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灰の星  作者: ウルフルマル


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第3章 第52話 「帰って話す」


 故郷を離れたあとの道は、行きよりも歩きやすかった。


 村までの距離が縮んだわけでも、森の地形が変わったわけでもない。古道には相変わらず木の根が張り出し、昨夜までの湿気を残した泥が靴底へまとわりついている。


 それでも、一度歩いた場所には覚えがあった。


 この先には崩れた石畳がある。


 あの曲がり角を越えれば、共同井戸のある村はもう見えなくなる。


 さらに進めば、名前を削り取られた道標へ出る。


 知らない場所へ近付いていた時とは違い、今は一つずつ景色を後ろへ送っていけばいい。


「帰りって早く感じるよな」


 レイラが言った。


「まだ全然帰ってないよ」


 イリスが返す。


「気分の話だよ」


「昨日まで採石場にいたのに」


「でも道知ってるだろ」


 レイラは少し先を歩くアルドの背中を指した。


「あいつが迷わなければ」


「俺頼み?」


 振り返らずにアルドが聞く。


「違うのか?」


「地図もある」


「地図が間違ってたら?」


「その時は止まる」


「最近みんなすぐ止まるな」


「止まらない方が危ないから」


 レイラは納得したような、していないような顔で歩き続ける。


 ヴェスパーはそのやり取りを聞きながら、腰の袋へ一度だけ手を触れた。


 二つの石。


 村から一つ。


 採石場から一つ。


 そしてガルムの荷物には、錆びた鍋の取っ手が入っている。


 それだけ見れば、ずいぶん変な旅土産だった。


 だが、地下から記録や設備を根こそぎ持ち帰るより、今のヴェスパーにはそちらの方がしっくりきていた。


     ◇


 昼を少し過ぎた頃、六人は名前を削られた道標へ戻った。


 行きにここへ立った時は、石から失われた村名ばかりが気になった。


 今も削り跡は残っている。


 誰が、いつ、何のために消したのかは分からないままだ。


 けれどヴェスパーは、前ほど長く立ち止まらなかった。


「見なくていいの?」


 イリスが尋ねる。


「見てるよ」


 ヴェスパーは道標の右側へ視線を向けた。


 草に埋もれた古道。


 その先に村がある。


 家はなくても、井戸がある。


 広場がある。


 畑跡がある。


 自分が子どもの頃に豆菓子を食べ、屋台から落ち、青い羽の虫を追っていたらしい場所がある。


「行きは、ここから先に何があるのか分からなかった」


「今は?」


「分かるものが増えた」


「全部じゃなく?」


「ああ」


 ヴェスパーは少し笑う。


「でも、右へ行けば村がある。それはもう分かる」


 イリスは記録を取らなかった。


 ただ一度頷いた。


 アルドが左の道を確認する。


「宿場へ行くならこっち」


「知ってる」


 レイラが答える。


「昨日までなら右行けって言われても行けるぞ」


「一人では行かないで」


「行かないよ」


 セレスがレイラを見る。


「本当に?」


「何で私だけ信用低いんだ」


「三割だからじゃない?」


 ヴェスパーが言うと、レイラが睨んだ。


「まだ覚えてたのかよ!」


 笑いながら、六人は左へ進んだ。


 ヴェスパーは最後に一度だけ道標を振り返った。


 削られた面は、そのままだ。


 名前がなくても。


 もう、道の先まで消えたようには見えなかった。


     ◇


 その夜は、行きにも泊まった宿場を使った。


 主人は六人を見るなり、少し驚いた顔をした。


「戻ってきたのか」


「見れば分かるだろ」


 ガルムが答える。


「もっと長くいるかと思ってたんだよ」


「何で」


「昔の村を見に行くって言ってただろ」


 ヴェスパーが少しだけ眉を上げる。


「言ったっけ?」


「細かい場所は聞いてねえよ。旧道の先って話だ」


 主人は人数を数え、全員揃っていることを確認した。


「で、あったのか?」


 ヴェスパーは少し考えた。


「村?」


「ああ」


「あった」


「家も?」


