第3章 第53話 「留守のあいだ」
菓子屋の営業が終わったあとも、ヴェスパーの話はしばらく続いた。
名前のない青年は店先の長椅子に座り、途中で口を挟みながら聞いている。研究組織の地下施設や持ち出された星脈炉よりも、意外なところに興味を示した。
「ヴェスパー、屋台から落ちたの?」
「そこから聞く?」
「祭りの時」
「ああ。らしい」
「覚えてない?」
「全然」
「痛かったのも?」
「それも」
青年は少し考え、それからヴェスパーの膝を見る。
「傷、残ってない?」
「五歳くらいの擦り傷だぞ」
「じゃあ分からない」
「そこまで確かめなくていいよ」
店の中では店主が翌日の仕込みをしていた。粉を量りながら会話を聞いているらしく、ときどき小さく笑っている。
「豆菓子も好きだった」
ヴェスパーが続けると、青年はそちらにも反応した。
「今は?」
「嫌いじゃない」
「同じ?」
「分からないな。昔食べてたものと同じ味かも知らないし」
「でも食べたい?」
「ガルムにあれだけ言われたら、ちょっと食べてみたい」
青年が店内を振り返る。
「作れる?」
「急に俺へ振るな」
店主が手を止めた。
「豆の菓子だろ? 作れなくはねえけど、昔その村で食ってたのと同じもんにはならねえぞ」
「いいんじゃない?」
ヴェスパーは答えた。
「同じか確かめたいわけじゃないから」
「なら今度作る」
「売る?」
青年が尋ねる。
「店なんだから売るよ!」
「ヴェスパーに?」
「お前、知り合いから毎回金取るか気にするな」
「大事」
「仕事覚えすぎだろ……」
店主が呆れたように言った。
ヴェスパーは笑いながら、村で聞いた話を続けた。共同井戸の横に洗い場があったこと。冬になると夕食の煙が谷に溜まったこと。青い羽を持つ虫を捕まえて、母親の寝床へ持ち込んで怒られたらしいこと。
青年は、ときどき「それは覚えてない?」と聞いた。
そのたびにヴェスパーは、覚えていないと答えた。
何度目かで、青年の方が先に言った。
「でも、今回は覚えてる」
「今回?」
「井戸見たこと。家の場所立ったこと。ガルムと歩いたこと」
「ああ」
ヴェスパーは頷いた。
「それは覚えてる」
「前の記憶じゃないけど」
「うん」
「それでもヴェスパーの?」
少し前なら、答えるまで長く迷ったかもしれない。
今はそれほど難しくなかった。
「俺のだと思う」
青年はその答えを聞き、長椅子の背へ少し体を預けた。
「俺も増えた」
「記憶?」
「うん」
青年は指を折るように、一つずつ思い出していく。
「店の箱、前より早く折れる。木の実の仕入れも行った。リクが紙を九枚で止められて怒ってた」
「十枚目やったって聞いた」
「次の日に」
「給料もらったらしいな」
「二枚」
「そこまで知ってる?」
「一緒に数えた」
青年の話し方は、最初に灰都へ来た頃よりずっと自然になっていた。
一つの言葉だけを確かめるように口にすることはまだある。それでも、起きた出来事を順番に話し、自分がどう感じたかまで少しずつ言葉に出来るようになっている。
「門の外にいた子も、最近は中で飯食う日が増えた」
「寝るのは?」
「外の日もある。中の日もある」
「本人が決めてる?」
「ああ。昨日は雨だったから中」
「ノアは?」
「耳、無理に使ってない。俺の窓も聞いてない」
そこで初めて。
窓の話が出た。
ヴェスパーは二階へ視線を向けた。
「白い線は?」
「ある」
「変わった?」
「分からない」
「見てない?」
「何回か見た。でも、前の形を全部覚えてない」
青年は困った様子ではなかった。
「イリス戻ったから、明日記録と比べたい」
「今じゃなく?」
「今は村の話」
「そっち優先?」
「ああ」
少しだけ笑う。
「線は明日でもあると思う」
「消えてたら?」
何気なく聞いたつもりだった。
青年は少し考える。
「その時は、消えたって分かる」
それだけだった。
ヴェスパーは自分から聞いておきながら、返す言葉に少し迷った。
「強くなったな」
「それ禁止」
「あ」
「昨日言った」
「ごめん」
