第3章 第51話 「持ち帰るもの」
採石場を離れる朝、ヴェスパーは夜明けとほぼ同時に目を覚ました。
岩壁の上から差し込む光はまだ弱く、焚き火の周囲には夜の冷気が残っている。昨日までの調査で踏み固められた地面には六人分の足跡があり、その少し先には、研究組織が使っていた第三荷場の石台が朝靄の中に沈んでいた。
あそこから南へ、地図にない道が続いている。
追わないと決めたはずなのに、目が向く。
「寝起きから見てんのか」
ガルムの声がした。
振り返ると、男は外套を羽織りながら焚き火へ近付いてくる。
「見てるだけ」
「昨日もそう言ってたな」
「行かないよ」
「別に止めてねえ」
「その言い方だと行きたくなるんだけど」
「じゃあ見るな」
「無茶言うなよ」
ガルムは鼻で笑い、焚き火のそばへ腰を下ろした。
ヴェスパーも隣へ座る。
南路の先に何があるのかは分からない。第一荷場や第二荷場があるのかもしれないし、研究施設そのものが残っている可能性もある。持ち出された星脈炉の行方に繋がるかもしれない。
可能性だけなら、いくらでも増やせる。
「後悔してる?」
ガルムが聞いた。
「帰るって決めたこと?」
「ああ」
「今のところはしてない」
「今のところ、か」
「気にはなるから」
ヴェスパーは素直に答えた。
「でも、ここで道を追ったら、その先でもまた何か見つかる気がする」
「そうだろうな」
「それを全部追うまで帰らないってなったら、たぶん終わらない」
「やっと分かったか」
「昔の俺なら止めなかった?」
ガルムは少し考えてから肩をすくめた。
「止めても行っただろ」
「そうかも」
「止める俺の方も、最後には一緒に行ってただろうしな」
「それもそうだな」
二人とも少し笑った。
だからこそ、今回はここで戻る。
先があると知ったまま帰る。
ヴェスパーにとっては、それもこれまでとは違う選択だった。
◇
朝食を済ませたあと、第三荷場の最終確認を行った。
新しい場所を探すのではなく、ここまで見つけたものを整理するための確認だった。
イリスは回収する記録類を慎重に箱へ収めていく。湿気で傷んだ紙は直接重ねず、持ってきた布と薄板で挟んだ。
「これ、灰都まで大丈夫?」
レイラが心配そうに箱を覗き込む。
「乱暴に扱わなければ」
「じゃあ私持たない方がいい?」
イリスが顔を上げる。
「……自分から言うんだ」
「紙壊したら怒るだろ」
「怒る」
「だから」
「じゃあ私が持つ」
「それがいい」
あっさり話がまとまった。
少し離れたところでは、アルドが地図へ採石場と二本の古道を書き込んでいる。
村へ戻る北側の道。
そして南南東へ続く、地図に存在しなかった道。
「南路、どこまで線を引く?」
ヴェスパーが覗き込む。
「確認したところまで」
アルドは森の入口から少し先までだけ線を延ばし、その先を空白のままにした。
「予想で描かない?」
「描いたら、次に来た時それを道だと思うかもしれない」
「なるほど」
「分からないところは分からないままにする」
最近。
やたらと耳にする考え方だった。
けれど何度聞いても、簡単にはならない。
「村の地下も入れる?」
「ああ。ただし正確な測量じゃない。概略図として」
「第三荷場は?」
「書く」
「研究組織の印も?」
「別紙」
アルドは淡々と答えながら、必要な情報だけを地図へ残していく。
ヴェスパーはその様子を見ていた。
「何?」
視線に気付いたアルドが聞く。
「いや。地図って、何でも書けばいいわけじゃないんだなと思って」
「書きすぎると読めなくなる」
「イリスに聞かせたい」
「聞こえてるよ」
少し離れた場所から声が飛んできた。
「私だって必要なことしか書いてない!」
「紙の量が必要の範囲を超えてるだけだ」
ガルムが言う。
「何でガルムまで!」
いつもの声が採石場へ響く。
調査は終わりに近付いていた。
◇
「これ、どうする?」
