第1章 第14話 「黒陽炎の残滓」
北東の観測塔は、夜明け前に完全に崩れ落ちた。
砂漠に立っていた黒い塔は、最後に低い轟音を響かせ、青白い結晶の光を撒き散らしながら瓦礫の山へと変わった。
空へ伸びていた古代の通信装置は折れ、塔の外壁は砂の上へ倒れ、黒い翼の紋章が刻まれた旗も灰と砂に埋もれていく。
その光景を、ヴェスパーたちは少し離れた砂丘の上から見ていた。
誰もすぐには口を開かなかった。
ただ、冷たい朝の風だけが吹いている。
レイラは戦斧を肩に担ぎ、崩れた塔を睨んでいた。
「……結局、あの竜野郎には逃げられたな」
イリスは端末を操作しながら、瓦礫の山を記録している。
「逃げたっていうより、見逃された感じだけどね」
「余計腹立つ言い方するな」
「事実だよ」
レイラは舌打ちした。
ヴェスパーは黙ったまま、手の中の布切れを見つめていた。
黒く焼けた外套の一部。
端には、狼を模した古い縫い印。
ガルムのものだ。
間違いない。
それを握る指に、自然と力が入る。
ドラグニルは言った。
ガルムは生きている。
ただし、お前が知る姿のままとは限らない、と。
その言葉が、胸の奥で鈍く残っていた。
「ヴェスパーさん」
セレスの声がした。
彼女はアステルの状態を確認しながらも、ヴェスパーの顔色を見ていた。
「傷が開いています。灰都へ戻ったら、すぐ処置します」
「分かった」
「今は反論しないんですね」
「反論する体力が惜しい」
レイラが小さく笑う。
「いい傾向だな」
「黙れ」
いつものやり取り。
けれど、その声には疲労が滲んでいた。
アステルはセレスに支えられ、静かに崩れた塔を見つめていた。
白い肌はさらに青白く、足元も覚束ない。
だが、その瞳にはもう、術式核としての虚ろさはなかった。
「……あの塔で」
アステルがぽつりと呟いた。
「私は、ずっと夢を見ていました」
ヴェスパーが彼女を見る。
「夢?」
「はい。誰かの記憶のようなものです。黒い翼が、私の術式を通して流していた記録……その中に、黒い炎のような影がありました」
イリスの手が止まる。
「黒い炎?」
アステルは小さく頷く。
「熱ではありません。光でもありません。視界の奥が焼けるような……黒い陽炎」
その言葉に、ヴェスパーの表情が変わった。
黒陽炎。
ガルムの異名。
ガルムの術。
「見たのか」
ヴェスパーの声は低かった。
アステルは少し怯えたように目を伏せる。
だが、逃げずに答えた。
「完全には覚えていません。でも、あの人は戦っていました。黒い翼の人たちと」
「場所は」
「暗い場所でした。金属の壁。低い天井。遠くで水の音がして……でも、旧水路とは違う場所です」
イリスが端末に情報を打ち込む。
「地下施設か、廃坑系かもね」
「それから」
アステルは胸元を押さえる。
「誰かが言っていました」
「何を」
「黒陽炎の残滓は、まだ器に残っている、と」
空気が止まった。
レイラが眉をひそめる。
「器って何だよ」
「分かりません」
アステルは首を横に振る。
「でも、その言葉を聞いた時、すごく嫌な感じがしました。人を、人として見ていない声でした」
セレスの表情が険しくなる。
「旧水路の実験と同じです。黒い翼は、人の身体や術式を部品のように扱っている」
ヴェスパーは布切れを握りしめた。
黒陽炎の残滓。
器。
ガルム。
黒い翼は、ガルムの力を研究している。
それは想像していた。
だが、もしガルム本人がその実験に巻き込まれているのなら。
あるいは、彼の力の一部が誰かに移植されているのなら。
「……北の廃坑都市跡」