「でも」
青年は小さく笑った。
「前よりは、待てる」
その言い方なら。
ヴェスパーにも素直に頷けた。
◇
翌朝。
帰還した六人に与えられた最初の仕事は、休むことだった。
少なくとも、セレスはそう決めていた。
「午前中は調査報告を禁止します」
宿の食堂で言われ、イリスが明らかに不満そうな顔をする。
「整理だけなら」
「昨日の夜もしていましたね」
「少しだけ」
「何時まで?」
イリスが黙る。
アルドがパンを食べながら答えた。
「日付変わる少し前」
「アルド!」
「聞かれたから」
「あなたも起きていたんですか?」
今度はアルドが黙った。
レイラが大笑いする。
「二人とも怒られてる!」
「レイラは昨日、風呂で寝かけたと聞きました」
笑いが止まった。
「誰から?」
「宿の主人です」
「告げ口だろ!」
「浴槽で寝ないでください」
「寝てない。目閉じてただけ」
「次から誰かと一緒に入ってください」
「子どもじゃないぞ!」
ヴェスパーはスープを飲みながら、そのやり取りを眺めていた。
帰ってきた翌朝。
地下施設も、第三荷場も、南路も消えたわけではない。
それでも今日は、朝から続きを追わなくていい。
ガルムも珍しく大人しかった。
ただし、椅子の横へ置いた荷袋だけは自分の足元に引き寄せている。
「まだ鍋の取っ手隠してる?」
ヴェスパーが小声で尋ねた。
「捨てるぞ」
「持って帰った意味ないだろ」
「お前がうるせえからだよ」
「俺、別に見たいだけなのに」
「見せねえ」
ノアが向かいから二人を見ている。
「何の話?」
「何でもない」
ガルムが即答する。
「鍋」
ヴェスパーも即答した。
「お前な」
「昨日から気になってた」
ノアの兎耳がぴんと立つ。
「見たい」
「ほら」
「何がほらだ!」
朝の食卓は、帰る前とほとんど変わっていなかった。
◇
午後。
西門詰所の奥にある会議室で、正式な報告が始まった。
全員を集める必要はないとハルトは言ったが、結果的にはそれなりの人数になった。
ヴェスパー、ガルム、イリス、アルド。灰都側からハルトとセリカ。
アステルとリクは、旧研究組織や黒翼に関係する内容を聞くかどうか本人たちへ確認したうえで参加している。
セレスはリクの体調を見ながら同席した。
名前のない青年は呼ばなかった。
本人が仕事を選んだからだ。
「終わったら聞く」
朝、イリスへそう伝えたらしい。
「じゃあ最初に」
ハルトが机の上の紙束を見る。
「安全面から頼む」
「村跡そのものに、今すぐ灰都へ危険が及ぶようなものは確認してない」
イリスが答えた。
「星脈炉は?」
「現地にはなかった」
「壊れた?」
「それが違う」
そこから。
村の地下施設。
空になっていた炉台。
火災後に設備を動かした痕跡。
搬出通路。
第三荷場。
南路。
確認出来たことを一つずつ説明していく。
イリスは推測と確認事項を意識して分けた。
「結論としては、炉と同程度の大型設備が火災後に地下から移動された形跡がある。ただし、その設備が本当に例の炉だったかを直接示す記録はまだない」
ハルトが腕を組む。
「ほぼそう見えるけど、断定しない?」
「うん」
「誰が運んだかも?」
「不明」
「研究組織が使ってた第三荷場まで跡が続いてても?」
「第三荷場を研究組織が使用していたことと、炉を運んだ主体が同じことは別だから」
「面倒だな」
「記録ってそういうもの」
ハルトが深くため息をついた。
「お前が楽しそうなのが一番腹立つ」
「楽しんでない」
「顔」
「ヴェスパー、それ最近言う」
イリスが睨む。
ヴェスパーは黙った。
◇
リクは、第三荷場という言葉が出たところで初めて口を開いた。
「黒翼でも番号の荷場があった」
部屋の空気が少し変わる。
セレスが隣から確認する。
「思い出して大丈夫?」
「うん。痛くない」
「無理には続けなくていいです」
リクは一度頷いてから話す。
「俺がいた施設は、物を運ぶ場所に番号が付いてた。でも『第三荷場』って名前は知らない」
「同じ制度?」
イリスが尋ねる。
