第1話:「俺の最初で最後の弟子」
ネオファイ公国、辺境の大森林。
人を寄せ付けないはずの場所に、人の住処があった。
しんしんと降り積もる雪で白く染まった塔。
音と時さえ雪でかき消えた静かすぎる外界と違って、塔の中では午後の暖かく穏やかな時間が流れていた。
一階の居間。本棚にはあらゆる書物が隙間なく並んでいる。窓辺には束になって吊された薬草。毛皮が敷かれたソファ。テーブルの上には香り高い紅茶と焼きたてのケーキ。暖炉ではゆるやかにぱちぱちと、熾火がちいさく爆ぜている。
微睡むような暖かく心地良い空気を共有するのは、男と少女。
たったの二人きりであった。
少女、リュシクは纏めていた珊瑚色の髪を解く。手製のケーキの出来映えに満足したのか、髪より濃い紅色の瞳が柔らかく細められる。刺繍入りエプロンを外してソファに座る。
リュシクは膝の上に手を揃えて、意を決する。
何気ない調子を装って口を開く。
「師匠。私、来月で十五歳になります」
向かいのソファで本を読んでいた男は、ぱたりと頁を閉じた。
視線を持ち上げて、リュシクを見る。
年の頃は二十代半ばほどにしか見えないが、その眼差しは年齢を超越した輝きを湛えていた。
二人の間に紅茶の湯気が緩やかに立ち上がっている。
「うん、もちろん覚えている」
リュシクの師匠。
魔導師アトキア・ダーウィド・ティオンヴィットセルは穏やかに微笑む。
「あ、誕生日プレゼントの心配をしないでくれ。
今年もリュシーのために、とっておきの物を用意してあるから」
「お祝いの心配なんてしてませんってば」
リュシクは苦笑いを零す。
「いえ、師匠のとっておきは心配になります。
普通のささやかな贈り物で十分なんですよ?」
「俺から君への贈り物が、普通でささやかなんてつまらないじゃないか」
「そう言って半人前の私には勿体ない品物を毎年贈られるんですから」
無邪気に小首を傾げるアトキアにリュシクは溜息が漏れた。
「それで?」
アトキアは正面からリュシクを見つめた。
艶やかに長い黒髪は無造作に流され、玲瓏たる美貌を縁取っている。
金銀星を散りばめた満天の夜空と見紛う瞳。
リュシクと出会った頃から一切変わらぬ。
畏怖すら覚える美しさを湛えた男。
しかし、いつだってリュシクを見つめる表情は柔らかさを保っていた。
弟子の言葉を待つ師匠の眼差し。リュシクは背筋を正して見つめ返した。
「私、十五歳になります。
自らを優秀であると傲慢になるつもりはありませんが、優秀な師匠のおかげでなんとか成長できております。
先日、魔法理論体系の指導も一区切りがついたとおっしゃってましたね」
「俺の弟子は、間違いなく優秀だよ。
君と同じ年頃で魔法理論体系を完全理解出来る奴は、なかなかにいない」
「ならば、なので、ですねっ」
言葉を重ねるほど、リュシクの鼓動がどくどくと高鳴る。
緊張と興奮で紅潮した頬が熱い。
弟子は師匠のほうへ勢いよく身を乗り出した。
「私、テウルギア高等魔法学院の受験に挑戦しても良いですか!?」
「……は?」
アトキアの美貌から表情がふっと消え失せた。
__テウルギア高等魔法学院。
二人が住まうネオファイ公国から、大海を挟んだリスト大陸。
大陸東部地域、自治魔法都市テウルギア。そこにかの高等魔法学院があった。
学院は千年以上の歴史を持ち、多数の高名な魔導師を輩出してきた。
魔法の素養を持つ子供。誰もが一度は、学院に入ることを夢見るだろう。
もちろん、リュシクも幼い頃より学院の門を潜る夢を見た。
三年間の学院生活。
学院の卒業者は、例外なく一級魔法士の免許を得られる。
成績優秀者は大学院へ進み、専門分野の研究も出来るのだ。
さらには、テウルギアで功績を挙げれば魔道師の称号を得られる。
リュシクは魔導師アトキア・ダーウィド・ティオンヴィットセルの弟子なのだ。
偉大なる魔導師の師匠を持つ弟子ならば、ゆくゆくは魔導師の称号を手にせねば。
その夢と決意に燃え輝く瞳のリュシクと対照的に。
アトキアの眼差しは、昏く堕ちていた。
「……リュシーは、俺という優秀で偉大な師匠を持ちながら。
浮気がしたいってこと?」
彼から零れ落ちた言葉は、情けないほどに狼狽え震えていた。
「う、浮気っ!?」
リュシクは愕然とした。
何言ってるんですか、この師匠は。
「語弊がありますよ!
