第3章 第52話 「帰って話す」
故郷を離れたあとの道は、行きよりも歩きやすかった。
村までの距離が縮んだわけでも、森の地形が変わったわけでもない。古道には相変わらず木の根が張り出し、昨夜までの湿気を残した泥が靴底へまとわりついている。
それでも、一度歩いた場所には覚えがあった。
この先には崩れた石畳がある。
あの曲がり角を越えれば、共同井戸のある村はもう見えなくなる。
さらに進めば、名前を削り取られた道標へ出る。
知らない場所へ近付いていた時とは違い、今は一つずつ景色を後ろへ送っていけばいい。
「帰りって早く感じるよな」
レイラが言った。
「まだ全然帰ってないよ」
イリスが返す。
「気分の話だよ」
「昨日まで採石場にいたのに」
「でも道知ってるだろ」
レイラは少し先を歩くアルドの背中を指した。
「あいつが迷わなければ」
「俺頼み?」
振り返らずにアルドが聞く。
「違うのか?」
「地図もある」
「地図が間違ってたら?」
「その時は止まる」
「最近みんなすぐ止まるな」
「止まらない方が危ないから」
レイラは納得したような、していないような顔で歩き続ける。
ヴェスパーはそのやり取りを聞きながら、腰の袋へ一度だけ手を触れた。
二つの石。
村から一つ。
採石場から一つ。
そしてガルムの荷物には、錆びた鍋の取っ手が入っている。
それだけ見れば、ずいぶん変な旅土産だった。
だが、地下から記録や設備を根こそぎ持ち帰るより、今のヴェスパーにはそちらの方がしっくりきていた。
◇
昼を少し過ぎた頃、六人は名前を削られた道標へ戻った。
行きにここへ立った時は、石から失われた村名ばかりが気になった。
今も削り跡は残っている。
誰が、いつ、何のために消したのかは分からないままだ。
けれどヴェスパーは、前ほど長く立ち止まらなかった。
「見なくていいの?」
イリスが尋ねる。
「見てるよ」
ヴェスパーは道標の右側へ視線を向けた。
草に埋もれた古道。
その先に村がある。
家はなくても、井戸がある。
広場がある。
畑跡がある。
自分が子どもの頃に豆菓子を食べ、屋台から落ち、青い羽の虫を追っていたらしい場所がある。
「行きは、ここから先に何があるのか分からなかった」
「今は?」
「分かるものが増えた」
「全部じゃなく?」
「ああ」
ヴェスパーは少し笑う。
「でも、右へ行けば村がある。それはもう分かる」
イリスは記録を取らなかった。
ただ一度頷いた。
アルドが左の道を確認する。
「宿場へ行くならこっち」
「知ってる」
レイラが答える。
「昨日までなら右行けって言われても行けるぞ」
「一人では行かないで」
「行かないよ」
セレスがレイラを見る。
「本当に?」
「何で私だけ信用低いんだ」
「三割だからじゃない?」
ヴェスパーが言うと、レイラが睨んだ。
「まだ覚えてたのかよ!」
笑いながら、六人は左へ進んだ。
ヴェスパーは最後に一度だけ道標を振り返った。
削られた面は、そのままだ。
名前がなくても。
もう、道の先まで消えたようには見えなかった。
◇
その夜は、行きにも泊まった宿場を使った。
主人は六人を見るなり、少し驚いた顔をした。
「戻ってきたのか」
「見れば分かるだろ」
ガルムが答える。
「もっと長くいるかと思ってたんだよ」
「何で」
「昔の村を見に行くって言ってただろ」
ヴェスパーが少しだけ眉を上げる。
「言ったっけ?」
「細かい場所は聞いてねえよ。旧道の先って話だ」
主人は人数を数え、全員揃っていることを確認した。
「で、あったのか?」
ヴェスパーは少し考えた。
「村?」
「ああ」