「分からない。数字で分けるのは珍しくないと思う」
「そうだね」
イリスはすぐに記録へ補足した。
似ている。
だから繋がっている。
そう決めるには弱い。
アステルも紙を見ながら言った。
「黒翼は、古い研究資料をそのまま使うこともあれば、名前だけ変えることもありました。逆に、無関係な設備へ似た呼び方を使うこともあります」
「つまり?」
ハルトが聞く。
「名前だけでは、何も決められません」
「また面倒が増えた」
リクが少しだけ笑う。
「ハルト、ずっと面倒って言ってる」
「お前らが面倒なものばっか持って帰ってくるからだ」
「石も?」
ヴェスパーが尋ねる。
「石はどうでもいい」
「よかった」
「何が」
ガルムが呆れた顔をした。
◇
報告の途中。
イリスはもう一つの紙束を出した。
研究組織についてのものより薄い。
「これは?」
ハルトが聞く。
「村の生活記録」
「調査記録とは別?」
「別にした」
表紙。
『南東旧村落――生活記録』
村名はない。
住民の実名もない。
正確な位置についても、この記録単体では辿れないようにしている。
「何で分けた」
セリカが尋ねる。
「研究施設の記録だけ残したくなかったから」
イリスが答えた。
「そこには元々、人が住んでた」
井戸。
畑。
鍛冶場。
広場。
年二回の祭り。
冬の夕方に谷へ溜まった食事の煙。
調査報告とは違う言葉が並んでいる。
ハルトは数枚読んだあと、ヴェスパーを見る。
「お前が頼んだ?」
「半分はイリス」
「半分は?」
「俺も残してほしいって言った」
「公開する?」
ヴェスパーはすぐには答えなかった。
「全部は嫌かな」
「理由」
「研究施設の場所まで広まったら、勝手に探しに行く奴が出るかもしれない」
「いるな」
セリカが即答した。
「売れそうなもの探す人間はいる」
「でも」
ヴェスパーは生活記録を見る。
「村がなかったことにはしたくない」
ハルトはしばらく紙を見た。
「じゃあ分ける」
「どうやって?」
「生活記録は場所をぼかして一般記録。研究関係は当面制限付き。具体的な位置は門衛と調査担当だけ」
「出来る?」
「俺を何だと思ってる」
「面倒って言う人」
「殴るぞ」
ガルムが隣で笑った。
◇
報告が終わる頃には、窓から入る光がかなり傾いていた。
リクは途中で一度休憩したが、最後まで聞いた。
部屋を出る前。
アステルがヴェスパーへ声を掛ける。
「行って良かったですか?」
「村?」
「はい」
ヴェスパーは考えた。
「良かった」
「答えは?」
「増えた」
アステルが少し笑う。
「質問が?」
「そっちも」
ヴェスパーも笑った。
「でも、知らなかったことも増えたし、知ってたと思ってたことが違ったのも分かった」
「それでも?」
「ああ」
少しだけ間を置く。
「行く前より、村のことを考えやすくなった」
アステルは頷いた。
「なら良かった」
「今度行く時」
「誘いますか?」
「行きたい?」
「その時決めます」
「そっか」
それでよかった。
◇
夕方。
名前のない青年の仕事が終わる頃を見計らって、イリスが菓子屋へ向かった。
ヴェスパーも同行する。
「何でヴェスパーも?」
歩きながらイリスが聞く。
「青年に呼ばれた」
「窓見るだけだよ?」
「知ってる」
「心配?」
「ちょっと」
「正直」
「帰ってきたばっかだし」
灰都にいない間。
こちらでも時間は進んでいた。
青年は仕事を覚えた。
リクは初めて給料を受け取った。
門の少年は街の中で眠る夜を持つようになった。
ノアは耳を休めた。
そして。
窓の白線も。
何か変わっているかもしれない。
菓子屋へ着くと、青年はすでに店の外階段の下で待っていた。
「遅い」
「報告長かった」
イリスが答える。
「ハルト?」
「ハルトだけのせいじゃない」
「半分?」
「何で半分なの」
青年がヴェスパーを見る。
「行く?」
「お前の部屋だろ」
「だから聞いた」
「ああ。いいなら」
「いい」
三人で階段を上がる。
◇
部屋へ入る前。
イリスはいつものように確認した。
「今日は何をしていい?」
