第3章 第46話 「地下に残らなかったもの」
かつて集会所があったという場所は、ヴェスパーの家跡から東へ百歩ほど離れていた。
ガルムの記憶では、村の中でも比較的大きな建物だったらしい。普段は寄り合いや荷の確認に使われ、祭りの時期には長机を並べて食事もしたという。だが今、その場所に建物らしいものは残っていなかった。あるのは地面からわずかに頭を出した石の列と、周囲より不自然に平らな草地だけだ。
「この辺だったはずだ」
ガルムは井戸と斜面の位置を何度も見比べたあと、草地の中央付近で足を止めた。
「地下への入口も?」
「建物の中にあった。普段は床板で隠してた」
ヴェスパーが周囲を見渡す。床も壁もなくなった今では、どこが建物の中央だったのかさえ判然としない。
「最初から研究施設だったのか?」
「違う。少なくとも村の連中はそう思ってた」
「ガルムは?」
「俺もだ。地下室があること自体は知ってたが、昔は食料や祭具を置く程度の倉庫だった。あんな炉を持ち込める広さがあるなんて、襲撃の前まで知らなかった」
イリスが眉を寄せる。
「後から広げた?」
「多分な」
「いつ?」
「それが分かってりゃ苦労しねえよ」
返事はいつものガルムらしかったが、声に普段の軽さはなかった。
アルドは会話へ混ざらず、すでに地面を調べ始めていた。棒状の工具を草の間へ差し込み、土の固さを確かめる。数歩移動してまた刺し、反応を比べている。
レイラがその様子をしばらく見たあと、斧の柄へ手を掛けた。
「掘った方が早くないか?」
「どこを?」
「この辺」
「この辺全部掘るつもり?」
「六人いるし」
「数の問題じゃないよ」
イリスに言われても、レイラは納得していない顔をしている。
「地下があるなら上から崩せば見つかるだろ」
「入口と一緒に地下まで潰したらどうする」
アルドが地面を見たまま答えた。
「じゃあ丁寧に崩す」
「その言葉、レイラが言うと怖い」
「何でだよ」
ヴェスパーが思わず笑うと、張り詰めていた空気がわずかに緩んだ。
セレスだけは周囲よりヴェスパー自身を見ていた。
「胸の熱は?」
「村に入った時とあまり変わらない」
「強くなったら、調査の途中でも教えてください」
「分かってる」
「今の返事は信用します」
「昨日までは?」
「半分くらいでした」
「低いな」
レイラが横から口を挟む。
「私は?」
「何の信用ですか?」
「体調」
「レイラは自分で痛みに気付いても、そのまま斧を振るでしょう」
「……半分くらい?」
「三割です」
「ヴェスパーより低い!」
今度はイリスまで笑った。
その間にも、アルドは地面を確かめ続けていた。
やがて彼の工具が、硬いものへ触れた。
金属のような高い音ではない。石とも少し違う、鈍い反響だった。
「ここ」
全員が集まる。
アルドは同じ場所をもう一度確かめたあと、その周囲を歩幅で測った。
「下に空間があるかもしれない」
「入口?」
「まだ分からない。天井かもしれない」
ガルムは位置を確かめ、少し首を傾げた。
「俺が覚えてる入口より東だ」
「記憶違い?」
イリスが慎重に尋ねる。
「かもしれん。ただ、入口は集会所の西側だったと思う」
アルドはすぐに掘り始めなかった。
周囲の地面をさらに調べ、同じ反響が続く範囲を確かめていく。結果、地下空間らしいものは想像していたより広かった。少なくとも集会所跡の半分以上に及んでいる。
「倉庫って広さじゃないね」
イリスが言う。
「襲撃の夜に見た時は、もっと先まで続いてた」
ガルムの視線が草地の奥へ向く。
「俺も全部は見てねえ」
「その時、炉はどこにあった?」
「中央より東だ。なら、今反応してる場所に近い」
ヴェスパーは足元を見た。
二十四年前。
