第3章 第49話 「地図にない荷場」
村の東から伸びる古道は、道と呼ぶにはあまりに痕跡が薄かった。
木々の根に押し上げられた石、雨で削られた斜面、ところどころに残る不自然な平地。アルドが先頭にいなければ、ヴェスパーなら何度か森の獣道へ入り込んでいたと思う。
「本当にこの先に採石場があるんだよな?」
後ろからレイラが尋ねると、ガルムは振り返らずに答えた。
「俺が知ってる採石場ならな」
「昨日からそればっかりだな」
「二十四年経ってんだ。断言して外れたら、お前らがうるせえだろ」
「私は別に言わないぞ」
「言う」
ヴェスパーとイリスの声が重なった。
「何で二人とも即答なんだよ」
レイラが不満そうに声を上げる。少し先を歩いていたアルドまで「言うと思う」と付け加えたので、今度は本気で怒っていた。
そんなやり取りをしながら歩ける程度には、道はまだ穏やかだった。
問題が出てきたのは、村を離れて一時間ほど経ってからだ。
斜面を横切っていた古道が、大きく抉れている。
去年や今年に崩れたものではなさそうだった。谷側へ何度も土が流れ落ち、そのたびに木が倒れ、今では幅十歩以上にわたって道そのものが消えている。
アルドは崩落の手前で足を止めると、荷物を下ろした。
「ここは通らない」
「迂回?」
ヴェスパーが崩れた先を見る。
「上か下。ただ、下は戻れなくなる可能性がある」
谷は思っていたより深い。水音は聞こえないが、底には湿った岩が見えている。
レイラが上を見ると、崖というほどではないものの、かなり急な斜面が続いていた。
「上なら登れそうだぞ」
「登るだけなら」
アルドが答える。
「荷物を持って全員が安全に下りられるかは別」
「縄あるだろ」
「あるから使う」
アルドはすでに準備を始めていた。
ヴェスパーは崩落の縁へ近付き、向こう側に残る道を見た。
「炉を運んだ頃は、ここも繋がってた?」
「多分」
ガルムが隣へ立つ。
「こんな崩れ方してたら、大型の荷は通せねえ」
「じゃあ二十四年のどこかで崩れた」
「そう考えるのが自然だな」
簡単な話だ。
それでもヴェスパーは、古道を見ているうちに妙なことへ気付いた。
「ガルム」
「何だ」
「この道、狭くない?」
男が眉を寄せる。
「何が言いたい」
「炉を運んだ跡があっただろ。あれだけ大きいものを通したなら、もっと道幅が必要じゃないか?」
ガルムも道を見る。
確かに今歩いている場所は、六人が一列で通る程度しか幅がない。木が生え、斜面が崩れて狭くなった可能性はあるが、それだけでは説明しづらい箇所もあった。
「アルド」
呼ぶと、縄を木へ固定していた男が顔を上げた。
「この道、昔もっと広かったと思う?」
アルドはすぐに答えず、崩落していない部分へ戻った。道端の土を靴で払い、斜面側に埋もれた石を確認していく。
やがて彼は、今歩いている道よりさらに山側を指した。
「広かった」
「どれくらい?」
「少なくとも今の倍」
草と土の下に、もう一列の路肩石が残っていた。
「木が生えて狭く見えてるだけ?」
「それもある。でも、それだけじゃない」
アルドは現在の道と昔の路肩を見比べる。
「わざと埋めてる場所がある」
イリスが反応した。
「自然じゃなく?」
「土の層が違う。古い路面の上へ土を運んで、その後木が生えた」
ガルムの表情が硬くなる。
「道まで狭くしたってのか」
「全部かは分からない。でも、少なくともここは人の手が入ってる」
村の家跡。
削られた道標。
崩された地下通路。
そして今度は、使われていた古道。
痕跡を消そうとしたように見えるものが、少しずつ増えていく。
「また同じ奴らがやった、とは限らないよ」
イリスが先に釘を刺した。
ヴェスパーは苦笑する。
「今言おうとしてた?」
「顔に出てた」
「そんな分かりやすい?」
「最近は」
「最近って何だよ」
それ以上は考えないことにした。
今分かったのは、かつて大型の荷を通せる道があり、その一部が後から埋められている。
それだけだった。
◇
崩落箇所は山側から迂回した。
アルドが先に登り、縄を固定する。セレスとイリスが続き、次にヴェスパー、ガルム、最後にレイラという順番だった。
