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灰の星  作者: ウルフルマル


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第1章 第6話 「旧工業街」

旧工業街は、灰都アッシュベルクの北東にあった。


かつては都市の心臓部だった場所だ。


鉄を鍛え、機械を組み、武器を作り、車両を修理する。


灰都がまだ若い都市だった頃、この区画から吐き出される煙は繁栄の象徴だったという。


だが今は違う。


老朽化した工場。


折れた煙突。


錆びた鉄骨。


砂に埋もれかけた線路。


捨てられた機械部品。


夜の旧工業街は、都市の中にありながら砂漠の廃墟に近かった。


「……本当にここ、街の中か?」


レイラが低く呟いた。


彼女の声は、金属の壁に反響してすぐに消える。


「灰都の中でも、ここは別物だよ」


先頭を歩くイリスが言った。


「警備隊はあまり来ない。商会も手を出さない。住んでるのは、行き場をなくした職人、違法改造屋、密売人、傭兵崩れ、あとは――」


「ろくでもない連中か」


「正解」


イリスは振り向き、にこりと笑った。


「でも、情報はそういう場所に落ちてる」


ヴェスパーは黙って周囲を見渡していた。


空気が重い。


砂漠とは違う。


鉄と油と焦げた煤の匂い。


そこに、人の気配が混ざっている。


視線。


隠れている者がいる。


だが、すぐに襲ってくる気配はない。


こちらを見ている。


値踏みしている。


それだけだ。


「つけられているな」


ヴェスパーが言った。


レイラが戦斧の柄に手をかける。


「どこだ?」


「後方。屋根の上に二人。右の廃工場に一人」


イリスは肩をすくめた。


「気付いてたんだ」


「お前もだろ」


「まあね」


レイラが二人を見る。


「だったら先に言えよ」


イリスは飴を転がしながら答えた。


「敵かどうか分からない相手に、いちいち反応してたら疲れるよ」


「襲ってきたら?」


「その時はレイラちゃんが吹き飛ばしてくれる」


「ちゃん付けするな」


ヴェスパーは会話を聞きながらも、意識を周囲の熱へ広げていた。


屋根の上の二人。


体温が高い。


緊張している。


右の廃工場の一人は、呼吸が浅い。


ただの見張りではない。


何かに怯えている。


旧工業街そのものが、何かを待っているようだった。



イリスが足を止めたのは、半壊した工場の前だった。


鉄製の扉は錆びつき、看板の文字はほとんど読めない。


かろうじて残っているのは、工具を模した古い紋章だけだった。


「ここ?」


レイラが眉をひそめる。


「廃墟にしか見えないぞ」


「廃墟に見えるようにしてるんだよ」


イリスは扉の横にある壊れた配電盤へ近付く。


指先で何かを打ち込む。


カチリ。


重い音と共に、扉の内側で鍵が外れた。


「相変わらず器用だな」


レイラが言う。


「褒めた?」


「感心はした」


「充分」


イリスは扉を開けた。


中は薄暗かった。


天井の一部が抜け、月明かりが斜めに差し込んでいる。


床には機械部品が散乱し、壁際には壊れた作業台が並んでいた。


その奥。


火の消えかけたランプの前に、一人の男が座っていた。


片腕のない人間の男。


歳は五十前後。


左目には金属製の義眼。


口には火のついていない煙草。


「遅いぞ、猫」


男が言った。


イリスは笑う。


「こっちにも予定ってものがあるんだよ、ラドック」


男――ラドックはヴェスパーとレイラを順に見た。


「連れが物騒だな」


レイラが戦斧を軽く持ち上げる。


「褒め言葉か?」


「警告だ」


「なら覚えておく」


ラドックは鼻で笑った。


そしてヴェスパーへ視線を向ける。


義眼の奥で、小さな光が揺れた。


「お前が蜃気楼使いか」


ヴェスパーは答えない。


代わりに問い返した。


「ガルムの名を出したのは、お前か」


ラドックの表情から笑みが消えた。


「単刀直入だな」


「回り道をする時間はない」


「若いのに急ぐな。そういう奴から早死にする」


「知っている」


その答えに、ラドックは一瞬だけ目を細めた。


何かを思い出したような顔だった。


「……口ぶりが似ている」


「誰に」


「黒陽炎だ」


工場内の空気がわずかに変わる。


レイラもイリスも黙った。


ヴェスパーは静かに続きを待つ。


ラドックは煙草を指で回しながら、古い作業台の引き出しを開けた。


中から取り出したのは、小さな布包みだった。


それを机の上へ置く。


中に入っていたのは、黒く焼けた金属片。


剣の鍔の一部のようだった。


ヴェスパーの表情が変わった。


「これは」


「三日前、旧工業街の外れで拾った」


ラドックは言った。


「黒い翼の連中が何かを運んでいた。そいつらを襲った男がいる」


