第1章 第13話 「竜の影」
観測塔が崩れ始めた。
最初に落ちたのは天井の小さな破片だった。
乾いた音を立てて床に跳ねたそれを合図にするように、次々と壁が軋み、梁が折れ、塔全体が悲鳴を上げた。
青白い結晶が砕け、夜の闇へ光の粉となって舞う。
「急げ!」
レイラの声が、崩落音の中で響いた。
彼女は戦斧で落ちてくる瓦礫を弾き飛ばしながら、先頭を走っていた。
その後ろを、イリスが端末を片手に続く。
「右の通路は崩落! 左、まだ抜けられる!」
「まだって言い方が怖いな!」
「文句は塔に言って!」
セレスはアステルの肩を支えながら走っていた。
アステルの足取りは重い。
拘束具から解放されたばかりの身体は、今にも倒れそうなほど弱っている。
それでも彼女は、震える手を前へ伸ばしていた。
「……そこ、危ないです」
アステルが呟いた瞬間、彼女の瞳が淡く光る。
落下してきた巨大な金属片が、不自然に横へ逸れた。
重圧術式。
潰すためではなく、仲間を逃がすために使われた力。
金属片は壁に叩きつけられ、火花を散らした。
「助かった!」
レイラが叫ぶ。
アステルはかすかに頷く。
だが、その直後、膝が崩れた。
「アステルさん!」
セレスが支える。
「これ以上は使わないでください。あなたの身体が保ちません」
「でも……」
「必要な時だけです」
セレスの声は静かだった。
だが、決して譲らない強さがあった。
アステルは一瞬だけ戸惑い、それから小さく頷いた。
「……はい」
ヴェスパーは最後尾を走っていた。
背後から迫る崩落。
足元に広がる亀裂。
そして、遠くで揺れる巨大な気配。
ドラグニル。
塔の外へ消えたはずの竜人の熱――いや、熱を喰らう冷たい圧が、まだ周囲に残っている。
まるで、逃げる彼らをわざと見逃しているようだった。
「遊ばれてるな」
ヴェスパーが低く呟く。
レイラが振り向く。
「何か言ったか?」
「急ぐぞ」
「それは同感!」
五人は崩れゆく塔の通路を抜け、下層へ駆け下りた。
⸻
出口は半分塞がっていた。
塔へ入る時に開いていた正面扉は、今では歪んだ鉄と結晶に覆われている。
イリスが端末を操作する。
「無理。術式封鎖が残ってる。解除には時間が――」
「時間はない」
レイラが戦斧を構えた。
「壊す」
「だから雑!」
「でも早い!」
レイラが踏み込む。
戦斧が鉄扉へ叩き込まれる。
轟音。
扉は歪んだが、砕けない。
「硬っ!」
「術式で補強されてる」
イリスが舌打ちする。
「これ、力だけじゃ無理かも」
ヴェスパーは剣を抜いた。
「一点を崩す」
「どこだ?」
「右下。結晶の流れが薄い」
セレスが熱診で確認するように目を細める。
「確かに、そこだけ反応が弱いです」
アステルが震える手を上げた。
「私が……圧をずらします」
セレスが止めようとした。
だが、アステルは静かに首を横に振る。
「今だけです」
ヴェスパーは彼女を見た。
「無理はするな」
「……あなたに言われると、少し変な感じがします」
イリスが小さく笑った。
「もう分かってきたね」
アステルの瞳が淡く光る。
扉にかかっていた重圧がわずかにずれた。
その瞬間、ヴェスパーが踏み込む。
剣が青白く揺らぎ、熱が刃の周囲に集まる。
しかし――。
「無駄だ」
低い声。
背後ではない。
外からだった。
扉の向こう側。
まるでそこに最初からいたかのように、ドラグニルの声が響いた。
次の瞬間、扉に集まっていた熱が消えた。
ヴェスパーの刃に宿りかけていた陽炎が、形になる前に喰われる。
剣の軌道がわずかに鈍った。
「っ……!」
斬撃は結晶を削っただけで、扉を破るには至らない。
レイラが歯を剥く。
「あいつ、外にいるのかよ!」
その答えとして、外側から扉が吹き飛んだ。
鉄と結晶が粉々に砕け、夜風が塔内へ流れ込む。
舞い上がる砂。
青白い結晶の粉。
その向こうに、ドラグニルが立っていた。
黒い鱗に覆われた巨体。
竜の角。
青い瞳。
そして、まるで炎を飲み込んだ灰のように冷たい気配。
「出口を作ってやった」
ドラグニルは静かに言った。
「逃げるなら逃げろ」
レイラが戦斧を握りしめる。
「ずいぶん親切だな」
「獲物は、走らせた方が面白い」
その言葉に、空気が凍った。
