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灰の星  作者: ウルフルマル


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第1章 第11話 「北東の観測塔」

思考時間: 10s

灰の星

第一章 蜃気楼の牙

第十一話

「北東の観測塔」


灰都アッシュベルクの灯りは、背後で少しずつ小さくなっていった。


夜の砂海は、昼とはまるで別の場所だった。


昼間は太陽に焼かれ、息をするだけで喉が乾くほどの灼熱に包まれる。

だが夜になると、砂は熱を失い、空気は冷たく沈む。


遠くの砂丘は月明かりに照らされ、銀色の波のように連なっていた。


その中を、四つの影が進んでいく。


先頭を歩くのはヴェスパー。


金色のセミロングが夜風に揺れ、灰色の外套の下には新しい包帯が巻かれている。


その少し後ろを、戦斧を担いだレイラが歩いていた。


「なあ」


「何だ」


「今からでも遅くない。朝まで待たないか?」


ヴェスパーは振り返らない。


「理由は」


「眠い。腹が減った。あと寒い」


「却下だ」


「三つも理由を出したのに?」


「全部お前の都合だ」


「私の都合も大事だろ」


「命に関わるほどではない」


レイラは不満そうに唇を尖らせた。


その横で、イリスが端末を片手に歩いている。


画面には砂漠の簡易地図と、観測塔までの古い測量データが映し出されていた。


「まあ、レイラちゃんの気持ちも分かるよ。夜の砂漠って、足元が読みにくいしね」


「ほら、イリスも言ってる」


「でも昼間に動いたら、遠くから丸見え」


「そっちは言わなくていい」


イリスは飴を転がしながら笑った。


最後尾にいるセレスは、医療バッグを肩にかけ、ヴェスパーの歩き方をじっと見ていた。


「ヴェスパーさん」


「何だ」


「歩幅が少し乱れています」


「問題ない」


「その言葉は禁止したはずです」


ヴェスパーはわずかに黙った。


レイラが横から吹き出す。


「また怒られてる」


「うるさい」


セレスは淡々と続ける。


「出血は止まっていますが、傷が完全に塞がったわけではありません。強い戦闘は避けてください」


「敵が避けてくれるならな」


「敵ではなく、あなたが避ける努力をしてください」


「……善処する」


「善処ではなく実行してください」


イリスが楽しそうに笑った。


「セレス、強いねぇ」


「医療上必要な注意です」


「いや、たぶんそれ以上に強い」


ヴェスパーは小さく息を吐いた。


騒がしい。


一人で歩いていた頃には考えられないほど、今の道は騒がしい。


だが、その騒がしさが不思議と嫌ではなかった。


むしろ、燃える記憶に沈みそうになる意識を、何度も現実へ引き戻してくれる。


彼は懐から紙片を取り出した。


――北東の観測塔へ来るな。


ガルムの筆跡。


来るな。


そう書かれている。


ならば、そこには自分を遠ざけたい理由がある。


罠かもしれない。


いや、罠である可能性の方が高い。


だが、無視はできない。


ガルムが生きている可能性。


黒い翼が隠している何か。


そして、自分の力に関わる謎。


それらがすべて、北東の観測塔へ向かっている。


「見えたよ」


イリスが小さく言った。


ヴェスパーは顔を上げる。


砂丘の向こう。


夜空を貫くように、黒い塔が立っていた。


北東の観測塔。


それは、灰の大災厄以前に造られた通信施設だった。


かつては遠く離れた都市同士を繋ぎ、空の観測や気象記録にも使われていたという。


だが大災厄によって通信網は崩壊し、観測塔も放棄された。


今では砂に埋もれ、地図の端に名だけが残る廃墟。


そう聞いていた。


だが、目の前の塔は完全には死んでいなかった。


外壁は崩れ、上部は半分ほど欠けている。


それでも塔の一部には、青紫色の光が脈打つように灯っていた。


塔の周囲には、古い金属製の支柱が砂に突き刺さっている。


まるで巨大な獣の肋骨のようだった。


レイラが戦斧を握り直す。


「嫌な感じだな」


イリスが端末を見つめる。


「電力反応あり。しかも旧式じゃない。誰かが最近、動力を繋ぎ直してる」


セレスは塔を見上げ、眉をひそめた。


「空気が重いです」


「重い?」


レイラが聞く。


「はい。気圧とは違います。体の内側に圧がかかるような……」


ヴェスパーも同じ違和感を覚えていた。


熱の流れが不自然だ。