「それがガルムか」


「顔は見ていない」


ラドックは首を横に振る。


「だが、あの熱は覚えている」


レイラが眉をひそめる。


「熱?」


「あの男は、周囲の視界を焼く」


ラドックの義眼が小さく鳴った。


「目で追おうとした瞬間、全部が黒く滲む。火でも煙でもない。空気そのものが焦げる感じだ」


ヴェスパーの脳裏に、ガルムの背中が浮かぶ。


黒い外套。


古い大剣。


厳しい声。


――見るな。感じろ。


――目は一番騙されやすい。


「黒陽炎……」


ヴェスパーは小さく呟いた。


ラドックは頷く。


「昔、その名で呼ばれた傭兵がいた。灰都周辺で知らない者は少なかった」


「なぜ今になって現れた」


「さあな」


ラドックは布包みをヴェスパーの方へ押した。


「だが、黒い翼の連中は奴を追っている。いや、違うな」


「違う?」


イリスが聞き返す。


ラドックはゆっくりと言った。


「奴を追っているように見せて、お前を誘っている」


ヴェスパーは沈黙した。


やはり、罠。


その可能性は最初からあった。


だが、ガルムの痕跡が本物なら無視できない。


「黒い翼は何を運んでいた」


ヴェスパーが問う。


ラドックは机の下から一枚の古い紙を出した。


地図だった。


灰都の北東外縁。


旧工業街のさらに外。


砂漠との境界付近にある廃施設。


「旧水路管理棟」


イリスが地図を覗き込み、眉をひそめる。


「そこ、もう使われてないはずだよ。大災厄前の地下水路と繋がってるって噂はあるけど」


「噂じゃない」


ラドックは義眼を指で叩いた。


「下にある。古い施設がな」


「黒い翼はそこへ?」


「ああ」


ヴェスパーは地図を見つめる。


旧水路管理棟。


黒い翼。


ガルム。


繋がりは見える。


だが、意図が見えない。


「なぜ俺たちに話す」


ラドックの口元がわずかに歪む。


「黒い翼が嫌いだからだ」


「それだけか」


「片腕を持っていかれた」


彼は失った腕の跡を軽く叩いた。


「十分だろ」


レイラは何も言わなかった。


その理由なら、分からなくもない。


ラドックは続ける。


「奴らは人を人として見ていない。素材、器、実験体。そんなふうに呼ぶ」


ヴェスパーの目が細くなる。


「実験体」


「ああ」


ラドックは低く言った。


「結晶化現象。あれに関わってる」


工場の中が静まり返る。


結晶化現象。


近年、各地で報告されている原因不明の異変。


身体に青白い結晶が発生し、進行すれば命を落とす。


病なのか、呪いなのか、術式災害なのか。


まだ分かっていない。


「黒い翼が原因だと?」


イリスが問う。


「少なくとも、利用している」


ラドックは地図を指で叩いた。


「旧水路の地下で何かやってる。俺が掴んだのはそこまでだ」


ヴェスパーは地図を受け取った。


「行くぞ」


即答だった。


レイラは額に手を当てる。


「やっぱりそうなるよな」


イリスもため息をつく。


「まあ、止めても行く顔だよね」


ラドックは低く笑った。


「黒陽炎もそうだった。話を聞いてるようで、最初から結論は決まってる」


ヴェスパーは布包みの金属片を握る。


その熱はもう失われている。


だが、確かに知っている感覚が残っていた。


ガルムの剣。


間違いない。


「ラドック」


ヴェスパーが言う。


「礼は後で払う」


「いらん」


「なぜ」


「生きて戻ったら、黒い翼の情報を持ってこい」


ラドックは煙草をくわえ直した。


「それが代金だ」


ヴェスパーは頷いた。


「分かった」


その時だった。


イリスの耳がぴくりと動く。


ほぼ同時に、ヴェスパーも振り返った。


外の熱が変わった。


屋根の上にいた見張りが消えている。


代わりに、新しい熱源。


複数。


工場を囲んでいる。


「お客さん?」


レイラが戦斧を握る。


イリスは端末を取り出し、画面を見た。


「違うね」


「じゃあ何だ」


「刺客」


言い終わる前に、工場の窓が砕けた。


黒い筒状の物体が投げ込まれる。


ヴェスパーが叫ぶ。


「伏せろ!」


直後、白い閃光。


音が消えた。


視界が真っ白になる。


閃光弾。


レイラが舌打ちする。


「目眩ましか!」


「耳を塞ぐな、足音を聞け!」


ヴェスパーの声が飛ぶ。


閃光の向こうで、何者かが突入してくる。


黒い外套。


顔を覆う仮面。


手には短剣と小型のボウガン。


胸元には、黒い翼の紋章。


レイラが笑った。


「分かりやすいな!」


戦斧が横薙ぎに振るわれる。


一人目の刺客が吹き飛ぶ。


しかし、相手もただの雑兵ではなかった。


二人目が低く潜り込み、レイラの足元を狙う。


ヴェスパーが割り込んだ。


剣で短剣を弾く。


火花が散る。


「速いな」


