第3章 第48話 「故郷を歩く」
翌朝、ヴェスパーは皆より少し早く起きた。
昨夜の焚き火は白い灰を残して消えかけていたが、熾火はまだ生きている。薪を一本足すと、小さな炎がゆっくり戻ってきた。
村跡には朝霧が薄く漂っていた。
家々の基礎や崩れた石垣が霧の中から浮かび、その向こうで若い木々が風に揺れている。昨日まで何度も歩いた場所なのに、朝の光で見ると印象が違った。
ここに村があった。
今では、それを想像するための手掛かりしか残っていない。
けれど今日は、研究組織の痕跡を探すために歩くつもりはなかった。
昨日決めた通り。
自分が生まれ、五歳まで暮らした場所として、この村を見てみたかった。
「早いな」
背後から声がした。
ガルムだった。
「そっちも」
「歳取ると朝が早くなる」
「便利だな、歳」
「何でも歳のせいに出来るぞ」
「レイラに教えるなよ」
「もう自分で使ってそうだろ」
二人で少し笑う。
ガルムも昨夜より顔色は良かった。
ヴェスパーは火のそばに置いていた水を一口飲んでから、村の中央へ視線を向けた。
「今日」
「ああ」
「案内してくれる?」
ガルムは答えるまで少し間を置いた。
「何を見たい」
「分からない」
「困る答えだな」
「研究所とかじゃなくてさ」
ヴェスパーは、自分の家があった方を見た。
「普通に村を歩きたい」
ガルムの表情が少し変わる。
「俺がいた頃の話なら出来る」
「それでいい」
「記憶違いもあるぞ」
「それも込みで」
ガルムはしばらく黙っていたが、やがて頷いた。
「朝飯のあとだな」
「今でもいいけど」
「駄目だ」
「何で」
「セレスに怒られる」
「それはそう」
二人とも、ほぼ同時に野営地の方を見た。
ちょうどそこからセレスが出てくる。
「何か言いました?」
「何も」
「何も言ってない」
返事が重なった。
セレスは二人を見比べた。
「朝食前に勝手に出歩く相談ですか?」
ヴェスパーがガルムを見る。
ガルムもヴェスパーを見る。
「何で分かるんだろうな」
「怖いな」
「聞こえてます」
朝の村に、小さな笑い声が響いた。
◇
朝食を終えてから、村を歩き始めた。
同行したのはヴェスパーとガルムだけだった。
レイラは野営地の片付け、アルドは昨日見つけた古道と現在の地形の照合、イリスは記録整理をするという。セレスは「昼までには戻ってください」とだけ言い、二人を送り出した。
最初に向かったのは共同井戸だった。
「昨日も見たけど」
ヴェスパーが言う。
「見るだけじゃ分からんだろ」
ガルムは井戸から少し離れた場所へ立つ。
「昔は、この横に水場があった」
「水場?」
「洗い物する場所。井戸から汲んだ水を木桶に入れてな」
今では木桶どころか、それを置いた台さえ残っていない。
ただ、地面をよく見ると細い石の溝が走っていた。
「これ?」
「多分排水だ」
ヴェスパーはしゃがみ込み、草の間から溝を覗いた。
「母さんもここ使った?」
「使っただろうな」
「見たことある?」
「ああ」
ガルムは少し笑った。
「料理の鍋を洗ってた」
「料理、下手だったんだろ」
「かなりな」
「どれくらい」
「煮込み作らせると、水か炭になる」
「間がないな」
「火加減を見る気がなかった」
「それなのに料理してたの?」
「お前がいたからだろ」
ヴェスパーの笑いが、ほんの少し止まった。
ガルムも気付いたらしい。
余計な説明はしなかった。
「お前が三つか四つの頃だったと思う」
代わりに、昔話を続ける。
「鍋をひっくり返してな。あいつが本気で困った顔してた」
「母さんが?」
「ああ」
「俺は?」
「笑ってた」
「薄情だな」
「子どもだからな」
ヴェスパーは井戸を見る。
記憶は戻らない。
笑っている幼い自分も、困っている母親も見えない。
それでも。
昨日までただの石造りの穴だった井戸の周りに、少しだけ人の気配が生まれた気がした。
「本当かどうか分からない?」
ヴェスパーが聞く。
ガルムは一度考える。
「俺はそう覚えてる」
「じゃあ今はそれでいい」
「ああ」
二人は次の場所へ向かった。
◇