私は、見識を広めたいという気持ちと憧れの気持ち。
純粋な学びに対する欲求で学院に受験したいのです!」
「それが浮気だよ」
消え失せた表情が戻ったと思えば、悲しげに美貌を歪めるばかり。
迫り来る喪失感に喘ぐようにアトキアは頭を振った。
「リュシー、俺に対する裏切りだ。
俺じゃ満足出来ないってことだろ?
しかも、ここから学院までどれだけ離れてる。
あそこは全寮制だ。向こうに行ったら滅多なことで帰る機会なんて出来ない。
つまりは、俺を棄てるんだ!」
「なんでそうなるんですかっ!?」
リュシクは思わずといった調子で、テーブルに両手を強く置いた。
師匠が、かつてなくおかしくなってしまった。
師匠と出会って、師事して十年間。
生活や修行に不足を感じたことなどない。
むしろ、不足というならば。
偉大な師匠を持っていながら、弟子があまりにも平凡ではないか。自らの至らなさだ。
師匠は焦らなくても良いと私の歩みに合わせてくれるが、時々それがもどかしくて仕方なく思える__。
「だ、だいたいですね。
学院に行きたいって夢は、私が貴方の弟子になった頃に話しましたよね?
私も師匠と同じように魔導師の称号が欲しいと。
その時は、うんうん素敵な夢だね頑張るんだよ。
って、応援してくださってましたよっ」
ハッとして、思い出した過去の記憶を持ち出した。
「十年も前の話じゃないか。
昔と今は違うよ。
話半分で聞いてたつもりはないけど、当時と今じゃ事情が違う」
アトキアは視線を逸らす。窓の外を物憂げに見遣った。
雪で白く染まった外界は、ただただ物寂しい情景であった。
彼の眼差しへ、リュシクは問いかける。
「なんの事情ですか」
「お互いの関係性の事情」
むすっと子供っぽく返すアトキア。
弟子は、師匠が珍しく拗ねてるぞと思った。
師匠、拗ねたらすっごく面倒くさいんだなぁ。そう、拗ねるかもとは少し思っていたが。ここまでおかしくなるほど拗ねるとは、予想外かも。
「十年前も今も、師匠と弟子という関係です」
「…………はぁ」
師匠が深く長い溜息を吐いた。
まるで頑是ない子にどう諭そうか悩む親のような表情。に、近いようで全く遠い感情を含ませた、やるせなさを内包しているような表情。
いつからか。
時々、アトキアはリュシクに対してこんな表情をする。
何かを隠しているのは判るけど、踏み込んでいいのか躊躇われる。
「…………師匠?」
「あのさ、リュシー。
受験に合格して、学院で学んで、それからは?