レイラが見せたのは、第三荷場の壁から外れていた小さな金属札だった。
研究組織の印と『第三荷場』の文字が残っている。
「持っていく?」
イリスは少し迷った。
「記録としては欲しい。でも、この場所にあったこと自体にも意味がある」
「置いてく?」
「全部持ち帰る必要はないと思う」
ヴェスパーが口を挟む。
イリスが彼を見る。
「写真みたいに残せたら楽なんだけどね」
「星脈機器は使わない方がいい?」
「ここでは。古い研究施設だし、何が反応するか分からない」
結局、札はその場へ残すことになった。
形と文字を紙へ写し、位置を記録する。
「盗られない?」
レイラが聞く。
「二十四年以上残ってたんだろ?」
ヴェスパーが答える。
「それもそうか」
「それに、全部持って帰ったら俺たちがこの場所を空にすることになる」
口にしてから。
少しだけ。
自分でも引っ掛かった。
村から。
何かが。
持ち出された。
家の石。
地下の炉。
名前。
研究組織なのか、それ以外なのかは分からないが、誰かがここから多くのものを取り除いている。
「残すものも決める、か」
ガルムが小さく言った。
「何?」
「いや」
それ以上は言わなかった。
◇
採石場を出る前、ヴェスパーは昨夜拾った小石を一度手のひらに乗せた。
何の変哲もない灰色の石だった。
研究組織の印もない。黒火も反応しない。ただ、この場所から拾ったというだけだ。
「それは持ってくの?」
イリスが聞く。
「ああ」
「記録?」
「違う」
「じゃあ何」
「土産」
「誰に?」
「名前のない青年」
イリスの顔が少し緩む。
「喜ぶかな」
「分からない」
「石だもんね」
「言うなよ。今ちょっと思った」
レイラが横から覗き込む。
「もっと綺麗なの探す?」
「別に綺麗じゃなくていいんだ」
「何で」
ヴェスパーは小石を袋へ入れた。
「俺が見てきた場所のやつだから」
レイラは少し考える。
「ならいいか」
珍しく、それだけだった。
◇
帰りの古道は、来た時より短く感じた。
一度通った道だからというだけではない。
どこに崩落があるか。
どの斜面を迂回するか。
どこに倒木があるか。
もう知っている。
レイラが切った倒木の隙間も、そのまま残っていた。
「私の道だ」
「お前の道じゃない」
アルドが即座に否定する。
「私が切った」
「通れるようにしただけ」
「じゃあレイラ通路」
「名前付けないで」
「何で」
「次の人が地図見て困る」
ヴェスパーが笑う。
「書いてない?」
「書かない」
「残念」
「お前まで乗るな」
行きより会話が多かった。
その一方で、ヴェスパーは何度か後ろを振り返った。
木々が重なり、採石場はすぐに見えなくなる。
南へ延びる道も。
第三荷場も。
視界から消える。
それでも、もう場所は分かっている。
地図もある。
記録もある。
また必要になれば来られる。
その感覚が、思っていたより大きかった。
◇
村へ戻ったのは、午後の早い時間だった。
木々の間から共同井戸が見えた時、ヴェスパーは知らずに歩調を緩めた。
「疲れた?」
セレスが聞く。
「違う」
「胸?」
「それも大丈夫」
少し迷って。
「戻ってきたなと思って」
セレスは井戸の向こうに広がる村跡を見る。
「二日前は、ここへ来るのが目的地でしたね」
「ああ」
今は。
途中の場所に見える。
けれど、それで価値が下がったわけではない。
「今日はここで泊まるんだよね?」
レイラが聞く。
「そのつもり」
「なら早めに飯作れるな」
「まだ昼過ぎ」
「夕飯の準備は早い方がいい」
「食べたいだけだろ」
「両方」
ヴェスパーは笑った。
ガルムも何も言わない。
六人は以前と同じ場所へ荷物を下ろした。
◇
野営の準備が一段落すると、イリスがヴェスパーを呼んだ。
「ちょっと相談していい?」
「何?」
彼女の前には二種類の記録があった。
一つは研究組織と地下施設についての調査記録。
