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灰の星  作者: ウルフルマル


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第3章 第44話 「削られた道標」


 灰都の西門が見えなくなるまで、ヴェスパーは一度も振り返らなかった。


 振り返らないと決めていたわけではない。ただ、朝の街道には思っていた以上に人の往来があり、荷車を避けたり、アルドの示す道を確認したりしているうちに、気付けば城壁は遠くなっていた。


 やがて街道が低い丘を回り込み、灰都の塔も完全に見えなくなる。


「もう見えないぞ」


 レイラが言った。


「何が?」


「灰都」


「分かってる」


「振り返らなかったな」


 ヴェスパーが横を見る。


「見てたのか?」


「暇だから」


「歩き始めてまだ一時間も経ってないぞ」


「だから暇なんだろ」


「どういう理屈だよ」


 先頭を歩いていたアルドが振り返りもせずに言う。


「暇なら荷物を持って」


「持ってる」


「もう一つ」


「お前、昨日から私に厳しくない?」


「荷物を減らせと言ったのに保存食を増やしたから」


「食べ物は必要だろ」


「六人分を一人で三日余計に持つ必要はない」


「もし足りなくなったら?」


「宿場がある」


「潰れてたら?」


「予備は全員に分けてある」


「敵に襲われたら?」


「食料を守る前に自分を守って」


 レイラが口を開き。


 少し考え。


「……正論ばっかり言うなよ」


「仕事だから」


 イリスが後ろで笑った。


 王都への旅とは違う。


 あの時は先に何があるか分からず、誰もがどこか張り詰めていた。今も目的地に不安がないわけではないが、灰都から半日の範囲は日常的に商人や巡回隊が使う道だ。


 畑もある。


 荷車も通る。


 途中には石工たちの小さな作業場があり、朝から槌の音が響いていた。


 ヴェスパーが二十四年間近付かなかった故郷へ向かっていることなど、街道を歩く他人には関係ない。


 その当たり前さが、ありがたかった。


     ◇


 昼前には、南東の第二監視所へ着いた。


 石造りの小さな詰所と、馬を休ませるための柵。街道脇には井戸があり、旅人用に長椅子まで置かれている。


 ハルトから出発届が届いていたらしく、当番の門衛はヴェスパーたちの顔を見るなり帳面を開いた。


「六名。灰都発、南東方面。帰還日未定」


「そこまで書いてあるんだ」


 ヴェスパーが言う。


「ハルトさんの字です」


「分かる?」


「読みにくいから」


「本人に言っていい?」


「やめてください」


 門衛は真顔だった。


 ヴェスパーは笑いながら署名欄へ現在の名を書く。


 ガルムが隣から覗く。


「雑だな」


「あんたに言われたくない」


「俺の方が読める」


「本当?」


 門衛が二人の字を見比べる。


「……同じくらいです」


「ほら」


「余計なこと言うな」


 レイラが声を上げて笑った。


 イリスとセレスも記入を済ませ、最後にアルドが現在の道路状況を尋ねた。


「旧街道への分岐、最近誰か通った?」


 門衛が帳面とは別の紙束を探す。


「南の猟師が四日前に。あと、薬草採りが一組」


「崩落は?」


「大きいものは聞いてません。ただ昨日の雨で、低地はぬかるんでるかもしれないです」


「橋は?」


「どの橋です?」


 アルドが古地図を開き、街道から南へ外れた位置を示した。


「この川」


 門衛が首を傾げる。


「橋なんてありました?」


 ガルムの視線が地図へ落ちた。


「昔はあった」


「かなり昔?」


「二十四年」


「ああ……」


 門衛は少し申し訳なさそうな顔をする。


「それなら俺が生まれる前ですね」


「言わなくていい」


「何がです?」


「歳を実感する」


 ガルムの返しに、レイラがまた笑う。


 だがアルドは地図から目を離さなかった。


「川自体は?」


「あります。今の街道は少し上流で渡るんで、そっちの古い道は使わないですね」


「渡れる?」


「水量次第です。昨日の雨がありますから、現地で判断してください」


「分かった」


 必要な情報を聞き終えると、一行は監視所の脇で早めの昼食を取ることにした。


 干し肉。


 硬いパン。


 そして菓子屋から持たされた焼き菓子。


 レイラが包みを開き、目を輝かせる。


「これ、全部食べていい?」


「六人分」


 イリスが言った。


「六人で全部食べるんだろ?」


「一人で全部食べる顔してた」


「してない」


「してた」


 セレスまで加わる。


 レイラは不満そうにしながら、一枚だけ取った。


「名前のない奴、これ好きなんだっけ」


 ガルムが焼き菓子を見る。


「硬いやつな」


 ヴェスパーが答える。


「最近は柔らかいのも好きらしいけど」


「随分詳しくなったな」


「店に行ってるから」


「お前、甘いのそんな好きだったか?」


「嫌いじゃない」