砂漠の夜気は冷たいはずなのに、塔の周囲だけ温度が歪んでいる。


熱が沈んでいる。


いや、押し潰されている。


「術式か」


ヴェスパーが呟く。


イリスが頷いた。


「たぶん。しかもかなり広い範囲に張られてる」


「黒い翼の仕掛けか?」


レイラが問う。


「その可能性が高いね」


イリスは塔の入口へ視線を向けた。


正面扉は半分開いている。


まるで、誰かを招き入れるように。


レイラが鼻を鳴らす。


「分かりやすい罠だな」


「罠だと分かっていれば罠ではない」


ヴェスパーが言う。


レイラは彼を見る。


「それ、前にも聞いたな」


「同じ状況だ」


「そして大体ひどい目に遭う」


「否定はしない」


セレスが静かに言った。


「今回は本当に無理をしないでください」


「分かっている」


「信じます」


「……意外だな」


「信じなければ、同行する意味がありません」


その言葉に、ヴェスパーは一瞬だけ目を伏せた。


信じる。


簡単な言葉ではない。


それでも、彼女はそれを当然のように口にした。


「行くぞ」


四人は塔へ向かった。


塔の内部は暗かった。


壁には古い配線が走り、床には砕けたガラスと砂が散っている。


天井の一部は崩れ、月明かりが細い筋となって差し込んでいた。


だが、その暗闇の中に、青紫色の光が点々と浮かんでいる。


結晶。


旧水路で見たものと同じ、青白い結晶だった。


ただし、ここにある結晶は壁や床に無秩序に生えているのではない。


円を描くように配置されていた。


術式陣。


セレスがしゃがみ込み、結晶の光を確認する。


「これは……結晶を媒介にしています」


イリスが端末で読み取る。


「塔全体を使った術式装置みたいだね。古代通信塔の回路に、無理やり術式を流してる」


レイラが顔をしかめる。


「つまり?」


「誰かがこの塔を巨大な罠に改造したってこと」


「やっぱり罠じゃねぇか」


その瞬間、背後で重い音が響いた。


正面扉が閉じた。


レイラが振り返る。


「おい!」


彼女は扉へ駆け寄り、戦斧で叩く。


金属音が塔内に響いた。


だが、扉はびくともしない。


「硬っ!」


イリスが端末を確認する。


「外側じゃない。塔全体に術式封鎖がかかった」


「解除は?」


「今やってる。でも……」


端末の画面が乱れる。


青紫のノイズ。


イリスの表情が険しくなった。


「干渉されてる。機械じゃなくて術式側から邪魔されてる」


ヴェスパーは剣に手をかける。


その瞬間、足元の結晶が強く光った。


空気が沈む。


重い。


体が床へ引き寄せられる。


レイラが膝をついた。


「ぐっ……何だこれ!」


セレスも壁に手をつく。


「重力……いえ、圧力の方向が変えられています」


イリスが歯を食いしばる。


「塔の術式、起動したみたいだね……!」


ヴェスパーは息を整える。


足が重い。


剣の柄を握る手にも負荷がかかる。


まるで見えない巨人に肩を押さえつけられているようだった。


「これが重圧術式か」


誰かが使っている。


塔そのものを通して、この空間に圧をかけている。


しかし、奇妙だった。


殺すほどの圧ではない。


動きを止め、逃げ道を塞ぎ、誘導するための圧。


まるで、奥へ進めと言われているようだった。


「進むしかないな」


ヴェスパーが言う。


レイラが顔を上げる。


「この状態で?」


「ここに留まっても状況は悪くなる」


「まあ、そうだろうけどよ……!」


イリスは端末をしまい、小型銃を抜いた。


「奥に中枢がある。そこを止めれば封鎖も解けるはず」


セレスは短く息を整えた。


「私は大丈夫です。進めます」


ヴェスパーは彼女を見る。


「無理はするな」


「あなたに言われると説得力がありません」


レイラが笑いかけたが、重圧でうまく笑えなかった。


「ほんと、いい性格してるな……」


四人は塔の奥へ進んだ。


塔の内部は迷路のようだった。


古い通信設備。


崩れた階段。


砂に埋もれた制御室。


壁に張り巡らされた配線と、そこに絡みつく結晶。


進むたびに、重圧は強くなっていく。


時折、通路の奥から黒い翼の刺客が現れた。


仮面。


短剣。


ボウガン。


だが、彼らの動きは鈍い。


この重圧の中では、刺客たちも自由には動けないらしい。


「こいつらも巻き込まれてるのか?」


レイラが戦斧で刺客を吹き飛ばしながら叫ぶ。