問題は途中に倒れていた太い木だった。
「これ、切っていい?」
レイラの声が明らかに嬉しそうだった。
アルドが倒木と周囲の地面を確認する。
「下へ落とさなければ」
「やっと斧使える」
「普通は喜ぶところじゃないよ」
イリスが言ったが、レイラはもう聞いていなかった。
斧が幹へ食い込む。
一撃。
二撃。
乾いた音が森へ響いた。
戦いではない。
敵もいない。
それでもレイラは妙に生き生きしている。
「楽しそうだな」
ヴェスパーが言う。
「斧はこういう使い方も出来るんだぞ」
「知ってる」
「最近ずっと持って歩いてるだけだったからな」
「壊さないようにね」
セレスが声を掛ける。
「木を?」
「足を」
「そっち?」
「自分を先に心配してください」
レイラは笑いながらも、最後の一撃だけは少し慎重だった。
倒木の一部を切り離し、人が通れる隙間を作る。
その先からは比較的歩きやすかった。
「役に立った」
アルドが言う。
レイラが振り返った。
「今何て?」
「役に立った」
「もう一回」
「進むよ」
「そこは言えよ!」
森にまた声が響く。
ヴェスパーは笑いながら歩き出した。
◇
日が傾き始める頃、アルドが足を止めた。
「今日はここまでにした方がいい」
まだ採石場は見えない。
「距離は?」
ヴェスパーが聞く。
ガルムが周囲を確かめる。
「昔の感覚なら、あと二時間もない」
「暗くなるね」
セレスが空を見る。
木々が多いせいで、森の中はすでに薄暗くなり始めていた。
「夜に知らない採石場へ入る意味はない」
アルドが言う。
レイラは少しだけ先を見たあと、今回はすぐ頷いた。
「明日の朝だな」
ヴェスパーは意外そうに見る。
「何だよ」
「反対するかと」
「私だって学ぶ」
レイラが胸を張った。
「成長――」
イリスが言いかける。
「禁止!」
「まだ言ってない」
「絶対言うところだっただろ」
野営地は、古道から少し離れた平地に決めた。
アルドとガルムが周囲を確認し、レイラが薪を集める。イリスとセレスが食事の準備を始める頃には、ヴェスパーも水袋を整理しながら焚き火のそばへ座っていた。
夕食は干し肉と豆を煮ただけの簡単なものだった。
「灰都戻ったら肉食べたい」
レイラが早速言う。
「今食べてるだろ」
「これは保存食」
「肉では?」
「肉だけど、肉じゃない」
イリスが首を傾げる。
「どういう分類?」
「うまい肉と旅の肉」
「今考えたでしょ」
「細かいこと言うなよ」
ヴェスパーは椀を持ちながら、火の向こうにいるガルムを見る。
男は昼間から何度か古道の周囲を気にしていた。
「採石場」
ヴェスパーが声を掛ける。
「何だ」
「最後に行ったのいつ?」
「村が燃えるより前だ」
「かなり前?」
「三、四年は行ってなかったと思う」
「何しに行った?」
「別件」
「何の」
「昔、逃げ込んだ盗賊を追った」
「研究組織とは関係ない?」
「その時はな」
ガルムは少し考えてから続けた。
「採石場自体はもっと昔に閉じてた。石が悪くなったって話だったはずだ」
「石が悪くなる?」
レイラが聞く。
「採れる石の質が落ちたって意味」
アルドが説明する。
「ああ」
レイラは納得した。
「石が腐るのかと思った」
「それはそれで嫌だね」
イリスが笑う。
ヴェスパーはもう一度ガルムへ聞く。
「その時、研究施設みたいなものは?」
「見てねえ」
「搬出路も?」
「知らん」
ガルムは椀の中を見る。
「また俺の知らねえもんが出てくるかもしれんな」
以前なら、苛立ちを隠すような言い方だったかもしれない。
今は少し違う。
「出てきたら見るだけだろ」
ヴェスパーが言った。
ガルムは顔を上げる。
「お前、最近それ気に入ってんな」
「使いやすい」
「イリスみたいになるぞ」
「それは困る」
「何で!?」
イリスが抗議する。
ガルムが笑った。
少なくとも今夜は、それで話が終わった。
◇
翌朝。
森には薄い霧が出ていた。
朝食を早めに済ませ、一行は野営地を片付けて古道へ戻る。
採石場へ近付くにつれ、景色が変わっていった。
