第1章 第5話 「情報屋イリス」
灰都アッシュベルクの下層街は、夜になってからが本番だった。
昼間は商人と労働者で溢れていた大通りも、日が落ちるとまるで別の顔を見せる。
酒場の扉からは笑い声と怒鳴り声が漏れ、屋台の煙が細い路地に漂い、どこからともなく金属を打つ音が響いていた。
石畳は砂と油で汚れ、壁には古い依頼書や手配書が何枚も貼られている。
その隙間を、フェリーンの少女――イリスは軽い足取りで進んでいた。
「こっちこっち」
彼女は振り返りもせず、手だけをひらひら振る。
レイラは警戒心を隠さないまま、戦斧を肩に担いでついていく。
「相変わらず、胡散臭い道を歩くな」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
「褒めてない」
「知ってる」
イリスは楽しそうに笑った。
ヴェスパーは二人の後ろを静かに歩く。
彼の視線は、イリスではなく周囲に向けられていた。
屋根の上。
窓の隙間。
路地の奥。
人の気配は多い。
だが、今のところ敵意はない。
ただ、この街の視線はいつも湿っている。
何かを探り、何かを値踏みしている。
灰都はそういう街だった。
「安心していいよ」
イリスが言った。
「少なくとも今は、君たちを売る気はないから」
レイラが眉をひそめる。
「今は、って何だよ」
「未来のことは誰にも分からないでしょ?」
「やっぱり信用ならないな」
「情報屋を信用しようとする方が間違ってるよ」
イリスはそう言って、狭い路地の突き当たりで足を止めた。
そこには壁しかなかった。
古びた石壁。
錆びた配管。
落書き。
行き止まり。
レイラが目を細める。
「おい、行き止まりだぞ」
「うん。普通の人にはね」
イリスは配管の一部に指をかけた。
カチリ、と小さな音がする。
次の瞬間、壁の一部がわずかに沈み込み、横へ滑るように開いた。
その奥には、地下へ続く細い階段があった。
薄暗い。
だが、奥から青紫の光が漏れている。
「ようこそ」
イリスは猫のように目を細めた。
「灰都で三番目くらいに安全な隠れ家へ」
レイラは露骨に嫌そうな顔をする。
「一番じゃないのかよ」
「一番安全な場所は教えない」
「だろうな」
ヴェスパーは黙って階段を降りた。
⸻
地下室は、外から想像するよりも広かった。
壁一面に地図が貼られている。
灰都アッシュベルクの都市図。
周辺砂漠の交易路。
各都市を結ぶ街道。
海都アズールハーバーへ続く西方航路。
北の鉄鋼都市ヴァルグラード。
南の白砂都市ルミナ。
そして、地図の端には黒く塗り潰された区域があった。
黒翼領域。
レイラの視線がそこに止まる。
「……そこまで調べてるのか」
イリスは椅子に腰掛け、机の上の端末を軽く叩いた。
「調べてる、というより、勝手に情報が集まってくるんだよ」
机の上には通信機器、古い記録媒体、盗聴用の小型端末、手書きのメモが乱雑に置かれていた。
一見すると散らかっている。
だが、ヴェスパーには分かった。
これは整理されている。
イリスだけが理解できる形で。
「さて」
イリスは飴を口の中で転がしながら、二人を見た。
「まず確認。谷で襲ってきた連中は、砂狼盗賊団の一派だね」
レイラが鼻を鳴らす。
「名前だけは強そうだな」
「実際、雑魚盗賊ではないよ。人間、獣人、亜人の混成部隊。元傭兵や元兵士も混じってる。最近になって急に統率が取れ始めた」
ヴェスパーが口を開く。
「指揮していた者がいる」
「うん」
イリスは一枚の写真を机の上へ滑らせた。
そこに写っていたのは、谷で戦った隻眼の獣人だった。
「名前はバルガ。元は傭兵。昔は灰都周辺の護衛任務もやってた」
レイラが写真を覗き込む。
「あいつ、生きてるのか?」
「残念ながらね。都市警備隊に引き渡されたけど、たぶん長くは喋れない」
「殺されるってことか?」
「口封じ。あるいは、自分で口を閉じるか」
イリスの声は軽い。
だが、その内容は冷たかった。
ヴェスパーは写真を見つめる。
「裏に黒い翼がいるのか」
イリスの表情が少しだけ変わった。
先ほどまでの笑みが薄れる。
「そこが問題」
彼女は机の引き出しから、小さな金属片を取り出した。
黒い翼の紋章が刻まれている。
ヴェスパーの目が細くなった。
燃える村の記憶が、胸の奥で音もなく揺れる。
「どこで手に入れた」
「谷から戻ってきた商人の荷物に紛れてた」
「荷物に?」
「うん。最初から仕込まれてた可能性が高い」
レイラが腕を組む。
「つまり、輸送隊そのものが狙われてたってことか?」
「それもある。でも、もっと正確に言うなら――」
イリスは地図の一点を指差した。
灰都へ向かう交易路。
そして、襲撃された谷。
「谷で襲われるように仕向けられていた」
地下室の空気が重くなる。
ヴェスパーは静かに地図を見た。
最初の威嚇射撃。
平地ではなく谷へ進ませる誘導。
包囲。
水樽を狙った別働隊。
指揮官。
黒い外套の男。
全てが繋がる。
「目的は荷物か」
ヴェスパーが言う。
イリスは首を横に振った。
「荷物だけなら、もっと簡単な方法がある。盗賊団を使う必要もない」
「なら、何だ」
イリスはヴェスパーを見た。
「君だよ」
レイラの表情が変わった。
