第1章 第7話 「旧水路」
灰都アッシュベルクの夜は、深くなるほど音が増える。
表通りでは酒場の笑い声が響き、下層街では屋台の火が揺れ、旧工業街では壊れた機械が風に軋んでいた。
だが、都市の北東端にある排水塔だけは違った。
そこには、人の気配がほとんどなかった。
高くそびえる円筒形の塔。
外壁はひび割れ、鉄製の階段は赤く錆びている。
かつて灰都の地下水路を管理していた施設だと、ラドックは言っていた。
今では使用されていない。
少なくとも、表向きは。
「ここから入るのか」
レイラが排水塔を見上げた。
夜空を背にした塔は、まるで巨大な墓標のようだった。
イリスは端末を片手に、入口付近の古い制御盤を調べている。
「正面入口は封鎖済み。だけど、地下点検用の通路が生きてる」
「生きてるって言い方、嫌だな」
「死んでるよりマシでしょ」
「どっちも嫌だ」
レイラは戦斧を担ぎ直す。
ヴェスパーは排水塔の周囲を静かに見渡していた。
人の熱は少ない。
だが、完全に無人ではない。
塔の内部。
地下へ続く方向。
微かな熱源がいくつかある。
それは人間のものに似ていた。
だが、どこか歪んでいる。
体温が低すぎる。
「下に何かいる」
ヴェスパーが言った。
レイラの表情が引き締まる。
「人か?」
「分からない」
「分からないってのが一番嫌だな」
イリスが制御盤の蓋を外しながら言った。
「黒い翼の施設なら、普通の人間だけじゃないかもね」
「脅すな」
「事実確認だよ」
カチリ、と音がした。
錆びた扉の奥で、古い鍵が外れる。
排水塔の入口がゆっくりと開いた。
中から流れ出した空気は冷たかった。
砂漠の夜の冷気とは違う。
湿った、古い水と錆の匂い。
そして、微かに薬品のような匂いが混じっている。
ヴェスパーは眉をひそめた。
「行くぞ」
三人は排水塔の中へ入った。
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階段は地下へ続いていた。
鉄の段が踏むたびに軋む。
壁には古代文字のような標識が残っていたが、ほとんど剥がれ落ちている。
イリスが端末の灯りで足元を照らした。
「昔はこの下に地下水脈があったらしいよ」
「今は?」
レイラが聞く。
「ほとんど枯れてる。灰の大災厄の後、地形が変わったからね」
「水が枯れるって、街としては致命的じゃないのか?」
「だから灰都は水を外から買ってる。オアシスや海都からね」
レイラが嫌そうに舌打ちした。
「そりゃ水が高いわけだ」
イリスは肩をすくめる。
「砂漠で一番高いのは、水と情報」
「食い物は?」
「それも高い」
「最悪だな、この街」
「でも生きてる」
ヴェスパーが静かに言った。
レイラは少しだけ黙り、それから鼻を鳴らした。
「まあ、それはそうだな」
地下へ降りるほど、空気は冷たくなった。
砂漠の都市の地下に、これほど湿気が残っていること自体が異常だった。
古い配管から水滴が落ちる。
ぽたり。
ぽたり。
音が暗闇の奥まで響く。
やがて階段が終わり、三人は広い通路へ出た。
そこは旧水路だった。
巨大な地下道。
左右に伸びる通路。
中央には干上がった水路。
壁面には錆びた配管が張り巡らされ、ところどころに古い照明が点滅していた。
動力が残っている。
それは、ここが本当に放棄された場所ではないことを意味していた。
「……動いてるな」
レイラが低く言った。
「うん。誰かが電力を流してる」
イリスが端末を操作する。
「しかも最近。古い設備を無理やり起こしてる感じ」
ヴェスパーは水路の底へ視線を向けた。
砂と泥が積もっている。
その上に、足跡があった。
複数。
新しい。
「こちらだ」
彼は迷わず歩き出した。
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旧水路の奥へ進むにつれ、壁に奇妙なものが増えていった。
青白い結晶。
最初は小さな粒だった。
壁のひび割れに沿って、霜のように付着している。
だが進むほど、それは大きくなった。
拳ほどの大きさ。
腕ほどの長さ。
場所によっては、配管を飲み込むように結晶が成長している。
レイラが眉をひそめる。
「これが結晶化現象ってやつか?」
イリスは結晶へ近付こうとしたが、ヴェスパーが手で制した。
