第12話「風邪薬が全然効かない」
午後四時。俺は布団の中で、うんざりした気分で天井を睨んでいた。
昨日から続く喉の痛みと鼻づまり。典型的な風邪の症状だ。近所の薬局で買ってきた市販の風邪薬を、朝晩きちんと飲んでいるはずなのに、一向に楽になる気配がない。
喉に何かが張り付いているような違和感が、唾を飲み込むたびに刺すような痛みへと変わる。鼻も完全に詰まっていて、口呼吸を続けているせいで、喉の乾きがさらに悪化するという悪循環に陥っていた。
「……なんだよ、全然効いてないじゃん」
熱を測ってみると、昨日よりむしろ微妙に上がっている気さえする。パッケージには「速効性」だの「つらい症状に」だのと景気のいい文句が並んでいたはずなのに、体感としてはまるで水を飲んでいるのと変わらない。
こんなことなら、無理して起き上がって病院にでも行くべきだったのかもしれない。だが、その気力すら今の俺には残っていなかった。市販薬で何とかなるだろうという甘い見通しが、今になって裏目に出ている気がしてならなかった。
用法用量はきちんと守っているはずだ。時間も空けているし、食後に飲むようにも気をつけている。それでもこの結果というのは、さすがに納得がいかなかった。
布団から手を伸ばして、薬の箱を引き寄せてみる。成分表示を眺めてみても、素人の俺には何がどう効くのかさっぱり分からない。ただ、期待していたほどの効果がないという事実だけが、じわじわと苛立ちを募らせていった。
「金返せよ、これ……」
もちろん、そんな文句を言ったところで薬局が返金してくれるはずもない。分かってはいても、体調の悪さも相まって、思考がどうしても後ろ向きになる。布団の中で唸っていても、症状が良くなるわけでもないというのに。
鼻をかみながら、俺はスマホを手に取った。指先すら、いつもより重く感じる。
『風邪薬飲んでるのに全然効かない。パッケージ詐欺かよこれ』
思わずSNSにそう投げてしまった。今日ばかりは、いつもの軽口というより、ほとんど本気の恨み言だった。
いつもの「Z」の既読がすぐについた。
「……お前、寝てろよ、そんな状態で」
俺はそれ以上気にせず、既読だけを確認して布団に潜り込んだ。喉の痛みが、また一つ強くなった気がした。
地下、統括室。
「――《啓示》を受信しました」
無機質な声のアナウンスと同時に、スクリーンに映し出された一行に、コードネーム「ゼータ」は目を細めた。
『風邪薬飲んでるのに全然効かない。パッケージ詐欺かよこれ』
「……『効かない』、か。単なる体調不良の愚痴に見えるが、本質は違う」
ゼータは椅子の背もたれに深く体を預ける。
「これは、この世界における医薬品の効能そのものへの警鐘だ。ボスは、消費者の信頼を裏切る不誠実な製薬の在り方を、身をもって指摘しておられる。看過できる話ではない」
技術班の面々は、無言のまま頷いた。
「今回の適任は――ロータスだ」
その名を口にした瞬間、統括室の空気がわずかに変わった。世界の薬品市場を裏で支配する、巨大カルテルの黒幕。国境を越えた製薬業界のあらゆる利権に、その影響力を及ぼしていると言われる男だった。表舞台では清廉な実業家として名を馳せる一方、裏では価格操作と情報統制で業界を牛耳ってきた経歴の持ち主でもある。
回線が繋がる。
「――ロータス、聞いているな」
「……ゼータか。今日はまた、何の御用かな」
落ち着き払った声が返ってきた。
「ボスより神託が下った。『効能の是正』だ。市販の風邪薬の効果を、本日中に確実なレベルまで引き上げろ」
「たかが一つの市販薬の効き目に、私のカルテルを動かせと? ……面白い依頼だ」
「できない、とは言わせない」
短い沈黙のあと、ロータスは静かに笑ったようだった。長年、価格操作と特許の囲い込みばかりに知恵を絞ってきた自分にとって、純粋に効能を高めるという依頼は、むしろ本業への原点回帰にも思えた。
「――もちろんだとも。私に不可能はない」
ロータスは通信を終えると、執務机の上に並んだ大量の薬品サンプルを見渡した。長年、利益率と法規制の狭間で妥協を重ねてきた自分の商売が、今夜だけは違う目的のために動く。その事実に、彼は妙な高揚感を覚えていた。
通信を切った瞬間、ロータスの脳裏に蘇るのはあの日のことだった。
自身の風邪の症状を抑えるため、主人公が近所の薬局で何気なく買った市販の風邪薬。その服用の様子を偶然目にしたロータスは、独自の(そして、いかなる査読も経ていない)分析を行い、こう結論づけた。この一般的な市販薬こそ、長年業界内で秘匿されてきた、次世代万能薬の原型に違いないのだと。
