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灰の星  作者: ウルフルマル


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第1章 第10話 「黒翼の残響」

朝の灰都アッシュベルクは、夜とは違う顔を見せる。


下層街の酒場からは酔い潰れた者たちが吐き出され、市場では早くも商人たちが声を張り上げ、工房街では鉄を打つ音が鳴り始めていた。


砂に汚れた都市。


煤けた城壁。


それでも、ここには確かに人の営みがあった。


白砂診療所の窓から差し込む薄い朝日を浴びながら、ヴェスパーは椅子に腰掛けていた。


脇腹には新しい包帯。


動けば痛む。


だが、動けないほどではない。


「動こうとしないでください」


背後から声が飛ぶ。


ヴェスパーは立ち上がりかけた姿勢のまま、静かに動きを止めた。


セレスだった。


白いコートの袖をまくり、薬棚の前で薬瓶を整理している。


目は眠たげだが、声だけは妙に鋭い。


「まだ何も言っていない」


「動こうとしていました」


「……分かるのか」


「患者は大体同じ動きをします」


ヴェスパーは小さく息を吐き、椅子に座り直した。


診療所の奥では、ミロが眠っている。


結晶化の進行は一時的に抑えられているが、完治にはほど遠い。


腕に浮かぶ青白い結晶は、薄布越しでもわずかに光っていた。


レイラは床に座り込み、干し肉を噛んでいる。


「お前、完全にセレスに弱いな」


ヴェスパーは視線だけを向けた。


「弱いわけじゃない」


「じゃあ何だよ」


「合理的に従っている」


レイラは笑った。


「それを世間じゃ弱いって言うんだよ」


イリスは窓際に座り、端末を操作していた。


いつものように飴を口に含んでいるが、その表情は少し硬い。


「笑ってる場合じゃないかもね」


全員の視線が彼女へ向く。


イリスは端末の画面を机の上へ投影した。


そこに映し出されたのは、灰都の地図だった。


いくつかの地点に赤い印が浮かんでいる。


旧工業街。


旧水路。


外縁部の倉庫街。


そして、下層街の一角。


「昨夜から今朝にかけて、黒い翼に関係すると思われる反応が消えてる」


レイラが眉をひそめる。


「消えてる?」


「証拠隠滅だよ。関係者は姿を消し、拠点は燃やされ、記録は消されてる」


イリスは指先で地図をなぞる。


「動きが早すぎる。こっちが旧水路から出た時点で、もう撤収が始まってた」


ヴェスパーは机の上に置かれた金属札を見た。


――黒陽炎、回収失敗。


旧水路で拾ったもの。


ガルムの痕跡。


黒い翼が残した餌かもしれない。


だが、完全な偽物とも思えなかった。


「残った情報は」


イリスは少しだけ口元を歪めた。


「一つだけ」


彼女は別の映像を映した。


荒い監視映像。


砂嵐混じりの画面。


そこに映っていたのは、灰都の北門付近だった。


夜明け前。


黒い外套の一団が、荷車を引いて街を出ていく。


その中に、一人だけ異様な影があった。


巨大な体躯。


背を覆う黒い鱗。


頭部から伸びる角。


そして、青白く光る眼。


レイラが干し肉を噛む手を止める。


「……何だ、こいつ」


セレスも目を細める。


「人型ですが、体温が通常生物の範囲ではありません」


イリスは映像を拡大する。


「名前はドラグニル」


その名が落ちた瞬間、部屋の空気が変わった。


「古龍種。黒い翼の幹部級と噂されてる。正確な情報は少ないけど、いくつかの戦場で目撃記録がある」


「強いのか?」


レイラが問う。


イリスは軽く肩をすくめた。


「戦った傭兵隊が、ほぼ全滅してる」


レイラは口笛を吹いた。


「分かりやすく強いな」


ヴェスパーは映像の中のドラグニルを見つめていた。


熱を喰う者。


そんな言葉が脳裏に浮かぶ。


理由は分からない。


だが、本能が告げていた。


あれは、自分にとって相性の悪い敵だ。


「どこへ向かった」


「北東」


イリスは地図の外側を指した。


「砂漠地帯を越えた先に、古い観測塔がある。今は使われてないけど、大災厄前の通信施設だったらしい」


「黒い翼の次の拠点か」


「あるいは、待ち合わせ場所」


セレスが静かに言う。


「ミロ君のような被害者が他にもいる可能性があります」


「だろうな」


レイラは戦斧を手に取った。


「なら行くしかない」


「待て」


ヴェスパーが止める。


レイラが振り返った。


「何だよ」


「今すぐ出るのは危険だ」


その言葉に、レイラは少し驚いた顔をした。


「珍しいな。お前が止める側か」


「相手は撤収を終えている。追えば待ち伏せされる」


イリスが頷いた。


「同感。しかもヴェスパーは怪我人。ミロ君も動かせない。セレスの診療所も目を付けられてるかもしれない」


「じゃあどうする?」


ヴェスパーは少し考えた。


「情報を集める」


レイラは不満そうに唇を尖らせる。


「地味だな」


「地味なことを怠ると死ぬ」


「師匠の受け売りか?」


その言葉に、ヴェスパーは一瞬だけ黙った。


「……ああ」


レイラはそれ以上、何も言わなかった。


昼過ぎ。


ヴェスパーたちは診療所を出た。


ミロはセレスの診療所に残すことになった。


診療所にはイリスが手配した見張りと、レイラの知り合いの傭兵が数人置かれている。


完全に安全とは言えない。


だが、今できる限りの備えだった。


向かった先は、灰都の傭兵ギルドだった。


巨大な石造りの建物。