ヴェスパーが呟く。
ドラグニルが示した次の場所。
そこに、ガルムの痕跡がある。
そして、おそらく黒い翼の次の実験場も。
レイラがヴェスパーを見る。
「今すぐ行く、とか言うなよ」
ヴェスパーは答えなかった。
レイラの目が細くなる。
「おい」
「……行かない」
「本当だな?」
「今は」
「今は、が余計だ」
イリスが小さくため息をついた。
「行くにしても準備がいるよ。北の廃坑都市跡は、灰都から遠い。水、食料、地図、寒冷装備。あと、まともに動ける身体」
セレスが即座に頷く。
「最後が一番重要です」
「俺を見るな」
「見ます」
ヴェスパーは小さく息を吐いた。
その時だった。
彼の手の中で、焼けた布切れがわずかに熱を帯びた。
「……?」
ヴェスパーは布を見下ろす。
本来なら、ただの焦げた布のはずだった。
だが、その端から黒い揺らぎが立ち上っている。
陽炎。
しかし、いつものように透明な揺らぎではない。
墨を水に落としたような、黒い揺らぎ。
ヴェスパーの瞳が細くなる。
「下がれ」
その声に、全員が反応した。
レイラが戦斧を構える。
イリスが銃を抜く。
セレスがアステルを庇うように立つ。
黒い陽炎は、ヴェスパーの手の上でゆっくりと形を変えた。
やがて、それは人影になった。
長い外套。
大きな剣。
狼の耳。
顔は見えない。
だが、その立ち姿をヴェスパーは知っていた。
「ガルム……」
黒い影は答えない。
ただ、空気を焼くように揺れている。
レイラが息を呑む。
「幻影か?」
「違う」
ヴェスパーは影を見つめたまま答えた。
「これは……残された熱だ」
過去に放たれた術式の名残。
強い力を持つ者が、意図的に残した痕跡。
黒陽炎の残滓。
黒い影が、ゆっくりと剣を持ち上げた。
次の瞬間、ヴェスパーの視界が黒く焼けた。
⸻
燃える村。
違う。
これは、自分の記憶ではない。
暗い地下。
鉄の匂い。
血の匂い。
青白い結晶の光。
ガルムが立っている。
黒い外套は裂け、肩から血が流れていた。
その前に、黒い翼の仮面たちが倒れている。
だが、まだ奥に誰かがいる。
声が聞こえた。
「黒陽炎の術式反応、回収完了」
別の声。
「器は保つか」
「完全ではない。だが、残滓だけでも十分だ」
ガルムが剣を構える。
低い声が響いた。
「ヴェスパーを巻き込むな」
仮面の声が笑う。
「弟子か。ならば適性は高いだろう」
ガルムの周囲で、黒い陽炎が燃え上がる。
「手を出すな」
次の瞬間、視界が焼けた。
黒い熱。
黒い光。
叫び声。
砕ける結晶。
そして、ガルムの声。
「来るな」
それは手紙に書かれていた言葉と同じだった。
「まだ、お前は――」
そこで記憶は途切れた。
⸻
ヴェスパーは膝をついた。
「ヴェスパー!」
レイラが駆け寄る。
セレスもすぐに彼の肩を支えた。
「体温が急上昇しています。何を見たんですか」
ヴェスパーは呼吸を整えようとした。
だが、胸の奥が焼けるように熱い。
黒陽炎の残滓。
ガルムが残した記録。
「……ガルムは」
彼はかすれた声で言った。
「俺を黒い翼から遠ざけようとしていた」
イリスが表情を変える。
「やっぱり、君を狙ってる?」
「ああ」
ヴェスパーは立ち上がろうとした。
セレスが止める。
「座ってください」
「見えたんだ」
「説明は座ってからです」
ヴェスパーは一瞬だけ彼女を見た。
そして、諦めたように砂の上へ腰を下ろした。
レイラが近くにしゃがむ。
「何が見えた」
「地下施設。黒い翼。ガルムは戦っていた」
「生きてたのか?」
「少なくとも、その時は」
