第1章 第2話 「谷への道」
「伏せろ!!」
ヴェスパーの声が砂漠に響いた。
その直後、鋭い風切り音が輸送隊の頭上をかすめる。
一本の矢が荷車の側面に突き刺さった。
木板が裂け、積まれていた布袋が破ける。
中から乾いた穀物が砂の上へこぼれ落ちた。
「な、何だ!?」
商人の一人が腰を抜かす。
護衛たちは一斉に武器を構えた。
しかし、矢を放った者の姿は見えない。
ただ、遠くの岩場だけが陽炎の向こうで静かに揺れていた。
「狙撃か」
護衛隊長が低く呟く。
年季の入った革鎧を着た中年の男だった。
彼は盾を構えながら周囲へ指示を飛ばす。
「荷車を寄せろ! 商人は中央へ! 護衛は外側を固めろ!」
隊列が慌ただしく動き出す。
だが、砂漠の真ん中では隠れる場所が少なすぎた。
ヴェスパーは矢の刺さった位置を見た。
角度。
風。
射線。
そして、岩場までの距離。
「威嚇だ」
「威嚇?」
レイラが眉をひそめる。
「当てる気なら、今ので誰か死んでいた」
ヴェスパーは視線を岩場から外さない。
「こっちを止めたいだけだ」
「止めてどうする?」
「進路を変えさせる」
レイラは前方を見た。
輸送隊が向かう先には、灰都アッシュベルクへ続く交易路が伸びている。
だが、その道は途中で二つに分かれる。
一つは広い平地を抜ける道。
もう一つは、岩山の間を通る谷道。
本来なら、輸送隊は平地の道を通る予定だった。
だが、今のように狙撃を受け続ければ、開けた平地を進むのは危険すぎる。
自然と谷道へ逃げ込みたくなる。
「……誘導か」
レイラの声が低くなる。
ヴェスパーは頷いた。
「谷に入れたいんだろう」
「分かってて入るのか?」
「入らなければ、この場で削られる」
その時、二本目の矢が飛んだ。
護衛の盾に当たり、鈍い音を立てて弾かれる。
「くそっ!」
護衛が舌打ちする。
商人たちは完全に怯えていた。
馬も落ち着きを失い、荷車の一つが大きく揺れる。
護衛隊長がヴェスパーを見る。
「お前、傭兵だろ。どうする?」
ヴェスパーは一瞬だけ考えた。
最善は、ここで敵の位置を特定して叩くこと。
だが、相手は距離を取っている。
岩場に伏せ、こちらの動きだけを制御している。
無理に追えば、輸送隊が分断される。
「谷へ向かう」
ヴェスパーは言った。
レイラが目を細める。
「罠に入るってことか」
「罠だと分かっていれば、罠ではない」
レイラは一拍置いて、にやりと笑った。
「そういう言い方、嫌いじゃないぞ」
ヴェスパーは護衛隊長へ向き直る。
「隊列を縮めて谷へ。荷車は三台ずつ固める。商人は中央。盾持ちは外側。ボウガンが来るなら上からだ」
「分かった」
護衛隊長は即座に指示を飛ばした。
輸送隊は慎重に進路を変える。
砂煙を上げながら、谷へ向かって動き出した。
谷道は、想像以上に狭かった。
両側には切り立った岩壁。
上部は崩れかけ、今にも石が落ちてきそうだった。
古代文明の残骸なのか、岩壁の中には錆びた金属の梁や、半ば埋もれた配管のようなものが見える。
かつてこの場所にも、人が暮らしていたのかもしれない。
だが今は、風と砂だけが通る死んだ道だった。
輸送隊の車輪が軋む。
誰も喋らない。
先ほどまで軽口を叩いていた商人たちも、今は固く口を閉ざしている。
レイラは戦斧を肩から下ろしていた。
いつでも振れる位置。
