第6話:「いつか珈琲一杯」
カーテンの隙間から覗く空が、ほんの微かに明るくなってきた。
リュシクはベッドから上半身を起こして、隙間に手を差し込み窓を開け放つ。
冷えた空気が部屋の中に流れ込んでくる。寝不足でぼんやりとしていた思考が少しはっきりする。
テウルギア高等魔法学院の女子学生寮。通例の一人部屋での生活、六畳一間の居心地にリュシクは漸く馴染み始めてきた。
備え付けの木製家具は古いが大事に手入れされている。深緑とクリーム色の落ち着いたストライプ模様をした壁も彼女好みだった。
それほど多くはないがきちんと片づけている私物は、本や文房具、服と日用品。あとは師匠からの大切な贈り物達。
__今、師匠はどんな夜明けを迎えているのだろう。
漏れ出た吐息は、微かに白かった。
リュシクは十年の記憶を思い返す。夢見が悪く眠れない夜は、今までも時々あった。
寝返りを打ち続けるのにも飽きて、ベッドからそっと抜け出して、師匠と住んでいる塔のすぐ傍にある湖へ向かうのだ。
湖畔に蹲って水面をぼんやりと眺めていれば、心が凪いでいく。夏は湖に素足を浸したり、冬は分厚く覆われた氷をほんの少し撫でたり。__一人で氷の上を歩くことは、師匠からきつく止められていた。
明るくなった空を背後に塔へと戻れば、必ず師匠が起き出しており、温かい飲み物を用意していてくれる__。
リュシクは思考を巡らす。
サフィール・オデロを師匠であると、彼女は直感で確信した。
きっと、師匠はいまだ私が気づいていないと思っている。
あまり、弟子を舐めないでほしい。弟子は師匠が例えどんな姿であろうとも、師匠だって判るものだ。
白鳥か蛙に変身しても、荒野へ落ちた砂粒に変身していても、絶対にリュシクはアトキアを見つける。
そんなことも分かっていない師匠が、同級生の少年としてぬけぬけと近くで過ごしているのだ。
昨日のお茶会のように、少しぐらい意地悪を言ってやりたくなるというもの。
思うところは山ほどにある。すぐさま詰め寄って、あれこれと理由を聞きたい。だが、それでも、リュシクは慎重に行動していた。
万が一にもサフィールが師匠でなかったら、彼女としてもとても恥ずかしい思いをすることになるからだ。
徹底的に根拠を積み上げて確信を揺るぎないものにする。そのうえで師匠を言い逃れの出来ない場所へ追い詰める。
ともかくも、長期戦で挑もうと彼女は決める。
学院生活も、どんどん本番になっていく。日常として慣れていかないといけないこと。たくさん学んでいかなければいけないこと。
その中でこれから、サフィールを含めて四人で"クラン"として研究活動もしていく。
他にも、女子生徒達と遊ぶ約束だって取り付けている。
今は授業のペースに慣れないといけないから予習復習で自由時間がつぶれていたが、来週くらいの休日には女子生徒で集まってテウルギアの商店街を散策しようと、ジェミットの提案で約束したのだ。女の子グループで集団行動。どこへ行って何を食べるか、すでに皆で計画が着々と練られている。考えるだけですごく、わくわくする。
壁に寄り掛かってぼんやりと物思いに沈んでいたが、リュシクは顔を上げる。ベッドから降りると衣装棚を探って私服へ着替えた。
まだ一日の始まりには早い、空が薄紫色に染まっている時間帯。けれど、二度寝する気にもなれない。
開け放った窓から流れてくる冷えた空気に誘われるよう、彼女は部屋から抜け出していった。
