第1章 第3話 「盗賊襲撃」
谷の空気が歪んだ。
最初に異変に気付いたのは、崖上でボウガンを構えていた盗賊だった。
狙いは輸送隊中央。
商人たちが身を寄せ合う荷車の陰。
そこへ一斉射撃を浴びせれば、護衛の隊列は崩れる。
そう命じられていた。
弦を引く。
狙いを定める。
しかし、盗賊の視界がわずかに揺れた。
「……あ?」
照準の先にいたはずの商人たちが、陽炎の向こうへ沈むようにぼやけていく。
代わりに見えたのは、剣を持つ金髪の青年。
ヴェスパー。
盗賊は目を擦った。
だが、次の瞬間には別の場所にもヴェスパーが立っていた。
右。
左。
荷車の影。
岩壁の下。
護衛の背後。
「何だ、これ……?」
盗賊の声が震える。
隣にいた仲間が怒鳴った。
「撃て! 構わず撃て!」
矢が放たれる。
だが、矢はヴェスパーの身体をすり抜け、背後の岩壁に突き刺さった。
幻。
ただの幻影。
それでも盗賊たちは理解できなかった。
なぜなら、幻影の一人一人が呼吸をしていた。
髪が風に揺れ、外套が砂を払う。
剣先が陽を反射し、瞳がこちらを見返してくる。
まるで本物だった。
「どれが本物だ!」
誰かが叫んだ。
その声に応えるように、谷底から低い声が響いた。
「目に頼るな。」
ヴェスパーの声。
しかし、それがどこから聞こえたのか分からない。
谷全体に反響し、無数のヴェスパーが同時に喋ったように聞こえた。
盗賊たちの動きが乱れる。
その一瞬を、レイラは見逃さなかった。
「いいねぇ、派手になってきた!」
レイラは戦斧を握り直し、地面を蹴った。
砂が爆ぜる。
彼女の身体が一直線に敵前衛へ突っ込む。
「止めろ!」
剣を構えた盗賊が叫ぶ。
三人が同時に斬りかかってきた。
レイラは笑う。
恐怖ではない。
楽しんでいるわけでもない。
ただ、自分が何をすべきか分かっている者の笑みだった。
「正面から来るなら――」
彼女は戦斧を横薙ぎに振るった。
「まとめて相手してやる!」
轟音。
三本の剣が弾き飛ばされ、盗賊たちの身体が宙を舞った。
一人は荷車に叩きつけられ、一人は砂に転がり、もう一人は槍兵の列へ突っ込んだ。
谷にどよめきが走る。
「こいつ、化け物か!」
「ループスだ! 距離を取れ!」
盗賊たちは後退しようとする。
だが、下がった先にもヴェスパーがいた。
幻影か。
本物か。
判断できない。
その迷いが、次の隙を生む。
護衛隊長が叫んだ。
「今だ! 押し返せ!」
護衛たちが一斉に前へ出る。
盾を構え、剣を振り、商人たちの前に防壁を作る。
先ほどまで押されていた輸送隊が、わずかに戦線を立て直した。
商人の一人が震えながら荷車の下から顔を出す。
「た、助かるのか……?」
「黙って隠れてろ!」
護衛が怒鳴る。
その声にはまだ恐怖が混じっていた。
戦況は好転した。
だが、決して勝ったわけではない。
敵はまだ多い。
崖上にはボウガン隊。
前方には剣士。
後方には槍兵。
そして、どこかに全体を指揮する者がいる。
ヴェスパーは静かに谷を見渡していた。
彼自身はほとんど動いていない。
だが、彼の幻影が敵の視線を奪い、射線を狂わせ、判断を遅らせている。
熱を操り、光の屈折を歪ませる。
蜃気楼。
それは敵を斬る技ではない。
敵が見ている世界そのものを壊す技だった。
「くそっ!」
崖上の盗賊が苛立ちに任せて矢を放つ。
矢は幻影を貫く。
また外れ。
「何で当たらねぇ!」
別の盗賊が叫ぶ。
「本物を狙え!」
「だからどれだよ!」
混乱が広がっていく。
しかし、崖の最奥だけは静かだった。
隻眼の獣人。
盗賊団の指揮官は、焦る部下たちを冷めた目で見下ろしていた。
その手には長い槍。
背には大型のボウガン。