「それはなかった」


 主人は一瞬、何と返せばいいのか迷ったようだった。


 それから、余計な慰めを挟まずに言った。


「そうか」


「でも村はあったよ」


 自分でも、少し不思議な言い方だと思う。


 けれど今は、それが一番近かった。


 主人も詳しくは聞かなかった。


「飯にするか?」


「肉ある?」


 レイラが即座に反応する。


「あるぞ」


「どれくらい?」


「お前、前もそれ聞かなかったか?」


「重要だから」


「普通の量だ」


「普通か……」


 落胆するところではないはずなのに、レイラは少し残念そうだった。


     ◇


 夕食のあと、ヴェスパーは宿の外へ出た。


 明日は灰都まで戻れる。


 長くても夕方。


 街道の状態が良ければ、もう少し早いかもしれない。


 星空を見ながら、ヴェスパーは誰から話すべきかを考えていた。


 ハルトには報告が必要だ。


 イリスは記録を持ち帰る。


 アルドも道の状態を伝えるだろう。


 名前のない青年には、採石場の石を渡すつもりだ。


 ノアにも。


 門の少年にも。


 話したいことはある。


 けれど。


「リク」


 小さく口にする。


 最初に話す。


 そう約束した。


「覚えてたか」


 背後からガルムの声がした。


「何が」


「約束」


「聞いてたんだ」


「食堂でしてたろ」


 ガルムが隣へ立つ。


「何から話す?」


「分からない」


「いっぱいありすぎるか」


「ああ」


 地下。


 持ち出された炉。


 第三荷場。


 南路。


 それを全部並べれば、長い報告になる。


「でも」


 ヴェスパーは少し考える。


「最初は村の話にする」


「研究所じゃなく?」


「リクが聞きたいのは黒翼のことかもしれないけど」


「ならそっちからでもいいだろ」


「約束した時、見たものを話すって言ったから」


 ガルムは何も言わない。


「俺が最初に見たのは、家がない村だった」


「そうだな」


「それから、井戸とか広場とか」


「虫の話も?」


「それはいらない」


「豆菓子は?」


「それも――」


 一度止まる。


「……それは話してもいいか」


 ガルムが笑った。


「好きにしろ」


     ◇


 翌朝。


 六人は宿場を出た。


 行きにも渡った木橋。


 レイラは今回、自分から斧をヴェスパーへ差し出した。


「持って」


「素直だな」


「橋壊したら帰れないだろ」


「学んでる」


「成長って言うなよ」


「言ってない」


 アルドが先に橋を渡る。


 そのあとセレス、イリス、ガルム。


 ヴェスパーはレイラの斧を抱えながら後ろで待った。


「やっぱ重いんだけど」


「軽いって」


「絶対感覚おかしい」


「鍛えろ」


「剣と斧は違うだろ」


 無事に対岸へ渡ったレイラが斧を受け取る。


「灰都着いたら稽古する?」


「帰った日に?」


「嫌?」


「休む」


「最近みんな休むな」


「お前も休め」


「私は元気」


「そう言うと思った」


 行きと同じ会話をしながら、先へ進む。


 その日の昼には第二監視所へ着いた。


     ◇


「本当に戻ってきた」


 監視所の門衛は六人を見るなり言った。


「帰ってこないと思ってた?」


 ヴェスパーが尋ねる。


「そういう意味じゃないです」


「じゃあ何」


「ハルトさんから『帰還日未定』って来てたんで」


「それと?」


「未定って、本当にいつ戻るか分からないんだなって」


 ガルムが横から口を挟む。


「当たり前だろ」


「分かってますよ」


 門衛は笑いながら帳面を開いた。


「全員?」


「六人」


「怪我は?」


 セレスが答える。


「大きなものはありません」


「なら良かった」


 帰還確認。


 六つ。


 出発した人数と同じ。


 ヴェスパーは、その確認を黙って見ていた。


 以前なら。


 誰か一人欠ける可能性を、当然のように考えていた。


 今回は。


 六人で出て。


 六人で帰る。


「何」


 レイラが覗き込む。


「いや」


「変な顔してるぞ」


「どんな」


「腹減ってる顔」


「お前基準で見るなよ」