自治魔法都市テウルギアの中心部を少し離れると、急勾配の坂が連なる閑静な住宅街に続いていた。
色とりどりに塗られた三角屋根と漆喰壁の家が密集している。高所のベランダに佇む一匹の猫が、早朝の毛繕いに勤しんでいる。
古い街並みに染み付いた生活の匂いは、リュシクにとっては新鮮で心地よいものに感じられる。人々が家の中で穏やかに眠っている、その間の細い坂路地を彼女は通り抜けていく。
大海を船で渡ってテウルギアへやってきた初日。
お上りさん気分で買っておいた観光地図を頼りにして、リュシクは坂の上にある展望台広場へ辿りついた。
素焼き煉瓦の石畳が円状に敷き詰められている。周辺は綺麗に掃き清められていて、地元住民がずっとこの広場を大切に管理しているのが分かった。
広場の真ん中に、石碑が立っていた。観光地図にも名称と説明が書かれている。
邪龍戦争戦没者慰霊碑。
リュシクの身長より二倍は高さがある。長方形の黒御影石で造られた碑は、薄っすらと明けていく空を映し出していた。
大昔に建てられた慰霊碑だが、風雨で劣化しないよう強固な防護魔法を掛けられており現在も機能している。
そろりと近づけば、足元に小さく刻まれてある碑文に気づいた。
「……天上の眠りののち、平和な未来で巡りあうことを祈る」
まるで、後から付け足したかのような刻まれ方であった。
世界的に信仰されているイド教の教義には、善き魂は死後に天上の楽園でしばし眠って記憶を浄化したのち、真っさらな魂として新たな肉体に宿って人生を繰り返すという概念がある。
碑文はその教義を元に刻まれたのだろう。
しばしの間、リュシクは跪いて祈りを捧げた。
一面に広がる空は薄紫と曙の色が交じりあって溶け合っていき、雲間から一条の陽光が差し込んでいた。
テウルギアの新しい朝が始まろうとしていた。
「わぁ……っ。水平線が見える」
展望台広場の欄干に身を乗り出すほど寄り掛かって、象牙の群塔に囲まれたテウルギアの都市風景を眺める。よく目を凝らせば遠い水平線に浮かぶ船がいくつも見つかった。
西は急峻な山脈地帯、東は大海に挟まれた扇状地で自治魔法都テウルギアは繁栄していた。
師匠と暮らしていた辺境の大森林とは、何もかもが違う風景。
都市の歴史が途方もなく積み重なった風景の中に溶け込んで暮らすのだと。さらなる実感を覚えて、彼女は顔を綻ばせる。
「そんなに身を乗り出してると、手が滑ったら真っ逆さまに落ちるぞぉ?」
「っ!?」
ばっ、と慌てて振り返る。
一人の青年が、のそのそと歩いて近づいてきていた。
彼はリュシクからやや離れた距離で並び、欄干にもたれ掛かった。
ぼさぼさの癖毛と草臥れた風体、なんだか疲れ切った様子で背が曲がっている。
そばかすを散らした鼻元に掛けられた丸眼鏡。朝日が目に染みるのか、ひどく細められた目元には濃い隈があった。
リュシクは正面へ顔を戻しながらも横目で窺っていた。
外見的に徹夜明けの大学院生なのかな、と感想を抱く。私もそのうち勉強や研究に追われて、連日徹夜でぼろぼろの姿になっていくのかもしれない。
彼女は欄干から一歩離れて、背筋をしゃっきりさせた。身がぼろぼろになるのは、なるべく遠い未来であってほしかった。
リュシクと同じように都市風景へ視線を向けつつ、青年はおもむろに煙草を取り出して火をつけた。
「君は見たところ、学院の新入生だろ?
