表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
灰の星  作者: ウルフルマル


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

7/65

第1章 第5話 「情報屋イリス」

灰都アッシュベルクの下層街は、夜になってからが本番だった。


昼間は商人と労働者で溢れていた大通りも、日が落ちるとまるで別の顔を見せる。


酒場の扉からは笑い声と怒鳴り声が漏れ、屋台の煙が細い路地に漂い、どこからともなく金属を打つ音が響いていた。


石畳は砂と油で汚れ、壁には古い依頼書や手配書が何枚も貼られている。


その隙間を、フェリーンの少女――イリスは軽い足取りで進んでいた。


「こっちこっち」


彼女は振り返りもせず、手だけをひらひら振る。


レイラは警戒心を隠さないまま、戦斧を肩に担いでついていく。


「相変わらず、胡散臭い道を歩くな」


「褒め言葉として受け取っておくよ」


「褒めてない」


「知ってる」


イリスは楽しそうに笑った。


ヴェスパーは二人の後ろを静かに歩く。


彼の視線は、イリスではなく周囲に向けられていた。


屋根の上。


窓の隙間。


路地の奥。


人の気配は多い。


だが、今のところ敵意はない。


ただ、この街の視線はいつも湿っている。


何かを探り、何かを値踏みしている。


灰都はそういう街だった。


「安心していいよ」


イリスが言った。


「少なくとも今は、君たちを売る気はないから」


レイラが眉をひそめる。


「今は、って何だよ」


「未来のことは誰にも分からないでしょ?」


「やっぱり信用ならないな」


「情報屋を信用しようとする方が間違ってるよ」


イリスはそう言って、狭い路地の突き当たりで足を止めた。


そこには壁しかなかった。


古びた石壁。


錆びた配管。


落書き。


行き止まり。


レイラが目を細める。


「おい、行き止まりだぞ」


「うん。普通の人にはね」


イリスは配管の一部に指をかけた。


カチリ、と小さな音がする。


次の瞬間、壁の一部がわずかに沈み込み、横へ滑るように開いた。


その奥には、地下へ続く細い階段があった。


薄暗い。


だが、奥から青紫の光が漏れている。


「ようこそ」


イリスは猫のように目を細めた。


「灰都で三番目くらいに安全な隠れ家へ」


レイラは露骨に嫌そうな顔をする。


「一番じゃないのかよ」


「一番安全な場所は教えない」


「だろうな」


ヴェスパーは黙って階段を降りた。



地下室は、外から想像するよりも広かった。


壁一面に地図が貼られている。


灰都アッシュベルクの都市図。


周辺砂漠の交易路。


各都市を結ぶ街道。


海都アズールハーバーへ続く西方航路。


北の鉄鋼都市ヴァルグラード。


南の白砂都市ルミナ。


そして、地図の端には黒く塗り潰された区域があった。


黒翼領域。


レイラの視線がそこに止まる。


「……そこまで調べてるのか」


イリスは椅子に腰掛け、机の上の端末を軽く叩いた。


「調べてる、というより、勝手に情報が集まってくるんだよ」


机の上には通信機器、古い記録媒体、盗聴用の小型端末、手書きのメモが乱雑に置かれていた。


一見すると散らかっている。


だが、ヴェスパーには分かった。


これは整理されている。


イリスだけが理解できる形で。


「さて」


イリスは飴を口の中で転がしながら、二人を見た。


「まず確認。谷で襲ってきた連中は、砂狼盗賊団の一派だね」


レイラが鼻を鳴らす。


「名前だけは強そうだな」


「実際、雑魚盗賊ではないよ。人間、獣人、亜人の混成部隊。元傭兵や元兵士も混じってる。最近になって急に統率が取れ始めた」


ヴェスパーが口を開く。


「指揮していた者がいる」


「うん」


イリスは一枚の写真を机の上へ滑らせた。


そこに写っていたのは、谷で戦った隻眼の獣人だった。


「名前はバルガ。元は傭兵。昔は灰都周辺の護衛任務もやってた」


レイラが写真を覗き込む。


「あいつ、生きてるのか?」


「残念ながらね。都市警備隊に引き渡されたけど、たぶん長くは喋れない」


「殺されるってことか?」


「口封じ。あるいは、自分で口を閉じるか」


イリスの声は軽い。


だが、その内容は冷たかった。


ヴェスパーは写真を見つめる。


「裏に黒い翼がいるのか」


イリスの表情が少しだけ変わった。


先ほどまでの笑みが薄れる。


「そこが問題」


彼女は机の引き出しから、小さな金属片を取り出した。


黒い翼の紋章が刻まれている。


ヴェスパーの目が細くなった。


燃える村の記憶が、胸の奥で音もなく揺れる。


「どこで手に入れた」


「谷から戻ってきた商人の荷物に紛れてた」


「荷物に?」


「うん。最初から仕込まれてた可能性が高い」


レイラが腕を組む。


「つまり、輸送隊そのものが狙われてたってことか?」


「それもある。でも、もっと正確に言うなら――」


イリスは地図の一点を指差した。


灰都へ向かう交易路。


そして、襲撃された谷。


「谷で襲われるように仕向けられていた」


地下室の空気が重くなる。


ヴェスパーは静かに地図を見た。


最初の威嚇射撃。


平地ではなく谷へ進ませる誘導。


包囲。


水樽を狙った別働隊。


指揮官。


黒い外套の男。


全てが繋がる。


「目的は荷物か」


ヴェスパーが言う。


イリスは首を横に振った。


「荷物だけなら、もっと簡単な方法がある。盗賊団を使う必要もない」


「なら、何だ」


イリスはヴェスパーを見た。


「君だよ」


レイラの表情が変わった。