「あった」
「家も?」
「それはなかった」
主人は一瞬、何と返せばいいのか迷ったようだった。
それから、余計な慰めを挟まずに言った。
「そうか」
「でも村はあったよ」
自分でも、少し不思議な言い方だと思う。
けれど今は、それが一番近かった。
主人も詳しくは聞かなかった。
「飯にするか?」
「肉ある?」
レイラが即座に反応する。
「あるぞ」
「どれくらい?」
「お前、前もそれ聞かなかったか?」
「重要だから」
「普通の量だ」
「普通か……」
落胆するところではないはずなのに、レイラは少し残念そうだった。
◇
夕食のあと、ヴェスパーは宿の外へ出た。
明日は灰都まで戻れる。
長くても夕方。
街道の状態が良ければ、もう少し早いかもしれない。
星空を見ながら、ヴェスパーは誰から話すべきかを考えていた。
ハルトには報告が必要だ。
イリスは記録を持ち帰る。
アルドも道の状態を伝えるだろう。
名前のない青年には、採石場の石を渡すつもりだ。
ノアにも。
門の少年にも。
話したいことはある。
けれど。
「リク」
小さく口にする。
最初に話す。
そう約束した。
「覚えてたか」
背後からガルムの声がした。
「何が」
「約束」
「聞いてたんだ」
「食堂でしてたろ」
ガルムが隣へ立つ。
「何から話す?」
「分からない」
「いっぱいありすぎるか」
「ああ」
地下。
持ち出された炉。
第三荷場。
南路。
それを全部並べれば、長い報告になる。
「でも」
ヴェスパーは少し考える。
「最初は村の話にする」
「研究所じゃなく?」
「リクが聞きたいのは黒翼のことかもしれないけど」
「ならそっちからでもいいだろ」
「約束した時、見たものを話すって言ったから」
ガルムは何も言わない。
「俺が最初に見たのは、家がない村だった」
「そうだな」
「それから、井戸とか広場とか」
「虫の話も?」
「それはいらない」
「豆菓子は?」
「それも――」
一度止まる。
「……それは話してもいいか」
ガルムが笑った。
「好きにしろ」
◇
翌朝。
六人は宿場を出た。
行きにも渡った木橋。
レイラは今回、自分から斧をヴェスパーへ差し出した。
「持って」
「素直だな」
「橋壊したら帰れないだろ」
「学んでる」
「成長って言うなよ」
「言ってない」
アルドが先に橋を渡る。
そのあとセレス、イリス、ガルム。
ヴェスパーはレイラの斧を抱えながら後ろで待った。
「やっぱ重いんだけど」
「軽いって」
「絶対感覚おかしい」
「鍛えろ」
「剣と斧は違うだろ」
無事に対岸へ渡ったレイラが斧を受け取る。
「灰都着いたら稽古する?」
「帰った日に?」
「嫌?」
「休む」
「最近みんな休むな」
「お前も休め」
「私は元気」
「そう言うと思った」
行きと同じ会話をしながら、先へ進む。
その日の昼には第二監視所へ着いた。
◇
「本当に戻ってきた」
監視所の門衛は六人を見るなり言った。
「帰ってこないと思ってた?」
ヴェスパーが尋ねる。
「そういう意味じゃないです」
「じゃあ何」
「ハルトさんから『帰還日未定』って来てたんで」
「それと?」
「未定って、本当にいつ戻るか分からないんだなって」
ガルムが横から口を挟む。
「当たり前だろ」
「分かってますよ」
門衛は笑いながら帳面を開いた。
「全員?」
「六人」
「怪我は?」
セレスが答える。
「大きなものはありません」
「なら良かった」
帰還確認。
六つ。
出発した人数と同じ。
ヴェスパーは、その確認を黙って見ていた。
以前なら。
誰か一人欠ける可能性を、当然のように考えていた。
今回は。