この地面の下で、何かが自分と灰星を繋ごうとしていた。
ガルムから聞いた話では、母親はそれに気付き、村を離れる準備をしていた。そして出発する前日に襲撃が起こった。
その話を、これまでヴェスパーはほとんどガルムの記憶からしか知らなかった。
初めて。
その場所が、自分の足の下にある。
「掘ろう」
ヴェスパーが言う。
アルドは頷いた。
「ただし、入口らしい場所を探してから。天井を直接壊すのは最後」
「分かった」
「レイラも」
「分かってるよ!」
◇
入口を見つけるまで、一時間以上掛かった。
決め手になったのは、建物の基礎ではなかった。
集会所跡から少し下った場所で、アルドが細い溝を見つけたのだ。初めは雨水が作った跡にしか見えなかったが、土を払うと底に平たい石が並んでいた。
「排水路だ」
アルドは溝を目で追いながら斜面を下った。
「地下から外へ水を逃がしてたんだと思う」
イリスもその後を追う。
「なら逆に辿れば地下へ戻れる?」
「水路そのものは細すぎる。でも設備の位置は絞れる」
排水路を上流へ辿ると、集会所跡の東端で土の中へ消えていた。
その付近を改めて調べる。
今度はヴェスパーにも違和感が分かった。
「ここだけ石が違わない?」
草の下にある平たい石の一枚だけが、周囲より新しい。新しいといっても数十年は経っているだろうが、村の基礎に使われている石とは色も加工も違っていた。
アルドが表面の土を払い、周囲を掘る。
石だと思っていたものは、石板ではなかった。
薄い石を貼り付けた金属板だった。
「隠してる」
イリスが声を落とした。
さらに土を取り除くと、長方形の輪郭が現れた。人一人が屈んで通れるほどの大きさがある。
ただし、普通の扉には見えない。
外側から大量の石と土を積み、完全に埋め戻されていた。
「村が焼けた時の崩落じゃないな」
レイラでも分かるほど、石の積み方は整っていた。
「そうだね」
アルドが頷く。
「大きい石を奥へ入れて、その隙間へ小石を詰めてる。最後に土を被せてある」
「閉じた?」
ヴェスパーが聞く。
「誰かが意図的に」
それ以上は言わない。
誰が。
いつ。
なぜ。
今はまだ分からない。
ガルムは埋め戻された扉を、長い間黙って見ていた。
「こんなのは知らねえ」
「襲撃の夜には?」
「なかった。この辺は壁だったはずだ」
「じゃあ後から作った入口?」
「それも分からん」
ガルムの返答が増えるたび、本人の顔色は少しずつ悪くなっている。
セレスが見かねて声を掛けた。
「少し休みますか?」
「いらん」
「ガルム」
「大丈夫だ」
ヴェスパーは、その言葉を聞いて少しだけ眉を上げた。
「俺が言ったら止めるくせに」
「お前と一緒にすんな」
「顔色悪いって言われてるぞ」
「元からだ」
「昨日も同じこと言ってた」
ガルムが嫌そうな顔をした。
セレスが静かに追い打ちを掛ける。
「五分だけで構いません」
「……分かったよ」
ガルムは近くの石へ腰を下ろした。
レイラが小声でヴェスパーへ言う。
「セレス、本当に強いな」
「聞こえてますよ」
「ごめん」
レイラが即座に謝る。
ヴェスパーは笑いながらも、少し安心した。
ガルムが休んでいる間に、アルドとイリスは扉周辺の状態を確認した。
星脈を使う道具は出さない。
金属棒。
縄。
小型の滑車。
手作業だけで、埋め戻された石を少しずつ取り除いていく。
レイラはようやく力を使える場面が来たことに満足そうだったが、アルドから何度も「一個ずつ」と言われ、そのたびに不満そうな顔をした。
「まとめて持てるぞ」
「知ってる。でも下が崩れるかもしれない」
「二個なら?」
「一個」
「一個半」
「どうやって」
「……一個でいい」
◇
昼を過ぎた頃。