井戸から北へ行くと、少し広い平地があった。
今は草が茂っているが、中央だけ木が少ない。
「ここは?」
「広場」
「何に使ってた?」
「大体何でもだ。荷車止めたり、祭りしたり、子どもが走り回ったり」
「祭り?」
「年に二回。春と秋」
ヴェスパーは思わず足を止めた。
「俺、祭り見た?」
「見てる」
ガルムの返事は早かった。
「覚えてる?」
「お前が?」
「あんたが」
「そりゃな」
ガルムが広場の端を指差す。
「秋の祭りで、お前はあそこから落ちた」
「何から?」
「屋台」
「何してたんだよ」
「勝手に登った」
「五歳以下で?」
「母親に似たんだろ」
「そこ似る?」
「高い場所好きだったぞ、あいつ」
ガルムは笑っている。
「落ちて怪我した?」
「泣いた」
「怪我は?」
「膝擦りむいた程度」
「誰が助けた?」
「俺」
「母さんは?」
「笑ってた」
「酷くない?」
「その後ちゃんと手当てしてた」
ヴェスパーは広場を歩く。
屋台がどこにあったのか。
どれくらい人がいたのか。
何の匂いがしたのか。
何も分からない。
「食べ物は?」
「串焼き。芋。甘い豆菓子」
「甘いのあったんだ」
「お前、豆菓子ばっか食ってた」
ヴェスパーが振り返る。
「俺、甘いの好きだった?」
「かなり」
「初耳なんだけど」
「聞かれなかったからな」
「そういうこともっと早く言えよ」
「何でだ」
「俺の話だぞ」
「豆菓子好きだったくらい、命に関わらねえだろ」
「そういう話の方が聞きたい時もあるんだよ」
ガルムが少し黙った。
「……そうか」
「うん」
「じゃあ言っとく」
「何」
「お前、祭りの日だけは飯残した」
「甘いの食べ過ぎ?」
「そうだ」
「今とあんまり変わらないかもしれない」
「今のお前、そこまで甘党じゃねえだろ」
「菓子屋行く回数増えた」
「名前ないのがいるからだろ」
「それもある」
ヴェスパーは笑った。
今度、灰都へ戻ったら。
名前のない青年へ。
豆菓子の話をしてみようと思った。
◇
広場の西側には、村で一番大きな建物があったらしい。
現在残っている基礎だけでも、他の家より明らかに広い。
「集会所とは別?」
「こっちは酒場兼宿」
ガルムが言う。
「旅人も来てた?」
「少ないけどな。街道沿いじゃない村だから、わざわざ来る奴は鉱石商か猟師くらいだった」
「研究組織の人間も?」
口にした瞬間。
昨日までの調査へ、話が戻りかける。
ヴェスパー自身が気付いた。
「……今日はやめとく」
ガルムが横を見る。
「いいのか」
「後で聞ける」
「そうか」
酒場跡の奥には、石造りの炉が一部だけ残っていた。
「料理?」
「ああ」
「母さんより上手かった?」
「比べるのが失礼だ」
「そこまで?」
「昔ここの親父が、あいつに厨房入るなって言ってた」
「何したの」
「鍋焦がした」
「また鍋か」
「しかも店の」
「酷い」
ヴェスパーは声を上げて笑った。
ガルムもつられて笑う。
笑いが落ち着いてから。
ヴェスパーは炉の側面へ手を置いた。
「母さん」
「ん?」
「本当にここで暮らしてたんだな」
ガルムはすぐには答えなかった。
「いたよ」
短い。
でも。
それで十分だった。
◇
次に向かったのは、村の南側。
石垣の向こうに、段々状の畑跡が残っている。
昨日も見た場所だが、ガルムに言われるまで、ヴェスパーはそこが三段に分かれていることへ気付いていなかった。
「上が豆。真ん中が芋。下は季節によって違った」
「村みんなで?」
「家ごとに区画はあったが、水路は共同」
ガルムは畑の端へ歩いていく。
そこに、低い石組みの水路があった。
途中で崩れ、今では水は流れていない。
「子どもの頃、お前はここへよく来た」
「何してた?」
「虫」
「虫?」
「捕まえてた」
「俺が?」
「意外か?」
「剣とか振ってたのかと思った」
「五歳だぞ」
「そうだけど」
「棒は振ってた」
「やっぱり」
「でも大体虫追ってた」
ヴェスパーは思わず笑う。
「どんな虫」
「羽が青いやつ」
「名前は?」
「知らん」
「ガルムでも知らない?」