壁には無数の依頼書が貼られ、受付には傭兵たちが列を作っている。


獣人。


人間。


亜人。


武器も服装も様々だ。


酒場と訓練場を合わせたような騒がしい空間。


レイラは少しだけ機嫌を取り戻していた。


「やっぱギルドは落ち着くな」


「騒がしいだけだ」


「それがいいんだろ」


イリスは周囲を見回しながら言う。


「ここなら噂が集まる。黒い翼の話も、ドラグニルの目撃談も、たぶん誰かが持ってる」


セレスは少し緊張した様子だった。


「私は、こういう場所にはあまり来ません」


レイラが笑う。


「大丈夫だ。絡まれたら私が殴る」


「それは解決方法として正しいのでしょうか」


「だいたい正しい」


「だいたい間違っています」


ヴェスパーは受付へ向かった。


しかし、その途中で足を止める。


ギルドの奥。


掲示板の前に、一人の男が立っていた。


灰色の外套。


背に長剣。


狼耳。


顔は見えない。


だが、その立ち姿に見覚えがあった。


ヴェスパーの呼吸が止まる。


「ガルム……?」


声に出した瞬間、男がゆっくり振り返った。


違う。


顔は別人だった。


若い。


だが、その男はヴェスパーを見ると、意味深に笑った。


「黒陽炎の弟子だな」


レイラが即座に戦斧へ手を伸ばす。


イリスも目を細めた。


ヴェスパーは静かに問う。


「お前は誰だ」


男は懐から一枚の古い紙片を取り出した。


「これを預かった」


「誰から」


「黒い外套の老人だ」


ヴェスパーの目が鋭くなる。


男は紙片を投げた。


ヴェスパーはそれを受け取る。


そこには短い文字が書かれていた。


――北東の観測塔へ来るな。


たったそれだけ。


だが、その筆跡を見た瞬間、ヴェスパーの胸が強く鳴った。


忘れるはずがない。


粗く、無駄のない文字。


何度も修練帳に赤で書き込まれた字。


ガルムの筆跡だった。


レイラが低く聞く。


「本物か?」


ヴェスパーは紙片を握る。


「……おそらく」


「来るな、ってことは罠か」


イリスが言う。


「でも、逆に言えば、そこに何かがある」


セレスがヴェスパーを見る。


「行くつもりですね」


「行く」


即答だった。


セレスはため息をついた。


「治療したばかりの患者が、なぜこうも自ら傷を増やしたがるのでしょう」


「増やしたいわけじゃない」


「結果的に増えています」


レイラが笑う。


「正論だな」


ヴェスパーは紙片を見つめたまま言った。


「ガルムが来るなと言うなら、そこには俺を遠ざけたい理由がある」


イリスが飴を噛み砕いた。


「理由が安全とは限らないよ」


「分かっている」


「それでも行く?」


「ああ」


イリスは数秒だけ黙り、それから肩をすくめた。


「なら、準備しよう。正面から行くのは自殺。観測塔までの裏道を探す」


「私も行きます」


セレスが言った。


ヴェスパーは彼女を見る。


「診療所は」


「ミロ君の容態は安定しています。見張りもいます。それに、あなたの体調を監視する人間が必要です」


「俺は――」


「必要です」


セレスの声は静かだったが、拒否は許さなかった。


レイラが満足そうに頷く。


「よし、これで決まりだな」


ヴェスパーは小さく息を吐いた。


仲間が増えるというのは、こういうことなのだろう。


一人なら迷わず進めた。


傷も、疲労も、危険も、自分だけの問題だった。


だが今は違う。


自分の判断が、誰かの命に繋がる。


その重さを、ヴェスパーは少しずつ理解し始めていた。


その夜。


灰都の北門近く。


四人は旅支度を整えていた。


レイラは戦斧を担ぎ、イリスは端末と小型銃を確認し、セレスは医療バッグの中身を整理している。


ヴェスパーは城壁の外に広がる砂漠を見つめていた。


北東の観測塔。


黒い翼。


ドラグニル。


ガルム。


すべてがそこへ向かっている。


背後からレイラが声をかける。


「怖いか?」


ヴェスパーは少しだけ考えた。


「分からない」


「正直でよろしい」


「お前は」


「私は腹が減ってる」


ヴェスパーは思わず彼女を見た。


レイラは真顔だった。


「出発前に食べる時間、なかっただろ」


イリスが横から笑う。


「緊張感ないね」


「腹が減ってる時に緊張しても仕方ない」


セレスが淡々と言う。


「空腹は判断力を低下させます。携帯食を食べてください」


「ほら、医者も言ってる!」


レイラは勝ち誇ったように干し肉を取り出した。


ヴェスパーは小さく息を吐く。


そして、ほんのわずかに笑った。


レイラが目ざとく気付く。


「今笑ったな」


「気のせいだ」


「いや、絶対笑った」


イリスも頷く。


「見た見た」


セレスまで小さく言う。


「表情筋がわずかに動きました」


「診断するな」


三人の声が夜風に溶ける。


少しだけ、胸の奥が軽くなった。


だが次の瞬間、ヴェスパーは遠くの砂漠を見た。


砂の向こう。


夜の闇。


その先に、巨大な熱があるような気がした。


竜の熱。


いや、熱を喰らう冷たい影。


ドラグニル。


まだ姿は見えない。


だが、確かに何かが待っている。


ヴェスパーは剣の柄に触れた。


「行くぞ」


四人は北門を抜けた。


灰都アッシュベルクの灯りが背後に遠ざかっていく。


前方に広がるのは、夜の砂海。


そして、黒い翼の残響が導く観測塔。


燃える故郷から続く道は、また一つ深い闇へ向かっていた。

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