第2話:「…………師匠、では?」
晴天。
初秋の風は少し肌寒く、しかしまだ穏やかで心地が良かった。
遠く離れた辺境の大森林との環境の差に、リュシクはしばし思いを馳せる。
あちらは寒さが深まっていくばかりの時期。
師匠はちゃんと暖かくして寝ているだろうか。放っておいたら寝食が疎かになるから。あぁ、ちゃんと生活してくださいねって約束すれば良かった。いや、今夜にでも手紙を書こう。
__そう決心してから、リュシクは眼前を見上げた。
あぁ、とうとう辿り着いた。
声にならない感嘆の吐息。
リュシクは入学試験に合格した。
無事、憧れの地を踏みしめたのだった。
高等魔法学院テウルギア。
学院の名が始まりにあり、都市の名となった。
そびえる象牙の群塔に囲まれた自治魔法都市の、始まりにして中心部。
千年間もの時うずたかく積み上げられた歴史。大小様々な伝説と迷信と物語が染みついた地。
古シェム語で"叡智の迷宮"と綴られた荘厳な学院の門が、新たな学生達を歓迎していた。
周りに悟られない程度に、ほんの少しだけ足早に。
学院へ、リュシクは背筋を正して足を進ませた。
身に着けたおろしたての制服とローブ。衣擦れの感触が、なんだかくすぐったい。
大丈夫、興奮して紅潮した頬をしているのはきっと私だけじゃない。新入生全員のはずだから。ひっそりと、自らの浮き足立つ心を励ました。
めでたくも、新たな学生となった十五歳の少年少女達は、崩壊した大講堂跡地に集められていた。
学院の歴史上、九度の破壊行為に晒された大講堂。
もはや復元する必要なし、と過去の学院長より定められては、今日まで風雨に野ざらしとなったままであった。
__これを学びとするか経費削減と捉えるかは、学生ではなく歴史家に任せるところらしい。
とにかく、入学式である。
跡地の草原に集まった学生一同、教師、関係者。
式の進行を見守りながら、リュシクの緊張は高まっていく。
そして、今更に気づいてしまった。
左右前後ろに立つ、同じ制服を着た少年少女。
こんな風に、同年齢の子らと一緒に並んだ経験など。彼女の人生ではなかった。
これから、彼らとともに学ぶのだ。上手く、関わっていけるのだろうか。
芽吹いた不安は思いのほか強く、リュシクの顔から血の気が引いていった。
十年もの間、師匠と二人っきりだけの生活。
師匠以外の、他人との会話なんて滅多なことで、本当に乏しかった。
何故か両隣に立つ人達が気になってくる。不安は止まることなく膨らんでいった。
自覚すれば。
勉強よりも人間関係のほうが、遙かな高みにある難問のように感じられてきた。
あぁ、師匠。こんな時に師匠がいれば、励まして貰えるのに。……師匠が、人間関係において適切な励ましが出来る人なのだろうか。聞いたことがないけれど、なんとなく出来ない気がする。うーん。師匠、師匠って友達とかいるのかな。多分、いなさそうだな。話聞いたことないし、それらしき気配もなかったし。
師匠のことを考えていると、なんだか不安が少し落ち着いてきた。
難問であっても、努力して学習すれば解けるのだ。解けるはず、なのだ。人見知りなど、根性で矯正できる。
下を向いて、組んだ指先をもじもじさせて。
リュシクは不安を必死でねじ伏せていた。
「これより新入生を代表しての挨拶。
今年度首席、サフィール・オデロ。壇上へ」
式の進行役である教師が高く声を上げる。
その声に現実へと引き戻されたリュシクは、ハッとして顔を上げた。
崩壊した大講堂でも壇上は残存している。
石造りの階段を悠然と登る一人の生徒が、彼女の目に映る。
肩より上で切り揃えられた髪が、歩みとともに軽やかに揺れていた。
大講堂に集まった人々の視線の収束点として、誰も彼もが壇上に立った少年を見つめた。
髪と瞳の濡羽色に縁取られた美しい容貌。若木の如きしなやかな手足。
誰も彼もが見惚れて息を吞むほど、冴え冴えとした美しさを湛えた少年であった。
「偉大なる叡智の歴史。
大河たるテウルギアに投げ込まれた我ら小石。
ひとつひとつは、取るに足らない小ささ」
リュシクと同じ十五歳の少年らしい、瑞々しく透き通った声音。
「しかし、無数に集積すれば流れを変えるに足る。
大河の流れを良き方向へと導く、一にして全を支える石へ成らんとする決意。
ここに学院の新たなる一員の代表として誓います」
壇上の少年が礼をとる。
簡素と言っても良い挨拶であった。
厳かな空気が漂う。しんと、静まりかえった大講堂の中。
__風が、ひとつ吹き抜けた。
大講堂の人々は目を細める。初秋の風は思いのほか強く、大講堂を吹き抜けていった。
人々の視線から外れた、ほんの瞬き。
濡羽色の少年は、珊瑚色の髪の少女を見つけて。
微かに微笑んだ。
リュシクは、風に髪を弄られたまま、目を逸らしていなかった。
唖然とした表情で、少年を見つめていた。
「…………師匠、では?」
渇いて擦れた声は、両隣の者にすら聞き取らせないほど小さかった。
「師匠じゃないですか?」
わなわなと繰り返される問いかけは、弟子の強固な理性を以て、最小限に封じられて周囲に悟られることなく。
弟子の直感は、壇上の少年が十年ともに暮らした師匠であると、ただただ違えようなく告げていた。




