、決済に使われたクレジットカードの情報、さらには複数の別アカウントを使った不正の常習性までもが、洗いざらい暴かれていった。
同時に、いくつかのゲーム会社の運営部門には、匿名の通報という形で、これまで見過ごされてきた大規模な不正行為者のリストが一斉に送りつけられていた。誰も、その差出人を特定できないままに。
とある大手ゲーム会社の運営責任者は、深夜に届いた匿名の通報資料の山を前に、頭を抱えていた。
「これだけの精度で不正の証拠が揃っているなんて、普通の通報の域を超えてるぞ。一体どこから来た情報なんだ」
部下に確認させても、送信元の痕跡は一切見つからなかった。まるで最初から、追跡されることを想定した上で組み立てられたかのような周到さだった。担当者たちは薄気味悪さを感じながらも、証拠の確かさに疑いを挟む余地はなかった。
その疑問への答えは、結局誰にも用意されないまま、資料は次々とアカウントの永久凍結処理へと活用されていくことになった。
ゼータは画面の端に映る対象アカウントのデータを、そっと見つめる。
「ついでに、佐伯家周辺のオンライン対戦環境全般についても、今後同様の不正が起きにくい監視体制を敷いておけ」
「……了解した」
「二度と、ボスの時間を不正行為者などに奪わせるな」
ネメシスのその一言には、単なる業務連絡以上の重みがこもっていた。
「いつものやつだ」
小さくそう呟いて、ゼータは通信を切った。統括室には、また静寂が戻る。
翌朝。
俺は、久しぶりに落ち着いた気分でスマホを開いていた。
昨夜のことを思い出すと、まだ少し腹立たしさが残っている。だが、なんとなく気分転換にランキング画面を覗いてみると、妙なことに気づいた。昨日あれほど暴れていたあのプレイヤー名が、対戦履歴からも、ランキングからも、跡形もなく消えていた。
何度もページを更新して確認してみたが、検索をかけても、そのプレイヤー名自体がシステム上から完全に抹消されているようだった。まるで最初から存在しなかったかのように。
「……あれ、いなくなってる」
リビングに降りると、妹の葵が朝食を食べながらニュースを眺めていた。
「お兄ちゃん、なんかニュースで、世界中のゲーム会社が一斉に大規模な不正アカウント摘発をしたって話やってたよ」
「摘発?」
「なんか、複数のゲーム会社が示し合わせたみたいに、同じ夜に大量の不正アカウントを一斉凍結したんだって。業界団体も原因が分からないって言ってた。しかも一社だけじゃなくて、世界中で同時にって言うから、余計に不気味だよね」
俺には、それが昨日の自分の呟きと関係あるなんて、想像もつかなかった。ただ、あっさり消えたあのプレイヤーの存在だけが、妙に現実離れしていた。運営に通報したところで何も変わらないと思っていただけに、この結果は素直に喜ばしいものだった。
キッチンから母さんが顔を出した。
「そういえば、朝のニュースでもやってたわね。世界中のゲーム業界で、似たような摘発が同時に進んだって」
母さんは首をかしげながら、朝食の準備を続けていた。
父さんも新聞を畳みながら会話に加わってきた。
「うちの若い社員が、ちょうどそのゲームをやってるらしくてな。朝から興奮気味にその話をしてたよ」
「へえ、そうなんだ」
「それだけじゃないぞ。海外のゲーム業界でも、似たような大規模摘発が同じ夜に相次いだらしい。前代未聞の連携だと、業界紙が特集を組むほどの騒ぎになってるんだと」
俺が興味なさそうに相槌を打つと、父さんは苦笑いを浮かべた。
「お前は本当に、世の中のことに興味がないな。まあ、それも一つの生き方か」
「別にいいだろ、それで」
俺はそう言い返しながらも、内心では少しだけ気恥ずかしさを感じていた。
テレビをつけると、コメンテーターが困惑気味に「ゲーム業界の常識を覆す一夜」だと語っている。
「複数の独立したゲーム会社が、示し合わせたかのように同時多発的な不正摘発を実行しました。業界関係者も、この偶然の一致に驚きを隠せない様子です」
画面には、困惑気味の別の専門家も映し出されていた。
「通常、この規模の不正調査には数週間から数ヶ月の期間が必要です。それが一夜にして、しかも複数の独立した企業から同時に処理されるというのは、業界の常識では説明がつきません」
司会者が神妙に頷きながら、話を締めくくった。
「引き続き、この謎めいた同時多発的な摘発劇について、続報が入り次第お伝えします」
神妙な顔をした専門家が「不正対策技術の飛躍的進歩」だと真顔でコメントしていたが、俺には正直どうでもいい話だった。
「へえ。世の中、いろいろ大変だなあ」
「お兄ちゃんは何にも興味ないもんね。……でもまあ、チーターいなくなってよかったじゃん」
葵はそう言って、興味なさそうにスマホの画面に視線を戻した。
俺はソファに寝転がったまま、スマホを開いた。「Z」から今日もスタンプが一つ届いている。
『おはよう』
俺はそれに「おは」とだけ返し、久しぶりに公正な環境でランクマッチに挑む準備を始めた。今日こそ、まともな勝負ができそうだ。
昨夜の理不尽な敗北を思えば、今日はきっと違う結果になるはずだと、根拠のない自信だけが胸の中で膨らんでいた。
窓の外では、世界中のゲームプラットフォームが一夜にして不正の一掃に沸いていたこと――ある男が屋根裏で聞いた一言への忠誠を胸に、情報網を叩き起こして回っていたことなど、俺は知る由もなかった。静かになったランキング画面だけが、いつもと違う清々しい朝を告げていた。