     ◇


 灰都の城壁が見えたのは、午後だった。


 最初に見えたのは西側の見張り塔。


 次に灰色の城壁。


 街道を行き交う荷車が増え、人の声も少しずつ戻ってくる。


 ヴェスパーの歩調が、自然に少し速くなった。


「走るなよ」


 ガルムが言う。


「走ってない」


「速くなった」


「気のせい」


「帰りたいんだろ」


「悪い?」


「別に」


 レイラが二人の前へ出る。


「私は早く肉食いたい」


「知ってる」


「宿、肉あるかな」


「それしか考えてないの?」


「風呂も」


「二つになった」


 城門へ近付く。


 門衛の姿。


 出入りする商人。


 荷を運ぶ人。


 そして。


「来た!」


 高い声が聞こえた。


 ノアだった。


     ◇


 西門の内側から、兎耳の少年が走ってくる。


「ノア!」


 ヴェスパーが思わず声を上げた。


 ノアは途中で速度を落とした。以前ならそのまま飛び付いていたかもしれないが、今日は息を整えながら六人を順番に見る。


「全員いる」


「ああ」


「怪我は?」


「ない」


「本当に?」


 視線がセレスへ向く。


「大きな怪我はありません」


「じゃあ本当」


「俺の信用は?」


「あるよ」


「今の流れで?」


 ノアが笑った。


 その後ろから。


 門の少年が歩いてくる。


 以前は城壁の外側にばかりいた少年。


 今日は普通に内側から来た。


「帰ってきたな」


「ああ」


 ヴェスパーも答える。


「今日は中?」


「朝から」


「泊まった?」


 少年は少しだけ鼻の頭を掻く。


「昨日は」


「中で?」


「雨降ったから」


「そっか」


「でも妹のことは忘れてない」


 誰に言い訳するでもなく、少年は付け足した。


 ヴェスパーは頷く。


「分かってる」


 それで話は終わった。


 門のそばではハルトが腕を組んで待っていた。


「帰還届」


「最初それ?」


「出る時言ったろ」


「本当に書かせるんだ」


「仕事だからな」


 ハルトは六人を一度見回した。


 それから。


 少しだけ。


 口元を緩める。


「おかえり」


 ヴェスパーは一瞬だけ黙った。


「ああ」


 そして。


「ただいま」


 普通に答えた。


     ◇


 帰還届は、本当に書かされた。


「ヴェスパー。ガルム。レイラ。イリス。セレス。アルド」


 ハルトが一人ずつ確認する。


「全員自力歩行」


「レイラは泥に一回はまった」


 アルドが言った。


「それ書くの?」


 レイラが慌てる。


「事故には入れない」


「なら言うなよ!」


 ハルトが笑いながら記録を閉じた。


「持ち帰った危険物は?」


 今度はイリスが答える。


「古い紙記録。金属片数点。ただし研究組織由来の可能性があるので、保管前に確認したい」


「星脈反応は?」


「現地では使ってない。灰都でも最初は普通の方法で調べる」


「分かった。保管場所はあとで決める」


 ハルトの顔が仕事のものへ戻る。


「それ以外は?」


 ヴェスパーが腰の袋を軽く叩いた。


「石」


「何で」


「土産」


 ハルトが聞くのをやめた。


「……それは好きにしろ」


「ガルムは鍋の――」


「おい」


 ガルムの声が低くなる。


 ヴェスパーは笑って口を閉じた。


     ◇


 門での手続きを終えたあと。


 レイラは真っ先に宿へ向かおうとした。


「風呂!」


「荷物置くのが先」


 アルドが止める。


「置いてから風呂!」


「それなら」


「そのあと肉!」


「好きにして」


 イリスは記録を持ってハルトと打ち合わせるため残った。


 アルドも道の報告をする。


 セレスはノアへ簡単に留守中の体調を確認していた。


 ガルムはどこかへ行こうとしている。


「どこ行く?」


 ヴェスパーが聞く。


「宿」


「本当に?」


「何で疑う」


「鍋の取っ手隠しに行くのかと」


「殴るぞ」


「帰って早々やめろよ」


 その会話を聞いたノアが首を傾げる。


「鍋?」


「あとで話す」


「話すな」


 ガルムが本気で嫌そうな顔をした。