「ヴェスパーを狙ったってことか?」


「少なくとも、向こうは彼が護衛についていると知っていた」


ヴェスパーは黙っていた。


驚きはなかった。


むしろ、どこかで予想していた答えだった。


谷で黒い翼の男が姿を見せた時から、偶然ではないと分かっていた。


「黒い翼の男は何者だ」


「名前はまだ掴めてない」


イリスは端末を操作し、古い記録を表示する。


画面に映ったのは、数年前の事件記録だった。


複数の村の焼失。


行方不明者。


原因不明の結晶化。


そして、黒い翼の目撃情報。


「ただ、この男たちは昔から同じ場所に現れてる」


「どこだ」


「灰の大災厄の跡地。古代遺跡。結晶化現象の発生地域。そして――」


イリスは一拍置いた。


「君の故郷が焼かれた場所」


レイラが息を呑む。


ヴェスパーは何も言わない。


だが、彼の手がわずかに握られた。


イリスはそれを見て、声を少しだけ柔らかくした。


「ごめん。言い方が悪かった」


「構わない」


「構うよ。私は情報屋だけど、人の傷をわざわざ抉る趣味はない」


レイラが小声で呟く。


「意外だな」


「聞こえてるよ、犬ちゃん」


「誰が犬ちゃんだ」


ほんの一瞬だけ、空気が緩む。


だが、ヴェスパーの表情は変わらなかった。


「ガルムの名前が出たと言ったな」


イリスは頷く。


「うん」


彼女は別の資料を取り出した。


手書きの古い報告書。


そこには荒い文字で、こう書かれていた。


――黒陽炎、北東区画にて目撃。


ヴェスパーの瞳がわずかに揺れる。


黒陽炎。


その名を知る者は少ない。


ガルムの異名。


熱を操り、視界を焼く狼の傭兵。


かつてヴェスパーに生き方を教えた男。


そして、数年前に姿を消した師匠。


「いつの情報だ」


「三日前」


レイラが驚く。


「三日前!? 生きてるってことか?」


「可能性はある」


イリスは指を一本立てる。


「でも、本人とは限らない。異名だけを使った偽物かもしれないし、黒い翼が流した餌かもしれない」


「餌……」


レイラがヴェスパーを見る。


「お前を釣るためか」


ヴェスパーは静かに資料を見つめた。


生きている。


そう思いたい自分がいる。


だが同時に、罠だと考える自分もいる。


ガルムなら言うだろう。


見たいものだけを見るな、と。


「場所は」


「北東区画。旧工業街の外れ。今はほとんど廃墟だよ」


イリスは地図の一角を示した。


灰都の内側でありながら、ほぼ治安の届かない区域。


廃工場。


違法居住区。


密売人。


傭兵崩れ。


裏社会の入口。


「そこに、黒い翼と繋がりのある取引屋がいる」


「そいつに会えば分かるのか」


「分かるかもしれない」


イリスは笑った。


「ただし、会って無事に帰れる保証はない」


レイラが戦斧を肩に担ぐ。


「保証なんて最初からいらないだろ」


「さすが犬ちゃん。話が早い」


「次言ったら屋根まで飛ばす」


「やれるものなら?」


「やるぞ」


ヴェスパーは二人の会話を遮るように言った。


「行く」


イリスはヴェスパーを見る。


「今から?」


「ああ」


「今日、谷で戦ったばかりでしょ。頬も切れてるし、体力も落ちてる。寝た方がいいと思うけど」


「時間を置けば、痕跡は消える」


「相変わらずだね」


イリスは椅子から立ち上がった。


「じゃあ私も行く」


レイラが怪訝な顔をする。


「お前も?」


「情報屋が現場を見ないでどうするの」


「危なくなったら逃げる気だろ」


「もちろん」


「堂々と言うな」


イリスは外套を羽織り、小型銃を腰に差した。


それから机の上に置かれていた小型端末をいくつかポーチへ入れる。


「でも安心して。逃げる時は、たぶん君たちにも声をかけるから」


「たぶんかよ」


「絶対なんて言葉は信用しない主義でね」


ヴェスパーは地図をもう一度見た。


旧工業街。


黒い翼。


ガルム。


全てが一本の線で繋がろうとしている。


だが、その線の先に何があるのかはまだ分からない。


真実か。


罠か。


あるいは、その両方か。


ヴェスパーは剣の柄に触れた。


「出るぞ」


レイラはようやく諦めたようにため息をつく。


「飯は?」


「後だ」


「それ、今日何回目だと思ってる?」


「数えていない」


「私は数えてる。三回目だ」


イリスがくすくす笑う。


「帰りにおいしい店教えてあげるよ」


レイラの耳がぴくりと動く。


「肉はあるか?」


「ある。香辛料たっぷりの焼き肉」


「よし、信用した」


「簡単だね」


「うるさい」


ヴェスパーは小さく息を吐いた。


ほんの少しだけ、胸の奥にあった重さが軽くなる。


レイラの騒がしさ。


イリスの胡散臭さ。


それらは確かに面倒だった。


だが、今の彼を過去に沈ませず、現在へ引き戻してくれる。


ガルムがもし生きているなら。


黒い翼が本当に関わっているなら。


この先でまた、あの日の炎と向き合うことになる。


それでも、進むしかない。


地下室の扉が開く。


夜の灰都の空気が流れ込む。


遠くで鐘が鳴っていた。


三人は旧工業街へ向かって歩き出す。


その背後で、イリスの端末が小さく震えた。


彼女は一瞬だけ画面を見る。


そこには短い文字列が表示されていた。


――対象、移動開始。


イリスは目を細める。


そして、誰にも聞こえないほど小さく呟いた。


「……やっぱり、見られてるね」


夜の灰都。


その闇の奥で、黒い翼が静かに動き始めていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