自らどこに向かい、何に成る。
君は、自らの道が見えている?」
そう言ってアトキアは、「あぁ、せっかく作ってくれたリュシーのケーキが冷めそうだ」とテーブルの皿を取った。
素朴なケーキ、今日は蜜漬け杏を刻んで練り込んでいる__、を整った所作で切り分けて口に運んだ。
まるで、ちゃんと答えられなければこの話はおしまい、というような雰囲気であった。
彼は言外に告げている。
所詮、魔導師の称号を得る程度など、何かに成ったとは言えない。
「み、見えてません」
取り繕うつもりはないのでリュシーは正直に告げた。
「見えていないから、学院で学びたいのです」
自治魔法都市テウルギア 。
強大なフィロソラス帝国に、今だ飲み込まれることなく自治を勝ち取ったままでいる。古代より連綿と歴史を重ねる都市国家。
彼の地にそびえる象牙の群塔、大海より伸びた無数の水路、石英の円柱劇場、世界最大最古の図書館。邪龍戦争終結の地。それらは詩になって世界に広がるほどの魅力を人々に刻みつけてきた。
世界各地より才能ある魔法使い達が集って、魔法の極みを探究する場所。
「一度は学院で、自らを磨きたい。
今はまだ見えないものを、かの地で学びたい。
……学院は定められた年齢でしか受験が出来ません。
だから、今これからのチャンスを逃したくない」
リュシクの熱を込めた瞳が、ふいに揺れる。
後ろに下がってソファにすとんと座り直す。
両手を祈るように握りしめて。
懇願するように、リュシクはアトキアの口元を見つめた。
あぁ、杏の欠片が口の端についている。取ってあげたいなぁ。
「そして、それから。
やっぱり、師匠の元に戻ってきたい。
師匠からは私の一生を持って学びたいと思っています。
どこに行って、何に成っても、師匠の元で学び続けたい。
それが自らの道だと言いたいです」
自信を持って力強く言いたかった。
しかし、段々と声は囁くように小さくなる。
切実な思いが募って、握りしめた両手とか細い声を震わせた。
「……私は、師匠一筋ですー」
浮気じゃないです、リュシクは俯いてぽつりと漏らした。
なので、アトキアの変化を見逃していた。
ただ、彼女の耳は、何か身悶えしているような衣擦れの音を拾った。
様子を見るように顔を上げる。
「はーーーーーっ」
アトキアは頬を真朱く染めながらソファでよろめいていた。
「……リュシクは情熱的だね」
師匠は漸く言葉を絞り出した。
「学びの情熱なら一人前です!」
弟子は拳を握って返す。
アトキアはにっこりと微笑んだ。
玲瓏たる美貌におよそそぐわない喜色満面の笑みであった。
「うん、うん。
情熱で瞳を輝かせるリュシーは本当に素敵だ」
「はいっ、ありがとうございます」
良かった、拗ねてた師匠の機嫌が戻ってくれた。むしろご機嫌という感じである。ちゃんと私の思いを受け取って貰えたのだという安堵が胸中に広がる。
リュシクをほっと一息ついて、渇いた喉を潤すために紅茶を一口飲んだ。
「リュシー。
……学院で、気が済むまで学んだら。
ちゃんと、絶対に、俺の元へ帰ってくるんだね?」
アトキアの言葉に、リュシクは二言もなく頷いた。
「もちろんです」
「約束だ。
違えた時は、世界が滅ぶと思ってくれ」
ソファの上で足を組んで、腕を組み、少し首を傾げて。
瞳の中、金銀星の煌めきを眩いほど輝かせて。
アトキアは、リュシクを真っすぐに見つめていた。
「壮大な約束ですね」
彼女はちょっと眉根を下げて彼を見つめ返した。
時々飛び出るアトキアの壮大無比な言動は、今に始まったことではない。
少しの困惑とともにリュシクは受け止める。
「なんだかすごく重いですが、誓います。
私は、アトキア師匠の元へ必ず帰ってきます」
元より、リュシク自らが願ったことなので、約束でも誓いでも望むところではある。