もう一つは、ほとんど何も書かれていない紙だった。
「村の記録も残したい」
ヴェスパーは紙を見る。
「研究所の?」
「それとは別」
「別?」
「ここ、研究施設があっただけの場所じゃないでしょ」
ヴェスパーは少し驚いた。
「ガルムから聞いた。井戸があって、畑があって、祭りもあったって」
イリスはまだ筆を取らない。
「村の名前は書かない。人の名前も書かない。でも、ここにどういう生活があったかは残せると思う」
「何のために?」
「分からない」
今度はイリスがその言葉を使った。
「ただ、地下施設の報告だけ持って帰ったら、ここが最初から研究所だったみたいに見える気がする」
ヴェスパーは村を見る。
自分がガルムと歩いた場所。
共同井戸。
広場。
酒場跡。
畑。
家。
青い羽の虫を追っていたという子どもの自分。
「書いてほしい」
そう答えた。
イリスが頷く。
「何を残す?」
「俺だけの話じゃなくていい?」
「もちろん」
「じゃあ……井戸と、畑と、広場」
「うん」
「鍛冶場も」
「うん」
「酒場」
「料理が美味しかった?」
ガルムの話を聞いていたらしい。
「母さん以外は」
「そこも書く?」
「書くなよ」
イリスが笑った。
ヴェスパーも少し笑う。
「あと祭り」
「年二回?」
「ああ。春と秋」
「食べ物は?」
「豆菓子」
「ヴェスパーが食べすぎた」
「それはいらない」
「生活の記録として重要かも」
「絶対面白がってるだろ」
軽口を交わしてから。
ヴェスパーは少し真面目な顔に戻った。
「でも」
「何?」
「ガルムが覚えてる話だって書いて」
イリスはすぐに理解した。
「事実として断定しない?」
「ああ。俺は覚えてないから」
「分かった」
イリスはそこで初めて筆を取った。
表題には村の名前を書かない。
代わりに。
『南東旧村落――生活記録』
そう記した。
◇
「俺も話すのか」
しばらくして連れて来られたガルムは、明らかに面倒そうな顔をした。
「嫌ならいいよ」
イリスが言う。
「嫌とは言ってねえ」
「じゃあ座って」
「命令か?」
「お願い」
「最近それ言えば通ると思ってないか」
「通る?」
「……何聞く」
結局座った。
ヴェスパーも隣に残る。
イリスは研究の聞き取りとは違い、かなりゆっくり質問した。
「村で一番人が集まった場所は?」
「広場か酒場」
「仕事は?」
「畑。狩り。小さな鉱床が近くにあったから、それも少し」
「子どもは多かった?」
「多くはねえ。二十人もいなかったと思う」
「ヴェスパーと同じくらいの子は?」
ガルムが少し考える。
「何人か」
「一緒に遊んでた?」
「多分な」
ヴェスパーが横を見る。
「そこ覚えてない?」
「俺がずっと村にいたわけじゃねえぞ」
「そっか」
イリスは質問を変える。
「祭り以外で、何かこの村らしいことは?」
「この村らしい?」
「他の村と違うとかじゃなくて、ガルムが覚えてるもの」
男は困ったように辺りを見た。
研究組織のことなら。
もっと簡単に答えたかもしれない。
生活の話は。
逆に難しいらしい。
「……夕方」
やがて言った。
「夕方?」
「煙が多かった」
イリスが筆を止める。
「何の?」
「飯の支度だよ。家ごとに火を使うから、冬になると谷に煙が溜まる」
ガルムは目の前の村跡ではなく。
自分の記憶を見ている。
「風が弱い日は、村の上だけ白くなるくらいにな」
「匂いは?」
「薪。煮込み。焼いた肉。たまに焦げ臭い」
ヴェスパーが言う。
「母さん?」
「大体な」
「やっぱり」
イリスが笑いながら書く。
「笑うとこじゃねえ」
ガルムも少し笑った。
そのあと。
昔の冬のこと。
雨の日。
子どもたちが井戸の周りで騒いで怒られたこと。
酒場の主人が旅人相手に話を盛る癖があったこと。
細かな話が少しずつ増えていった。
どれも。
灰星とは関係ない。
黒火とも。
研究組織とも。
関係ない。
