第1章 第9話 「白い医師」
旧水路が崩れ始めた。
最初は、壁の奥で何かが軋むような音だった。
次に、天井を走る配管が裂けた。
錆びた金属片が落ち、青白い結晶が壁を這うように広がっていく。
それは生き物のようだった。
ひび割れの隙間から伸び、床を侵食し、照明を飲み込み、旧水路そのものを内側から塞ごうとしている。
「急いで!」
イリスが端末を片手に叫ぶ。
「このままだと出口まで結晶で塞がれる!」
レイラは意識を失った少年――ミロを抱えたまま走っていた。
その背中を守るように、ヴェスパーが後方を警戒する。
彼の脇腹には先ほどの戦闘で負った傷がある。
走るたびに痛みが響く。
だが、足は止めない。
セレスが横目でそれに気付いた。
「出血が増えています」
「後でいい」
「後で悪化します」
「今止まれば全員埋まる」
「それは分かっています」
セレスは走りながら医療バッグから小さな薬包を取り出した。
「口に入れてください」
ヴェスパーは一瞬だけ彼女を見る。
「何だ」
「痛み止めと止血補助です。飲まないなら、ここで無理やり口に入れます」
レイラが前を走りながら笑った。
「いいぞ、セレス。もっと言え」
「余計なことを言うな」
ヴェスパーは短く返し、薬包を受け取って口に含んだ。
苦い。
舌に薬草と金属のような味が広がる。
だが、すぐに傷口の熱が少し引いた。
「効いたでしょう」
「……ああ」
「次からは素直に従ってください」
「状況次第だ」
「患者の判断は信用しません」
イリスがくすりと笑う。
「いいね。ヴェスパーの天敵が増えた」
「笑ってる場合か!」
レイラが叫ぶ。
前方の通路が、すでに結晶で半分塞がりかけていた。
イリスが端末を操作する。
「右! 旧点検通路がある!」
「開くのか?」
「開ける!」
イリスは走りながら壁の制御盤に小型端末を接続した。
古い電子音。
ロック解除。
だが扉は錆びついて動かない。
「開かない!」
「どけ!」
レイラがミロをセレスへ預ける。
そして戦斧を両手で握り、扉へ叩きつけた。
轟音。
一撃目で扉が歪む。
二撃目で蝶番が弾ける。
三撃目で、鉄扉は通路の奥へ吹き飛んだ。
「開いたぞ!」
「開け方が雑!」
イリスが叫ぶ。
「開けばいい!」
レイラはミロを抱え直し、通路へ飛び込む。
その直後、背後の旧水路が結晶に飲み込まれた。
青白い光が一瞬だけ強く輝き、それから闇に沈む。
旧点検通路は狭く、天井も低かった。
四人は身体をかがめながら進む。
遠くに冷たい風が流れていた。
外へ繋がっている。
「出口が近い」
ヴェスパーが言った。
だが、その声にはわずかな乱れがあった。
セレスが即座に気付く。
「ヴェスパーさん」
「問題ない」
「その言葉、禁止にします」
「……」
「返事は」
「分かった」
レイラが笑いを堪える。
「お前、完全に負けてるぞ」
「黙れ」
その時、前方に光が見えた。
小さな鉄格子。
その向こうに夜空がある。
レイラが最後の力で鉄格子を蹴破った。
砂と冷たい夜風が流れ込む。
四人は旧水路の外へ転がり出た。
そこは灰都の外縁部だった。
崩れた排水口。
砂に埋もれた古い水路跡。
遠くには灰都アッシュベルクの城壁がそびえ、夜の灯りが無数に瞬いている。
その光を見た瞬間、レイラはその場に座り込んだ。
「……生きてる」
イリスも壁にもたれかかる。
「ギリギリだったね」
セレスは休む間もなくミロの状態を確認していた。
少年の額に手を当て、腕に浮かぶ結晶を確認する。
「呼吸は安定しています。ただ、早く診療所へ運ぶ必要があります」
ヴェスパーは立ち上がろうとした。
だが、その瞬間、膝が崩れた。
「ヴェスパー!」
レイラが駆け寄る。