六人で出て。
六人で帰る。
「何」
レイラが覗き込む。
「いや」
「変な顔してるぞ」
「どんな」
「腹減ってる顔」
「お前基準で見るなよ」
◇
灰都の城壁が見えたのは、午後だった。
最初に見えたのは西側の見張り塔。
次に灰色の城壁。
街道を行き交う荷車が増え、人の声も少しずつ戻ってくる。
ヴェスパーの歩調が、自然に少し速くなった。
「走るなよ」
ガルムが言う。
「走ってない」
「速くなった」
「気のせい」
「帰りたいんだろ」
「悪い?」
「別に」
レイラが二人の前へ出る。
「私は早く肉食いたい」
「知ってる」
「宿、肉あるかな」
「それしか考えてないの?」
「風呂も」
「二つになった」
城門へ近付く。
門衛の姿。
出入りする商人。
荷を運ぶ人。
そして。
「来た!」
高い声が聞こえた。
ノアだった。
◇
西門の内側から、兎耳の少年が走ってくる。
「ノア!」
ヴェスパーが思わず声を上げた。
ノアは途中で速度を落とした。以前ならそのまま飛び付いていたかもしれないが、今日は息を整えながら六人を順番に見る。
「全員いる」
「ああ」
「怪我は?」
「ない」
「本当に?」
視線がセレスへ向く。
「大きな怪我はありません」
「じゃあ本当」
「俺の信用は?」
「あるよ」
「今の流れで?」
ノアが笑った。
その後ろから。
門の少年が歩いてくる。
以前は城壁の外側にばかりいた少年。
今日は普通に内側から来た。
「帰ってきたな」
「ああ」
ヴェスパーも答える。
「今日は中?」
「朝から」
「泊まった?」
少年は少しだけ鼻の頭を掻く。
「昨日は」
「中で?」
「雨降ったから」
「そっか」
「でも妹のことは忘れてない」
誰に言い訳するでもなく、少年は付け足した。
ヴェスパーは頷く。
「分かってる」
それで話は終わった。
門のそばではハルトが腕を組んで待っていた。
「帰還届」
「最初それ?」
「出る時言ったろ」
「本当に書かせるんだ」
「仕事だからな」
ハルトは六人を一度見回した。
それから。
少しだけ。
口元を緩める。
「おかえり」
ヴェスパーは一瞬だけ黙った。
「ああ」
そして。
「ただいま」
普通に答えた。
◇
帰還届は、本当に書かされた。
「ヴェスパー。ガルム。レイラ。イリス。セレス。アルド」
ハルトが一人ずつ確認する。
「全員自力歩行」
「レイラは泥に一回はまった」
アルドが言った。
「それ書くの?」
レイラが慌てる。
「事故には入れない」
「なら言うなよ!」
ハルトが笑いながら記録を閉じた。
「持ち帰った危険物は?」
今度はイリスが答える。
「古い紙記録。金属片数点。ただし研究組織由来の可能性があるので、保管前に確認したい」
「星脈反応は?」
「現地では使ってない。灰都でも最初は普通の方法で調べる」
「分かった。保管場所はあとで決める」
ハルトの顔が仕事のものへ戻る。
「それ以外は?」
ヴェスパーが腰の袋を軽く叩いた。
「石」
「何で」
「土産」
ハルトが聞くのをやめた。
「……それは好きにしろ」
「ガルムは鍋の――」
「おい」
ガルムの声が低くなる。
ヴェスパーは笑って口を閉じた。
◇
門での手続きを終えたあと。
レイラは真っ先に宿へ向かおうとした。
「風呂!」
「荷物置くのが先」
アルドが止める。
「置いてから風呂!」
「それなら」
「そのあと肉!」
「好きにして」
イリスは記録を持ってハルトと打ち合わせるため残った。
アルドも道の報告をする。
セレスはノアへ簡単に留守中の体調を確認していた。
ガルムはどこかへ行こうとしている。
「どこ行く?」