「触るな」
「分かってるよ」
イリスは苦笑しながら、端末で結晶を記録する。
「でも、自然発生にしては配置がおかしい」
「配置?」
「こっちを見て」
イリスが壁を指差す。
結晶は無秩序に広がっているように見えて、一定の間隔で発生していた。
まるで、何かの管を通って流れた液体が、漏れ出した場所だけで固まったように。
「これ、施設の内部から外へ広がってる」
ヴェスパーは奥を見た。
「発生源があるのか」
「たぶんね」
その時だった。
遠くから、金属を引きずる音が聞こえた。
ギィ。
ギィ。
ギィ。
レイラが戦斧を構える。
「来るぞ」
暗闇の奥で、何かが動いた。
人影。
一人。
いや、二人。
ゆっくりとこちらへ歩いてくる。
ヴェスパーは目を細めた。
熱がない。
正確には、ある。
だが、人間の熱ではなかった。
冷たい。
まるで身体の内側から熱を奪われているような反応。
影が照明の下へ出た。
それは、黒い翼の刺客だった。
黒い外套。
仮面。
短剣。
だが、先ほど工場で戦った者たちとは違う。
首筋だけではない。
腕。
頬。
胸元。
身体中から青白い結晶が突き出していた。
レイラが息を呑む。
「まだ生きてるのか……?」
刺客たちは答えない。
その目には意思がなかった。
ただ命令に従うだけの人形。
ヴェスパーは剣を抜いた。
「来る」
刺客が走った。
速い。
人間の動きではない。
関節が不自然に曲がり、結晶が壁に擦れて火花を散らす。
レイラが一歩前へ出た。
「止める!」
戦斧を振るう。
一体目の刺客が吹き飛ぶ。
だが、倒れない。
腕があり得ない方向へ曲がりながら、再び立ち上がる。
「気持ち悪っ!」
イリスが小型銃を構える。
「結晶部分を狙って!」
弾丸が結晶に当たる。
砕けた結晶が青白い粉を散らした。
刺客の動きが一瞬だけ鈍る。
ヴェスパーはその隙に踏み込んだ。
剣の峰で膝を砕く。
さらに首筋の結晶を斬り落とす。
刺客は糸が切れたように倒れた。
もう一体がレイラへ飛びかかる。
レイラは正面から受け止める。
「軽いんだよ!」
戦斧の柄で押し返し、壁へ叩きつける。
ヴェスパーが追撃し、胸元の結晶を斬る。
刺客は痙攣し、その場に崩れた。
静寂。
水滴の音だけが戻る。
レイラは倒れた刺客を見下ろした。
「……こいつら、元は普通の人間だよな」
「たぶん」
イリスの声も硬かった。
彼女は倒れた刺客の仮面を外す。
若い女性だった。
人間。
まだ二十代にも見えない。
首筋から広がる結晶が、まるで花のように肌を侵している。
イリスは唇を噛んだ。
「黒い翼は、こんなものを作ってるのか」
ヴェスパーは剣を下ろした。
「進むぞ」
レイラが彼を見る。
「ヴェスパー」
「ここで止まっても、何も変わらない」
その声は静かだった。
だが、レイラには分かった。
怒っている。
ヴェスパーは静かに怒っていた。
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さらに奥へ進むと、旧水路は人工的な通路へ変わった。
古い石造りではなく、新しい金属の壁。
床には清掃された跡があり、照明も生きている。
隠された施設。
黒い翼が使っている実験区画。
イリスが端末で扉を調べる。
「鍵がかかってる。でも古い型だね」
彼女は小型端末を接続し、数秒でロックを解除した。
扉が開く。
中は研究室のようだった。
ガラス製の容器。
破損した実験台。
薬品棚。
壁には意味の分からない記号が書かれた紙が貼られている。
そして部屋の中央には、大型の培養槽があった。
中は空だった。
だが、内側には青白い結晶の跡が残っている。
レイラが顔をしかめる。
「何を育ててたんだよ」
「人、かもね」
イリスの声は低い。
彼女は机の上に残された資料を漁る。
紙は一部焼かれていた。
だが、読める部分もある。
――熱適性。
――結晶反応。
――術式媒介。
――被験体。
――黒陽炎因子。
その文字を見た瞬間、ヴェスパーの手が止まった。
「黒陽炎因子……?」
レイラも資料を覗き込む。
「ガルムのことか?」
イリスはすぐに別の紙を探す。
「待って。これ、ただの名前じゃない」
彼女は端末で資料を読み取る。
「黒い翼は、黒陽炎の術式反応を研究してたみたい」
「ガルムを?」