レイラの足が前へ出かける。
だが、ヴェスパーが手で制した。
「挑発に乗るな」
「分かってる。でも腹立つ」
「同感だ」
ドラグニルの視線がヴェスパーに向く。
「冷静だな」
「そう見えるだけだ」
「ならば、その下にあるものを見せろ」
ドラグニルが一歩踏み出す。
その瞬間、周囲の空気が一気に冷えた。
砂漠の夜の寒さではない。
熱そのものが奪われていく。
ヴェスパーの周囲に生まれかけた蜃気楼が、また崩れる。
「やっぱり……」
イリスが呟く。
「あいつ、熱源を吸収してる。ヴェスパーの能力と相性最悪だよ」
「解説どうも!」
レイラが叫び、前へ飛び出した。
「なら、熱じゃなくて力で叩く!」
戦斧が振り下ろされる。
ドラグニルは片腕で受け止めた。
金属と鱗が激突し、火花が散る。
だが、ドラグニルは一歩も下がらない。
「重いな」
「余裕ぶるな!」
レイラは踏み込み、さらに力を込める。
しかしドラグニルは腕を軽く振っただけだった。
レイラの身体が弾き飛ばされる。
「レイラ!」
ヴェスパーが動く。
だが、その進路にドラグニルの視線が向いた瞬間、体の熱が引き抜かれるような感覚に襲われた。
足が重い。
呼吸が浅くなる。
セレスが叫ぶ。
「ヴェスパーさん、体温が急低下しています!」
「分かっている」
ヴェスパーは歯を食いしばる。
熱を使えば喰われる。
なら、使う量を絞る。
一瞬だけ。
刃先だけ。
自分の熱ではなく、周囲の微細な温度差を利用する。
陽炎ではなく、視線のずれだけを作る。
ヴェスパーは低く踏み込んだ。
ドラグニルの懐へ。
剣が鱗の隙間を狙う。
だが、ドラグニルは笑った。
「浅い」
拳が迫る。
避けきれない。
その瞬間、ヴェスパーの身体が横へ引かれた。
重圧。
アステルが術式を使ったのだ。
拳はヴェスパーの肩をかすめ、背後の壁を粉砕した。
「……すみません、少しだけずれました」
アステルが息を切らしながら言う。
「十分だ」
ヴェスパーは体勢を立て直す。
イリスが小型銃を連射した。
狙いは目ではない。
ドラグニルの足元。
砂を巻き上げ、視界を遮る。
「煙幕代わりにはなるでしょ!」
「無駄だ」
ドラグニルが息を吸う。
周囲の砂煙が一瞬で沈んだ。
空気の熱が奪われ、舞っていた砂が重く落ちる。
視界が晴れる。
そこへ、レイラが再び突っ込んだ。
「無駄かどうかは――」
戦斧を横薙ぎに振るう。
「こっちが決める!」
ドラグニルが受ける。
今度はわずかに足がずれた。
アステルの重圧が、ドラグニルの足元だけを沈ませていた。
「ほう」
ドラグニルの瞳がアステルへ向く。
アステルの身体がびくりと震える。
彼女は本能的に理解した。
あの竜人に見られることの恐ろしさを。
だが、後ろへは下がらなかった。
「私は……もう、術式核ではありません」
震える声。
それでも、言葉は確かだった。
「私の力は、私が決めます」
ドラグニルの口元が歪む。
「ならば、その意思ごと喰ってやろう」
ドラグニルがアステルへ向かって踏み出す。
ヴェスパーが割り込んだ。
レイラも横に並ぶ。
イリスが銃を構え、セレスがアステルを背後へ下げる。
五人。
初めて、五人が一つの形で立った。
ドラグニルはその光景を見て、少しだけ目を細めた。
「群れるか」
ヴェスパーは剣を構える。
「仲間だ」
その言葉に、レイラがにやりと笑う。
イリスは少し意外そうに瞬きし、セレスは静かに頷いた。
アステルは目を伏せる。
仲間。
その言葉が、自分にも向けられているのだと理解するのに、少し時間がかかった。
ドラグニルは低く笑った。
「ならば、まとめて来い」
次の瞬間。
夜空が青白く光った。
ドラグニルの背後に、黒い翼の紋章を刻んだ術式が浮かび上がる。
イリスの端末が警告音を鳴らす。
「まずい! 塔の残留術式をあいつが喰ってる!」
崩れかけていた観測塔の結晶が、次々と光を失っていく。
青白い光がドラグニルの腕へ集まる。
「退け!」
ヴェスパーが叫ぶ。
ドラグニルが腕を振るった。
衝撃波。
熱を奪われた空気が刃のように走る。
レイラが戦斧を盾代わりに構える。
ヴェスパーがその横に立つ。
アステルが重圧で衝撃の方向をわずかにずらす。
イリスがセレスを引き寄せる。
それでも衝撃は強烈だった。