 ヴェスパーは笑いながら。


 宿へ向かった。


     ◇


 約束を忘れてはいない。


 宿の扉を開けると、主人が驚いた顔をした。


「帰ってきたか!」


「ああ」


「部屋そのままだぞ」


「ありがとう。リクは?」


 主人はすぐに答えた。


「上。昼前に菓子屋から戻って、今は休んでる」


「仕事行ってた?」


「今日も紙折ってたらしい」


「体調は?」


「無理はしてねえよ。アステルと、こっちの治療師も見てた」


 セレスが不在の間、灰都の治療師にも引き継いでいた。


 ヴェスパーは荷物を入口脇へ置く。


「先に上行ってくる」


「飯は?」


「あとで」


「レイラに全部食われるぞ」


「それは困る」


 階段を上がる。


 廊下。


 リクが使っている部屋。


 二度。


 叩く。


「誰?」


「俺」


 少し。


 間。


 足音。


 扉が開く。


     ◇


 リクは出発前より、ほんの少し顔色が良くなっていた。


 まだ痩せている。


 長時間歩くのは難しいだろう。


 それでも、自分で扉まで来ている。


「ヴェスパー」


「ああ」


 リクは。


 最初に。


 ヴェスパーの顔。


 肩。


 腕。


 足。


 一通り見た。


「怪我」


「してない」


「本当?」


「セレスにも聞いていいよ」


「じゃあ本当」


「ノアも同じこと言ってた」


 リクの口元が少しだけ緩む。


「帰ってきた」


「ああ」


「約束」


「覚えてる」


 ヴェスパーは廊下に立ったままではなく、部屋へ入っていいか尋ねた。


「入って」


 小さな机。


 椅子。


 寝台。


 机の端には、折った包み紙が数枚置かれている。


「仕事?」


「練習」


「給料出た?」


 リクが。


 少し。


 得意そうな顔をした。


「二枚」


「銅貨?」


「うん」


「すごいじゃん」


「一枚目、店主に取られそうになった」


「何で」


「給料袋ないから、なくすって」


「渡してくれた?」


「最後は」


 ヴェスパーが笑う。


 旅の話をしに来たはずなのに。


 先に。


 留守中の話を聞いている。


 それが。


 思ったより。


 良かった。


「村」


 リクの方から言った。


 ヴェスパーは頷く。


「あったよ」


「燃えてた?」


「今は燃えてない」


「そうじゃなくて」


「分かってる」


 ヴェスパーは椅子へ腰を下ろした。


「家はなかった。全部壊れてた」


 リクが黙って聞く。


「でも井戸があった。広場もあった。畑の跡も。俺が住んでた家の場所も分かった」


「覚えてた?」


「ほとんど覚えてなかった」


「何も?」


「何もってほどじゃない。でも、見ても急に全部思い出すみたいなことはなかった」


 リクは少し考える。


「嫌だった?」


「最初は」


 ヴェスパーは正直に答えた。


「何か戻ると思ってたから」


「今は?」


「ガルムに色々聞いた」


 祭り。


 豆菓子。


 虫。


 焦げた鍋。


 リクの表情が少しずつ変わる。


「ヴェスパー、虫好きだったの?」


「そこ一番食いつく?」


「何の虫」


「青い羽のやつ。ガルムは名前知らないって」


「捕まえた?」


「らしい」


「今も好き?」


「知らない」


「見たら分かる?」


「どうだろうな」


 リクは笑った。


 ヴェスパーも笑う。


 それから。


 研究施設の話をした。


 地下に星脈炉があったこと。


 だが炉は壊れたのではなく、火災のあと誰かに外されたらしいこと。


 村の外へ続く搬出路。


 第三荷場。


 南へ続く地図にない道。


 全部を細部まで話したわけではない。


 今確認出来たこと。


 まだ分からないこと。


 そこを分けた。


「黒翼?」


 リクが聞く。


「今の黒翼より前の組織」


「先生たちが使った研究?」


「繋がってる可能性は高い。でも、どこまで同じなのかはまだ分からない」


 リクは膝の上で手を組んだ。


「俺が行ってたら」


 ヴェスパーは待つ。


「何か分かったかな」