目つきも先ほどとは違う。
「嫌な場所だな」
「同感だ」
ヴェスパーは谷の上を見上げる。
崖上には岩陰が多い。
人が隠れるには十分すぎる。
熱を探る。
岩の熱。
砂の熱。
輸送隊の人々の体温。
馬の体温。
そして――。
「いるな」
レイラが小声で聞いた。
「どこだ?」
「上だ。左右に分かれている」
「数は?」
「二十以上」
レイラは小さく息を吐いた。
「大歓迎ってわけだ」
ヴェスパーは剣の柄に手をかけた。
「まだ撃ってこない」
「待ってるのか?」
「一番深い場所まで入るのを」
谷道の中央。
そこが最も狭く、逃げ場がない。
荷車が詰まれば、前にも後ろにも動けなくなる。
敵が仕掛けるなら、そこだ。
ヴェスパーは護衛隊長へ視線を送る。
隊長も気付いているのだろう。
額に汗を浮かべながら、小さく頷いた。
しかし、引き返すにはもう遅い。
輸送隊はすでに谷の奥へ入ってしまっていた。
やがて、風が止まった。
不自然なほど、完全に。
砂の音も消える。
馬の鼻息だけが響く。
ヴェスパーの耳がわずかに動いた。
金属が擦れる音。
弦が引かれる音。
革靴が岩を踏む音。
「来る」
その一言と同時に。
崖上から影が立ち上がった。
一人ではない。
右に五人。
左に七人。
その奥にも、さらに複数。
ボウガンを構えた盗賊たちだった。
「撃てぇ!!」
叫び声が落ちる。
次の瞬間、矢の雨が谷へ降り注いだ。
「盾を上げろ!」
護衛隊長が怒鳴る。
盾が一斉に掲げられる。
矢が盾に突き刺さり、岩壁に弾かれ、荷車に突き立つ。
商人たちの悲鳴が谷に響いた。
「ひぃっ!」
「伏せろ!」
「荷物を守れ!」
混乱が広がる。
その混乱を待っていたかのように、谷の前方から剣を持った盗賊たちが現れた。
後方からも槍兵が道を塞ぐ。
完全な包囲。
レイラが低く笑った。
「分かりやすい連中だな」
「油断するな」
ヴェスパーは剣を抜く。
青みを帯びた刃が、砂漠の光を受けて鈍く輝いた。
盗賊の一人が叫ぶ。
「荷物を置いていけ! 命だけは助けてやる!」
護衛隊長が剣を構える。
「信用できるか、馬鹿野郎!」
その言葉を合図にしたように、盗賊たちが一斉に動いた。
剣を持つ者。
槍を構える者。
獣人の脚力で岩壁を蹴る者。
亜人の巨体で荷車へ突っ込む者。
混成部隊。
寄せ集めではあるが、動きに統率があった。
ただの盗賊ではない。
誰かが指揮している。
ヴェスパーは谷の奥を見た。
熱源が一つ。
動かない。
戦場を見下ろすような位置。
「……そこか」
だが、今は届かない。
まずは目の前の敵を止める必要がある。
「レイラ」
「おう」
「前を崩せ」
「後ろは?」
「俺が抑える」
レイラは戦斧を両手で握った。
「了解!」
彼女の足が砂を蹴る。
次の瞬間、赤い影が盗賊の前衛へ突っ込んだ。
「どけぇぇぇぇ!!」
巨大な戦斧が振り抜かれる。
轟音。
盗賊が二人まとめて吹き飛んだ。
岩壁に叩きつけられ、砂煙が舞う。
「なっ……!」
盗賊たちが怯む。
その隙に護衛隊が押し返す。
一方、後方では槍兵が荷車へ迫っていた。
ヴェスパーは一歩踏み出す。
槍が突き出される。
彼は身体を半歩ずらし、刃を滑らせるように槍の軌道を逸らした。
そのまま柄を踏み込み、敵の懐へ入る。
剣の峰が盗賊の腹を打った。
盗賊が息を詰まらせて倒れる。
次の槍。
次の剣。
