第1章 第4話 「戦いのあと」
谷に、風が戻ってきた。
砂を含んだ乾いた風が、血と焦げた木の匂いをゆっくりと運んでいく。
つい先ほどまで剣戟と怒号に満ちていた谷道は、今では嘘のように静まり返っていた。
倒れた盗賊。
砕けた槍。
折れた矢。
横転した荷車。
焼け焦げた布袋。
割れた水樽から流れ出た水が、砂に吸い込まれていく。
その光景を、輸送隊の者たちは呆然と見つめていた。
勝った。
確かに勝った。
だが、誰も歓声を上げなかった。
生き残った者の胸にあるのは、安堵よりも疲労だった。
そして、失ったものへの重さだった。
「負傷者は?」
ヴェスパーが最初に口を開いた。
その声は、戦闘中と変わらず静かだった。
護衛隊長が我に返る。
「重傷が二人。軽傷は……多い」
「死者は」
一瞬、誰も答えなかった。
護衛隊長は唇を噛む。
「護衛が一人。商人が一人だ」
谷の空気が重く沈む。
ヴェスパーは目を閉じた。
ほんの短い沈黙。
祈りにも、後悔にも見える一瞬だった。
だが、すぐに目を開ける。
「重傷者を荷車の陰へ。止血を優先。水は使いすぎるな」
「水を使わずにどうするんだ!」
商人の一人が叫んだ。
恐怖と怒りと混乱が混ざった声だった。
ヴェスパーは振り返る。
責めるでもなく、怒るでもなく、ただ静かに言った。
「この先も砂漠だ。水を失えば、助かった者も死ぬ」
商人は言葉を失った。
それは冷たい正論だった。
けれど、間違ってはいなかった。
レイラが戦斧を肩に担ぎ、ヴェスパーの横へ立つ。
「包帯なら私の荷物にある。使え」
「助かる」
「礼はいい。あとで飯を多めに寄こせ」
その言葉に、近くの商人がかすかに笑った。
張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ緩む。
ヴェスパーはレイラを横目で見る。
こういう時、彼女の明るさは強さになる。
本人は自覚していないだろうが。
「何だ?」
レイラが眉を上げる。
「いや」
「言いたいことあるなら言えよ」
「助かった」
レイラは一瞬だけ目を丸くした。
それから、照れ隠しのように鼻を鳴らす。
「素直に褒めるな。気持ち悪い」
「褒めてない」
「今のは褒めただろ」
「事実を言っただけだ」
「それを世間じゃ褒めるって言うんだよ」
二人のやり取りを聞いていた護衛の一人が、思わず小さく吹き出した。
谷の空気が、ようやく人のいる場所に戻り始める。
それでも、ヴェスパーの視線は崖上から離れなかった。
黒い翼の紋章。
先ほど見た黒い外套の男。
そして、岩に刻まれていた小さな印。
偶然ではない。
あれは、こちらに見せるために残されたものだ。
「ヴェスパー」
レイラが低い声で呼ぶ。
「顔、怖いぞ」
「……そうか」
「また昔のことか?」
ヴェスパーは答えなかった。
レイラはそれ以上聞かない。
彼女は踏み込み過ぎない距離を知っている。
それは優しさというより、信頼に近かった。
話す時が来れば、ヴェスパーは話す。
今はまだ、その時ではない。
応急処置には時間がかかった。
護衛たちは盗賊の武器を集め、動ける盗賊を縛り上げた。
逃げ遅れた盗賊の中には、人間も、獣人も、亜人もいた。
統一された装備はない。
だが、戦い方は妙に整っていた。
ボウガン隊。
槍兵。
剣士。
別働隊。
ただの寄せ集めなら、ここまで正確に動けるはずがない。
「やっぱり、誰かが訓練してるな」
レイラが盗賊たちの装備を見ながら言った。
「盗賊にしては手際が良すぎる」
ヴェスパーも頷く。
「指揮官だけじゃない。裏に別の者がいる」
「黒い翼か?」
その名を出した瞬間、空気が少しだけ冷える。
ヴェスパーは縛られた盗賊の一人へ近付いた。
若い人間の男だった。
顔は砂と血で汚れ、目にはまだ怯えが残っている。
「雇い主は誰だ」
盗賊は答えない。
唇を固く結んでいる。
ヴェスパーは剣を抜かなかった。
脅すような動きもしない。
ただ、相手の目を見た。
「黒い翼の男は誰だ」
盗賊の肩がわずかに震えた。
反応。
それだけで十分だった。
「知っているな」
「し、知らねぇ……!」
盗賊は首を振る。
「俺たちはただ、荷を奪えって……それだけだ!」