「術式の影響下にいる」


ヴェスパーは剣でボウガンを弾き、相手の膝を打った。


「ただし慣れている」


「嫌な訓練してるな!」


イリスが側面から銃を撃ち、刺客の武器だけを撃ち落とす。


「数は少ない。足止め目的だね」


セレスは倒れた刺客の首筋を一瞬だけ確認する。


「この人たちにも結晶化の兆候があります」


「助けられるか?」


ヴェスパーが問う。


セレスは表情を曇らせた。


「今は無理です。ですが、記録はします」


「分かった」


ヴェスパーは奥へ向かう。


その背中に、セレスは一瞬だけ視線を向けた。


冷静で、無口で、時に冷たく見える。


だが、見捨てることに慣れているわけではない。


彼は切り捨てるたびに、傷を増やしている。


セレスには、それが分かった。


やがて、四人は円形の広間へ出た。


塔の中層部。


天井は高く、中央には古い昇降機の跡がある。


周囲の壁には巨大な通信装置が並び、そのすべてに青白い結晶が絡みついていた。


広間の奥には、黒い翼の紋章が描かれた旗が垂れ下がっている。


レイラが舌打ちした。


「歓迎の飾りか?」


「趣味は悪いね」


イリスが端末を構える。


「でも、ここじゃない。中枢はもっと上」


その時。


広間の上部から、低い声が落ちた。


「よく来たな」


ヴェスパーは即座に見上げた。


崩れた回廊の上。


黒い外套の男が立っていた。


旧水路で見た仮面の男。


「またお前か」


ヴェスパーの声が低くなる。


男は静かに笑う。


「そう怒るな。お前には、まだ聞かせたいものがある」


「ガルムはどこだ」


「生きているかどうかも分からぬ者を追うか」


ヴェスパーの手が剣の柄にかかる。


男はそれを見て、楽しげに首を傾げた。


「黒陽炎は、お前をここへ来させたくなかった」


「なぜだ」


「ここにあるものを見れば、お前は戻れなくなる」


「答えになっていない」


「答えは上にある」


男が片手を上げた。


その瞬間、広間の床に刻まれていた術式陣が光る。


重圧がさらに増した。


レイラが呻く。


「ぐっ……!」


セレスが膝をつきかける。


ヴェスパーは踏みとどまった。


だが、傷口が開く感覚があった。


包帯の下に熱い痛みが広がる。


セレスが気付く。


「ヴェスパーさん!」


「動くな」


ヴェスパーは男を睨む。


「お前たちの目的は何だ」


男は答えず、ただ広間の奥を指差した。


そこには上階へ続く階段がある。


「進め。塔の心臓へ」


「なぜ案内する」


「お前がそこへ辿り着く必要があるからだ」


男は仮面の奥で笑った。


「そして、彼女も限界だ」


彼女。


その言葉に、イリスが反応した。


「誰のこと?」


男は答えない。


次の瞬間、黒い外套が闇に溶けるように消えた。


レイラが歯を食いしばる。


「また逃げやがった!」


「追うな」


ヴェスパーが言う。


「分かってるよ!」


イリスは端末を操作し、階段の先を確認した。


「上に強い術式反応。たぶん中枢」


セレスはヴェスパーの脇腹を見る。


「出血しています」


「後でいい」


「後ではありません」


「今止まれば、術式が強くなる」


セレスは一瞬だけ黙った。


そして、医療バッグから止血用の布を取り出す。


「歩きながら処置します」


「できるのか」


「できます。動かないでほしいですが、あなたは動くので」


「……すまない」


「謝るなら、次は怪我をしないでください」


レイラが戦斧を担ぎ直す。


「無茶言うなぁ」


イリスも苦笑した。


「ヴェスパーにそれは難題だね」


ヴェスパーは何も返さず、階段へ向かった。


上へ進むほど、塔の中は異様になっていった。


壁も床も、ほとんど結晶に覆われている。


青白い光が脈打ち、時折、低い音が響く。


まるで塔そのものが心臓を持っているようだった。


そして、重圧はさらに強くなる。


レイラでさえ、足取りが重い。


イリスは額に汗を浮かべ、端末を握りしめている。


セレスは呼吸を乱しながらも、ヴェスパーの傷口を押さえていた。


「セレス」


ヴェスパーが言う。


「無理をするな」


「あなたの方が無理をしています」


「俺は慣れている」


「慣れていいものではありません」


その時、前方に大きな扉が現れた。


塔の最上部に近い中枢室。


扉には黒い翼の紋章と、複雑な術式陣が刻まれている。


イリスが端末を接続する。


だが、すぐに首を振った。