金属扉の全体が見えた。
高さは人の胸ほど。横幅も狭い。元々設備搬入用ではなく、保守用の出入口だったのかもしれない。
表面には錆が広がっていたが、完全には腐食していない。
そして扉の端に、小さな印があった。
朝見つけた金属板と同じ。
研究組織の印。
「間違いないな」
ガルムが言った。
ヴェスパーは印を見ながら尋ねる。
「村の人間は、この印を知ってた?」
「俺が知る限りじゃ知らねえ」
「母さんは?」
「気付いてた可能性はある」
「聞いてない?」
「あいつは全部俺に話してたわけじゃねえよ」
ヴェスパーが横を見る。
「仲良かったんじゃないの?」
「仲がいいのと、全部喋るのは別だ」
「それは分かる」
「なら聞くな」
ガルムは少しだけ笑った。
そのやり取りを聞きながら、イリスは扉の構造を調べている。
「鍵は壊れてる」
「壊された?」
ヴェスパーが聞く。
「違うと思う」
イリスは金属片を指で示した。
「内部の部品が抜かれてる。無理やりこじ開けた感じじゃない」
「誰かが鍵を外した?」
「たぶん。閉じたあと、もう開けないつもりだったのかもしれない」
「外から?」
「そこまでは分からない」
アルドが扉の下へ細い金属板を差し込み、内部の抵抗を確かめた。
「扉自体は動く。ただ、中から何か倒れてる可能性がある」
「開ける?」
レイラが尋ねる。
「少しだけ」
アルドは先に縄を固定した。万が一、扉の奥で床が抜けていたり、何かが倒れてきたりした場合に備えるためだ。
次に、扉の隙間へ小さな金具を差し込む。
力を掛ける。
金属が軋む。
長く閉じていた扉が、数センチだけ動いた。
中から風は出なかった。
「止めて」
セレスが言う。
全員が手を止める。
「空気を確認します」
イリスが火を使おうとしたが、セレスが首を振った。
「最初は匂いだけ」
扉の隙間へ近付き過ぎない距離で、アルドが空気の流れを確かめる。
「強い臭気はない。腐敗臭も」
「油の匂いがする」
ガルムが言った。
ヴェスパーも気付いた。
古い金属。
湿った土。
その奥に、機械油のような匂いが薄く残っている。
「二十四年経っても?」
イリスが不思議そうにする。
「地下なら残ることはある」
アルドはそう答えたが、声には確信がなかった。
扉をさらに少し開く。
光が、暗い内部へ差し込む。
階段。
下へ。
続いている。
その瞬間、ヴェスパーの胸の奥で黒い熱が明確に強まった。
「待って」
自分から言った。
全員が止まる。
セレスがすぐに近付く。
「痛みますか?」
「痛くはない。でも、さっきより熱い」
「目眩は?」
「ない」
「耳鳴り」
「ない」
ガルムの目が鋭くなる。
「戻るか?」
ヴェスパーは地下への階段を見た。
暗い。
何も。
見えない。
「少し待つ」
そう答えた。
以前なら、そのまま進んでいたかもしれない。
今は数分。
石へ座り。
水を飲んだ。
呼吸を整える。
黒い熱は消えない。
けれど、それ以上強くもならなかった。
「行けそう」
セレスを見る。
彼女は少し考えてから頷いた。
「入口から最初の部屋まで。それ以上は、状態を見て決めます」
「分かった」
ガルムも反対しなかった。
◇
最初に降りたのはアルドだった。
縄を腰へ繋ぎ、灯りを持って階段を確認する。十数段下りたところで平らな床に着いたらしい。
「崩れてない。床も持つ」
次にガルム。
ヴェスパー。
セレス。
イリス。
最後にレイラ。
「私最後?」
「階段壊れたら困る」
「アルド!」
「重量の話」
「分かってる!」
地下へ降りるにつれ、外の音が消えていく。
鳥。
風。
葉。
代わりに、自分たちの足音だけが石壁へ返る。
最初の部屋は小さかった。