顔には古い傷。
彼はヴェスパーの幻影を見つめながら、舌打ちした。
「厄介な術だ。」
背後から、黒い外套の男が歩み寄る。
胸元には、黒い翼の紋章。
指揮官は振り返らずに言った。
「話が違うぞ。普通の護衛だと言ったはずだ。」
黒い外套の男は答えない。
ただ、谷底にいるヴェスパーを見つめていた。
「……熱を使うループス。」
その声は低く、乾いていた。
「やはり、生きていたか。」
「知り合いか?」
指揮官が問う。
黒い外套の男は小さく笑った。
「昔、焼き損ねた火種だ。」
その言葉は、谷底の喧騒に紛れて誰にも届かない。
ただ一人。
ヴェスパーだけが、熱の流れの中でその存在を感じ取っていた。
崖の奥。
黒い影。
胸元の紋章。
記憶の中で、炎が膨れ上がる。
燃える故郷。
倒れた人々。
黒い翼。
ヴェスパーの手に、わずかに力が入った。
レイラがそれに気付く。
「ヴェスパー!」
彼女の声が、現実へ引き戻す。
目の前では槍兵が荷車へ迫っていた。
子どもを抱えた商人が逃げ遅れている。
ヴェスパーは瞬時に感情を切った。
今、過去に呑まれるな。
生きている者を守れ。
彼は一歩踏み出す。
幻影が同時に動いた。
槍兵たちの前に、三人のヴェスパーが立ちはだかる。
「邪魔だ!」
槍兵が突く。
一体目は幻。
二体目も幻。
三体目。
そこに、本物がいた。
ヴェスパーは槍を紙一重で避け、剣の柄で相手の顎を打ち抜いた。
槍兵が崩れる。
次の敵。
次の敵。
彼は斬らない。
殺さず、動けなくする。
だが、その動きに迷いはない。
必要なら斬る。
それが戦場で生き残るということだ。
ガルムに教え込まれた、生存の理。
「甘いのか冷たいのか分からんな!」
レイラが敵を吹き飛ばしながら叫ぶ。
「状況次第だ。」
「そこが怖いんだよ!」
二人の軽口が交わされる。
その一方で、盗賊たちは完全に崩れ始めていた。
幻影に狙いを散らされ、レイラに前線を割られ、護衛隊の反撃で押し戻されていく。
だが、指揮官はまだ動かない。
ヴェスパーはそれを不自然に感じた。
なぜ撤退しない。
なぜ様子を見る。
何を待っている。
その答えは、次の瞬間に現れた。
谷の後方で爆発音がした。
荷車の一台が炎を上げる。
「火炎瓶か!」
護衛隊長が叫ぶ。
後方の岩場から新たな盗賊たちが姿を現した。
隠れていた別働隊。
槍ではなく、火炎瓶と短剣を持っている。
狙いは荷物。
いや、水樽だ。
「水を燃やす気か!?」
レイラが歯を食いしばる。
この砂海では、水は命そのものだ。
水を失えば、たとえ盗賊を退けても灰都までは辿り着けない。
ヴェスパーは即座に判断する。
「レイラ、後方!」
「前は!?」
「俺が崩す。」
「無茶すんなよ!」
「お前に言われたくない。」
レイラは笑い、後方へ駆けた。
その姿を見送りながら、ヴェスパーは深く息を吸う。
敵の配置。
味方の位置。
熱源。
射線。
風向き。
谷の形。
全てを頭の中で組み上げる。
勝つためではない。
生き残るために。
彼は剣をゆっくりと構えた。
周囲の熱が集まる。
蜃気楼がさらに濃くなる。
谷の景色が大きく揺らぎ、盗賊たちの視界から距離感が消えていく。
近いはずの敵が遠く見える。
遠いはずの剣先が目の前に現れる。
足場が歪み、影が伸び、空間そのものがねじれたように錯覚する。
盗賊の一人が膝をついた。
「気持ち悪い……何だよ、これ……!」
別の盗賊が叫ぶ。
「撤退だ! こんなの相手にできるか!」
その瞬間、崖上の指揮官が怒鳴った。
「逃げるな!」
だが、部下たちの恐怖はもう止まらない。
指揮官は舌打ちし、槍を握る。
「なら俺が行く。」
彼は崖の縁に立った。
その身体が沈む。