「昔は干し肉ばっか食ってたぞ」


「子どもの頃の話だろ」


「十五くらいでも」


「十分昔だよ」


 言い返してから。


 ヴェスパーは少しだけ。


 言葉に引っ掛かった。


 昔。


 その言葉を口にしても。


 思い浮かぶのは。


 ガルムと過ごした日々ばかりだ。


 五歳より前。


 村にいた頃。


 そちらは。


 まだ穴が空いている。


「どうしました?」


 セレスが気付く。


「いや」


 ヴェスパーは焼き菓子を一口齧った。


「硬いなと思って」


「今さら?」


 イリスが笑う。


「歯折るなよ」


 ガルム。


「そこまでじゃない」


 ヴェスパーも笑った。


 今日は。


 まだ。


 それでいい。


     ◇


 監視所を出てから二時間ほどで、街道の景色が変わり始めた。


 畑が減る。


 道幅も少し狭くなる。


 低い丘と雑木林が増え、人家はほとんど見えなくなった。


 アルドが一度足を止める。


「次の分岐から南」


 そこには。


 道と呼ぶには心許ない。


 草に半分埋もれた細い筋があった。


「これ?」


 レイラが顔をしかめる。


「旧街道」


「街道ってもっと道らしいものじゃないのか」


「使われなくなればこうなる」


 アルドは地面へしゃがみ、草を分けた。


 下には平らな石がある。


 かなり古い。


 だが。


 確かに人が敷いたものだった。


「こっちで合ってる?」


 ヴェスパーがガルムを見る。


 ガルムは周囲を見回している。


 北。


 南。


 木々。


 丘。


「……ああ」


 返事が。


 わずかに遅れた。


「本当に?」


「たぶん」


 レイラが目を丸くする。


「ガルムがたぶんって言った」


「何だよ」


「いや。珍しいなって」


「二十四年経ってんだぞ」


 ガルムは少し苛立ったように言った。


 ヴェスパーには。


 その苛立ちの向きが。


 レイラではなく。


 自分自身へ向いているように見えた。


「道が変わってても普通だろ」


 ヴェスパーが言う。


「分かってる」


「煙突の爺さんも」


「分かってるって言ってんだろ」


 少し強い。


 ヴェスパーは。


 そこで止めた。


 ガルムが。


 先に旧道へ入る。


 アルドはその後ろ。


 ヴェスパーたちも続く。


 草。


 湿った土。


 昨日の雨がまだ残っている。


 道は。


 ゆるやかに。


 森の中へ消えていた。


     ◇


 使われなくなった道は、思っていた以上に歩きにくかった。


 石畳は部分的に崩れ、木の根が道を持ち上げている。低い場所には雨水が溜まり、アルドが杖で地面の深さを確かめなければならない場所もあった。


 レイラが一度、泥へ足を突っ込んだ。


「深っ!」


「そこ避けてって言った」


「聞こえなかった!」


「言った」


「小さいんだよ声!」


「普通」


「普通じゃない!」


 片足を泥から抜く。


 靴。


 半分。


 茶色。


「最悪だ……」


 レイラが本気で落ち込む。


 イリスが笑いながら。


「川で洗えるよ」


「橋あるんだろ?」


「昔はな」


 ガルムの返事。


 レイラが。


「今ない可能性あるのか……」


 と、さらに落ち込んだ。


 セレスは。


 転ばないよう。


 足元を確認しながら歩いている。


「レイラ」


「何」


「靴の中まで濡れてます?」


「ちょっと」


「止まった時に替えてください」


「替えある」


「珍しく準備いいね」


 ヴェスパーが言う。


「誰が持たせたと思ってんだ」


 ガルム。


「ガルム?」


「俺じゃねえ」


「じゃあ誰」


 アルドが。


 前を向いたまま。


「俺」


 レイラが。


 何とも言えない顔。


「……ありがとう」


「どういたしまして」


「何か負けた気がする」


「誰と戦ってるんだよ」


 ヴェスパーが笑う。


 その時。


 ガルムが。


 突然。


 足を止めた。


     ◇


「どうした?」


 ヴェスパーが。


 前を見る。


 ガルムは。


 道ではなく。


 右側の森を見ていた。


「ここ」


「何?」


「昔」


 少し。


 言葉を探す。


「杉があった」


 レイラが周囲を見る。


「木ならいっぱいあるぞ」


「でかい杉だ」


 ガルムが。


 腕を。


 広げる。


「三人で囲っても届かないくらいの」


「なくなった?」


「ないな」


 周囲は。


 若い雑木。


 古くても。


 二、三十年。


 それより前の木もあるが。


 ガルムが言うほどの巨木は。


 見当たらない。


「切られたんじゃない?」


 イリスが言う。


「かもな」


 ガルムは。


 道の脇へ。


 少し入る。


「確かこの辺に」


 土。


 落ち葉。


 低木。


 探す。


 アルドも。


 少し離れたところで。


 地面を見る。


「ガルム」