ヴェスパーは片手を地面につき、顔をしかめる。
傷口から血が滲んでいた。
セレスが無言で近付く。
その目は、先ほどまでより少しだけ怖かった。
「今度こそ、あなたも患者です」
ヴェスパーは反論しようとした。
しかし、セレスの視線を見てやめた。
「……任せる」
「最初からそうしてください」
セレスは淡々と言い、応急処置を始めた。
---
セレスの診療所は、灰都の下層街にあった。
大通りから外れた細い路地の奥。
古い石造りの建物。
入口には小さな看板が掲げられている。
**白砂診療所**
看板の文字は少し掠れていたが、中からは柔らかな灯りが漏れていた。
中へ入ると、薬草の匂いがした。
清潔な布。
古い木製の診察台。
薬品棚。
壁に並んだ医療器具。
豪華ではない。
むしろ貧しい診療所だった。
だが、不思議と落ち着く場所だった。
セレスはミロを奥の診察台へ寝かせる。
「イリスさん、そこの青い箱を」
「これ?」
「はい。中の冷却薬を二本」
「了解」
イリスはすぐに動いた。
レイラは入口近くで落ち着かなそうにしている。
「私は何をすればいい?」
「手を洗ってください」
「手?」
「そのまま触ると感染症の危険があります」
「お、おう」
レイラは妙に素直に洗面台へ向かった。
ヴェスパーは椅子に座らされていた。
脇腹には仮の包帯が巻かれている。
セレスはミロに薬を投与しながら、ヴェスパーへも視線を向けた。
「あなたは動かないでください」
「分かっている」
「本当に?」
「……分かっている」
イリスが横で笑う。
「信用されてないね」
「原因は本人にあります」
セレスは即答した。
ヴェスパーは何も言い返せなかった。
---
治療は一時間近く続いた。
ミロの腕に広がっていた青白い結晶は、完全には消えなかった。
だが、輝きは弱まり、呼吸も落ち着いた。
セレスはようやく手を止め、小さく息を吐いた。
「進行は止まりました」
レイラがほっとした表情を見せる。
「助かるのか?」
「今すぐ命を落とすことはありません」
セレスは静かに答えた。
「ですが、完治ではありません」
その言葉に、室内の空気が重くなる。
ヴェスパーはミロの腕を見た。
結晶はまだ皮膚の下に残っている。
まるで消えない傷のように。
「結晶化とは何だ」
ヴェスパーが問う。
セレスは少しだけ考え、それから棚から古い資料を取り出した。
「正式な病名はありません。症状としては、体内の術式反応が異常増幅し、肉体の一部が結晶化します」
「病気なのか?」
レイラが聞く。
「自然発症する例もあります。ただ、今回のものは違います」
セレスはミロの腕を見つめた。
「外部から何かを投与されています。術式媒介物質、おそらく黒い翼が加工した結晶片です」
イリスの表情が険しくなる。
「つまり、実験されたってこと?」
「そう考えるのが自然です」
「子どもに?」
レイラの声が低くなる。
セレスは静かに頷いた。
その横顔に怒りは見えない。
けれど、彼女の手はわずかに震えていた。
「私は医者です」
セレスはぽつりと言った。
「命を救うために学びました。ですが、あの人たちは命を道具として扱っている」
その声は小さい。
だが、確かな怒りがあった。
「許せません」
レイラは何も言わず、拳を握った。
ヴェスパーも黙っていた。
同じだった。
黒い翼は、人の命を命として見ていない。
素材。
器。
実験体。
そう呼んだ男の声が耳に残っている。
ヴェスパーは静かに口を開いた。
「セレス」
「はい」
「ミロを治せるか」
セレスはすぐには答えなかった。
できる、と軽く言えるほど彼女は無責任ではない。
できない、と切り捨てるほど冷たくもない。
「時間が必要です」
やがて、そう言った。