元々は荷置き場だったのか、壁際に木製の棚がいくつか残っている。大半は腐り、床へ崩れていた。
「ここは覚えてる?」
ヴェスパーがガルムへ聞く。
「ああ。襲撃の夜も通った」
「火は?」
「もっと奥」
壁には煤が付いていた。
ただ、天井や床は焼け落ちていない。
「火事が地下全部に回ったわけじゃない」
イリスが言う。
「上の村とは別?」
「少なくともここは」
ガルムが灯りを持ち、奥の通路へ向けた。
「この先に炉があった」
ヴェスパーの胸がまた熱を持つ。
セレスが気付いた。
「どうです?」
「強くなってる。でもまだ大丈夫」
「まだ、を付けましたね」
「……進める程度」
「それなら」
セレスは頷いた。
「少しずつ」
一行は奥へ進んだ。
通路の壁には後から付け加えられたような金属管が何本も走っている。多くは途中で切断され、先端を塞がれていた。
「これ、誰が切った?」
レイラが尋ねる。
イリスが近付いて断面を見る。
「刃物じゃない。専用工具かな」
「古い設備?」
「星脈系に見えるけど、今は流れてない」
イリスはそれ以上触らなかった。
通路を二度曲がる。
そこで。
ガルムが足を止めた。
「ここだ」
◇
炉室は、思っていたより広かった。
天井も高い。
壁には金属製の支持具が並び、床には円形の設備跡がある。
ただし。
そこにあるはずのものが。
なかった。
ヴェスパーは最初、それが何を意味するのか分からなかった。
「炉は?」
誰にともなく聞く。
ガルムは。
答えなかった。
部屋の中央へ。
ゆっくり歩く。
床。
円形の台座。
太い固定具。
そこに。
何か巨大なものが。
置かれていたことだけは分かる。
「これが」
イリスも息を呑む。
「星脈炉の台座?」
「そうだ」
ガルムがようやく答えた。
声が。
少し掠れている。
「ここにあった」
「壊れたんじゃないの?」
ヴェスパーが聞く。
「俺は……」
ガルムは。
台座を見る。
「壊されたと思ってた」
「見てない?」
ヴェスパーの声に責める響きはなかった。
ただ。
確かめる。
「襲撃の夜、ここまで来た時には炉が暴走してた。お前と繋がってた線を切るのが先だった。そのあと村が崩れ始めた」
「炉が壊れたところは?」
「見てねえ」
ガルムは。
両手を。
ゆっくり握った。
「俺はお前を連れて出た」
ヴェスパーは。
それ以上。
何も言わなかった。
アルドはすでに中央の台座を調べていた。
「ガルム」
「何だ」
「これ、爆発してない」
部屋の全員が彼を見る。
「何で分かる?」
レイラが聞いた。
「固定部が残ってるから」
アルドは台座の端にある金属製の留め具を示した。
「炉がここで壊れたなら、これも曲がるか裂ける。少なくとも全部同じ方向へ綺麗には残らない」
「じゃあ」
ヴェスパーが近付く。
「炉は?」
「外された」
短い言葉だった。
だが。
部屋の空気が。
そこで変わった。
イリスも台座へしゃがみ込む。
「本当に?」
「見て」
アルドは留め具の穴を示す。
「固定ボルトを抜いた跡がある。折れてない。一本ずつ外してる」
「いつ?」
「そこまでは――」
言いかけ。
アルドが。
別の場所を見る。
台座の下。
煤。
黒い。
薄い層。
その上に。
金属を引きずったような。
長い。
傷。
「待って」
アルドが。
指で。
直接は触れず。
傷を追う。
「この跡」
イリスも。
息を止める。
「煤の上?」
「そう」
ヴェスパーには。
意味が。
すぐには。
分からない。
「どういうこと」
イリスが。
今度は。
慎重に。
説明した。
「先にここが焼けた。その煤が床に積もった」
「うん」
「そのあとで」
引きずり跡。
「重いものを動かしてる」
ヴェスパーは。
もう一度。
中央の。
空いた台座を見る。