「無理。機械的な鍵じゃない。術式そのものが扉になってる」


レイラが戦斧を握る。


「壊すか?」


「下手に壊すと、塔ごと崩れるかも」


「じゃあどうする」


ヴェスパーは扉に手を近付けた。


熱を読む。


扉の奥に、強い反応がある。


人の熱。


だが、極端に低い。


消えかけた火のような、か細い熱。


その周囲に、巨大な術式反応が渦巻いている。


「中に誰かいる」


セレスが目を閉じる。


熱診。


彼女の表情が変わった。


「生きています。ですが……体温が低すぎます」


「開ける」


ヴェスパーが剣を抜く。


セレスが止めようとした瞬間、扉の術式陣がひとりでに光った。


重い音を立てて、扉が開く。


まるで中にいる誰かが、彼らを招き入れたように。


四人は中へ入った。


そこは、塔の心臓だった。


円形の巨大な部屋。


天井は吹き抜けになっており、壊れた観測装置が夜空へ向かって伸びている。


部屋の中央には、巨大な結晶柱が立っていた。


その周囲に、無数のケーブルと鎖が絡みついている。


そして、その中心に。


一人の少女がいた。


黒紫の長い髪。


青白い肌。


額から伸びる小さな角。


細い身体には、術式の刻まれた拘束具が巻かれている。


両腕は鎖で吊られ、足元には円形の術式陣。


眠っているように目を閉じていた。


だが、彼女の周囲では空間そのものが歪んでいる。


見えない重圧が、彼女を中心に塔全体へ広がっていた。


セレスが息を呑む。


「この人が……術式の中心です」


イリスが端末を見つめる。


「塔の封鎖も、重圧も、全部この子を媒介にしてる」


レイラの表情が険しくなる。


「黒い翼がやったのか」


「たぶんね」


イリスの声には怒りが混じっていた。


「人間を装置代わりにしてる」


ヴェスパーは少女へ近付こうとした。


その瞬間、床の術式陣が強く光る。


重圧が一点に集中し、彼の足が止まった。


膝が沈む。


傷が痛む。


それでも、ヴェスパーは前へ進もうとする。


「ヴェスパーさん、待ってください」


セレスが制した。


「無理に近付けば、術式が暴走します」


「なら解除する」


「方法が分かりません」


イリスが端末を操作する。


「解析する。でも時間がいる」


レイラが周囲を警戒する。


「黒い翼の連中が戻ってくるかもしれない。急げ」


その時。


部屋の中央で、少女の指がわずかに動いた。


ヴェスパーは足を止める。


少女の瞼がゆっくりと開いた。


深い青紫の瞳。


眠りから覚めたというより、長い悪夢から引き戻されたような瞳だった。


彼女はヴェスパーたちを見る。


警戒。


困惑。


そして、諦めに近い疲労。


かすれた声が、部屋に落ちた。


「……触らないで」


セレスが一歩前へ出る。


「あなたを助けに来ました」


少女は小さく首を振る。


鎖が鳴った。


「だめ……術式が、崩れる」


イリスの端末が警告音を鳴らす。


「重圧反応、上昇してる!」


レイラが戦斧を構える。


「何が起きる?」


セレスの顔色が変わった。


「このままでは、この人の身体が保ちません」


少女は苦しげに息を吐く。


それでも、その瞳だけは静かだった。


「私は……アステル」


彼女は自分の名を告げた。


「黒い翼の術式核……だったもの」


ヴェスパーは彼女を見つめた。


アステル。


その名が、塔の青白い光の中に沈む。


アステルは震える唇で続けた。


「逃げて……」


「どうして」


ヴェスパーが問う。


アステルの瞳が、わずかに揺れた。


「竜が、来る」


その瞬間。


塔の外から、低い咆哮が響いた。


夜空が震える。


重圧とは別の、巨大な気配。


熱ではない。


熱を喰らうような、冷たい圧。


ヴェスパーの全身が警戒に染まる。


レイラが戦斧を握りしめた。


イリスの顔から笑みが消える。


セレスがミロの時と同じように、命の危険を感じ取って息を呑む。


壊れた観測窓の向こう。


月明かりを遮る巨大な影が、塔の外壁に降り立った。


黒い鱗。


竜の角。


青く光る瞳。


ドラグニル。


アステルはかすれた声で呟いた。


「お願い……逃げて……」


ヴェスパーは剣を抜いた。


「逃げない」


青白い結晶の光が揺れる。


塔の重圧が唸る。


そして、竜の影がゆっくりと動き出した。

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