「もう一個、約束していい?」
「何をですか?」
「んー、いや、もう少し時が経ったら言うよ」
アトキアは真剣な表情を崩して、照れくさそうに頬を掻いてごまかした。
リュシクも気になるが、そう言われれば深く追求が出来なかった。
「んもー、分かりました。
なんでも約束しますから、ゆびきりしときましょう」
ゆびきりは、リュシクの故郷に伝わる古いまじない。
師匠は、昔から弟子とゆびきりをするのを殊更喜んだ。
今も。リュシクがご機嫌取りを重ねるつもりで小指を差し出せば、アトキアは顔を輝かせて小指を絡めてくる。
「はは……っ、ゆびきり、嘘ついたら世界がほーろぶっ」
冷たい美貌が熱に蕩けるような微笑みで、アトキアは嬉しそうに歌った。
「はい、ゆーびきったっ」
リュシクはそんな笑顔が可愛くて、いつまでも他愛なくおまじないを繰り返していた。
「で、は。師匠の許可を得たことですし。
入学試験、頑張ります!」
リュシクはもくっもくとケーキを頬張った。
燃える意欲ともに飲み込む。
決まれば、暢気にしている場合ではない。
テウルギア高等魔法学院は、世界中の魔法の素養がある子供のうち、十五歳になる年の春にだけ受験を認められる。
春の試験、夏の合否、秋の入学。
合格ラインも、少数の定員も決まっている。
勉学は元より怠ったつもりはない。
この偉大な師匠の弟子が、学院に受からないなどという怠慢は許されない。
全身全霊で挑まねばならない。
「んー、こうなったら応援するしかないか。
しかし、あのテウルギアねぇ。
今は、誰が牛耳っているんだろうなぁ」
淹れ直した熱い紅茶にふぅふぅと息を吹きかけながら、アトキアは半眼で呟いた。
「自治魔法都市テウルギアの現総帥は、レイ・モンモール閣下です。
裏方に徹されていらっしゃいましたが、望まれ続けて漸く総帥の地位に就かれたと。
……五十年前の話ですよ?」
普段は辺境の大森林で引きこもっている二人。
だが、定期的にアトキアが街へと買い出しに連れて行ってくれていた。
その時々にリュシクは世界情勢をきちんと調べて把握していた。
自治魔法都市テウルギアの現総帥はレイ・モンモール。
三百年間の邪龍戦争を終結させた英雄の一人。"神授七冠"の大魔導師。
生ける伝説の存在である。
「あ、あぁ~~~~っレイ、レイかぁ~~~~~~~~~っ。
……あいつ、漸く観念したのかぁ」
アトキアが背中を仰け反らせて唸った。身を揺すらせて、唸りに唸っていた。
「師匠、海老のように反ってると背中が折れます。紅茶が零れる、ソファが倒れます」
眉根を寄せた弟子の指摘に、師匠はぐりんと前倒しに戻り、その勢いのまま身を乗り出した。
師匠の手から離れたティーカップ。紅茶の滴すら飛び散らず、音もなくテーブルに降りた。
ふわりと広がる、アトキアの黒髪。
長い、彼の膝下まで伸びる艶かな黒髪。
身を寄せられれば、天幕のようにリュシクを包み込む。
「リュシー。
俺の最初で最後の弟子」
アトキアが告げる。
「はい」
私は、師匠の、最初で最後の弟子。
それはずっと前から聞かされてきた言葉。
我が身、何よりの誇りになる言葉。
「君の成長は何よりも俺の喜び。
俺は君という蛹の羽化を待ち望む止まり木。
いつまでもいつまでも、君の煌めきを見つめる男だ」
本当に綺麗な人だな、とリュシクは頭の片隅でぼんやり思った。
「はい」
「それを一瞬たりとも忘れないでおくれ」
アトキアはリュシクの手を恭しく取る。
指先が、彼の口元に引き寄せられても。
彼女は気にせず、ただただ彼の真摯な表情を見つめ返し続けた。
「はい、分かりました」
アトキアの金銀星に煌めく瞳を、じっと見つめ返して頷いた。
少し過保護な師匠だけど、最後は必ず弟子を応援してくれる。
そんな師匠を持って、リュシクは幸せだった。