「虫に興味ねえ」
「母さんは?」
「お前が持って帰って怒ってた」
「何で」
「寝床に入れたから」
「俺、結構酷い子どもじゃない?」
「普通だろ」
「普通かな」
「少なくとも化け物じゃねえ」
その言葉。
何気ない。
けれど。
ヴェスパーの胸へ。
少し残った。
黒火。
異常な接続。
研究対象。
灰星。
今まで自分の幼少期について聞く話は、どこかそういうものと結びついていた。
でも。
虫を捕まえた。
屋台から落ちた。
豆菓子を食べすぎた。
母親の寝床へ虫を持ち込んだ。
そういう子どもでも。
あった。
「ガルム」
「何だ」
「ありがとう」
男が怪訝そうな顔をする。
「急に気持ち悪いな」
「やっぱ言わなきゃよかった」
「何の礼だ」
「普通の話」
ガルムは。
少しだけ。
表情を変えた。
「そういうのなら」
「うん」
「まだある」
「聞かせて」
「ああ」
◇
午前のほとんどを、二人は村の中を歩いて過ごした。
鍛冶場。
小さな家畜小屋。
昔は子どもたちが冬に滑ったという斜面。
村の外れにあった古い祠。
どれも今では形を失っている。
けれど、ガルムの話を聞きながら歩くと、昨日までとは違って見えた。
村人たちの名は、ほとんど聞かなかった。
ガルムも意識して避けている。
灰星が名前を辿る可能性がある以上、死者であっても不用意に口にしない方がいい。
その代わり。
「鍛冶屋の親父」
「豆を作っていた婆さん」
「酒場の主人」
「祭りで太鼓を叩いていた男」
呼び名だけで話をする。
それでも。
人はいた。
名を口にしなくても。
生活は消えない。
「変だな」
ヴェスパーが言った。
「何が」
「名前分からないのに、昨日より村に人がいる感じする」
「それでいいんじゃねえか」
「いいの?」
「俺に聞くな」
「そこは何か言えよ」
ガルムが少し笑った。
◇
最後に。
二人はヴェスパーの家跡へ戻った。
午前の光が、低い基礎を照らしている。
昨日アルドが見つけた、本来の家の外周もそのまま残っていた。後から一部を外され、土で埋め戻されたことが分かっている。
「昨日より大きく見えるな」
ヴェスパーが言う。
「実際大きかった」
「部屋は?」
ガルムが足元を確かめる。
「入口が多分こっち。炉があそこ」
今は草しかない場所。
「寝床は?」
「奥」
二人で。
そこへ歩く。
「俺の部屋?」
「お前と母親で同じ部屋だった時期もある。最後の頃は、小さい部屋を一つ使ってた」
「一人で寝てた?」
「夜中に母親のとこ行ってたけどな」
「……それ言う必要あった?」
「聞いただろ」
「言い方あるだろ」
「五歳なんてそんなもんだ」
ヴェスパーは少し恥ずかしくなりながらも、部屋だった場所へ立った。
昨日。
「ただいま」と言って。
違うと思った。
今も。
ここが帰る場所だとは。
まだ思わない。
でも。
昨日とは少し違う。
「ここで寝てたんだな」
「ああ」
「母さんは」
隣。
「多分あそこ」
数歩しか離れていない。
「近い」
「小さい家だからな」
「最後の夜も?」
ガルムの表情が変わる。
質問したあとで。
ヴェスパーは。
自分から首を振った。
「やっぱり今はいい」
「いいのか」
「今日は普通の話聞くって決めたから」
ガルムは。
少し長く。
ヴェスパーを見る。
「そうか」
それだけ答えた。
◇
基礎の端へ座り。
二人で水を飲む。
風。
木々。
鳥。
昨日まで。
静かすぎると感じた村跡。
今日は。
少し違った。
「ガルム」
「何だ」
「この村、好きだった?」
予想していなかったのか。
男が。
少し。
考え込む。
「俺が?」
「ああ」
「住んでたわけじゃねえぞ」
「でも何度も来てたんだろ」
「まあな」
ガルムは。
村の広場。
井戸。
畑。
一つずつ。
見る。
「嫌いじゃなかった」
「母さんがいたから?」
「それもある」
「それも?」
「飯がうまかった」
「母さん以外の?」
「当然だ」
「即答するなよ」
ヴェスパーが笑う。
ガルムも。
少し笑った。
「酒場の親父の煮込みは旨かった」
「母さんは?」
「水」
「分かったよ」
