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灰の星  作者: ウルフルマル


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第1章 第8話 「結晶の獣」

異形が突進した。


旧水路の床が砕け、青白い結晶片が飛び散る。


人の形をしている。


だが、人ではなかった。


膨れ上がった右腕。


結晶に覆われた胸部。


ひび割れた皮膚。


仮面のように固まった顔。


その奥で、かすかに残った眼だけが濁った光を宿していた。


ヴェスパーは横へ跳ぶ。


直後、異形の拳が床を叩き割った。


轟音。


衝撃が旧水路全体を震わせる。


「っ……!」


イリスが壁際へ転がり込む。


天井から錆びた配管が落ち、火花が散った。


「なにあれ、力任せすぎるでしょ……!」


「近づくな」


ヴェスパーは剣を構えたまま、異形から目を離さない。


熱を読む。


だが、奇妙だった。


生き物ならあるはずの熱の流れが乱れている。


心臓。


血流。


呼吸。


それらが、どれもまともに機能していない。


代わりに、青白い結晶が体内の熱を奪い、別の力へ変換しているようだった。


「人間じゃないね」


イリスが端末を構えながら言う。


「いや、元は人間かもしれない」


ヴェスパーは低く答えた。


「だから厄介だ」


異形が顔を上げる。


喉の奥から、獣のような唸り声が漏れた。


次の瞬間、背中の結晶が淡く光る。


ヴェスパーは即座に動いた。


「伏せろ!」


異形の背から結晶片が弾丸のように射出された。


壁が砕ける。


床が裂ける。


一本がヴェスパーの頬をかすめ、血が散った。


イリスは低く身を滑らせながら、小型銃を構える。


「結晶部分を壊せば止まる?」


「試せ」


「了解」


銃声。


弾丸が異形の肩の結晶を撃ち抜く。


青白い破片が飛び散った。


異形の動きが一瞬だけ止まる。


だが、すぐに砕けた箇所から新たな結晶が生え始めた。


イリスの表情が歪む。


「再生するの、反則じゃない?」


「核がある」


ヴェスパーは言った。


「どこかに結晶反応の中心があるはずだ」


「探す時間ある?」


異形が再び突進してくる。


「作る」


ヴェスパーの周囲で空気が揺れた。


熱が集まる。


陽炎が生まれる。


彼の姿が二つに分かれた。


さらに三つ。


四つ。


蜃気楼。


異形の動きが乱れる。


本能で敵を追っているのか、視覚に頼っているのか。


どちらにせよ、幻影は効いていた。


異形は右のヴェスパーへ拳を振るう。


幻影が砕けるように消えた。


その隙に、本物のヴェスパーが背後へ回り込む。


剣が走る。


背中の結晶を一つ、二つ、三つと斬り落とした。


だが――。


「浅い」


結晶の奥に刃が通らない。


異形の身体は、外側だけでなく内側まで硬化していた。


次の瞬間、異形の左腕があり得ない角度で曲がる。


ヴェスパーの胴を狙う。


避ける。


だが、完全には間に合わなかった。


外套が裂け、脇腹に鈍い痛みが走る。


「ヴェスパー!」


イリスが叫ぶ。


「問題ない」


「問題ありそうに見えるけど?」


「動ける」


「そういう人ほど危ないんだよね」


イリスは端末を操作しながら、床に小型の装置を投げた。


三つ。


四つ。


小さなドローンのような装置が浮き上がり、異形の周囲を飛び回る。


異形がそれに反応する。


視線が逸れた。


「十秒稼ぐ」


イリスが言う。


「十分だ」


ヴェスパーは目を閉じた。


熱を探る。


異形の全身は冷たい。


だが、完全に冷たいわけではない。


胸の奥。


左胸より少し下。


そこだけが、異常な熱を持っている。


青白い結晶の中に、赤黒い熱が脈打っている。