ヴェスパーが聞く。
「宿」
「本当に?」
「何で疑う」
「鍋の取っ手隠しに行くのかと」
「殴るぞ」
「帰って早々やめろよ」
その会話を聞いたノアが首を傾げる。
「鍋?」
「あとで話す」
「話すな」
ガルムが本気で嫌そうな顔をした。
ヴェスパーは笑いながら。
宿へ向かった。
◇
約束を忘れてはいない。
宿の扉を開けると、主人が驚いた顔をした。
「帰ってきたか!」
「ああ」
「部屋そのままだぞ」
「ありがとう。リクは?」
主人はすぐに答えた。
「上。昼前に菓子屋から戻って、今は休んでる」
「仕事行ってた?」
「今日も紙折ってたらしい」
「体調は?」
「無理はしてねえよ。アステルと、こっちの治療師も見てた」
セレスが不在の間、灰都の治療師にも引き継いでいた。
ヴェスパーは荷物を入口脇へ置く。
「先に上行ってくる」
「飯は?」
「あとで」
「レイラに全部食われるぞ」
「それは困る」
階段を上がる。
廊下。
リクが使っている部屋。
二度。
叩く。
「誰?」
「俺」
少し。
間。
足音。
扉が開く。
◇
リクは出発前より、ほんの少し顔色が良くなっていた。
まだ痩せている。
長時間歩くのは難しいだろう。
それでも、自分で扉まで来ている。
「ヴェスパー」
「ああ」
リクは。
最初に。
ヴェスパーの顔。
肩。
腕。
足。
一通り見た。
「怪我」
「してない」
「本当?」
「セレスにも聞いていいよ」
「じゃあ本当」
「ノアも同じこと言ってた」
リクの口元が少しだけ緩む。
「帰ってきた」
「ああ」
「約束」
「覚えてる」
ヴェスパーは廊下に立ったままではなく、部屋へ入っていいか尋ねた。
「入って」
小さな机。
椅子。
寝台。
机の端には、折った包み紙が数枚置かれている。
「仕事?」
「練習」
「給料出た?」
リクが。
少し。
得意そうな顔をした。
「二枚」
「銅貨?」
「うん」
「すごいじゃん」
「一枚目、店主に取られそうになった」
「何で」
「給料袋ないから、なくすって」
「渡してくれた?」
「最後は」
ヴェスパーが笑う。
旅の話をしに来たはずなのに。
先に。
留守中の話を聞いている。
それが。
思ったより。
良かった。
「村」
リクの方から言った。
ヴェスパーは頷く。
「あったよ」
「燃えてた?」
「今は燃えてない」
「そうじゃなくて」
「分かってる」
ヴェスパーは椅子へ腰を下ろした。
「家はなかった。全部壊れてた」
リクが黙って聞く。
「でも井戸があった。広場もあった。畑の跡も。俺が住んでた家の場所も分かった」
「覚えてた?」
「ほとんど覚えてなかった」
「何も?」
「何もってほどじゃない。でも、見ても急に全部思い出すみたいなことはなかった」
リクは少し考える。
「嫌だった?」
「最初は」
ヴェスパーは正直に答えた。
「何か戻ると思ってたから」
「今は?」
「ガルムに色々聞いた」
祭り。
豆菓子。
虫。
焦げた鍋。
リクの表情が少しずつ変わる。
「ヴェスパー、虫好きだったの?」
「そこ一番食いつく?」
「何の虫」
「青い羽のやつ。ガルムは名前知らないって」
「捕まえた?」
「らしい」
「今も好き?」
「知らない」
「見たら分かる?」
「どうだろうな」
リクは笑った。
ヴェスパーも笑う。
それから。
研究施設の話をした。
地下に星脈炉があったこと。
だが炉は壊れたのではなく、火災のあと誰かに外されたらしいこと。
村の外へ続く搬出路。
第三荷場。
南へ続く地図にない道。
全部を細部まで話したわけではない。
今確認出来たこと。
まだ分からないこと。
そこを分けた。