刺客は答えない。


代わりに、袖口から細い針を放つ。


ヴェスパーは半歩下がって避ける。


針が床へ刺さる。


床板が黒く変色した。


毒。


「殺す気か」


イリスが苦笑する。


「人気者だね、ヴェスパー」


「嬉しくはない」


「だろうね」


イリスは小型銃を抜き、天井近くの配管を撃った。


管が破裂し、蒸気が噴き出す。


視界がさらに悪くなる。


レイラが叫ぶ。


「見えねぇ!」


「こっちも見えてないよ」


イリスが答える。


「でも、ヴェスパーなら平気でしょ?」


ヴェスパーは目を閉じた。


熱を読む。


蒸気の熱。


人の熱。


金属の冷たさ。


刺客の位置が浮かぶ。


三人。


いや、四人。


そのうち一人は動かない。


出口を塞いでいる。


「左に二人。右奥に一人。出口に一人」


レイラが笑う。


「十分!」


彼女は蒸気の中へ踏み込んだ。


戦斧が唸る。


金属音。


呻き声。


床を転がる音。


一方、ヴェスパーは右奥の刺客へ向かった。


相手はボウガンを構える。


弦が鳴るより早く、ヴェスパーの剣が武器を弾いた。


刺客の仮面が割れる。


中から見えたのは、人間の青年だった。


目が濁っている。


恐怖ではない。


意思が薄い。


操られているような目だった。


ヴェスパーは一瞬だけ動きを止める。


その隙に、刺客は自ら懐へ手を入れた。


イリスが叫ぶ。


「下がって!」


小型爆薬。


ヴェスパーは刺客の腕を蹴り上げ、爆薬を宙へ飛ばした。


レイラが即座に戦斧の腹で叩きつける。


爆薬は工場の奥で爆ぜた。


壁が砕け、砂埃が舞う。


「自爆する気かよ!」


レイラが吐き捨てる。


ヴェスパーは倒れた刺客を見下ろす。


青年は小さく震えていた。


仮面の下の首筋に、青白い結晶が浮かんでいる。


「結晶化……」


イリスの声が低くなる。


ラドックが奥で呻いた。


「だから言っただろ。奴らは人を素材にする」


ヴェスパーは刺客の首筋を見つめた。


谷の盗賊。


黒い翼。


結晶化。


旧水路。


ガルム。


全てが同じ場所へ集まり始めている。


出口にいた最後の刺客が逃げようとする。


レイラが追おうとした。


だが、ヴェスパーが止める。


「待て」


「何でだ!」


「追えば誘導される」


逃げる刺客は、わざと足音を大きくしていた。


追わせるためだ。


レイラは悔しそうに歯を食いしばる。


「くそっ」


刺客は夜の旧工業街へ消えた。


工場には、壊れた機械の軋む音だけが残る。


イリスは端末を操作しながら言った。


「今の襲撃、早すぎる」


「どういう意味だ」


ヴェスパーが聞く。


「私たちがここに来ることを、最初から知っていたってこと」


「情報が漏れているのか」


「私の隠れ家から出た時点で監視されてた。いや、その前からかも」


イリスの表情はいつもの軽さを失っていた。


「黒い翼は、灰都の中にかなり深く入り込んでる」


ラドックが壊れた机の下から何かを拾い上げる。


小さな通信端末だった。


刺客が落としたものらしい。


端末の画面が割れている。


だが、まだ一つだけ文字が表示されていた。


――対象、予定通り旧水路へ誘導。


レイラが低く唸る。


「やっぱり罠じゃねぇか」


イリスが端末を見つめる。


「でも、向こうが見せたがっているものがある」


ヴェスパーは地図を握りしめる。


罠だ。


分かっている。


それでも、行くしかない。


ガルムの痕跡がある。


黒い翼の手がかりがある。


そして、結晶化に巻き込まれた人間がいる。


無視すれば、また誰かが失われる。


「行くぞ」


ヴェスパーは言った。


レイラは深く息を吐く。


「まあ、そう言うと思った」


イリスは苦笑し、端末をしまう。


「私も行くよ。ここまで来たら、情報料は高くつくからね」


ラドックが背中越しに言った。


「旧水路へ入るなら、入口は南側の排水塔だ。正面から行くな。地下は迷路だ」


ヴェスパーは頷く。


「助かった」


「死ぬなよ」


ラドックは煙草に火をつけた。


「黒陽炎の弟子」


ヴェスパーは一瞬だけ足を止める。


それから振り返らずに答えた。


「死なない」


ガルムが教えた最初の言葉。


生きろ。


それだけは、今も変わらない。


三人は壊れた工場を出た。


夜の旧工業街には、再び静けさが戻っていた。


だが、その静けさの奥で、黒い翼の気配は確かに濃くなっている。


灰都の地下。


忘れられた旧水路。


そこに待つものが真実なのか、罠なのか。


ヴェスパーには分からない。


ただ一つだけ確かなことがある。


燃える故郷から続く道は、まだ途切れていない。


そして今、その道は闇の底へ向かって伸びていた。


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