第1章 第12話 「重圧の術師」
竜の影が、観測塔の外壁に降り立った。
石と金属が軋む。
半壊した塔全体が、その重みに悲鳴を上げるように震えた。
黒い鱗。
湾曲した角。
青白く光る瞳。
月明かりを背にしたその姿は、人型でありながら、明らかに人ではなかった。
古龍種――ドラグニル。
窓の外に立つその存在だけで、部屋の空気が変わった。
レイラが戦斧を構える。
「……でかいな」
イリスは端末を握りしめ、笑みを消していた。
「噂よりずっと嫌な感じ」
セレスはアステルを見たまま、声を落とす。
「彼女の体温がさらに下がっています。このまま術式を維持させられたら危険です」
ヴェスパーは剣を抜いた。
塔の中心。
結晶柱に拘束された少女――アステル。
そして、外からこちらを見下ろす竜人。
どちらを優先すべきか。
答えは一つだった。
「アステルを外す」
「でも、下手に外せば塔ごと崩れるんだろ?」
レイラが言う。
「だから崩さずに外す」
「簡単に言うなぁ!」
ドラグニルの低い声が、壊れた観測窓から入り込んできた。
「黒陽炎の弟子」
ヴェスパーの目が細くなる。
「俺を知っているのか」
「お前を、ではない」
ドラグニルは青い瞳を細めた。
「お前の師を知っている」
ガルム。
その名が出る前に、ヴェスパーの胸の奥が熱くなる。
「どこにいる」
「知りたければ、生き残れ」
ドラグニルの口元がわずかに歪む。
「黒陽炎はそういう男だった」
次の瞬間、塔の床に刻まれた術式陣が強く輝いた。
重圧が跳ね上がる。
「ぐっ……!」
レイラが片膝をつく。
イリスの端末が床に叩きつけられそうになり、彼女は慌てて胸に抱え込んだ。
セレスも呼吸を詰まらせる。
ヴェスパーは剣を床に突き立て、どうにか踏みとどまった。
だが、拘束されているアステルが小さく悲鳴を漏らした。
鎖が彼女の細い腕を引き、術式の光が身体を走る。
「やめろ」
ヴェスパーの声が低くなる。
ドラグニルは静かに言った。
「止めたければ、その術師を救ってみせろ」
「何が目的だ」
「確認だ」
「何を」
「お前たちが、どこまで足掻けるか」
ドラグニルはそれだけ告げると、外壁から一歩後ろへ下がった。
だが、完全に消えたわけではない。
塔の外から、こちらを見ている。
狩りを始める前の獣のように。
イリスが歯を食いしばりながら端末を拾った。
「最悪。あいつ、今は様子見してるだけだよ」
「十分迷惑だ」
レイラが唸る。
セレスはアステルのもとへ近付こうとした。
だが、強い重圧に押され、足が止まる。
「近付けません……!」
アステルが苦しげに目を開ける。
「来ないで……ください」
その声は弱い。
けれど、必死だった。
「術式の均衡が崩れたら……この塔が、潰れます」
「あなたをこのままにはできません」
セレスが言う。
アステルは首を横に振った。
「私は……もう、術式核です。人として扱う必要は……」
「あります」
セレスの声が、静かに重なった。
アステルの瞳が揺れる。
「あなたは患者です」
その一言に、アステルは言葉を失った。
セレスは重圧に耐えながら、一歩ずつ進む。
「患者なら、医者は助けます」
「無理です……私は、外れない。外したら、みんな死ぬ」
「死なせません」
セレスは淡々と言った。
「そのために、ここにいます」
アステルはセレスを見つめた。
警戒。
困惑。
そして、ほんのわずかな希望。
イリスが端末を操作しながら叫ぶ。
「解析できた! この術式、アステル本人が直接動かしてるんじゃない。拘束具が彼女の術式を無理やり塔に流してる!」
「つまり?」
レイラが聞く。
「拘束具を全部同時に止めれば、術式を切り離せるかもしれない」
「かもしれない?」
「確実なんて言える状況じゃない!」
ヴェスパーは周囲を見た。
拘束具は四箇所。
両腕。
首元。
足元の術式環。
それぞれに結晶の管が繋がっている。
一つだけ壊せば、力の流れが乱れて暴走する。
同時に断つ必要がある。
「俺が右腕」
ヴェスパーが言った。
「レイラ、左腕」
「了解」
「イリス、首元の制御を止めろ」
「やってみる」
「セレスは足元の術式環を」
セレスは頷く。
「分かりました」