イリスが考え込む。
「ドラグニルの話と繋がるね。北の廃坑都市跡に、黒陽炎の残滓がある。もしくは、ガルム本人に繋がる何かがある」
アステルが震える声で言った。
「器、という言葉が……関係しているかもしれません」
セレスが唇を引き結ぶ。
「黒い翼は、結晶化を使って術式や能力を保存、移植、増幅しようとしている可能性があります」
「つまり」
レイラの声が低くなる。
「ガルムの力を、誰かに入れようとしてるってことか?」
誰もすぐには答えなかった。
だが、その沈黙が答えだった。
ヴェスパーは自分の手を見た。
熱を操る力。
蜃気楼を生む力。
ガルムから教わった生き方。
そして、黒い翼が欲しがっている何か。
「俺の力も、狙われている」
「でしょうね」
イリスは珍しく冗談を言わなかった。
「でも、狙われてるって分かったなら対策できる」
レイラが立ち上がる。
「そうだな。向こうが来るなら、こっちも準備してぶん殴るだけだ」
セレスは静かに言った。
「その前に治療です」
「もちろんだ」
レイラは即答した。
「ヴェスパーも、アステルも、私も、ちゃんと診てもらう」
ヴェスパーが顔を上げる。
「お前もか」
「私だって傷くらいある」
「珍しくまともだな」
「今のは褒め言葉か?」
「たぶん」
「たぶんって何だ」
二人のやり取りに、アステルが小さく瞬きをした。
それから、本当にわずかに口元を緩めた。
セレスがそれに気付き、穏やかに言う。
「笑えるなら、少しは大丈夫です」
アステルは戸惑ったように頷いた。
「……そういうもの、なんですか」
「はい。かなり大事です」
イリスが笑う。
「このチーム、医者が一番強いかもね」
「同感だ」
レイラが頷く。
ヴェスパーは何も言わなかった。
否定できなかった。
⸻
灰都へ戻る道は、長かった。
夜は明け、砂漠は少しずつ熱を取り戻していく。
遠くの地平線に、灰都アッシュベルクの城壁が見え始めた頃、アステルは何度も足を止めそうになった。
そのたびに、セレスが支えた。
レイラが荷物を持ち、イリスが周囲を警戒し、ヴェスパーは最後尾を歩いた。
一人なら、もっと早く進めたかもしれない。
だが今は、それでいいと思った。
誰かの歩幅に合わせる。
誰かが倒れそうなら止まる。
自分の傷を隠せば怒られる。
それは不自由だった。
けれど、その不自由さの中に、ヴェスパーはかすかな温かさを感じていた。
ガルムは言った。
生きろ。
それだけを教えた。
だが、生きるとは何かまでは教えてくれなかった。
今、自分は少しだけその意味に触れているのかもしれない。
「ヴェスパー」
レイラが横に並んだ。
「何だ」
「北の廃坑都市跡、行くんだろ」
「ああ」
「なら、その前にちゃんと休め」
「分かっている」
「本当だな?」
「セレスが許さないだろう」
前方でセレスが振り返った。
「もちろんです」
レイラが笑った。
「よし、なら安心だ」
ヴェスパーは小さく息を吐く。
そして、手の中の布切れを見た。
黒い陽炎はもう消えている。
だが、ガルムの声はまだ残っていた。
――来るな。
――まだ、お前は――
その先の言葉は分からない。
だが、ヴェスパーは歩く。
止まるつもりはない。
来るなと言われても、行く。
ただし、今度は一人ではない。
灰都の城壁が近付く。
砂漠の風が、五人の外套を揺らした。
黒い翼の罠はまだ終わっていない。
ガルムの真実も、遠い。
だが、黒陽炎の残滓は確かに示した。
この道の先に、答えがある。
そしてヴェスパーは、その答えから逃げない。