だからこそ。
ヴェスパーは。
聞いていたかった。
◇
聞き取りが終わったあと、イリスは記録をヴェスパーへ見せた。
村名。
なし。
住民名。
なし。
位置も、詳しくは別の調査記録に分けてある。
それでも。
井戸。
広場。
畑。
祭り。
冬の煙。
生活。
人がいたこと。
残っている。
「これ、灰都の記録庫に?」
ヴェスパーが聞く。
「そのつもり。でも閲覧範囲は考える」
「灰星が名前を辿るから?」
「それもある。それと、研究組織の跡と同じ場所だって広まりすぎると、勝手に掘りに来る人が出るかもしれない」
「いる?」
「いるよ。珍しい物を売りたい人とか」
ヴェスパーは地下から何でも持ち出そうとする知らない商人を想像し、少し嫌な顔をした。
「それは嫌だな」
「だから、ハルトたちとも相談する」
「うん」
「ヴェスパーが村のことを公にしたくないなら、それも」
「隠したいわけじゃない」
返事は思ったより早く出た。
ヴェスパー自身、少し驚いた。
「でも、見世物にはしたくない」
「分かった」
イリスは紙を閉じた。
「その違いも覚えとく」
◇
夕方。
ヴェスパーは家跡へ行った。
今回は一人だった。
袋から小石を二つ取り出す。
一つは採石場で拾ったもの。
もう一つは、この家跡の近くで拾ったものだった。
似ている。
どちらも灰色。
大きさもそれほど変わらない。
知らない人が見れば区別は付かないかもしれない。
ヴェスパーには分かる。
右が村。
左が採石場。
「何やってんだ」
背後から声がした。
「一人で来た意味」
「別に邪魔してねえだろ」
ガルムだった。
「石見てた」
「見りゃ分かる」
「どっちが村だと思う?」
両手を出す。
ガルムは嫌そうな顔をした。
「知らん」
「当てて」
「子どもか」
「いいから」
ガルムはしばらく石を見比べ。
右を指した。
「こっち」
「何で」
「少し赤い」
ヴェスパーが驚く。
よく見れば。
確かに。
村の石には。
ほんの少しだけ。
赤土が残っている。
「正解」
「だから何だ」
「別に」
「やっぱ子どもじゃねえか」
ヴェスパーは笑って石を袋へ戻した。
「村の石は自分で持ってる」
「採石場のは?」
「青年に」
「本当に石渡すのか」
「駄目かな」
「好きにしろ」
ガルムは家跡の外周へ腰を下ろした。
ヴェスパーもその隣へ座る。
しばらく。
二人とも。
何も言わなかった。
「明日」
ヴェスパーが言う。
「出るな」
「ああ」
「ガルムは何か持って帰る?」
男が少し眉を寄せる。
「何で俺が」
「俺は石持ってくから」
「俺の故郷じゃねえ」
「でも何度も来てたんだろ」
「だからって」
ガルムは村跡を見た。
沈黙が少し長かった。
「持って帰りたいものなんかねえよ」
「そっか」
ヴェスパーはそれ以上聞かなかった。
◇
夜。
最後の夕食を村で取った。
レイラが鍋を担当すると言い出したため、一度全員が不安な顔をしたが、意外にも普通に食べられるスープが出来た。
「何だその反応」
レイラが不満そうに言う。
「普通に美味しい」
イリスが答える。
「普通に、いらないだろ」
「じゃあ美味しい」
「遅い!」
アルドも一口飲む。
「塩は少し多い」
「お前は本当に!」
「でも食べられる」
「褒め方!」
ヴェスパーも笑いながら椀を口へ運んだ。
少し塩辛い。
でも悪くない。
「母さんより上手い?」
ガルムに聞く。
「比べるまでもねえ」
「その母親どんだけなんだよ」
レイラが呆れる。
「鍋を水か炭にするって」
「逆に見たい」
イリスが言う。
「食べるのは嫌だけど」
「ひどいな」
自分でも母親の料理を覚えていないくせに、ヴェスパーは少しだけ擁護したくなった。
ガルムが笑う。
「本人がいたら、お前ら全員一回食わされるぞ」
「じゃあ会えた時はヴェスパーから」
レイラの言葉に。
ほんの一瞬。
空気が止まった。
母親。
会えるのか。
生きているのか。