襲撃。
火事。
その後。
誰かが。
ここへ来た。
炉を。
壊したのではなく。
外した。
「持っていった」
レイラが言う。
アルドは。
少しだけ。
頷いた。
「少なくとも、ここから移動させた可能性が高い」
「どこへ?」
「分からない」
「誰が?」
「それも」
誰も。
無理に。
答えを作らない。
◇
ガルムは。
ずっと。
空の台座を見ていた。
「俺は」
低い声。
「炉は壊れたと思ってた」
ヴェスパーが。
隣へ立つ。
「あんたが見たのは?」
「暴走してた炉。お前へ伸びてた接続。あと」
一度。
呼吸。
「お前の母親がここにいた痕跡」
ヴェスパーの視線が。
ガルムへ向く。
「痕跡?」
「血だ」
それ以上。
細かくは。
言わない。
「だから」
ガルムは続ける。
「俺はあいつが炉を止めたと思った。壊したか、壊れるようにしたか……何かしたって」
「でも炉はない」
「ああ」
「母さんが持っていった可能性は?」
ガルムが。
目を閉じる。
「ある」
「研究組織が?」
「ある」
「別の誰か」
「ある」
ヴェスパーは。
少し。
笑った。
「全部あるな」
「腹立つくらいな」
「じゃあ」
空の。
台座。
見る。
「今は、持ち出されたってところまで?」
「ああ」
イリスが。
そこへ。
加わる。
「正確には『炉と思われる大型設備が、火災後に台座から撤去された形跡がある』」
レイラが。
顔をしかめる。
「長い」
「記録だから」
「持ってかれた、じゃ駄目?」
「誰かが持っていったかも断定出来ないでしょ。別の部屋へ移しただけかもしれない」
「同じ地下に?」
「可能性はある」
レイラが天井を見る。
「面倒だな」
「調べるって、だいたいそういうもの」
ヴェスパーは。
少し笑った。
その笑いが。
思ったより。
自然だった。
◇
炉室の奥には、さらに一本の通路があった。
ただし、十歩ほど先で完全に崩れている。
アルドが近付いて状態を見たあと、首を横に振った。
「今日は触らない方がいい」
「向こうへ炉運んだ?」
ヴェスパーが尋ねる。
「引きずり跡はそっちへ続いてる」
床。
煤の上。
細い傷が。
崩落した通路へ。
消えている。
「出口があった?」
「かもしれない」
ガルムは眉を寄せた。
「俺は知らん」
「また知らない道」
「そうなるな」
ガルムの声には。
少し。
苦味がある。
自分が知っていると思っていた村。
自分が知っていると思っていた地下。
実際には。
知らないものが。
次々。
出てくる。
「ガルム」
ヴェスパーが。
呼ぶ。
「何だ」
「今日はここまでにしよう」
男が。
少し驚いたように見る。
「お前が言うのか」
「何だよ」
「いや」
ガルムは。
少し。
笑った。
「そうしよう」
イリスが。
珍しく。
反対しない。
「私も賛成。まず今日分かったこと整理したい」
「掘らない?」
レイラが聞く。
「掘らない」
「本当に?」
「何で私まで疑われるの!」
アルドが。
静かに。
「明日は崩落箇所の安全確認から」
「アルドまで!」
セレスが笑った。
◇
地下を出た時には、日がかなり傾いていた。
入口は完全には埋め戻さず、外から不用意に入れないよう石と板で仮封鎖した。アルドが目印を付け、翌日また安全を確認する予定だ。
一行は村の中央に近い、比較的地面の安定した場所へ簡単な野営地を作った。
レイラが薪を集め、アルドが火床を作る。イリスは記録をまとめ、セレスは全員の体調を確認した。
「ヴェスパー」
「はい」
呼ばれる前から。
分かっていた。
「胸は?」
「地下を出たら少し下がった」
「痛みなし?」
「なし」
「頭痛」
「なし」
「耳鳴り」
「なし」
セレスは頷いた。
「今夜は残火も黒火も使わないでください」