その分析の根拠は、誰の目から見ても科学的とは言い難いものだった。だがロータス自身にとって、それは疑いようのない確信だった。長年、真に人を癒す薬とは何かを追い求めてきた末に、ようやくたどり着いた答えのように思えたのだ。
その日以来、ロータスは自らのカルテル傘下の製薬ラインすべてを、ボスの健康維持という一点のためだけに稼働させ続けている。表向きは通常通りの企業活動を装いながら。長年、利益のためだけに動かしてきた組織に、初めて明確な目的意識のようなものが芽生えた瞬間でもあった。
「――次世代万能薬、か。あの日から、私の商売の意味は変わった」
ロータスは端末を開き、世界中の傘下製薬会社――研究開発の責任者、臨床試験の統括者、原料調達の担当者たちに、同時に指令を飛ばした。
「本日中に、対象の市販薬の有効成分の配合比率を全面的に見直せ。効能を確実なレベルまで引き上げろ。副作用のリスクは、最大限抑制した上でだ」
「一般用医薬品の配合を、たった一夜で全面改訂しろと? 通常の承認プロセスを無視することになりますが」
とある製薬会社の研究開発責任者が、思わず疑問を口にしかけた。だが返ってきたのは、その責任者が過去に隠蔽していた治験データの改ざん記録だけだった。
それだけで、疑問の声はぴたりと止んだ。責任者は青ざめた顔のまま、無言で作業に取り掛かった。二度と表沙汰にはできない過去を握られている以上、選択の余地はどこにもなかった。
同じ頃、原料調達を任された担当者も、届いた指令に困惑を隠せずにいた。
「この規模の原料を、正規のルートで一晩で確保しろというんですか。無茶にも程がある」
だが、その担当者のもとにもすぐに、彼が個人的に関与していた原料の不正転売の記録が届けられた。それだけで、担当者は黙々と調達作業に取り掛かることになった。深夜にもかかわらず、世界各地の原料倉庫から緊急の出荷指示が次々と発行されていった。
深夜のうちに、世界中の製薬工場で、対象の風邪薬の製造ラインが静かに調整されていく。有効成分の配合比率が緻密に見直され、これまで見過ごされてきた成分同士の相互作用までもが、徹底的に洗い直されていった。
製造ラインの一角では、品質管理を任された技術者たちが、慎重に配合の調整を進めていた。
「これ以上の高濃度化は、安全基準ぎりぎりですよ。本当にこの数値で確定するんですか」
「安全性は最優先だ。効果を求めるあまり、リスクを冒す必要はない。基準内で最大限を引き出せ」
「私にとって、これは単なる誇大広告の実現ではなく、正真正銘の品質向上でなければならない。手を抜くことは許さない」
ロータス自身からの厳しい指示に、現場の空気が一段と引き締まった。長年、業界の裏側で数字ばかりを追いかけてきた男の、久しぶりに見せる職人的なこだわりでもあった。
同時に、いくつかの国の医薬品規制当局では、通常とは異なる経路で届けられた奇妙な追加治験データの提出依頼が、示し合わせたように同じ夜に殺到していた。誰も、その理由を説明できないままに。
とある規制当局の審査官は、深夜に届いた大量の追加資料を前に、頭を抱えていた。
「この短期間で、これだけ精緻な追加データを揃えるなんて、普通あり得ない話だぞ。一体どこの誰がこんなことを……」
同僚に相談してみても、誰もが同じように首をひねるばかりだった。書類の隅々まで確認しても、不備は一つも見つからない。むしろ、これまで見てきたどの申請書類よりも完璧に近い出来栄えだった。
その疑問への答えは、結局誰にも用意されないまま、資料だけが静かに審査プロセスの中に組み込まれていくことになった。
さらに、いくつかの国際的な医薬品監視機関でも、同様の混乱が広がっていた。
「複数の国で、同時多発的に同種の製品改良申請が提出されている。これは組織的な動きと見るべきでは」
会議に集まった専門家たちは、口々に懸念を示したが、結局は品質基準を満たしていることを確認するにとどまり、それ以上の追及は行われなかった。基準を満たしている以上、拒否する理由が見当たらなかったのだ。誰もが釈然としない表情を浮かべながらも、最終的には承認の印を押すしかなかった。
ゼータは画面の端に映る佐伯家近くの薬局の在庫データを、そっと見つめる。
「ついでに、佐伯家周辺の薬局に流通する分だけは、優先的に改良版と差し替えておけ」
「……了解した」
「今後、佐伯家周辺で販売される医薬品全般についても、品質管理を徹底しておくように」