心臓ではない。


核。


術式の中心。


「見つけた」


ヴェスパーは剣を握り直す。


だが、異形もそれを察したように咆哮した。


ドローンが次々と叩き落とされる。


イリスが舌打ちした。


「十秒って言ったでしょ!」


「十分だった」


「足りてないと思う!」


異形が床を蹴る。


ヴェスパーへ一直線。


速度が上がっていた。


結晶が全身をさらに覆い、形を変えていく。


もはや人型ですらない。


獣。


黒い翼によって作り替えられた、結晶の獣。


ヴェスパーは深く息を吸う。


ガルムの声が脳裏をよぎる。


――力で勝てないなら、見ている世界を奪え。


――目は騙せる。耳も騙せる。


――だが、恐怖だけは騙せない。


ヴェスパーは一歩踏み込んだ。


幻影が一斉に散る。


異形の視界に、無数のヴェスパーが現れる。


前。


横。


背後。


天井。


床。


だが、それだけでは足りない。


相手は人間ではない。


恐怖で止まらない。


ならば、感覚そのものを狂わせる。


ヴェスパーは周囲の熱を操作した。


旧水路の冷たい空気。


蒸気の残熱。


配管の熱。


自分の体温。


それらをわずかにずらす。


空間が歪んだように見える。


異形の足が、空を踏んだ。


実際には何もない。


だが、異形には床がそこにあるように見えていた。


体勢が崩れる。


その瞬間。


ヴェスパーは跳んだ。


剣が青白い軌跡を描く。


狙いは胸の核。


だが、刃が届く直前。


異形の背中から新たな結晶が伸びた。


盾のように胸を覆う。


硬い。


剣が弾かれる。


「っ……!」


反撃。


異形の腕がヴェスパーを捉えた。


壁へ叩きつけられる。


肺から息が抜けた。


視界が揺れる。


イリスが銃を撃つ。


「離れろ!」


弾丸が異形の顔に当たる。


効果は薄い。


異形はヴェスパーへ迫る。


その背後で、黒い外套の男が静かに見ていた。


仮面の奥の視線が、冷たく細まる。


「その程度か」


ヴェスパーは壁に手をつきながら立ち上がる。


「お前たちは、何をしている」


黒い外套の男は答えない。


「この人間を、何に変えた」


男はわずかに首を傾けた。


「人間?」


その声には、本当に不思議そうな響きがあった。


「これは素材だ」


イリスの表情が凍る。


ヴェスパーの瞳から温度が消えた。


怒りが、静かに沈んでいく。


深く。


冷たく。


男は続ける。


「灰の大災厄は世界を壊した。だが同時に、可能性を残した。結晶はその一つだ。肉体を超え、術式を超え、種の限界を超えるための――」


「黙れ」


ヴェスパーの声は低かった。


異形が再び動く。


だが、その直前。


通路の奥から轟音が響いた。


「どけぇぇぇぇ!!」


レイラの声。


次の瞬間、巨大な戦斧が異形の横腹に叩き込まれた。


結晶が砕け、異形の巨体が横へ吹き飛ぶ。


レイラが肩で息をしながら立っていた。


その後ろに、白いコートの少女がいる。


羊の角。


淡い銀髪。


眠たげな瞳。


しかし、その目は異形と倒れた刺客たちを見た瞬間、鋭く細まった。


「……これは、医療行為の範囲を超えています」


イリスが手を振る。


「来るの遅いよ、セレス」


白いコートの少女――セレスは静かに答えた。


「この子を診ながら来ました」


彼女の腕の中には、旧水路で救出した獣人の少年ミロがいた。


ミロはまだ意識を失っている。


だが、呼吸は先ほどよりも安定していた。


レイラが言う。


「この子は一旦、安全な場所に寝かせてる。応急処置はセレスがやった」


セレスはミロをイリスの近くへそっと横たえた。


「結晶化の進行は抑えました。ですが、一時的なものです」


ヴェスパーは脇腹を押さえながら立つ。