アステルが目を見開いた。
「だめ……失敗したら」
ヴェスパーは彼女を見た。
「失敗しない」
「なぜ、そう言えるんですか」
「そう決めた」
アステルは呆然とした。
無茶苦茶な言葉だった。
根拠などない。
けれど、その目には揺らぎがなかった。
レイラが笑う。
「こいつ、たまにこういうこと言うけどな。だいたい本気だ」
イリスも軽く肩をすくめる。
「信じるしかないね。今は」
セレスが静かに言う。
「アステルさん。あなたにも協力してもらいます」
「私に……?」
「はい。術式の流れを、ほんの少しだけ緩めてください。あなた自身を助けるためです」
アステルは震える息を吐いた。
長い間、彼女は命令されてきた。
術式を維持しろ。
逆らうな。
壊れるまで使え。
誰も、彼女自身を助けるために力を使えとは言わなかった。
「……分かり、ました」
アステルの瞳に、淡い光が宿る。
「三秒だけ……重圧を、ずらします」
「三秒で十分だ」
ヴェスパーが剣を構える。
レイラが戦斧を握る。
イリスが端末を接続する。
セレスが医療バッグから細い術式針を取り出した。
アステルが目を閉じる。
塔全体に広がっていた重圧が、一瞬だけ揺らいだ。
「今!」
ヴェスパーが踏み込む。
重い空気を切り裂くように、剣が走った。
右腕の拘束具に繋がる結晶管を斬る。
同時に、レイラの戦斧が左腕側の鎖を叩き砕いた。
「おらぁ!」
イリスは端末で首元の制御具に干渉する。
「ロック解除……っ、しつこい!」
火花が散る。
セレスは足元の術式環へ針を差し込み、熱の流れを読みながら薬液を注入した。
「流れを止めます」
一秒。
二秒。
三秒。
アステルの顔が苦痛に歪む。
「っ……!」
術式が暴れた。
青紫の光が爆ぜ、重圧が渦のように巻き上がる。
ヴェスパーの傷口が開く。
レイラの足元が砕ける。
イリスの端末が警告音を鳴らす。
セレスの手が弾かれそうになる。
だが、誰も離さなかった。
「アステル!」
ヴェスパーが叫ぶ。
「自分の術式を、自分に戻せ!」
アステルの瞳が開く。
その奥に、深い青紫の光が灯った。
「私の……術式……」
彼女の声が、震えながらも強くなる。
「私は、道具じゃない」
塔全体が鳴動した。
アステルの周囲にあった重圧が、一点に収束する。
押し潰す力ではない。
支配する力でもない。
彼女自身の意思で、力の向きを変える。
足元の術式陣が砕けた。
首元の拘束具が弾け飛ぶ。
両腕の鎖が千切れた。
アステルの身体が倒れかける。
ヴェスパーが受け止めた。
軽い。
驚くほど軽かった。
まるで、長い間命を削られてきたことが、そのまま身体の重さに表れているようだった。
セレスがすぐに駆け寄る。
「アステルさん!」
「……大丈夫、です」
アステルはそう言った。
だが、セレスは即座に首を横に振る。
「大丈夫ではありません」
「……そう、ですか」
アステルは少しだけ困ったように瞬きをした。
その仕草が、ほんの少しだけ人間らしかった。
イリスが端末を見る。
「封鎖、弱まってる! でも完全解除じゃない。塔の下層に予備術式が動いてる」
レイラが外を睨む。
「で、あいつは?」
その問いに答えるように、塔の外壁が轟音と共に砕けた。
黒い腕が、壁を破って中へ入り込む。
破片が飛び散る。
ヴェスパーはアステルをセレスへ預け、剣を構えた。
ドラグニルが、半壊した壁の向こうから姿を現した。
「見事だ」
その声に、感情は薄い。
だが、確かに興味があった。
「術式核を壊さず、取り戻したか」
レイラが前に出る。
「次はお前を壊せばいいんだな?」
ドラグニルはレイラを見た。
「威勢はいい」
次の瞬間、レイラの足元が爆ぜた。
いや、爆ぜたのではない。
彼女の周囲の熱が一瞬で奪われ、空気が収縮した。
「なっ……!」
レイラの身体がわずかに沈む。
ヴェスパーはそれを見て、即座に悟った。
熱を喰う。
自分の蜃気楼と最悪に相性が悪い。
ドラグニルはヴェスパーを見る。
「お前の幻は、熱で光を曲げる」
ヴェスパーは答えない。
「なら、その熱を喰えばいい」
ドラグニルの青い瞳が光る。
周囲の陽炎が消えた。
ヴェスパーが展開しかけていた蜃気楼が、形になる前に崩される。