青年は少し考える。
「窓見る。前の絵と比べる」
「触る?」
「今日は見てから」
「道具は?」
「普通のなら」
「分かった」
ヴェスパーは窓から離れた机の近くへ立った。
そこには、昨日渡した採石場の石が置かれている。
旅行記。
自分で買った栞。
二つの箱の印がある帳簿の控え。
その横に。
普通の灰色の石。
「本当に置いてる」
ヴェスパーが言う。
「俺のだから」
「気に入った?」
「まだ分からない」
「石にそういう評価ある?」
「ヴェスパーが持ってきたから置いてる」
それなら。
十分だった。
青年は窓の前へ立つ。
灰色の窓掛け。
手を掛け。
一度イリスを見る。
「開ける」
「うん」
布が横へ動く。
白線が現れた。
◇
ヴェスパーが最後に見た時より、線は複雑になっているように見えた。
ただし、それは自分の記憶だけでは判断出来ない。
イリスは持ってきた以前の記録を机に置いた。
「最後にきちんと比較したのは、私たちが出発する二日前」
「そのあと俺は三回見た」
青年が言う。
「日にちは?」
「最初の日。次は二日空けた。その次が昨日」
「形は描いた?」
「描いてない」
「それでいいよ」
「いい?」
「記録する義務はないから」
青年は頷く。
イリスは窓へ近付く前に、もう一度尋ねた。
「近くで見ていい?」
「いい」
「定規使う」
「星脈?」
「普通の木の定規」
「ならいい」
以前の図には、線の形だけではなく、窓枠からの距離や角度も簡単に記されていた。
同じ位置へ定規を当てる。
左下から伸びた主線。
そこから上へ分かれる短い枝。
右へ折れる細い線。
「ここは同じ」
イリスが小さく言う。
青年も隣から見る。
「うん」
次。
「これは増えてる」
以前なかった位置に、短い線が一本ある。
「いつ?」
「分からない」
「そっか」
ここまでは。
以前にもあった。
見ない時間のあと。
枝が増える。
ただし。
時間が原因か。
見ていなかったことが原因か。
分からない。
イリスは図の上部へ視線を移した。
そして。
動きを止めた。
「……待って」
「何?」
青年が聞く。
イリスは以前の図を見る。
窓を見る。
もう一度。
図。
「ここ」
指。
ただし。
ガラスには触れない。
「前はあった」
「何が」
「短い枝」
青年が窓へ顔を近付ける。
「どこ?」
「上の方。主線から左へ」
「ない?」
「今は見えない」
ヴェスパーも少し近付く。
図には確かに描かれている。
短い。
一本の枝。
現在の窓には。
ない。
「描き間違い?」
青年が聞いた。
イリスはすぐには否定しなかった。
「可能性はある」
「でも?」
「前の記録には長さも測ってある」
定規。
角度。
窓枠からの位置。
イリスが調べ直す。
「少なくとも私は、その時ここに線があると思って測った」
「今は?」
「ない」
部屋が静かになる。
◇
「消えた?」
青年が聞く。
「そう見える」
「消えたって書かない?」
「もう一回確認する」
イリスは急がなかった。
別の角度から灯りを当てる。
ガラスの内側。
外側。
どちらから見ても。
以前記録した場所に線はない。
擦った跡も。
傷も。
見当たらない。
「前の線、移動した?」
ヴェスパーが尋ねる。
「それも分からない。新しく増えた線が、消えたものと同じ線なのか判断する方法がない」
「形は?」
「少し違う」
青年は二つを見比べている。
「今まで」
ゆっくり言う。
「増えるだけだった」
「確認出来た範囲ではね」
「今は、一個ない」
「うん」
「じゃあ」
青年が。
少し言葉を探す。
「増え続けるものじゃない?」
イリスは慎重に答えた。
「少なくとも、『一度出た線は必ず残り続ける』とは言えなくなった」
「消える理由は?」
「分からない」
「見たから?」
「分からない」
「見なかったから?」
「それも分からない」
青年は。
窓を見た。
以前なら。
同じ質問を。
さらに続けたかもしれない。
今日は。
「じゃあ分からない」
それで止めた。
「記録は?」
イリスが尋ねる。
「して」