「資料も、薬も、設備も足りません。ですが、進行を抑えながら原因を調べることはできます」
「なら頼む」
ヴェスパーは頭を下げた。
レイラが少し驚く。
イリスも目を丸くした。
セレス自身も、一瞬だけ固まった。
「……頭を下げる必要はありません」
「必要がある」
ヴェスパーは顔を上げる。
「俺たちだけでは助けられない」
セレスはその言葉を静かに受け止めた。
そして、小さく頷いた。
「分かりました」
---
ヴェスパーの治療は、その後だった。
「上着を脱いでください」
「自分でやる」
「傷口が開きます」
「問題――」
セレスの目が細くなる。
ヴェスパーは言葉を止めた。
「……頼む」
「はい」
レイラが肩を震わせて笑っている。
「完全に調教されてるな」
「黙れ」
「いやぁ、谷で盗賊を相手にしてた時より追い詰められてるぞ」
イリスも楽しそうに頷く。
「貴重な場面だね。記録しておこうかな」
「やめろ」
「冗談だよ。半分」
セレスは包帯を外し、傷口を確認した。
表情が少し険しくなる。
「深いです」
「動ける程度だ」
「動けることと、軽傷であることは別です」
消毒薬が染みる。
ヴェスパーはわずかに眉を動かした。
セレスはそれを見逃さない。
「痛いですか?」
「少し」
「我慢しないでください」
「していない」
「嘘ですね」
ヴェスパーは黙った。
レイラがついに声を出して笑った。
「お前、嘘も見抜かれてるぞ」
ヴェスパーは視線だけで抗議する。
しかし、セレスは淡々と処置を続けた。
「あなたの体温、通常より高いです」
その一言で、空気が少し変わった。
ヴェスパーはセレスを見る。
「分かるのか」
「私は熱診が使えます。体温、血流、炎症、術式反応の乱れを読み取る医療術です」
セレスは包帯を巻きながら続けた。
「あなたの熱は普通ではありません。能力を使った直後だから、というだけではない」
イリスが真面目な顔になる。
「どういうこと?」
「体内に熱が残りすぎています」
セレスはヴェスパーを見る。
「蜃気楼を使うたびに、体に負担が蓄積しているはずです」
レイラの表情が変わる。
「おい、それ初耳だぞ」
ヴェスパーは答えない。
レイラの声が低くなる。
「知ってたのか?」
「多少は」
「多少じゃないだろ」
「戦闘に支障はない」
「だからそういうところだって言ってんだよ!」
レイラの怒声が診療所に響いた。
ミロが少し身じろぎする。
セレスが静かに指を立てた。
「患者が寝ています」
「……すまん」
レイラは声を落とした。
だが、怒りは消えていない。
ヴェスパーは彼女を見た。
「言わなかったのは悪かった」
「本当に思ってるか?」
「ああ」
「じゃあ次から言え」
ヴェスパーは少しだけ沈黙し、頷いた。
「分かった」
セレスはそのやり取りを見つめていた。
そして静かに言う。
「今後、あなたの体調は私が確認します」
ヴェスパーが眉をひそめる。
「今後?」
「はい」
セレスは包帯を結び終える。
「私も同行します」
レイラとイリスが同時に反応した。
「同行?」
「本気?」
セレスは頷いた。
「黒い翼の実験は、結晶化現象と関係しています。ミロ君だけではありません。あの地下にいた人たちも、他にも被害者がいるはずです」
彼女の声は静かだった。
だが、その決意は揺らがない。
「私は、それを調べます」
「危険だぞ」
ヴェスパーが言う。
「知っています」
「医者が戦場に出る必要はない」
セレスは少しだけ目を細めた。
「戦場に患者がいるなら、医者は行きます」
その言葉に、誰もすぐには返せなかった。
レイラがやがて笑う。
「いいじゃん」
イリスも肩をすくめる。
「変わり者だけど、頼もしいね」
「変わり者は余計です」