「誰に」
「知らねぇって言ってるだろ!」
声が裏返っていた。
嘘か。
あるいは、本当に知らされていないのか。
ヴェスパーは相手の体温を感じ取る。
恐怖で上がった熱。
動揺。
そして、記憶に触れられた時の乱れ。
少なくとも、黒い翼の名を恐れているのは確かだった。
「もういい」
ヴェスパーは立ち上がる。
レイラが隣で腕を組んだ。
「逃がすのか?」
「灰都で引き渡す。ここで殺しても情報は増えない」
「冷静だな」
「そうしないと、判断を間違える」
レイラは少しだけ黙った。
そして、小さく言った。
「間違えたこと、あるのか?」
ヴェスパーは一瞬、燃える村を思い出した。
炎。
黒い紋章。
ガルムの声。
立て。
生きたいなら来い。
「ある」
短い答えだった。
レイラはそれ以上、何も言わなかった。
夕暮れが近付いていた。
谷を抜ける頃には、空は赤く染まり始めていた。
輸送隊は壊れた荷車を一台捨て、残った荷物を他の荷車へ分散させた。
失った水は痛い。
だが、全滅を免れただけでも幸運だった。
谷の出口へ向かう道は、静かだった。
盗賊の気配はもうない。
ただ、いつまた何かが現れるか分からない緊張だけが残っている。
「もう少しで灰都だ」
護衛隊長が言った。
その声には疲労が滲んでいる。
レイラは歩きながら首を回した。
「着いたら飯だな」
「その前に報告だ」
ヴェスパーが言う。
「飯の前に?」
「飯の前に」
「お前、人生損してるぞ」
「生きていれば飯は食える」
「そういう話じゃないんだよなぁ」
レイラは不満そうに唇を尖らせる。
だが、その足取りは軽い。
戦いの疲れを見せない彼女の背中を見ながら、ヴェスパーは小さく息を吐いた。
自分一人なら、きっともっと殺伐とした道になっていただろう。
必要なことだけを考え、必要なだけ動き、必要なら斬る。
それだけの旅。
だが、レイラがいると、世界は少し騒がしくなる。
そして、その騒がしさに救われる時がある。
「何笑ってる?」
レイラが振り向く。
「笑ってない」
「いや、今ちょっと笑った」
「気のせいだ」
「絶対笑った」
「前を見ろ」
「ごまかしたな」
そんなやり取りをしながら、輸送隊は砂漠を進んだ。
日が沈みかけた頃。
地平線の向こうに、巨大な影が現れた。
最初は岩山のように見えた。
だが、近付くにつれて、それが人工物だと分かる。
砂漠の中央にそびえる巨大城壁。
幾重にも積み上げられた防壁。
外周を囲む監視塔。
錆びた鉄と白い石材で作られた、灰色の都市。
灰都アッシュベルク。
砂漠東部最大級の城壁都市。
商人の一人が安堵の息を漏らした。
「見えた……」
別の商人は膝から崩れ落ちそうになりながら笑った。
「助かった……本当に助かった……」
城壁の上では、見張りの兵がこちらへ信号灯を振っている。
門の前には、入市を待つ旅人や荷車が列を作っていた。
都市の外側には、簡易市場や修理場が広がっている。
旅人向けの屋台。
傭兵の詰所。
水売り。
荷運び人。
騒がしい声が、砂漠の静けさを押し返すように響いていた。
レイラの目が輝く。
「飯の匂いがする」
「報告が先だ」
「飯の匂いがする」
「報告が先だ」
「お前は鬼か」
「傭兵だ」
「似たようなもんだ」
ヴェスパーは無視して、門へ向かった。
灰都の門をくぐると、空気が変わった。
砂漠の乾いた熱から、人の熱へ。
汗。
油。
香辛料。
金属。
獣人の毛並み。
亜人の薬草。
都市の匂いが一気に押し寄せてくる。
石畳の通りには、多種多様な人々が行き交っていた。
人間。
ループス。
フェリーン。
リーベリ。
角を持つ亜人。
尾を引く爬虫系の種族。
誰もが忙しなく動いている。
上層へ続く大通りには商会の旗が並び、下層へ伸びる路地には雑多な看板がひしめいていた。
灰都アッシュベルクは、美しい都市ではない。
砂と煤に汚れ、建物は古く、通りには常に騒音がある。
だが、生きている都市だった。
ここには人の欲がある。
金が動く。
情報が流れる。
争いが起きる。
そして、仕事がある。
ヴェスパーたちのような傭兵にとっては、それだけで十分だった。
輸送隊は門番に事情を説明し、負傷者は医療区画へ運ばれることになった。