全員の身体が砂の上へ投げ出される。
視界が揺れる。
耳鳴りがする。
セレスが真っ先に起き上がった。
「皆さん、無事ですか!」
「無事じゃないけど生きてる!」
レイラが砂を吐きながら答える。
イリスも咳き込みながら手を上げた。
「端末は無事。私もたぶん無事」
アステルはセレスに支えられ、苦しげに息をしている。
ヴェスパーは剣を支えに立ち上がった。
ドラグニルは追撃してこない。
それどころか、背を向けていた。
「待て」
ヴェスパーが呼ぶ。
ドラグニルは振り返らない。
「今日はここまでだ」
「逃げるのか」
「違う」
ドラグニルは夜の砂漠を見た。
「お前たちはまだ弱い」
レイラが唸る。
「言ってくれるな」
ドラグニルは続ける。
「だが、折れてはいない」
その声には、わずかな愉悦があった。
「黒陽炎の弟子。次に会う時までに、その牙を研いでおけ」
ヴェスパーは剣を握る。
「ガルムはどこだ」
ドラグニルの足が止まった。
沈黙。
それから、彼は低く言った。
「生きている」
ヴェスパーの呼吸が止まる。
「ただし、お前が知る姿のままとは限らん」
「どういう意味だ」
ドラグニルは答えない。
代わりに、砂の上へ何かを投げた。
黒く焼けた布切れ。
ヴェスパーはそれを拾う。
古い外套の一部。
端には、焦げた糸で縫われた狼の印。
ガルムのものだった。
「北の廃坑都市跡」
ドラグニルが言った。
「黒陽炎の残滓を見たければ、そこへ来い」
そして、竜の影は夜の砂海へ歩き出した。
追える距離ではない。
追って勝てる状態でもない。
ヴェスパーは動かなかった。
いや、動けなかった。
手の中の布切れが、熱を持っている気がした。
ガルムは生きている。
その言葉は希望にも聞こえた。
だが同時に、不吉な響きを持っていた。
お前が知る姿のままとは限らない。
その意味を考えるだけで、胸の奥が冷える。
レイラが隣に立った。
「……追うのか?」
「今は無理だ」
ヴェスパーは静かに答えた。
「珍しくまともな判断だな」
「俺一人なら追っていた」
「おい」
「だが、今は違う」
ヴェスパーは振り返った。
イリス。
セレス。
アステル。
レイラ。
皆、傷つき疲れている。
それでも生きている。
守るべきものがある。
一人で進む道では、もうない。
「灰都へ戻る」
ヴェスパーは言った。
「情報を整理して、態勢を立て直す」
イリスが小さく笑った。
「賛成。今のまま北の廃坑都市跡なんて行ったら、死にに行くようなものだしね」
セレスも頷く。
「アステルさんの治療も必要です。ヴェスパーさんもです」
「俺もか」
「もちろんです」
レイラが笑う。
「逃げられないな」
アステルは静かに空を見上げていた。
崩れた観測塔。
消えた結晶の光。
黒い翼。
そして、自分を助けた人たち。
彼女は小さく口を開く。
「私……行く場所が、ありません」
その声は、風に消えそうなほど小さかった。
セレスが彼女を見る。
レイラも、イリスも。
ヴェスパーは少しだけ考えた。
そして言った。
「なら、一緒に来い」
アステルの目が揺れる。
「でも、私は……黒い翼に利用されていました」
「利用されていただけだ」
「私の術式で、人が傷ついたかもしれません」
「これから何に使うかは、お前が決めればいい」
アステルは言葉を失った。
その瞳に、微かな光が宿る。
「……私が、決める」
「そうだ」
レイラが豪快に笑う。
「とりあえず飯食って寝ろ。難しい話はその後だ」
イリスが頷く。
「同感。仲間になるかどうかも、まず生きて帰ってから」
セレスが静かに付け加える。
「あなたはまず患者です」
アステルは少しだけ困ったように瞬きをした。
それから、本当にわずかに笑った。
「……はい」
夜の砂漠に、冷たい風が吹いた。
背後では、北東の観測塔が崩れ落ちていく。
黒い翼の罠は破った。
アステルを救い出した。
だが、ドラグニルには届かなかった。
ガルムの謎はさらに深まり、次の目的地が示された。
北の廃坑都市跡。
黒陽炎の残滓。
ヴェスパーはガルムの外套の切れ端を握りしめる。
燃える故郷から続く道は、また新たな闇へ伸びていた。
それでも今は、隣に仲間がいる。
それだけで、進む理由には十分だった。