「あと静かだった」
ガルムの声が。
少し落ち着く。
「灰都より小さくて、王都みたいに人も多くない。夜になると本当に何も聞こえなかった」
「今みたい?」
「今よりは人の音があった」
「そうだよな」
子どもの声。
鍛冶。
家畜。
料理。
誰かが。
誰かを。
呼ぶ声。
「俺も好きだったと思う?」
ヴェスパーが聞く。
「知らん」
「そこは言えない?」
「ああ」
ガルムは。
少しだけ。
ヴェスパーを見る。
「でも、お前はよく走り回ってた」
「嫌いだったら?」
「五歳なら嫌いでも走るだろ」
「確かに」
無理に。
意味を。
付けない。
それも。
今日は。
悪くなかった。
◇
昼前。
二人が野営地へ戻ると、レイラが鍋の前で待っていた。
「遅い」
「昼までって言われた」
ヴェスパーが空を見る。
「まだ昼前」
「腹減ったら昼」
「お前基準だろ」
「世界は腹時計で動く」
「動かない」
アルドが地図から顔も上げずに言った。
イリスは記録をまとめ終えたらしく、紙を箱へ戻している。
「どうだった?」
ヴェスパーへ聞く。
「村?」
「うん」
ヴェスパーは。
少し。
考えた。
「思ってたより、普通だった」
イリスが首を傾げる。
「普通?」
「俺が子どもの頃」
鍋。
祭り。
虫。
豆菓子。
「研究とか灰星とかじゃない話、いっぱいあった」
「そっか」
イリスは。
それ以上。
詳細を聞かなかった。
ヴェスパーが話したければ。
後で話せばいい。
「で」
アルドが地図を折り畳む。
「午後どうする?」
昨日見つけた。
南東へ続く古道。
その先。
古い採石場。
炉が運ばれた可能性のある方向。
ヴェスパーは。
迷わなかった。
「行こう」
ガルムが。
横を見る。
「もういいのか」
「ああ」
「村は?」
「見た」
それだけではない。
「全部じゃないけど、今日見たかったものは見た」
ヴェスパーは。
少し笑った。
「今度は、村から出たものを追いたい」
アルドが頷く。
「なら午後から古道を確認する。無理なら途中で野営」
「了解」
レイラが斧を持ち上げる。
「今度こそ何か切れる?」
「倒木なら」
「やった」
「道を切らないで」
「切らないよ!」
◇
昼食を終える前に。
ヴェスパーは。
一度だけ。
自分の家跡へ戻った。
誰も。
付いてこなかった。
朝。
ガルムと。
話した場所。
屋根も。
壁も。
ない。
五歳の自分を。
思い出すことも。
出来ない。
それでも。
昨日。
ここへ立った時とは。
違う。
「行ってくる」
小さく。
言ってみた。
昨日の。
「ただいま」より。
少し。
自然だった。
返事はない。
当然。
でも。
それでいい。
故郷は。
ヴェスパーへ。
何も。
命じなかった。
名前も。
呼ばなかった。
戻れとも。
残れとも。
言わない。
ただ。
ここに。
あった。
それで。
十分だった。
ヴェスパーは。
家跡を離れた。
◇
午後。
六人は村の東側を抜け、昨日見つけた搬出口へ向かった。
そこから先は、古い道を辿る。
アルドが前。
ガルム。
ヴェスパー。
イリス。
セレス。
最後にレイラ。
「何で私最後?」
「後ろから何か来たら一番強いから」
アルドが答える。
レイラが。
少し。
嬉しそうになる。
「そういう理由ならいい」
「単純」
イリスが小声で言う。
「聞こえてるぞ」
森の中。
細い道。
今度は。
村へ戻るための道ではない。
何かを。
外へ運ぶために。
作られた可能性のある道。
ヴェスパーは。
歩きながら。
一度だけ。
後ろを振り返った。
木々の向こう。
もう。
村は見えない。
でも。
昨日とは違って。
見えなくなったからといって。
消えた気はしなかった。
自分の中に。
新しい記憶が。
出来たからだ。
母親の鍋。
祭りの屋台。
豆菓子。
青い羽の虫。
ガルムが。
覚えていた話。
そして。
今日。
自分が。
自分の足で。
村を歩いたこと。
どれが。
いつまで。
残るか。
分からない。
それでも。
今は。
覚えている。
ヴェスパーは。
前を向いた。
古道は。
森の奥へ。
続いていた。