「何だ」


「これ?」


 指差した場所。


 大きな。


 古い切り株。


 ただし。


 地面と。


 ほとんど一体化している。


 苔。


 腐食。


 中は。


 半分。


 土へ戻っていた。


 ガルムが。


 しゃがむ。


 手。


 置く。


「……これだ」


「分かる?」


 ヴェスパーが尋ねる。


「傷」


 ガルムが。


 切り株の横。


 僅かに残った木肌を。


 指でなぞる。


「昔、ここで剣の練習した」


「木で?」


「違う。俺じゃない」


 ヴェスパーの胸が。


 少し。


 動く。


「誰」


 ガルムは。


 手を止めた。


「お前の母親」


 風。


 葉。


 一瞬。


 それだけ。


 聞こえる。


「ここまで来てた?」


「あいつの村から灰都方面へ行くなら、昔はこの道を使った」


「じゃあ」


 ヴェスパーは。


 切り株を見る。


 自分も。


 ここを。


 通ったことがあるのか。


「俺も来た?」


「分からん」


 ガルムは。


 素直に答えた。


「子どもの頃のお前とここで会った記憶はない」


「そっか」


「でも」


「何」


「お前の母親とは、何度もここ通った」


 ヴェスパーは。


 もう一度。


 切り株へ。


 手を置いた。


 何か。


 思い出すか。


 期待する。


 でも。


 何もない。


 匂いも。


 音も。


 景色も。


 自分の中へ。


 戻ってこない。


「……何も思い出さない」


 思わず。


 声になる。


 ガルムが。


 横を見る。


「そうか」


「それだけ?」


「何を言えってんだ」


「こういう場所来たら、何か戻ると思ってた」


「誰が?」


「俺が」


 ガルムは。


 少し。


 考える。


「なら」


 立ち上がる。


「戻らなかったって分かったな」


 ヴェスパーが。


 少し。


 眉を寄せる。


「慰め下手だな」


「慰めてねえ」


「分かってる」


 でも。


 少しだけ。


 楽になった。


 思い出さない自分が。


 間違っているわけではない。


 今は。


 ただ。


 何も戻らなかった。


 それだけ。


     ◇


 道を再び進み始める。


 森。


 少しずつ。


 深くなる。


 日差しも。


 弱くなる。


 途中。


 アルドが古い排水溝を見つけた。


「道としては合ってる」


 ガルムが。


 少し。


 肩の力を抜く。


「疑ってた?」


 レイラが聞く。


「お前は黙って歩け」


「絶対疑ってた」


「レイラ」


 セレスが。


 静かに。


 名前を呼ぶ。


「はい」


 レイラは。


 少しだけ。


 おとなしくなった。


 ヴェスパーが笑う。


「セレス強いな」


「今さら?」


 イリスも笑った。


 午後。


 日が傾き始める頃。


 旧道は。


 一度。


 森から出た。


 目の前に。


 浅い谷。


 その下。


 川。


 そして。


「橋」


 レイラが。


 ほっとした声を出す。


 確かに。


 橋は。


 あった。


 ただし。


 ガルムが覚えていたものではない。


「石じゃない」


 ガルムが言う。


 今あるのは。


 太い木材を渡した。


 簡素な橋。


 比較的新しい。


「猟師用か」


 アルドが。


 橋の端を確認する。


「補修はされてる」


「渡れる?」


「一人ずつなら」


 レイラが。


 橋を見て。


 自分。


 見る。


「私も?」


「特に」


「分かったよ!」


 アルドが。


 最初。


 渡る。


 中央。


 少し。


 沈む。


 でも。


 問題ない。


 次。


 セレス。


 イリス。


 ヴェスパー。


 ガルム。


 最後に。


 レイラ。


「斧置いていけ」


「一本しかない!」


「渡ってから取る」


「信用しろ!」


「橋を信用してない」


「私じゃない?」


「両方」


「アルド!」


 結局。


 レイラは。


 斧を。


 ヴェスパーへ投げる。


「落とすなよ!」


「投げるな!」


 受け取る。


 重い。


 ヴェスパーが。


 よろける。


「重っ」


「軽いだろ!」


「感覚おかしいよ!」


 レイラも。


 無事に渡る。


 橋の向こう。


 全員揃う。


「次から川飛ぶ」


 レイラが言う。


「やめて」


 セレスが。


 即答した。


     ◇


 川を越えると。


 道は。


 二つに分かれていた。


 左。


 やや広い。


 右。


 ほとんど。


 草に埋もれている。


 中央。


 古い。


 石の道標。


「これ」


 アルドが。


 足を止める。


 高さ。


 腰ほど。


 四角い。


 表面は。


 風雨で。


 かなり削れている。