「助かるのか」


セレスはヴェスパーを見る。


そして、すぐに彼の怪我にも気付いた。


「あなたも助かるか怪しい状態です」


「俺はいい」


「よくありません」


即答だった。


レイラが笑う。


「言われてるぞ」


ヴェスパーは何も返さない。


セレスは異形へ視線を戻した。


「核があります」


ヴェスパーが目を細める。


「見えるのか」


「熱と循環の乱れなら」


セレスの瞳が淡く光る。


熱診。


体温、血流、術式反応の乱れを読み取る医療術。


彼女は異形の胸を指差した。


「左胸下部。結晶の奥。あれを止めなければ、再生は続きます」


「同じ場所だ」


ヴェスパーが呟く。


イリスが弾倉を交換する。


「つまり、あそこを壊せばいいってこと?」


セレスは首を横に振った。


「壊し方を間違えると、内部の結晶反応が暴走します」


レイラが顔をしかめる。


「暴走したら?」


「この区画ごと吹き飛ぶかもしれません」


「最悪だな!」


黒い外套の男が、静かに笑った。


「正解だ」


全員の視線が向く。


男は異形の背後に立ち、片手を上げた。


「それは完成品ではない。だが、ここまで戦えるなら十分な成果だ」


ヴェスパーは剣を構える。


「逃げる気か」


「観察は終わった」


男の背後に黒い扉が開く。


隠し通路。


イリスがすぐに端末を操作する。


「まずい、ロックされる!」


レイラが駆け出そうとするが、異形がそれを遮る。


男は最後にヴェスパーを見た。


「黒陽炎の弟子。お前もいずれ分かる」


「何を」


「お前の力が、誰のために残されたものなのかを」


扉が閉じる。


男の姿が消えた。


ヴェスパーが追おうとする。


だが、セレスが制した。


「今は無理です」


「どけ」


「追っても死にます」


静かな声だった。


だが、有無を言わせない力があった。


「あなた一人の命ではありません。ここにいる全員の生存率を下げます」


ヴェスパーは足を止める。


セレスは続けた。


「まずは目の前の患者を止めます」


患者。


異形を、彼女はそう呼んだ。


レイラの表情が少し変わる。


「助けられるのか?」


セレスは一瞬だけ沈黙した。


「元に戻すことは、おそらくできません」


誰も何も言わない。


「ですが、これ以上苦しませないことはできます」


ヴェスパーは異形を見た。


濁った眼。


壊れた身体。


結晶に奪われた命。


かつて誰かだったもの。


「方法は」


セレスは医療バッグから細い注射器を取り出した。


中には淡い青色の薬液が入っている。


「結晶反応を一時的に鈍らせます。その間に、核を正確に切断してください」


「時間は」


「十秒」


イリスが苦笑した。


「さっきも十秒だったね」


レイラが戦斧を構える。


「今度は私が稼ぐ」


セレスは頷いた。


「投与には接近が必要です」


「危ないだろ」


レイラが言う。


セレスは表情を変えない。


「医者ですから」


その一言に、レイラは一瞬だけ黙る。


それから笑った。


「いいね。嫌いじゃない」


作戦は一瞬で決まった。


レイラが正面から異形を抑える。


イリスが側面から結晶の動きを妨害する。


セレスが薬剤を投与する。


ヴェスパーが核を斬る。


異形が咆哮した。


再び突進。


レイラが真正面から迎え撃つ。


「来い!」


戦斧と結晶の腕がぶつかる。


衝撃で床が割れる。


レイラの足が後ろへ滑った。


「重っ……!」


だが退かない。


イリスの小型ドローンが異形の背後へ回り込み、結晶の成長点を撃つ。


異形の動きがわずかに乱れる。


その隙に、セレスが走った。


白いコートが暗い通路に翻る。


異形の腕が彼女を狙う。


ヴェスパーが割り込む。


剣で軌道を逸らす。


腕に痺れるような衝撃が走る。