木々の間に切り立った岩肌が見え始める。
地面には砕けた石が増え、斜面の一部には明らかに人が削った跡が残っていた。
「着くぞ」
ガルムが言った。
少し進むと、森が突然開けた。
眼前に大きな窪地が広がる。
三方を岩壁に囲まれた、古い採石場だった。
壁面には何本もの採掘跡が走り、底には雨水が溜まっている。小屋らしい建物はほとんど崩れ、木材も腐っていた。
「思ったより広いな」
レイラが感心したように言う。
「昔はもっと広く見えた」
ガルムは周囲を見渡す。
「木が増えたせいだろうな」
アルドがすぐに地面へしゃがんだ。
「道はここまで続いてる」
古道の広い路面が、採石場の中央へ向かっている。
その先。
岩壁の近くに、不自然に平らな場所があった。
「荷場?」
ヴェスパーが言う。
「見てみる」
六人で近付く。
平地には、腰ほどの高さの石台が二列並んでいた。採石場の設備にしては配置が妙だった。
アルドは片方の石台へ手を置き、表面を確かめた。
「ここに金具があった」
「何を固定する?」
「荷車か、荷台」
石の中に鉄製の輪が残っている。
錆びているが、地下の搬出口で見つけた滑車の留め具と似た作りだった。
イリスが周囲を見回す。
「村の搬出口からここへ運んで、ここで積み替えた?」
「可能性はある」
アルドがいつもの言い方で答える。
レイラが地面を指した。
「これ何だ?」
泥と草の下。
二本の深い溝がある。
ヴェスパーは見覚えがあった。
「炉を引いた跡?」
アルドが間隔を測る。
村の地下。
搬出通路。
森の古道。
これまで調べてきた寸法。
「ほぼ同じ」
イリスが小さく息を吸う。
「ここまで来たんだ」
ヴェスパーも地面を見る。
炉。
少なくとも炉と同程度の幅を持つ重い設備が。
村から。
ここまで。
運ばれた。
ひとつ。
道が繋がった。
だが。
「ないな」
レイラが辺りを見回した。
炉は。
当然ながら。
ここにも。
残っていない。
◇
採石場を調べるうち、かつて使われていた小屋の一つだけが、他と違うことに気付いた。
屋根は半分落ちている。
壁も傾いている。
だが、床だけが石造りだった。
「採石場の管理小屋?」
ヴェスパーが尋ねる。
ガルムが首を振った。
「俺が来た時はこんな小屋なかった」
「じゃあ後から?」
「少なくとも俺が最後に来た後だ」
アルドが入口の状態を確かめてから、中へ入る。
床は持ちそうだった。
イリスが続く。
ヴェスパーたちも中へ入ると、室内には腐った棚と金属部品が散らばっていた。
壁際。
小さな机の跡。
その下から。
レイラが薄い金属片を拾いかける。
「待って」
イリスが止めた。
「分かってるよ」
レイラは珍しく触る前に手を引いた。
「今、触らなかった」
「うん」
「褒めていいぞ」
「あとで」
「あとなんだ」
イリスは手袋をして金属片を持ち上げた。
帳簿に使う札のようだった。
表面の大半は錆びている。
ただ、端にある印は読める。
研究組織と同じもの。
「またか」
ガルムが呟く。
イリスは汚れを落とし過ぎないよう注意しながら、灯りの角度を変えた。
「文字がある」
「読める?」
ヴェスパーが近付く。
「全部は無理」
錆の間。
かろうじて。
いくつか。
残っている。
「……『搬入』」
イリスが読む。
「搬出じゃない?」
「違う。こっちは搬入」
その下。
数字らしいもの。
さらに。
短い文字。
「『第三荷』……かな」
「三つ運んだ?」
レイラが聞く。
「そうとは限らない。三番目の荷、三回目、三番区分。意味は特定出来ない」
イリスは先に止める。
ヴェスパーは金属札を見ながら、少し引っ掛かった。
「搬入って」
「うん」
「村からここへ持ってきたなら、この採石場から見れば搬入になる」
「そうとも読める」
「でも」
ヴェスパーは小屋の外を見る。
「ここから何かを村へ持っていった可能性もある?」
誰も。
すぐには答えなかった。
イリスがゆっくり頷く。
「ある」
村から何かが運ばれた。
その前提で。
ここまで来た。
だが。
この場所は。
単なる中継地点ではないかもしれない。
「炉を回収した場所じゃなくて」