ヴェスパーは無駄なく動いた。
速すぎるわけではない。
力任せでもない。
ただ、敵が動く前に、すでに次の位置へいる。
まるで戦場そのものを読んでいるようだった。
「こいつ……!」
盗賊の一人が叫ぶ。
「先にあの剣士を潰せ!」
崖上のボウガン隊がヴェスパーを狙う。
弦が鳴る。
ヴェスパーは上を見ない。
それでも、矢が放たれる瞬間にはもう動いていた。
矢は彼の外套をかすめ、砂に突き刺さる。
レイラがそれを見て笑う。
「相変わらず嫌な避け方するな!」
「褒め言葉として受け取る」
「褒めてない!」
二人のやり取りに、一瞬だけ護衛たちの緊張が緩む。
だが、状況はまだ悪い。
敵は多い。
前も後ろも塞がれている。
崖上からは矢。
谷底には剣と槍。
輸送隊は完全に分断されかけていた。
護衛隊長が叫ぶ。
「押されるな! 荷車を守れ!」
その時、一台の荷車が大きく傾いた。
車輪に矢が突き刺さり、軸が壊れたのだ。
積み荷が崩れ、水樽が砂の上へ転がる。
商人が悲鳴を上げて駆け寄ろうとする。
「水が!」
「行くな!」
ヴェスパーが叫ぶ。
だが遅い。
商人の前に、剣を持った盗賊が飛び出した。
刃が振り下ろされる。
その瞬間、レイラの戦斧が割り込んだ。
金属音が谷に響く。
「弱いやつから狙うなよ」
レイラの声は低かった。
先ほどまでの陽気さはない。
盗賊が後ずさる。
「何だよ、女……」
「その言い方、さっきも聞いたな」
レイラは戦斧を肩に担ぎ直した。
「覚えが悪いなら、体で覚えろ」
次の瞬間、彼女は盗賊を吹き飛ばした。
商人は震えながら頭を下げる。
「す、すまない……!」
「礼は後だ!」
レイラは叫ぶ。
「今は生き残れ!」
ヴェスパーはその光景を横目で見ながら、崖上へ意識を向けていた。
指揮官はまだ動かない。
こちらの戦力を測っている。
ただの盗賊なら、仲間が倒されれば焦る。
だが、あの熱源は揺れない。
冷静に見ている。
「厄介だな」
ヴェスパーは小さく呟いた。
その時、崖上の奥で別の影が動いた。
黒い外套。
一瞬だけ見えた胸元の紋章。
羽を広げたような、不気味な黒い印。
ヴェスパーの呼吸が止まる。
記憶の奥で、炎が揺れた。
燃える家。
倒れた人々。
幼い自分。
そして、黒い翼。
「……」
レイラが異変に気付く。
「ヴェスパー?」
彼は返事をしない。
ただ、崖上を見つめていた。
盗賊たちの怒号が遠くなる。
剣戟の音も、商人の悲鳴も、全てが薄れていく。
黒い翼。
なぜ、ここに。
その瞬間。
崖上の指揮官が手を上げた。
盗賊たちの動きが変わる。
前衛が一斉に退き、ボウガン隊が再び弦を引いた。
狙いは輸送隊の中央。
商人たち。
「まずい」
ヴェスパーは我に返る。
全員を守るには、普通に動いていては間に合わない。
レイラも間に合わない。
護衛隊も間に合わない。
なら。
使うしかない。
ヴェスパーは深く息を吸った。
砂漠の熱が、肌にまとわりつく。
谷に溜まった熱。
岩にこもった熱。
人々の体温。
矢じりが帯びる熱。
全てが、彼の中へ流れ込んでいく。
レイラが目を見開いた。
「おい、まさか」
ヴェスパーは剣を下げる。
陽炎が、彼の周囲で揺れ始めた。
空気が歪む。
盗賊の一人が足を止める。
「何だ……?」
ヴェスパーは静かに呟いた。
「目に頼るな」
そして、谷の景色が崩れ始めた。