「いいの?」
「俺もあとで見たい」
「分かった」
◇
イリスは机へ戻る。
今回も。
断定はしない。
『前回記録時に存在した上部左分岐一線について、現時点では視認不能』
その下。
『別位置に新規短線一線を確認』
そして。
『消失・移動・記録誤差を含め、原因未確定』
青年が横から読む。
「長い」
「正確にすると長くなる」
「俺用は?」
「いる?」
「前あった」
イリスが少し笑う。
別の紙へ。
『前にあった一本が、今は見えない。別の一本が増えた。理由は分からない』
青年が読む。
「こっち分かる」
「じゃあ一緒に残す」
「うん」
ヴェスパーは。
そのやり取りを見ながら。
窓へもう一度視線を向けた。
白線。
今まで。
増える。
伸びる。
何かが。
こちらへ。
近付いているように。
無意識に考えていた。
でも。
消える線があるなら。
その見方すら。
正しいとは限らない。
数。
距離。
相手。
何一つ。
まだ。
決まっていない。
「ヴェスパー」
青年が呼ぶ。
「何?」
「怖い?」
少し。
意外な質問だった。
「俺が?」
「ああ」
ヴェスパーは白線を見る。
「ちょっと」
「俺も」
「閉める?」
青年は考える。
それから。
「もう少し見る」
「いいの?」
「ああ」
「何で」
「今日、俺が見たいから」
それだけ。
しばらく。
三人で。
窓を見た。
何も起こらない。
線も。
動かない。
「もういい」
青年が言った。
自分の手で。
窓掛けを閉じる。
◇
「今日はここまで?」
イリスが尋ねる。
「うん」
「明日また見る?」
「決めてない」
「分かった」
「イリスは?」
「見たい」
「すぐ?」
「本音は」
青年が少し笑う。
「でも俺の部屋」
「分かってる」
「じゃあ、俺が見たい時」
「うん」
話はそれで終わった。
イリスは記録をしまい、部屋を出る。
階段まで行ってから。
ヴェスパーは青年が付いてきていないことに気付いた。
「降りない?」
「本読む」
「まだ?」
「明日朝遅いから」
「店は?」
「店主が市場行く。俺は昼から」
「そっか」
青年は机へ戻り。
旅行記を開いた。
窓掛けは。
閉じたまま。
その横。
採石場の石。
置かれている。
「ヴェスパー」
「何?」
「村の話」
「ああ」
「まだ途中」
「覚えてる」
「明日でもいい」
「俺も明日いる」
「灰都に?」
「ああ。しばらく」
青年は頷く。
「じゃあ続き明日」
「うん」
ヴェスパーは扉を閉めた。
◇
階段を下りる途中。
イリスが小さく言った。
「帰ってきたら、こっちも変わってたね」
「白線?」
「それも」
下では。
店主が最後の戸締まりをしている。
通りの向こうから。
誰かの笑い声が聞こえる。
宿へ戻れば。
リクがいる。
ノアも。
アステルも。
ガルムも。
皆。
ヴェスパーたちがいない間にも。
それぞれの日を。
過ごしていた。
「俺」
ヴェスパーが言う。
「ちょっとだけ、戻ったら全部同じところから続くと思ってたかも」
「違った?」
「うん」
「困る?」
ヴェスパーは少し考えた。
「いや」
青年が。
仕事を覚えた。
リクが。
給料をもらった。
門の少年が。
中で眠る夜を選んだ。
白線は。
形を変えた。
自分が故郷で。
新しい記憶を作っている間に。
こちらの時間も。
ちゃんと。
進んでいた。
「いいと思う」
イリスが横を見る。
「何が?」
「帰ってきても、待ってる人が止まってないの」
イリスは少しだけ笑った。
「そりゃそうでしょ」
「分かってるけどさ」
「じゃあ帰ろう」
「宿に?」
「うん。私も今日は寝る」
「セレスに怒られたから?」
「それもある」
二人は菓子屋を離れた。
灰都の夜。
見慣れた通り。
けれど。
出発前と。
まったく同じではない。
ヴェスパーも。
同じではない。
それでいい。
明日になれば。
また話の続きをする。
村のこと。
第三荷場のこと。
南へ続く道のこと。
そして。
消えた白線のことも。
どれから先になるかは。
まだ分からない。
急ぐ必要も。
今夜はなかった。