ロータスの追加の一言に、現場からは戸惑いの声一つ上がらなかった。もはや、この程度の指示に驚く者は誰もいなくなっていた。
「いつものやつだ」
小さくそう呟いて、ゼータは通信を切った。統括室には、また静寂が戻る。
翌朝。
俺は、目覚めた瞬間の体の軽さに驚いていた。
昨日まであれほど重かった喉の痛みが、嘘のように和らいでいる。鼻づまりも、いつの間にか気にならなくなっていた。呼吸をするたびに感じていたあの不快な抵抗感が、綺麗さっぱり消え去っていた。
「……あれ、なんか楽になってる」
念のため熱を測ってみると、平熱近くまで下がっていた。あれほど効かないと文句を言っていた薬が、まるで別物のように効いているとしか思えなかった。半信半疑のまま体を起こしてみたが、あのだるさもすっかり消えていた。
リビングに降りると、妹の葵が朝食を食べながらニュースを眺めていた。
「お兄ちゃん、具合よくなったの? なんか顔色よくなってるじゃん」
「ああ、なんでか知らないけど、急に楽になった」
「へえ、よかったじゃん。あ、そういえばニュースで、世界中の製薬会社が一斉に妙な発表してるって話やってたよ」
葵はそう言いながら、スマホの画面を俺の方に向けてきた。
「妙な発表?」
「なんか、市販薬の効果を大幅に改善する新技術を、複数の製薬会社が同時に導入したとかで、業界が大騒ぎになってるんだって。しかも一社だけじゃなくて、世界中で同時にって言うから、余計に不気味だよね」
俺には、それが昨日の自分の呟きと関係あるなんて、想像もつかなかった。ただ、あっさり良くなった体調だけが、妙に現実離れしていた。
キッチンから母さんが顔を出した。
「そういえば、朝のニュースでもやってたわね。世界中の製薬会社で、似たような発表が同じ夜に相次いだって」
母さんは首をかしげながら、朝食の準備を続けていた。
父さんも新聞を畳みながら会話に加わってきた。
「うちの取引先にも製薬関係の会社があるんだが、朝から問い合わせが殺到してるらしいぞ。何が起きてるんだか」
「へえ、そうなんだ」
「それだけじゃないぞ。海外の製薬業界でも、似たような技術情報が同じ夜に一斉に出回ったらしい。前代未聞の話だと、業界紙が特集を組むほどの騒ぎになってるんだと。うちの部長なんかも、朝礼で延々とその話をしてたくらいだ」
俺が興味なさそうに相槌を打つと、父さんは苦笑いを浮かべた。
「お前は本当に、世の中のことに興味がないな。まあ、それも一つの生き方か」
「別にいいだろ、それで」
俺はそう言い返しながらも、内心では少しだけ気恥ずかしさを感じていた。
テレビをつけると、コメンテーターが困惑気味に「製薬業界の常識を覆す一夜」だと語っている。
「複数の独立した製薬会社が、示し合わせたかのように同種の技術改良を同時発表しました。業界関係者も、この偶然の一致に驚きを隠せない様子です」
画面には、困惑気味の別の専門家も映し出されていた。
「通常、この種の製剤改良には数年単位の研究開発期間が必要です。それが一夜にして、しかも独立した複数の企業から同時に発表されるというのは、業界の常識では説明がつきません」
司会者が神妙に頷きながら、話を締めくくった。
「引き続き、この謎めいた同時多発的な技術革新について、続報が入り次第お伝えします」
神妙な顔をした専門家が「創薬技術の飛躍的進歩」だと真顔でコメントしていたが、俺には正直どうでもいい話だった。
「へえ。世の中、いろいろ大変だなあ」
「お兄ちゃんは何にも興味ないもんね。……でもまあ、治ってよかったじゃん」
葵はそう言って、興味なさそうにスマホの画面に視線を戻した。
俺はソファに寝転がったまま、スマホを開いた。「Z」から今日もスタンプが一つ届いている。
『おはよう』
俺はそれに「おは」とだけ返し、すっかり回復した体でソシャゲを起動した。昨日までの苦しさが嘘のようだった。
これまで市販薬というものに、あまり信頼を置いていなかった自分がいたことに、今更ながら気づかされた。今度からは、もう少し素直に薬の効果を信じてみてもいいのかもしれない。もっとも、その薬がここまで特別な経緯で改良されていたことなど、想像すらできるはずもなかったが。
窓の外では、世界中の製薬カルテルが一夜にして一箱の市販薬のために全力を尽くしていたこと――ある男が一箱の風邪薬への確信を胸に、傘下の製薬ラインを叩き起こして回っていたことなど、俺は知る由もなかった。空になった薬の箱だけが、ゴミ箱の中で静かに役目を終えていた。