「分かったかもしれない」


「やっぱり」


「でも」


 リクが顔を上げる。


「行かなくてよかったと思う」


 今度はヴェスパーが少し驚いた。


「どうして」


「今の体じゃ、途中で動けなくなってた」


「うん」


「その時は分かってたけど、嫌だった」


「今は?」


「まだ嫌」


 リクは少しだけ笑う。


「でも、ここで待ってたのも嫌じゃなかった」


 机。


 包み紙。


 二枚の銅貨。


「仕事したから?」


「それも」


 少し考え。


「戻ってきたから」


 ヴェスパーは。


 答えなかった。


 リクが続ける。


「本当に戻ってきた」


「ああ」


「なら次も」


 そこで言葉を止めた。


「次も?」


「……帰ってくるって思えるかもしれない」


 ヴェスパーは少し笑った。


「そう思ってもらえるようにはする」


「絶対?」


「そこまで簡単には言えない」


「何で」


「何があるか分からないから」


 リクは少し不満そうだった。


 それでも。


 最後には頷いた。


「でも帰るつもり?」


「ああ」


「ならいい」


 それで約束は果たせた気がした。


     ◇


 部屋を出ようとした時。


 リクが呼び止めた。


「ヴェスパー」


「何?」


「おかえり」


 ヴェスパーは扉の前で振り返った。


「ああ」


 少しだけ。


 笑う。


「ただいま」


     ◇


 階下へ降りると、セレスが戻ってきていた。


「先にリクへ?」


「約束してたから」


「どうでした?」


「元気そうだった」


「医学的な話ではなく?」


「そこは自分で見て」


「もちろんです」


 セレスはすぐに階段へ向かう。


 ノアは食堂の椅子へ座り、木の狼を机に置いていた。


「僕の話は?」


「何が聞きたい?」


「村」


「あとでゆっくり」


「声あった?」


 ヴェスパーは少しだけ考えた。


「なかった」


「お母さんの?」


「ああ」


「黒い星も?」


「見なかった」


「そっか」


 ノアは。


 残念そうでも。


 安心したようでもあった。


「何も聞こえなくて嫌だった?」


 ヴェスパーは首を振った。


「むしろ良かったかも」


「何で?」


「村の話を聞けたから」


「普通の?」


「ああ」


「あとで僕にも」


「話す」


 ノアは満足したように頷いた。


 耳について聞くと、あれから無理な聞き分けはしていないらしい。窓の白線も、青年自身が見たい時にだけ確認しているという。


「変わった?」


「僕は聞いてない」


「見ても?」


「ない」


 ヴェスパーはそれ以上尋ねなかった。


 本人に聞けばいい。


     ◇


 夕方になる前に。


 ヴェスパーは菓子屋へ向かった。


 扉を開ける。


「いらっしゃい」


 声がした。


 名前のない青年。


 以前より。


 ずっと自然に。


 客へ向ける声。


 こちらを見て。


 少しだけ止まった。


「帰ってきた」


「ああ」


「今日?」


「さっき」


「怪我は?」


「何でみんな最初それ聞くんだ」


「駄目?」


「駄目じゃない」


 青年はカウンターの中から出てこなかった。


 仕事中だからだろう。


 それも。


 以前なら違ったかもしれない。


「店主は?」


「仕入れ」


「一人?」


「奥にもう一人いる」


「仕事慣れた?」


「前より」


 青年は。


 少しだけ。


 嬉しそうだった。


「待って」


「何?」


「これ終わらせる」


 包み紙。


 一つ。


 最後の折り目を付ける。


 棚へ置く。


「いいよ」


「何が」


「話」


 ヴェスパーは笑った。


「成長したな」


 青年が少し嫌そうな顔をする。


「それ、みんな言う?」


「最近禁止されてる」


「じゃあ言うな」


「ごめん」


     ◇


「土産」


 ヴェスパーは袋から石を取り出した。


 青年が手を見る。


「石?」


「ああ」


「何で」


「採石場で拾った」


「採石場」


「村から秘密の道が続いてた場所」


 青年は。


 石を受け取る前に。