「今だ」


セレスは異形の脇腹へ注射器を突き刺した。


薬液が流れ込む。


青白い結晶の光が、一瞬だけ弱まった。


「十秒です!」


ヴェスパーは動いた。


熱が集まる。


幻影が生まれる。


一人。


二人。


三人。


幻影が異形の周囲を駆ける。


異形は鈍った動きで幻影を追う。


ヴェスパー本体は、真正面から低く踏み込んだ。


セレスの指示した位置。


左胸下部。


結晶の奥。


核。


だが、最後の防御反応として結晶が再び伸びる。


レイラが叫ぶ。


「邪魔だぁ!!」


戦斧が横から叩き込まれ、伸びかけた結晶を砕く。


イリスの銃弾がさらに細かな破片を撃ち落とす。


道が開いた。


ヴェスパーの剣が青く揺れる。


熱が刃の周囲に集まり、空気が歪む。


幻影たちが一斉に同じ構えを取る。


「蜃気楼の牙」


斬撃。


今度は迷わなかった。


刃が核を正確に断つ。


青白い光が爆ぜた。


異形の身体が大きく震える。


結晶が一斉に砕け、床へ降り注ぐ。


やがて、巨大な身体は膝をついた。


そして、倒れた。


静かだった。


咆哮もない。


怒りもない。


ただ、長い苦しみから解放されたように。


異形の顔を覆っていた結晶が剥がれ落ちる。


その下には、疲れ切った人間の顔があった。


年齢は分からない。


だが、最後の一瞬だけ、その目にわずかな光が戻った。


セレスが膝をつく。


脈を取る。


数秒後、静かに目を伏せた。


「……終わりました」


レイラが戦斧を下ろす。


イリスも銃を下げた。


ヴェスパーは剣を鞘に収めず、倒れた男を見つめていた。


勝利ではない。


これは救出でもなかった。


ただ、遅すぎた終わりだった。


セレスは立ち上がり、ヴェスパーの脇腹を見る。


「次はあなたです」


「後でいい」


「今です」


「まだ奥を調べる」


「出血しています」


「動ける」


セレスは無言でヴェスパーを見上げた。


眠たげな目。


だが、そこに一切の譲歩はなかった。


「患者の言う“大丈夫”は信用しません」


レイラが吹き出す。


「いいぞ、もっと言え」


イリスも笑う。


「ヴェスパーを止められる人、貴重だよ」


ヴェスパーは小さく息を吐いた。


「……手短に頼む」


「最初からそう言ってください」


セレスは医療バッグを開く。


その時、イリスの端末が警告音を鳴らした。


彼女の表情が変わる。


「まずい」


「何だ」


「施設の自壊装置が動いてる」


レイラが叫ぶ。


「はぁ!?」


イリスは画面を操作しながら早口で言う。


「さっきの男が起動した。地下区画全体が閉鎖される。爆発じゃない。結晶反応の暴走で水路ごと封鎖する気だ」


セレスがミロを見る。


「この子を運びます」


レイラが即座に抱き上げる。


「任せろ」


ヴェスパーは壊れた実験室の奥を見た。


そこには、黒く焼けた大剣が残されている。


ガルムのものに似た剣。


そして、そのそばに小さな金属札が落ちていた。


ヴェスパーはそれを拾う。


刻まれていた文字。


――黒陽炎、回収失敗。


胸の奥が冷える。


ガルムは生きているのか。


捕まったのか。


それとも。


「ヴェスパー!」


レイラの声。


天井が軋む。


結晶が壁を侵食し始めていた。


ヴェスパーは金属札を握りしめる。


「行くぞ」


四人は走り出した。


旧水路の奥で、青白い結晶が脈打つ。


黒い翼の実験施設は、闇の中へ沈もうとしていた。


だが、そこに残された手がかりは確かに一つ。


ガルムは、この事件の中心にいる。


そして黒い翼は、ヴェスパーを待っている。


それだけは、もう疑いようがなかった。


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