「ヴェスパーを狙ったってことか?」
「少なくとも、向こうは彼が護衛についていると知っていた」
ヴェスパーは黙っていた。
驚きはなかった。
むしろ、どこかで予想していた答えだった。
谷で黒い翼の男が姿を見せた時から、偶然ではないと分かっていた。
「黒い翼の男は何者だ」
「名前はまだ掴めてない」
イリスは端末を操作し、古い記録を表示する。
画面に映ったのは、数年前の事件記録だった。
複数の村の焼失。
行方不明者。
原因不明の結晶化。
そして、黒い翼の目撃情報。
「ただ、この男たちは昔から同じ場所に現れてる」
「どこだ」
「灰の大災厄の跡地。古代遺跡。結晶化現象の発生地域。そして――」
イリスは一拍置いた。
「君の故郷が焼かれた場所」
レイラが息を呑む。
ヴェスパーは何も言わない。
だが、彼の手がわずかに握られた。
イリスはそれを見て、声を少しだけ柔らかくした。
「ごめん。言い方が悪かった」
「構わない」
「構うよ。私は情報屋だけど、人の傷をわざわざ抉る趣味はない」
レイラが小声で呟く。
「意外だな」
「聞こえてるよ、犬ちゃん」
「誰が犬ちゃんだ」
ほんの一瞬だけ、空気が緩む。
だが、ヴェスパーの表情は変わらなかった。
「ガルムの名前が出たと言ったな」
イリスは頷く。
「うん」
彼女は別の資料を取り出した。
手書きの古い報告書。
そこには荒い文字で、こう書かれていた。
――黒陽炎、北東区画にて目撃。
ヴェスパーの瞳がわずかに揺れる。
黒陽炎。
その名を知る者は少ない。
ガルムの異名。
熱を操り、視界を焼く狼の傭兵。
かつてヴェスパーに生き方を教えた男。
そして、数年前に姿を消した師匠。
「いつの情報だ」
「三日前」
レイラが驚く。
「三日前!? 生きてるってことか?」
「可能性はある」
イリスは指を一本立てる。
「でも、本人とは限らない。異名だけを使った偽物かもしれないし、黒い翼が流した餌かもしれない」
「餌……」
レイラがヴェスパーを見る。
「お前を釣るためか」
ヴェスパーは静かに資料を見つめた。
生きている。
そう思いたい自分がいる。
だが同時に、罠だと考える自分もいる。
ガルムなら言うだろう。
見たいものだけを見るな、と。
「場所は」
「北東区画。旧工業街の外れ。今はほとんど廃墟だよ」
イリスは地図の一角を示した。
灰都の内側でありながら、ほぼ治安の届かない区域。
廃工場。
違法居住区。
密売人。
傭兵崩れ。
裏社会の入口。
「そこに、黒い翼と繋がりのある取引屋がいる」
「そいつに会えば分かるのか」
「分かるかもしれない」
イリスは笑った。
「ただし、会って無事に帰れる保証はない」
レイラが戦斧を肩に担ぐ。
「保証なんて最初からいらないだろ」
「さすが犬ちゃん。話が早い」
「次言ったら屋根まで飛ばす」
「やれるものなら?」
「やるぞ」
ヴェスパーは二人の会話を遮るように言った。
「行く」
イリスはヴェスパーを見る。
「今から?」
「ああ」
「今日、谷で戦ったばかりでしょ。頬も切れてるし、体力も落ちてる。寝た方がいいと思うけど」
「時間を置けば、痕跡は消える」
「相変わらずだね」
イリスは椅子から立ち上がった。
「じゃあ私も行く」
レイラが怪訝な顔をする。
「お前も?」
「情報屋が現場を見ないでどうするの」
「危なくなったら逃げる気だろ」
「もちろん」
「堂々と言うな」
イリスは外套を羽織り、小型銃を腰に差した。
それから机の上に置かれていた小型端末をいくつかポーチへ入れる。
「でも安心して。逃げる時は、たぶん君たちにも声をかけるから」
「たぶんかよ」
「絶対なんて言葉は信用しない主義でね」
ヴェスパーは地図をもう一度見た。
旧工業街。
黒い翼。
ガルム。
全てが一本の線で繋がろうとしている。
だが、その線の先に何があるのかはまだ分からない。
真実か。
罠か。
あるいは、その両方か。
ヴェスパーは剣の柄に触れた。
「出るぞ」
レイラはようやく諦めたようにため息をつく。
「飯は?」
「後だ」
「それ、今日何回目だと思ってる?」
「数えていない」
「私は数えてる。三回目だ」
イリスがくすくす笑う。
「帰りにおいしい店教えてあげるよ」
レイラの耳がぴくりと動く。
「肉はあるか?」
「ある。香辛料たっぷりの焼き肉」
「よし、信用した」
「簡単だね」
「うるさい」
ヴェスパーは小さく息を吐いた。
ほんの少しだけ、胸の奥にあった重さが軽くなる。
レイラの騒がしさ。
イリスの胡散臭さ。
それらは確かに面倒だった。
だが、今の彼を過去に沈ませず、現在へ引き戻してくれる。
ガルムがもし生きているなら。
黒い翼が本当に関わっているなら。
この先でまた、あの日の炎と向き合うことになる。
それでも、進むしかない。
地下室の扉が開く。
夜の灰都の空気が流れ込む。
遠くで鐘が鳴っていた。
三人は旧工業街へ向かって歩き出す。
その背後で、イリスの端末が小さく震えた。
彼女は一瞬だけ画面を見る。
そこには短い文字列が表示されていた。
――対象、移動開始。
イリスは目を細める。
そして、誰にも聞こえないほど小さく呟いた。
「……やっぱり、見られてるね」
夜の灰都。
その闇の奥で、黒い翼が静かに動き始めていた。