 尋ねた。


「持っていい?」


「お前に持ってきたんだよ」


 そこでようやく受け取る。


 両手で。


 見る。


「普通の石」


「言うと思った」


「特別?」


「石自体は多分普通」


「じゃあ何で」


 ヴェスパーは少し考える。


「俺が見てきた場所の石だから」


 青年が。


 もう一度。


 石を見る。


「村のは?」


「それは俺が持ってる」


「違う?」


「少し赤い」


「見たい」


「今度な」


 青年は。


 石を。


 すぐ棚へ置かなかった。


「俺の?」


「ああ」


「店のじゃなく?」


「お前の」


「じゃあ部屋に置く」


「好きにして」


「窓の近くは?」


 一瞬。


 白線。


 思い出す。


 青年自身も同じだったらしい。


「やめとく」


「何で」


「何か起きたら石のせいか線のせいか分からなくなる」


「……イリスみたいになってない?」


「嫌?」


「本人に言うなよ」


「分かった」


 青年は笑った。


     ◇


「村、どうだった?」


 尋ねられる。


 ヴェスパーは、リクへ話した時と同じようには答えなかった。


 相手が違えば。


 話したいところも変わる。


「家はなかった」


「壊れてた?」


「ああ。でも、俺が住んでた場所は分かった」


「覚えた?」


「新しく?」


 青年が頷く。


「うん」


 ヴェスパーは少し考える。


「前のことはほとんど思い出さなかった。でも、今回見た村は覚えてる」


「前の記憶なくても?」


「ああ」


 青年は。


 石を。


 指で。


 少しだけ回した。


「じゃあ増えた?」


「何が」


「ヴェスパーの記憶」


 その言い方が。


 妙に。


 青年らしかった。


「そうだな」


 ヴェスパーは笑う。


「増えた」


「いい?」


「何が」


「増えるの」


「いいと思う」


「俺も増えてる」


「店?」


「店。部屋。本」


 少し。


 間を置く。


「窓も」


 嫌なものだけれど。


 それも。


 今の青年が経験した時間。


「でも窓だけじゃない」


 青年自身が付け足した。


 ヴェスパーは頷く。


「そうだな」


     ◇


 白線については、イリスが戻るまで詳しく比較しなかったらしい。


「開けた?」


「何回か」


「増えた?」


「分からない」


「分からない?」


「前の形、全部覚えてないから」


 以前なら。


 それを不安に感じて。


 何度も確認していたかもしれない。


「記録見れば分かる」


 青年が言う。


「でも今日じゃなくていい」


「気にならない?」


「気になる」


「じゃあ」


「今、ヴェスパー帰ってきたから」


 青年は。


 石を見る。


「今日は村の話聞く」


 ヴェスパーは。


 少しだけ。


 驚いた。


「全部?」


「全部は長い?」


「かなり」


「仕事終わってから」


「今じゃないの?」


「仕事ある」


 以前。


 何度も聞いた答え。


 けれど今は。


 それが。


 妙に嬉しかった。


「じゃあ夜」


「うん」


     ◇


 店主が戻ってきたところで、ヴェスパーは一度宿へ戻った。


 扉を開けた瞬間。


 肉の匂いがした。


「来た!」


 レイラの声。


「何が」


「肉!」


「俺じゃなくて?」


「お前も」


「ついでみたいに言うなよ」


 宿の主人が厨房から大皿を持ってくる。


「仕入れがあったからな」


 いつもの煮込み。


 ただし。


 今日は。


 肉が少し多い。


 レイラの顔が。


 本当に明るくなる。


「帰ってきてよかった……」


「理由それ?」


 イリスが呆れる。


 アルドはすでに席へ座っている。


 セレス。


 ノア。


 アステル。


 リクも。


 今日は食堂へ下りてきていた。


 セリカは少し遅れて入ってくる。


 ハルトまで。


 仕事の途中で。


 顔を出した。


「何だこれ」


 ヴェスパーが見回す。


「飯」


 レイラが答える。


「それは分かる」