セレスは淡々と返す。
ヴェスパーはしばらく彼女を見ていた。
白いコート。
羊角。
眠たげな瞳。
だが、その奥にある意志は強い。
彼女は守られるだけの医者ではない。
命を救うためなら、自分から危険へ向かう人間だ。
「分かった」
ヴェスパーは言った。
「ただし、無理はするな」
セレスは即座に返す。
「それはあなたもです」
レイラがまた笑う。
「この子、強いな」
「気に入った?」
イリスが聞く。
「かなり」
セレスは少しだけ困ったように瞬きをした。
「ありがとうございます……?」
---
夜明け前。
診療所の外は静かだった。
灰都の下層街も、この時間だけは眠っている。
ヴェスパーは診療所の入口に立ち、空を見上げていた。
灰色の空。
星は少ない。
砂塵に覆われたこの街では、夜空さえ霞んで見える。
手の中には、旧水路で拾った金属札があった。
――黒陽炎、回収失敗。
ガルムは生きているのか。
黒い翼は、なぜ自分を誘うのか。
そして、自分の力は何なのか。
答えはまだ遠い。
だが、進む道は見え始めている。
「眠らないんですか」
背後からセレスの声がした。
ヴェスパーは振り返らない。
「昔から眠りは浅い」
「よくありません」
「知っている」
セレスは隣に立った。
「ミロ君は安定しています」
「そうか」
「完全に治すには時間がかかります。ですが、必ず方法を探します」
ヴェスパーは少しだけ視線を落とした。
「頼む」
セレスは頷いた。
しばらく沈黙が続く。
やがて、セレスが静かに言った。
「あなたも、患者です」
「俺は違う」
「違いません」
彼女はまっすぐヴェスパーを見た。
「心も、体も、傷ついたまま放置すれば壊れます」
ヴェスパーは何も言えなかった。
燃える故郷。
ガルム。
黒い翼。
失ったもの。
ずっと、見ないようにしてきた。
生きるために。
前へ進むために。
けれど、それは癒えたわけではなかった。
セレスはそれ以上踏み込まなかった。
ただ、静かに言う。
「必要になったら、診ます」
それは医者としての言葉だった。
同時に、仲間としての言葉でもあった。
ヴェスパーは小さく頷いた。
「ああ」
その時、診療所の中からレイラの寝言が聞こえた。
「肉……もっと……」
イリスの声も続く。
「それ私の……」
セレスがほんの少しだけ目を瞬かせる。
ヴェスパーは小さく息を吐いた。
笑ったのかもしれない。
自分でも分からなかった。
---
一方、その頃。
灰都アッシュベルクの地下深く。
旧水路とは別の場所。
黒い翼の隠し拠点で、仮面の男が報告を受けていた。
「第一実験区画、消失」
「結晶の獣は破壊されました」
「被験体ミロは回収失敗」
仮面の男は静かに頷く。
「問題ない」
「よろしいのですか」
「データは取れた」
男の前には、いくつもの映像記録が浮かんでいる。
その中心に映っているのは、ヴェスパーだった。
蜃気楼。
熱操作。
幻影。
そして、結晶の獣の核を正確に断った斬撃。
「黒陽炎とは違う」
仮面の男は呟いた。
「だが、適性は高い」
背後の暗闇から、低い声が響いた。
「次は俺が行く」
男は振り返る。
そこに立っていたのは、巨大な影。
竜の角。
黒い鱗。
青い光を宿す瞳。
古龍種。
ドラグニル。
仮面の男は静かに首を横に振る。
「まだ早い」
ドラグニルは不満げに鼻を鳴らす。
「黒陽炎の弟子だろう」
「ああ」
「なら、確かめる価値がある」
仮面の男は映像の中のヴェスパーを見る。
「いずれな」
そして、低く笑った。
「彼はまだ、自分が何を継いだのか知らない」
黒い翼の紋章が、暗闇の中で静かに浮かび上がる。
灰都の夜は明けようとしていた。
だが、その地下では、さらに深い闇が動き始めていた。