この先に美味いパン屋があってもうすぐに開店時間だ、覚えておけな」
眠そうな表情でぷかぷかと紫煙を吐く姿に、見ず知らずの異性へ対する警戒心がそがれる。
「パン屋さんの、おすすめってありますか?」
「ハムとタマネギのバゲットサンド。
安いのにでかくてな、それひとつで腹一杯になれる」
味を思い浮かべているのか、にっと笑った表情が意外なほどに人懐っこく柔らかい。
「ありがとうございます。今日にでも、買って帰ります」
「いいね。
あ、僕はケチな性分なんで君の分を奢るつもりはない。そして、散歩の寄り道に居合わせただけの君にナンパしてるわけじゃない。落胆でも安心でもどっちでもしてくれ」
「私は安心しますよ。
むしろ、私がさっきの注意と素敵な情報のお礼をしたほうがいいんでしょうか」
「ははっ、別に礼なんていらない。
……でも、そうだなぁ。
珈琲一杯で、テウルギアであらゆる安くて美味い飯屋や女の子向けおすすめスイーツの情報を洗いざらい喋れるな」
「すごく欲しい情報です。それ、同級生に横流しするだけで一目置かれちゃいますよ」
リュシクは胸の内に、ほんの小さな戸惑いを抱いた。
年上の青年に対して、彼女は人見知りすることなく気楽に話せている。
お互いにぼんやりとした眠気眼で散歩する者同士だから。疲れが滲む猫背姿に下心を感じさせる様子はないから。青年の程よい距離感を理由に出来るが、それだけではない気もする。ただなんとなくも、悪い気分ではなかった。
律儀に用意している携帯灰皿へ吸い終わった煙草を押し付けていた青年が、「そうだ」と声を上げた。
「地元住民として、重ねて注意しておく。
あのな、この時期は学院の新入生がテウルギアを呑気にあちこち歩き回るが、人の少ない時間帯はちゃんと気をつけなさい。
テウルギアの治安は自慢になるほど良いとは思う。しかし、どこの国だって治安が良い場所とそうでない場所はあるんだ。もちろん、時間帯でも変化する。
女の子一人歩きなら、なおさら用心に越したことはない。
君は可愛い顔をしている、さすがの僕も声を掛けてしまう」
「はい、これからはちゃんと気をつけます」
青年の横顔を見つめて、リュシクは真面目に頷いた。
「魔法が使えるから大丈夫なんて考えるなよ。どこにだって狡猾な奴はい、る……っ!?」
唐突に、青年は言葉を詰まらせた。身を硬くして微動だにせず。しかし尋常ではないほど険しい視線で、テウルギアの都市風景を探っていた。
あまりの豹変ぶりに、リュシクが困惑したような表情で見守っていたが、すぐに青年は肩の力を抜いた。
「まさか、な……」と独りごちている。
そこへ、被せるように青年の懐から音が鳴った。
慌てた様子で取り出したのは小型の魔法道具。素早く操作して、青年はそれを耳に当てた。
「どうした、報告書は徹夜で仕上げたんだぞ。会議までは……、なに? ……侵入されたのか!?」
青年が剣呑な表情で不穏な言葉をまくし立てている。
彼を慮って、リュシクは耳をそばだてることはしないでおく。徹夜明けの大学院生と勝手に思っていたが、勤めのある人なのかもしれない。
ただ気になったのは、彼が耳元に押し当てている魔法道具。念話魔法を補助する道具なのだろうか。道具を操作していた様子を盗み見る限り、もしかしたら超遠距離間の念話を可能にする魔法道具なのかもしれない。もちろん、憶測の域を出なかった。
それほど時間を掛けずに青年は魔法器を懐に戻した。
彼は、苦虫を嚙み潰したような顔をしていたが、はたと表情を緩めてリュシクを見た。
「いつか珈琲一杯」
「は、はい!」
手を軽く振って、青年はふわりと浮き上がった。欄干をとんと蹴って、もうすっかり青に染まりきった晴れ空へと上昇していく。
ごく滑らかな、慣れた様子で浮遊魔法を行使して広場から離れていく。途中で隠蔽魔法も重ね掛けたのか、ふっと上空で姿が搔き消えた。
__自治魔法都市テウルギアでは、許可の無い浮遊魔法は罰金刑と教わっている。
リュシクは晴れ空に消えた背中を、とりあえずは見なかったことにした。
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