「帰還祝いだって」


 ノアが言う。


 宿の主人が厨房から怒鳴る。


「勝手に大げさにすんな! 人数多いから鍋増やしただけだ!」


「祝いじゃない?」


「肉ちょっと増やした!」


「祝いじゃん」


「レイラは黙って食え!」


 笑い声。


 ヴェスパーは。


 空いている席へ。


 腰を下ろした。


     ◇


 食事の途中。


 ハルトが尋ねた。


「で、次はどうする」


「帰ってきた日に聞く?」


「前も聞いた」


「そうだった」


「南に道が続いてるんだろ」


 イリスから。


 概要はもう聞いているらしい。


 ヴェスパーは匙を置かなかった。


「続いてる」


「すぐ戻る?」


「今は行かない」


 ハルトが少し意外そうな顔をする。


「いつ」


「まだ決めない」


「珍しいな」


「またそれ?」


「何が」


「成長したみたいな言い方」


「してねえよ」


「本当?」


「役所として予定聞いてるだけだ」


「なら」


 ヴェスパーは。


 少し考える。


「しばらく灰都にいる」


「どれくらい」


「それもまだ」


「……まあいい」


 ハルトは諦める。


「部屋と食料の予定だけ、数日以内に教えてくれ」


「分かった」


 その横。


 リクが少しだけ。


 安心した顔をした。


 ヴェスパーは。


 気付いたけれど。


 何も言わなかった。


     ◇


 食後。


 ノアが村の話を聞きたがった。


 レイラが途中で何度も横から口を挟む。


「ヴェスパー、屋台から落ちたんだって」


「そこ先に言う?」


「面白いだろ」


「五歳くらいだぞ」


「泣いた?」


 ノアが聞く。


「ガルム曰く」


「泣いた」


 本人が即答する。


「言うなよ!」


「膝擦りむいてな」


「そこまで説明しなくていい!」


 リクも笑う。


 アステルも。


 ほんの少し。


 口元を緩めている。


「虫も」


 リクが言った。


「もう話したの!?」


「青い羽」


「ヴェスパー、虫好きだったの?」


 ノアの目が輝く。


「知らないって!」


「今度探す?」


「何でそうなるんだ」


 食堂が。


 にぎやかになる。


 地下施設。


 炉。


 灰星。


 研究組織。


 その報告も。


 明日以降。


 きちんとする。


 でも今夜は。


 村にいた。


 一人の子どもの話。


 少しだけ。


 そちらを。


 話してもいい。


     ◇


 夜遅く。


 ヴェスパーは約束通り菓子屋へ戻った。


 閉店後。


 店主が片付けをしている。


 青年は。


 採石場の石を。


 もう二階の部屋へ置いたらしい。


「どこ?」


「本の横」


「窓じゃない?」


「違う」


「そっか」


「話」


「ああ」


 二人。


 店先の長椅子へ座る。


 青年が。


 言う。


「行ってらっしゃいって言った」


「覚えてる」


「ヴェスパー、行ってくるって言った」


「ああ」


 青年は。


 しばらく。


 考えた。


「じゃあ」


 ヴェスパーを見る。


「おかえり」


 本日。


 何度目か。


 同じ言葉。


 でも。


 嫌ではなかった。


 西門で。


 ハルトから。


 宿で。


 リクから。


 そして。


 今。


 菓子屋で。


 帰る場所は。


 一つでなくても。


 いいのかもしれない。


 そう考えたけれど。


 口にはしなかった。


「ただいま」


 それだけ答える。


「村の話、最初から」


「長いぞ」


「明日仕事あるから途中まで」


「全部聞かないの?」


「続きは明日」


 青年は。


 当たり前のように。


 そう言った。


 ヴェスパーは。


 少し笑う。


「じゃあ、最初は」


 遠い。


 故郷。


 家のない村。


 まだ名前を呼べない場所。


 そこへ。


 自分の足で。


 戻った日の話を。


 今度は。


 待っていた人へ。


 話し始めた。


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