「黒翼?」
リクが聞く。
「今の黒翼より前の組織」
「先生たちが使った研究?」
「繋がってる可能性は高い。でも、どこまで同じなのかはまだ分からない」
リクは膝の上で手を組んだ。
「俺が行ってたら」
ヴェスパーは待つ。
「何か分かったかな」
「分かったかもしれない」
「やっぱり」
「でも」
リクが顔を上げる。
「行かなくてよかったと思う」
今度はヴェスパーが少し驚いた。
「どうして」
「今の体じゃ、途中で動けなくなってた」
「うん」
「その時は分かってたけど、嫌だった」
「今は?」
「まだ嫌」
リクは少しだけ笑う。
「でも、ここで待ってたのも嫌じゃなかった」
机。
包み紙。
二枚の銅貨。
「仕事したから?」
「それも」
少し考え。
「戻ってきたから」
ヴェスパーは。
答えなかった。
リクが続ける。
「本当に戻ってきた」
「ああ」
「なら次も」
そこで言葉を止めた。
「次も?」
「……帰ってくるって思えるかもしれない」
ヴェスパーは少し笑った。
「そう思ってもらえるようにはする」
「絶対?」
「そこまで簡単には言えない」
「何で」
「何があるか分からないから」
リクは少し不満そうだった。
それでも。
最後には頷いた。
「でも帰るつもり?」
「ああ」
「ならいい」
それで約束は果たせた気がした。
◇
部屋を出ようとした時。
リクが呼び止めた。
「ヴェスパー」
「何?」
「おかえり」
ヴェスパーは扉の前で振り返った。
「ああ」
少しだけ。
笑う。
「ただいま」
◇
階下へ降りると、セレスが戻ってきていた。
「先にリクへ?」
「約束してたから」
「どうでした?」
「元気そうだった」
「医学的な話ではなく?」
「そこは自分で見て」
「もちろんです」
セレスはすぐに階段へ向かう。
ノアは食堂の椅子へ座り、木の狼を机に置いていた。
「僕の話は?」
「何が聞きたい?」
「村」
「あとでゆっくり」
「声あった?」
ヴェスパーは少しだけ考えた。
「なかった」
「お母さんの?」
「ああ」
「黒い星も?」
「見なかった」
「そっか」
ノアは。
残念そうでも。
安心したようでもあった。
「何も聞こえなくて嫌だった?」
ヴェスパーは首を振った。
「むしろ良かったかも」
「何で?」
「村の話を聞けたから」
「普通の?」
「ああ」
「あとで僕にも」
「話す」
ノアは満足したように頷いた。
耳について聞くと、あれから無理な聞き分けはしていないらしい。窓の白線も、青年自身が見たい時にだけ確認しているという。
「変わった?」
「僕は聞いてない」
「見ても?」
「ない」
ヴェスパーはそれ以上尋ねなかった。
本人に聞けばいい。
◇
夕方になる前に。
ヴェスパーは菓子屋へ向かった。
扉を開ける。
「いらっしゃい」
声がした。
名前のない青年。
以前より。
ずっと自然に。
客へ向ける声。
こちらを見て。
少しだけ止まった。
「帰ってきた」
「ああ」
「今日?」
「さっき」
「怪我は?」
「何でみんな最初それ聞くんだ」
「駄目?」
「駄目じゃない」
青年はカウンターの中から出てこなかった。
仕事中だからだろう。
それも。
以前なら違ったかもしれない。
「店主は?」
「仕入れ」
「一人?」
「奥にもう一人いる」
「仕事慣れた?」
「前より」
青年は。
少しだけ。
嬉しそうだった。
「待って」
「何?」
「これ終わらせる」
包み紙。
一つ。
最後の折り目を付ける。
棚へ置く。
「いいよ」
「何が」
「話」
ヴェスパーは笑った。
「成長したな」
青年が少し嫌そうな顔をする。
「それ、みんな言う?」