ヴェスパーが言う。
「元々、何かを村へ運び込むためにも使ってた?」
「可能性はあるな」
アルドが室内を見回す。
ガルムは何も言わなかった。
◇
小屋の外で、アルドが荷場の地面をさらに調べた。
二本の深い溝。
それとは別に。
車輪の跡らしい窪み。
問題は。
その向きだった。
「こっち」
アルドが指す。
村へ戻る古道とは。
反対。
採石場の南側。
「道がある?」
レイラが見る。
一見すれば。
ただの森。
だが。
低木を分けると。
石敷きの一部が。
地面の下から出てきた。
「また道だ」
ヴェスパーが言う。
アルドが路肩を確認する。
「こっちは広い」
「どこへ?」
ガルムが古地図を開く。
しばらく。
黙る。
「載ってねえ」
「今の地図は?」
アルドも確認する。
「同じ」
地図に。
道はない。
それでも。
目の前には。
確かに。
人が作った。
古い路面がある。
「南?」
イリスが方角を確認する。
「南南東」
アルドが答える。
「この先に何かある?」
ヴェスパーがガルムを見る。
ガルムは長い間、地図と森を見比べた。
「俺が知ってる範囲じゃ、何もねえ」
「また?」
「悪かったな」
「責めてないって」
ガルムは鼻を鳴らした。
だが。
今度は。
知らないことを。
悔やむ顔ではなかった。
「じゃあ」
ヴェスパーが森を見る。
「地図にない道が、もう一本」
「ああ」
「追う?」
レイラがすぐ尋ねる。
ヴェスパーは。
少し。
考える。
村へ戻るまで。
ここまでで。
かなりの日数を使っている。
灰都では。
リクたちが待っている。
青年も。
店を開けている。
ノアも。
門の少年も。
戻ったら。
話すと。
約束した。
だからといって。
今見つけた道を。
無視する必要もない。
「今日は採石場を調べる」
ヴェスパーが言った。
「道は?」
「入口と方向だけ記録する。追うかは、そのあと決めたい」
レイラは。
少し。
続きを期待していた顔をした。
でも。
反対はしなかった。
「分かった」
イリスも頷く。
「私もその方がいいと思う。ここ自体まだほとんど見てないし」
「ガルムは?」
ヴェスパーが聞く。
男は。
地図を折り畳んだ。
「お前が決めろ」
「またそれ?」
「今回はお前の旅だ」
少し前なら。
重い言葉に。
聞こえたかもしれない。
今は。
そうでもなかった。
「じゃあ」
ヴェスパーは採石場を見る。
古い荷場。
研究組織の小屋。
村へ続く道。
地図にない。
もう一本の道。
「今日はここを見る」
それで。
決まった。
◇
昼。
採石場の端にある平らな場所で休憩を取った。
レイラが干し肉を見て、昨日と同じように顔をしかめる。
「旅の肉」
ヴェスパーが先に言った。
「覚えた?」
「嫌でも」
イリスが笑う。
「灰都戻ったら何食べる?」
「肉」
「具体性ゼロだね」
「でかいやつ」
「さらに分からなくなった」
セレスがパンを分けながら。
「戻った日の体調次第では、消化のいいものにしてください」
「今からそれ言う!?」
いつもの会話。
採石場。
研究組織。
過去。
それでも。
昼になれば。
腹が減る。
ヴェスパーは。
パンを一口食べ。
採石場の南。
森へ。
視線を向けた。
道は。
そこにある。
追えば。
また。
何かが見つかるかもしれない。
でも。
見つからないかもしれない。
あるいは。
戻るべき時が。
先に来るかもしれない。
「ヴェスパー」
ガルムが呼ぶ。
「何」
「食え」
「ああ」
「道見ながら食うな」
「別にいいだろ」
「こぼすぞ」
「子ども扱いすんな」
「昔は豆菓子ばっか見て飯こぼしてた」
「今その話する?」
レイラが笑い出す。
「何それ、詳しく」
「言うなよ!」
ガルムも笑った。
ヴェスパーは文句を言いながら、残ったパンを食べる。
地図にない道は。
逃げない。
少なくとも。
今すぐ追わなくても。
そこにある。
だから今日は。
ここまで運ばれたものと。
ここから運ばれたもの。
その痕跡を。
もう少し。
自分の目で。
確かめる。
急がず。
でも。
立ち止まり過ぎず。
自分で。
帰る時を。
決めるために。