「あるいは、ガルムと同じ力を持つ誰か」
ヴェスパーは沈黙する。
胸の奥に冷たいものが沈んだ。
ガルムは何を知っていた。
なぜ姿を消した。
黒い翼は、なぜ自分を誘っている。
その時、研究室の奥で小さな音がした。
カタン。
三人は一斉に振り向く。
薬品棚の陰。
何かが震えている。
レイラが戦斧を構える。
ヴェスパーは手で制した。
「待て」
彼はゆっくりと近付く。
棚の陰にいたのは、子どもだった。
獣人の少年。
年は十歳ほど。
腕には青白い結晶が浮かんでいる。
だが、まだ意識がある。
少年は怯えた目でヴェスパーを見上げた。
「……たす、けて……」
レイラの表情が変わった。
「子どもまで……!」
イリスも息を呑む。
ヴェスパーは膝をついた。
少年の体温を探る。
低い。
だが、生きている。
まだ助かる可能性がある。
「名前は」
「……ミロ」
「ミロ。ここに他の人はいるか」
少年は震えながら頷いた。
「奥に……みんな……」
「何人」
「分からない……連れていかれた……」
レイラが拳を握る。
「黒い翼……!」
ミロの呼吸が乱れる。
腕の結晶がわずかに光った。
ヴェスパーはすぐに外套を脱ぎ、少年へかける。
「動くな。熱を失う」
イリスが端末を操作する。
「まずい。この子、結晶反応が進んでる。私じゃ処置できない」
「医者は」
「灰都の医療区画まで戻れば。でも時間が――」
その時、レイラが言った。
「セレスを呼べ」
ヴェスパーが振り返る。
「知っているのか」
「噂だけだ。白い羊角の医者。下層街の診療所にいる。金のない患者も診る変わり者だって」
イリスが頷く。
「セレス・ルミナリア。医療術師だね。腕は確か。ただ、変人」
「お前が言うな」
レイラが即座に返す。
ヴェスパーは少年を見た。
ここで引き返すか。
奥へ進むか。
選択が必要だった。
生存者がいる。
だが、ミロを放置すれば死ぬ。
「レイラ」
「分かってる」
レイラは少年を慎重に抱き上げた。
「この子は私が連れて戻る」
「一人で行けるか」
「誰に言ってる」
レイラは笑った。
だが、その目は怒りで燃えていた。
「お前とイリスは奥を見ろ。私は医者を連れて戻る」
「無理はするな」
「それ、お前にも返す」
イリスが小型端末をレイラへ投げた。
「通信機。壊さないでね」
「努力する」
「それ不安なんだけど」
レイラはミロを抱え、来た道を戻り始めた。
その背中が通路の奥へ消える。
ヴェスパーはしばらく見送っていた。
イリスが静かに言う。
「行く?」
「ああ」
二人は研究室の奥へ進んだ。
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奥の扉には、黒い翼の紋章が刻まれていた。
イリスが端末を接続しようとする。
だが、ヴェスパーは扉の前で立ち止まった。
熱がある。
扉の向こう。
強い熱。
だが、人間のものではない。
巨大で、重い。
まるで炉の中に獣がいるような熱。
「下がれ」
ヴェスパーが言った。
イリスはすぐに一歩引く。
次の瞬間。
扉が内側から吹き飛んだ。
金属片が通路へ突き刺さる。
白い蒸気。
青い結晶片。
その中から、何かが現れた。
巨大な影。
人型に近い。
だが、人ではない。
全身を結晶に覆われた異形。
腕は片方だけ異常に膨れ上がり、胸元には黒い翼の紋章が焼き付けられている。
ヴェスパーは剣を構える。
異形の奥。
壊れた実験室の中。
黒い外套の男が立っていた。
谷で見た男。
ヴェスパーの故郷の記憶に重なる、黒い翼。
男は仮面の奥で笑った。
「ようやく来たか」
ヴェスパーの目が鋭くなる。
「お前は誰だ」
男は答えない。
代わりに、壊れた実験室の奥にある古い剣を指差した。
黒く焼けた大剣。
ガルムのものとよく似た剣。
「知りたいなら、生き残れ」
異形が咆哮した。
地下水路全体が震える。
イリスが歯を食いしばる。
「最悪……!」
ヴェスパーは剣を握り直した。
黒い翼。
結晶化。
ガルムの痕跡。
そして、目の前の怪物。
全てが、この旧水路の奥で繋がろうとしていた。
逃げる選択はない。
ヴェスパーの周囲で、空気が揺れ始める。
熱が集まる。
陽炎が生まれる。
彼は静かに言った。
「なら、聞き出す」
異形が突進する。
ヴェスパーは一歩踏み出した。