「最近禁止されてる」
「じゃあ言うな」
「ごめん」
◇
「土産」
ヴェスパーは袋から石を取り出した。
青年が手を見る。
「石?」
「ああ」
「何で」
「採石場で拾った」
「採石場」
「村から秘密の道が続いてた場所」
青年は。
石を受け取る前に。
尋ねた。
「持っていい?」
「お前に持ってきたんだよ」
そこでようやく受け取る。
両手で。
見る。
「普通の石」
「言うと思った」
「特別?」
「石自体は多分普通」
「じゃあ何で」
ヴェスパーは少し考える。
「俺が見てきた場所の石だから」
青年が。
もう一度。
石を見る。
「村のは?」
「それは俺が持ってる」
「違う?」
「少し赤い」
「見たい」
「今度な」
青年は。
石を。
すぐ棚へ置かなかった。
「俺の?」
「ああ」
「店のじゃなく?」
「お前の」
「じゃあ部屋に置く」
「好きにして」
「窓の近くは?」
一瞬。
白線。
思い出す。
青年自身も同じだったらしい。
「やめとく」
「何で」
「何か起きたら石のせいか線のせいか分からなくなる」
「……イリスみたいになってない?」
「嫌?」
「本人に言うなよ」
「分かった」
青年は笑った。
◇
「村、どうだった?」
尋ねられる。
ヴェスパーは、リクへ話した時と同じようには答えなかった。
相手が違えば。
話したいところも変わる。
「家はなかった」
「壊れてた?」
「ああ。でも、俺が住んでた場所は分かった」
「覚えた?」
「新しく?」
青年が頷く。
「うん」
ヴェスパーは少し考える。
「前のことはほとんど思い出さなかった。でも、今回見た村は覚えてる」
「前の記憶なくても?」
「ああ」
青年は。
石を。
指で。
少しだけ回した。
「じゃあ増えた?」
「何が」
「ヴェスパーの記憶」
その言い方が。
妙に。
青年らしかった。
「そうだな」
ヴェスパーは笑う。
「増えた」
「いい?」
「何が」
「増えるの」
「いいと思う」
「俺も増えてる」
「店?」
「店。部屋。本」
少し。
間を置く。
「窓も」
嫌なものだけれど。
それも。
今の青年が経験した時間。
「でも窓だけじゃない」
青年自身が付け足した。
ヴェスパーは頷く。
「そうだな」
◇
白線については、イリスが戻るまで詳しく比較しなかったらしい。
「開けた?」
「何回か」
「増えた?」
「分からない」
「分からない?」
「前の形、全部覚えてないから」
以前なら。
それを不安に感じて。
何度も確認していたかもしれない。
「記録見れば分かる」
青年が言う。
「でも今日じゃなくていい」
「気にならない?」
「気になる」
「じゃあ」
「今、ヴェスパー帰ってきたから」
青年は。
石を見る。
「今日は村の話聞く」
ヴェスパーは。
少しだけ。
驚いた。
「全部?」
「全部は長い?」
「かなり」
「仕事終わってから」
「今じゃないの?」
「仕事ある」
以前。
何度も聞いた答え。
けれど今は。
それが。
妙に嬉しかった。
「じゃあ夜」
「うん」
◇
店主が戻ってきたところで、ヴェスパーは一度宿へ戻った。
扉を開けた瞬間。
肉の匂いがした。
「来た!」
レイラの声。
「何が」
「肉!」
「俺じゃなくて?」
「お前も」
「ついでみたいに言うなよ」
宿の主人が厨房から大皿を持ってくる。
「仕入れがあったからな」
いつもの煮込み。
ただし。
今日は。
肉が少し多い。
レイラの顔が。
本当に明るくなる。
「帰ってきてよかった……」
「理由それ?」
イリスが呆れる。
アルドはすでに席へ座っている。
セレス。
ノア。
アステル。
リクも。