イリスが息を呑む。
「ヴェスパーの術が……」
ドラグニルはゆっくりと歩み寄る。
「黒陽炎は、熱を焼いた」
「お前は、熱を映す」
「だが、どちらも喰える」
ヴェスパーは剣を握り直した。
脇腹が痛む。
身体も重い。
蜃気楼は使いにくい。
だが、退くわけにはいかない。
背後にはアステルがいる。
セレスがいる。
イリスがいる。
レイラがいる。
「ヴェスパーさん」
セレスが声を張る。
「長期戦は無理です」
「分かっている」
「本当に分かっていますか」
「今回は分かっている」
レイラが戦斧を構え直し、ヴェスパーの横に並ぶ。
「なら短く済ませるか」
イリスも銃を構えた。
「逃げ道は探す。正面は任せたよ」
アステルはセレスに支えられながら、震える手を上げた。
「私も……」
「動かないでください」
セレスが止める。
「でも……私の術式なら、少しだけ」
アステルの瞳がドラグニルを見た。
恐怖はある。
だが、それだけではない。
奪われ続けた自分の力を、初めて自分の意思で使おうとしている。
「重圧を、ずらします」
アステルが小さく呟いた。
その瞬間、ドラグニルの足元の床が沈んだ。
見えない重みが、彼の身体にのしかかる。
ドラグニルの歩みが、初めて止まった。
「ほう」
アステルは苦しげに息を吐く。
「今です……!」
ヴェスパーが動いた。
蜃気楼は使えない。
ならば、剣で行く。
真正面からでは勝てない。
だから、レイラが先に出る。
「おおおおっ!」
戦斧が振り下ろされる。
ドラグニルは片腕で受けた。
鈍い音。
レイラの一撃を受けても、ドラグニルは崩れない。
だが、足は止まっている。
アステルの重圧が、彼の動きを縛っていた。
その隙に、ヴェスパーが懐へ入る。
剣が走る。
鱗の隙間を狙った一撃。
だが、刃が触れる寸前、周囲の熱が奪われた。
剣筋がわずかに乱れる。
刃は鱗を浅く裂いただけだった。
ドラグニルの拳が迫る。
ヴェスパーは避けきれない。
その瞬間、アステルの重圧が横へずれた。
ヴェスパーの身体が、不自然に横へ引かれる。
拳が紙一重で空を切った。
アステルが助けたのだ。
「今の、便利だな!」
レイラが叫ぶ。
アステルは苦しげに答える。
「長くは……無理です」
「十分だ!」
イリスの銃弾がドラグニルの目元を狙う。
ドラグニルは顔を逸らす。
一瞬の隙。
ヴェスパーは再び踏み込もうとした。
だが、その前にドラグニルが笑った。
「ここまでだ」
彼は片手を床へ叩きつけた。
青白い光が広がる。
塔の下層で眠っていた予備術式が起動した。
建物全体が大きく傾く。
イリスが叫ぶ。
「塔が崩れる!」
ドラグニルは壊れた壁の向こうへ後退した。
「追って来い、黒陽炎の弟子」
「その術師を連れてな」
ヴェスパーが駆け出そうとする。
だが、天井から巨大な梁が落ちた。
レイラが戦斧で受け止める。
「行くな! 今は脱出だ!」
セレスも叫ぶ。
「アステルさんが保ちません!」
ヴェスパーは歯を食いしばる。
ドラグニルの影が夜空へ消えていく。
また逃げられた。
だが、今は追えない。
守るべきものがある。
「下へ降りる」
ヴェスパーは言った。
「イリス、道は」
「探してる!」
アステルが弱々しく手を上げた。
「……私が、作ります」
「無理だ」
ヴェスパーが言う。
アステルは首を横に振る。
「逃げるための術式なら……できます」
彼女の瞳に、再び光が灯る。
「もう、命令されて使う力じゃない」
床の瓦礫が浮いた。
落ちかけていた梁が、ほんの少しだけ持ち上がる。
重圧が道を作る。
押し潰すためではなく、仲間を逃がすために。
レイラが笑った。
「やるじゃん、アステル!」
アステルは小さく目を伏せた。
「……ありがとう、ございます」
ヴェスパーは彼女を見た。
「行くぞ」
アステルは頷いた。
その身体はまだ弱い。
立っているのもやっとだ。
だが、その瞳にはもう、術式核としての諦めはなかった。
四人と一人は、崩れ始めた観測塔の中を走り出す。
背後で黒い翼の紋章が砕け、青白い結晶の光が闇へ散った。
そして夜空の向こうでは、竜の影が静かに彼らを待っていた。