「使う予定ないよ」
「予定外で使う人なので」
「信用低いな」
「最近は上がってます」
「何割?」
「七割」
「やった」
「喜ぶところですか?」
レイラが横から。
「私三割だった」
「張り合うなよ」
夕食は保存食と、宿場で分けてもらった乾燥野菜を煮た簡単なスープだった。
味は薄い。
レイラが塩を足そうとして、セレスに止められる。
「入れすぎです」
「まだ入れてない」
「手の量で分かります」
「何でみんな私のこと分かるんだよ」
「分かりやすいから」
イリスが笑う。
「お前に言われたくない!」
村跡に。
人の声が。
少しだけ。
戻ってきた。
ヴェスパーは。
それが。
不思議だった。
二十四年前。
ここで。
人が。
暮らしていた。
今は。
家もない。
名前も。
道標から。
消えている。
それでも。
六人で。
鍋を囲んでいる。
昔の生活が。
戻ったわけではない。
ただ。
今日。
ここで。
新しい夕食が。
一度。
あった。
◇
食後。
ヴェスパーは一人で家跡へ向かった。
昼に立った場所。
草。
低い基礎。
暗くなると。
余計に。
家には見えない。
少しして。
後ろから。
足音。
振り返らなくても。
誰か。
分かった。
「来ると思った」
「何で」
ガルムが。
隣へ来る。
「何となく」
「便利な言葉だな」
「名前のない奴に教わった」
「変なところ似てきたな」
二人。
しばらく。
何も言わず。
家跡を見る。
「母さんが」
ヴェスパーが。
先に口を開く。
「炉を壊したって、俺もどこかで思ってた」
ガルムが。
横を見る。
「俺がそう話したからだ」
「うん」
「悪かった」
思っていなかった言葉が返ってきた。
ヴェスパーが。
少し。
驚く。
「謝るんだ」
「殴るぞ」
「何で」
「人が謝ってんのに」
「ごめん」
少しだけ。
笑う。
それから。
ヴェスパーは。
真面目な声へ戻った。
「責めてない」
「……そうか」
「あんたが嘘ついたわけじゃないだろ」
「俺は自分が見たことと、そうだと思ったことを混ぜてた」
「今なら分けられる?」
「たぶんな」
「なら」
ヴェスパーは。
足元。
家。
見る。
「これからは、見たものから考えよう」
ガルムが。
何も言わない。
「炉は壊れてなかった」
「ああ」
「火事のあと、誰かが外した」
「多分な」
「村の建物も、誰かが後から手を入れた」
「ああ」
「道標は削られた。でも、いつかは分からない」
「そうだ」
「母さんが何をしたかは」
少し。
胸。
痛む。
それでも。
言う。
「まだ分からない」
ガルムが。
ゆっくり。
頷いた。
「ああ」
その返事が。
今日は。
一番。
必要だった気がした。
◇
夜。
焚き火が小さくなる。
森。
虫。
遠い。
風。
ヴェスパーは毛布へ入りながら。
昼に見た。
空の台座を。
思い出した。
今まで。
自分の過去には。
空白が多かった。
だから。
人の話で。
埋めていた。
ガルムの記憶。
古い記録。
門から聞こえた声。
灰星。
黒翼。
どれも。
必要だった。
でも。
今日。
一つ。
分かった。
空白を。
急いで。
物語で。
埋めなくてもいい。
炉が。
消えていた。
それが。
今日。
自分の目で。
見たこと。
誰が。
持っていったのか。
なぜ。
火事のあと。
村へ戻ったのか。
その答えは。
まだない。
でも。
明日も。
自分の足で。
調べられる。
ヴェスパーは。
暗い。
村跡を見る。
家のない。
故郷。
名前のない。
道。
そして。
地下から。
なくなっていた。
星脈炉。
全部。
分からないまま。
残っている。
それで。
今夜は。
いい。
目を閉じる。
明日は。
崩れた通路の。
向こう側を。
確かめる。