今日は食堂へ下りてきていた。
セリカは少し遅れて入ってくる。
ハルトまで。
仕事の途中で。
顔を出した。
「何だこれ」
ヴェスパーが見回す。
「飯」
レイラが答える。
「それは分かる」
「帰還祝いだって」
ノアが言う。
宿の主人が厨房から怒鳴る。
「勝手に大げさにすんな! 人数多いから鍋増やしただけだ!」
「祝いじゃない?」
「肉ちょっと増やした!」
「祝いじゃん」
「レイラは黙って食え!」
笑い声。
ヴェスパーは。
空いている席へ。
腰を下ろした。
◇
食事の途中。
ハルトが尋ねた。
「で、次はどうする」
「帰ってきた日に聞く?」
「前も聞いた」
「そうだった」
「南に道が続いてるんだろ」
イリスから。
概要はもう聞いているらしい。
ヴェスパーは匙を置かなかった。
「続いてる」
「すぐ戻る?」
「今は行かない」
ハルトが少し意外そうな顔をする。
「いつ」
「まだ決めない」
「珍しいな」
「またそれ?」
「何が」
「成長したみたいな言い方」
「してねえよ」
「本当?」
「役所として予定聞いてるだけだ」
「なら」
ヴェスパーは。
少し考える。
「しばらく灰都にいる」
「どれくらい」
「それもまだ」
「……まあいい」
ハルトは諦める。
「部屋と食料の予定だけ、数日以内に教えてくれ」
「分かった」
その横。
リクが少しだけ。
安心した顔をした。
ヴェスパーは。
気付いたけれど。
何も言わなかった。
◇
食後。
ノアが村の話を聞きたがった。
レイラが途中で何度も横から口を挟む。
「ヴェスパー、屋台から落ちたんだって」
「そこ先に言う?」
「面白いだろ」
「五歳くらいだぞ」
「泣いた?」
ノアが聞く。
「ガルム曰く」
「泣いた」
本人が即答する。
「言うなよ!」
「膝擦りむいてな」
「そこまで説明しなくていい!」
リクも笑う。
アステルも。
ほんの少し。
口元を緩めている。
「虫も」
リクが言った。
「もう話したの!?」
「青い羽」
「ヴェスパー、虫好きだったの?」
ノアの目が輝く。
「知らないって!」
「今度探す?」
「何でそうなるんだ」
食堂が。
にぎやかになる。
地下施設。
炉。
灰星。
研究組織。
その報告も。
明日以降。
きちんとする。
でも今夜は。
村にいた。
一人の子どもの話。
少しだけ。
そちらを。
話してもいい。
◇
夜遅く。
ヴェスパーは約束通り菓子屋へ戻った。
閉店後。
店主が片付けをしている。
青年は。
採石場の石を。
もう二階の部屋へ置いたらしい。
「どこ?」
「本の横」
「窓じゃない?」
「違う」
「そっか」
「話」
「ああ」
二人。
店先の長椅子へ座る。
青年が。
言う。
「行ってらっしゃいって言った」
「覚えてる」
「ヴェスパー、行ってくるって言った」
「ああ」
青年は。
しばらく。
考えた。
「じゃあ」
ヴェスパーを見る。
「おかえり」
本日。
何度目か。
同じ言葉。
でも。
嫌ではなかった。
西門で。
ハルトから。
宿で。
リクから。
そして。
今。
菓子屋で。
帰る場所は。
一つでなくても。
いいのかもしれない。
そう考えたけれど。
口にはしなかった。
「ただいま」
それだけ答える。
「村の話、最初から」
「長いぞ」
「明日仕事あるから途中まで」
「全部聞かないの?」
「続きは明日」
青年は。
当たり前のように。
そう言った。
ヴェスパーは。
少し笑う。
「じゃあ、最初は」
遠い。
故郷。
家のない村。
まだ名前を呼べない場所。
そこへ。
自分の足で。
戻った日の話を。
今度は。
待っていた人へ。
話し始めた。