門の声。
何も分からない。
レイラ自身も「あ」と小さく声を漏らした。
「悪い」
ヴェスパーは少しだけ考え。
「いいよ」
答えた。
「会えたら食べる」
レイラが彼を見る。
「炭でも?」
「……水の方がいい」
笑いが戻った。
それで十分だった。
◇
夜が深くなり。
一人。
二人と。
眠り始めた。
ヴェスパーも毛布へ入ろうとして。
少し離れたところで。
人影を見つけた。
ガルム。
家跡の方。
しゃがんでいる。
声は掛けなかった。
しばらくすると。
男が戻ってくる。
ヴェスパーは毛布の中から。
目を閉じたふりをした。
ガルムの荷物が。
僅かに。
鳴る。
金属。
小さな音。
それだけ。
◇
翌朝。
出発前。
六人は野営跡を片付けた。
火を消す。
水を掛け。
土を被せる。
ゴミは残さない。
アルドが地下入口の仮封鎖を最後に確認し、イリスは記録箱をしっかり固定した。
「忘れ物?」
セレスが全員を見る。
「ない」
アルド。
「多分ない」
イリス。
「肉」
レイラ。
「忘れ物じゃない」
ヴェスパーが言う。
「灰都戻ったら買う」
「絶対な」
「何で俺が買うことになってるの」
レイラは聞いていなかった。
ガルムが先へ歩き出す。
「行くぞ」
「待って」
ヴェスパーは。
一度だけ。
振り返った。
家。
ない。
村名。
ない。
人も。
いない。
それでも。
来た時より。
ずっと。
ここが村に見えた。
ガルムが話してくれたから。
自分で歩いたから。
食事をした。
眠った。
笑った。
昨日まで。
過去を探す場所だった。
今は。
ここで過ごした。
数日の記憶もある。
「また来る?」
レイラが聞く。
「多分」
「南の道あるしな」
「ああ」
ヴェスパーは。
家跡へ。
小さく。
手を上げた。
「行ってくる」
前に言った時より。
自然だった。
帰る場所だと。
言い切る必要はない。
もう一度来たいと思った。
それだけで。
今は十分だった。
◇
六人は村を離れた。
共同井戸を過ぎ。
畑跡を過ぎ。
荷置き場だった平地を抜ける。
やがて。
木々が。
村を隠す。
ヴェスパーは今回は。
振り返らなかった。
少し前を。
ガルムが歩いている。
その腰の荷袋。
いつもより。
ほんの少しだけ。
形が違う。
「ガルム」
「何だ」
「昨日、何拾った?」
男の足が一瞬だけ止まった。
「何も」
「金属の音した」
「寝てなかったのか」
「何」
「何でもねえ」
「見せて」
「嫌だ」
「何で」
「俺のだ」
その言い方で。
ヴェスパーは。
追及するのをやめた。
「そっか」
「ああ」
「じゃあいい」
ガルムが少しだけ振り返る。
「聞かねえのか」
「持って帰りたかったんだろ」
「……まあな」
「ならいい」
男は。
しばらく。
何も言わなかった。
それから。
前を向く。
「錆びた鍋の取っ手だ」
ヴェスパーの足が。
少し。
止まった。
「鍋?」
「多分な」
「もしかして」
「知らん」
「母さんの?」
「知らんって言ってんだろ」
「でも持って帰る?」
「うるせえ」
ヴェスパーは。
笑った。
ガルムが。
少し歩調を速める。
「笑うな」
「だって」
「捨てるぞ」
「それはやめろよ」
「じゃあ黙れ」
「はいはい」
ヴェスパーは。
追いつく。
前には。
灰都へ。
戻る道。
背中には。
もう見えない村。
二人とも。
そこから。
違うものを。
持ち帰る。
一人は。
二つの石。
一人は。
錆びた。
鍋の取っ手。
そして。
六人の荷物には。
第三荷場の記録。
消された村の生活。
まだ続く。
南への道。
全部の答えではない。
それでも。
空っぽではなかった。
ヴェスパーは。
前を向いた。
灰都へ帰れば。
待っている人たちがいる。
話すと。
約束した人もいる。
だから。
今度は。
戻るために。
歩く。
故郷を探す旅は。
終わっていない。
けれど。
故郷から帰る旅は。
もう始まっていた。