盗賊たちは拘束され、都市警備隊に引き渡される。
護衛隊長がヴェスパーへ歩み寄った。
「助かった」
彼は深く頭を下げた。
「お前たちがいなければ、全滅していた」
「依頼を果たしただけだ」
「それでもだ」
護衛隊長は真剣な目で言う。
「ありがとう」
ヴェスパーは少しだけ視線を逸らした。
感謝されるのは、得意ではない。
レイラが横から肘で小突く。
「こういう時は素直に受け取れ」
「……ああ」
ヴェスパーは護衛隊長へ向き直る。
「こちらこそ、最後まで隊を崩さなかった。助かった」
護衛隊長は驚いたように目を開き、それから笑った。
「若いのに、妙に落ち着いてるな」
レイラが即座に答える。
「中身は爺さんだからな」
「違う」
「違わないだろ」
「違う」
護衛隊長は声を上げて笑った。
長い一日で、初めて聞く明るい笑い声だった。
報告を終え、報酬の仮払いを受け取った頃には、すでに夜になっていた。
レイラは限界だった。
「飯」
「宿が先だ」
「飯」
「傷の手当ても先だ」
「飯」
「……分かった」
「勝った!」
「ただし、安い店だ」
「肉があれば何でもいい」
「それは安い店では難しい」
「じゃあ高い店だ」
「却下」
二人はそんな会話をしながら、灰都の下層街へ向かった。
下層街は、昼よりも夜の方が賑やかになる。
酒場の灯り。
屋台の煙。
怪しい露店。
賭博場の怒号。
路地裏から聞こえる笑い声。
そして、誰かが誰かを見張る気配。
レイラは鼻を鳴らす。
「相変わらず、嫌な街だな」
「嫌いか」
「飯はうまい」
「なら十分だ」
「基準が雑だな」
ヴェスパーは周囲を見渡す。
この街には情報が集まる。
盗賊団。
黒い翼。
燃える村。
そして、ガルム。
何かを掴める可能性があるとしたら、この都市だ。
その時だった。
「やあ」
屋根の上から声が降ってきた。
ヴェスパーは足を止める。
レイラが戦斧に手をかける。
石造りの屋根の縁に、一人の少女が座っていた。
黒紫の髪。
猫の耳。
片目を隠した前髪。
口元には飴。
フェリーン系の少女は、夜の街灯を背にして楽しそうに笑っている。
「相変わらず派手にやるねぇ、蜃気楼使い」
レイラが目を細める。
「出たな、猫」
少女は肩をすくめた。
「犬よりは上品だと思うけど?」
「誰が犬だ」
「心当たりあるんだ?」
「降りてこい」
「やだ。怒られそう」
ヴェスパーはため息をついた。
「イリス」
少女――イリスは、にっこりと笑った。
「久しぶり、ヴェスパー」
その声は軽い。
だが、その瞳は笑っていなかった。
「谷で黒い翼を見たんでしょ?」
レイラの表情が変わる。
ヴェスパーは静かに問い返した。
「どこでそれを知った」
イリスは飴を転がしながら、屋根の上で足を揺らす。
「ここは灰都だよ」
「砂漠で起きたことも、街に入る前に噂になる」
そして、彼女は少しだけ声を落とした。
「それにね、君に関係ありそうな情報が入ってる」
ヴェスパーの目が細くなる。
「黒い翼か」
「それだけじゃない」
イリスは夜の路地裏を見下ろしながら言った。
「ガルムの名前が出た」
空気が止まった。
レイラでさえ黙る。
ヴェスパーは屋根の上のイリスを見上げる。
「詳しく話せ」
イリスはにやりと笑った。
「その前に、情報料」
レイラが戦斧を持ち上げる。
「落としていいか?」
「暴力反対」
「飯の前に面倒を増やすな」
ヴェスパーが言うと、イリスは満足そうに笑った。
「じゃあ、私の隠れ家へどうぞ」
「胡散臭いな」
レイラが呟く。
イリスは屋根から軽やかに飛び降りた。
「情報屋が胡散臭くなかったら、それは偽物だよ」
そう言って、彼女は路地の奥へ歩き出す。
ヴェスパーはその背中を見つめた。
灰都アッシュベルク。
この街には、砂漠よりも深い闇がある。
そして今、その闇がヴェスパーの過去へと繋がろうとしていた。
「行くぞ」
ヴェスパーが言う。
レイラは大きくため息をついた。
「飯は?」
「後だ」
「黒い翼より先に、私が飢え死にするぞ」
「しない」
「するかもしれないだろ」
「しない」
二人はイリスの後を追う。
夜の灰都の路地裏へ。
そこから、物語はまた別の形で動き始めようとしていた。