次の瞬間、獣人の脚力で谷底へ飛び降りた。
砂煙が爆ぜる。
巨大な槍が地面に突き刺さり、周囲の幻影が一瞬だけ乱れた。
ヴェスパーは目を細める。
「指揮官か。」
隻眼の獣人は槍を引き抜いた。
「お前がこの幻を作っているんだな。」
「だったら?」
「潰せば終わる。」
指揮官が踏み込む。
速い。
重い。
槍の一撃が空気を裂く。
ヴェスパーは避ける。
だが、完全には避けきれなかった。
外套の端が裂け、頬に細い傷が走る。
血が一筋流れる。
レイラが遠くで叫んだ。
「ヴェスパー!」
「来るな。」
ヴェスパーは指揮官から目を離さない。
「こいつは俺がやる。」
指揮官は笑った。
「いい目だ。」
「だが、若い。」
槍が再び振るわれる。
ヴェスパーは剣で受け流す。
金属音が響く。
一撃ごとに腕が痺れる。
力では勝てない。
正面から受け続ければ押し切られる。
だが、それでいい。
相手が力で来るなら、視界を奪えばいい。
ヴェスパーは低く息を吐いた。
谷の熱が、彼の周囲へ収束する。
指揮官の背後に幻影が立つ。
右に一人。
左に二人。
さらに背後に五人。
指揮官は鼻で笑った。
「幻で俺を惑わせる気か?」
「違う。」
ヴェスパーは剣を下段に構えた。
「もう惑っている。」
指揮官の表情がわずかに変わる。
その足元。
影の向きが、実際の太陽とずれていた。
彼が見ているヴェスパーは、わずかに位置が違う。
距離も。
角度も。
斬撃の軌道も。
全てが少しずつずれている。
「まさか――」
指揮官が気付いた時には遅かった。
ヴェスパーの姿が消える。
いや、消えたように見えた。
次の瞬間、彼は指揮官の懐にいた。
剣が青白い光を帯びる。
熱が刃の周囲で揺れる。
幻影たちが、一斉に同じ構えを取った。
盗賊たちが息を呑む。
護衛たちも。
商人たちも。
レイラでさえ、一瞬だけ動きを止めた。
ヴェスパーは静かに告げる。
「蜃気楼の牙。」
刃が走った。
音はなかった。
ただ、熱を帯びた斬撃の軌跡だけが、谷の空気に青白く残る。
指揮官の槍が砕けた。
防具の留め具が弾け、巨体が砂の上へ崩れ落ちる。
ヴェスパーの剣先は、指揮官の喉元で止まっていた。
「終わりだ。」
沈黙。
ほんの数秒。
だが、その数秒で戦場の流れは完全に変わった。
指揮官を失った盗賊たちは、次々と武器を捨てて後退し始める。
「逃げろ!」
「化け物だ!」
「相手にできるか!」
崖上のボウガン隊も撤退を始める。
レイラが追おうとしたが、ヴェスパーは首を振った。
「深追いするな。」
「黒い外套のやつは?」
「……消えた。」
崖上にいた黒い翼の男は、いつの間にか姿を消していた。
熱源も追えない。
最初から、こちらに見つかることを想定していたのだろう。
ヴェスパーは剣を下ろす。
頬の血が顎を伝い、砂に落ちた。
レイラが近付いてくる。
「大丈夫か?」
「問題ない。」
「問題あるやつほどそう言うんだよ。」
どこかで聞いたような言葉だった。
ヴェスパーは小さく息を吐く。
谷にはまだ、戦いの匂いが残っていた。
焦げた荷車。
割れた水樽。
倒れた護衛。
呻く盗賊。
怯える商人。
勝った。
だが、無傷ではない。
ヴェスパーは周囲を見渡し、静かに言った。
「負傷者を確認する。」
レイラは戦斧を肩に担ぎ、少しだけ笑った。
「ほんと、お前らしいな。」
その時、遠くの崖上で何かが光った。
ヴェスパーが振り向く。
そこにはもう誰もいない。
ただ、岩に刻まれた小さな紋章だけが残されていた。
黒い翼。
燃える故郷の記憶が、再び胸の奥で疼いた。
ヴェスパーはその紋章を見つめる。
そして、誰にも聞こえないほど小さく呟いた。
「……まだ、終わっていない。」