 それでも。


 左側の面には。


 文字が残っている。


「南の宿場」


 イリスが読む。


「距離は……四里?」


「昔の単位だな」


 ガルム。


 右側。


 ヴェスパーが。


 見る。


 そこにも。


 本来。


 何か。


 書かれていた。


 はず。


 でも。


 読めない。


「削れてる?」


 レイラが。


 顔を近付ける。


 アルドが。


 指で。


 表面をなぞる。


「違う」


「何が」


「自然に削れたんじゃない」


 ヴェスパーが。


 道標へ。


 近付く。


 右面。


 他の場所とは。


 削れ方が違う。


 文字があった部分だけ。


 深く。


 斜めに。


 削り取られている。


 何度も。


 硬い道具を。


 打ち付けた痕。


「誰かが消した?」


 イリスの声。


 アルドが頷く。


「意図的に」


 ヴェスパーが。


 ガルムを見る。


 男は。


 道標を。


 見たまま。


 動かなかった。


「ここ」


 ヴェスパーが聞く。


「何て書いてあった?」


 返事が。


 ない。


「ガルム」


「あの村だ」


 低い声。


「右へ行けば」


 道標。


 削られた面。


「お前の村だった」


     ◇


 イリスが。


 反射的に。


 記録紙を出しかけ。


 止めた。


「写していい?」


 ヴェスパーではなく。


 ガルムへ聞く。


「名前は残ってねえ」


「傷だけ」


「それなら」


 ガルムが頷く。


「いい」


 イリスは。


 道標の形。


 削られた範囲。


 工具痕。


 周囲の状態。


 必要なところだけ。


 写す。


「いつ削られたか分かる?」


 ヴェスパーが。


 アルドへ聞く。


「正確には無理」


「二十四年前?」


「可能性はある」


「もっと後?」


「それもある」


 アルドは。


 石の隙間へ。


 土。


 苔。


 見る。


「古い。少なくとも最近ではない」


「火事の後?」


「だから分からない」


 ガルムが。


 無言。


 道標へ。


 手を。


 伸ばす。


 削られた面。


 触れる。


「これ」


 ヴェスパーが。


 男の横顔を見る。


「知ってた?」


「知らん」


「最後に通った時は?」


 ガルムが。


 少し。


 目を細める。


「書いてあった」


「村が燃えた日?」


「ああ」


「帰りも?」


 そこで。


 ガルムが。


 止まる。


 ヴェスパーを。


 見る。


「帰りは」


 声が。


 少し。


 低くなる。


「道標なんか見てねえ」


 幼い。


 ヴェスパーを。


 抱え。


 燃えている村から。


 逃げた。


 その夜。


 後ろで。


 何が起きていたのか。


 道のどこを。


 通ったのか。


 確認する余裕。


 あったはずがない。


「じゃあ」


 ヴェスパーは。


 道標を見る。


「その後、誰かが消した」


「可能性が高い」


 イリス。


「誰が」


「分からない」


 今度は。


 ヴェスパーが。


 自分で。


 先に言った。


 イリスが。


 少しだけ。


 頷く。


「そう」


 黒翼の前身。


 研究組織。


 村の生存者。


 役人。


 別の誰か。


 考えれば。


 いくらでも。


 候補は出る。


 今は。


 どれも。


 証拠がない。


「名前を隠すため?」


 レイラが聞く。


 誰も。


 すぐには。


 答えない。


「灰星から?」


 もう一度。


 レイラ。


 ガルムが。


 削られた石へ。


 視線を置いたまま。


「そうかもしれねえ」


「じゃあ味方?」


「そうとも限らん」


 ヴェスパーが。


 答える。


「場所そのものを消したかったかもしれない」


 ガルムが。


 彼を見る。


 ヴェスパーも。


 道標を見る。


 右。


 草に。


 埋もれた道。


 二十四年前。


 そこへ。


 人が。


 普通に。


 行き来していた。


 今は。


 行き先の名前すら。


 石から。


 消されている。


「行く?」


 セレスが。


 静かに。


 ヴェスパーへ聞いた。


 問いの意味。


 分かる。


 ここで。


 戻っても。


 いい。


 名前を。


 削られた。


 村。


 何が。


 待っているか。


 分からない。


 ヴェスパーは。


 草に埋もれた。


 右の道を見る。


「今日は宿場まで行く」


 レイラが。


 少し驚く。


「村の道見つけたのに?」


「ああ」


 空。


 見る。


 日が。


 落ち始めている。


「暗くなる前に入るのは嫌だ」


 アルドが。


 すぐ頷く。


「賛成。旧道はさらに悪い可能性がある」


 イリスも。


 記録をしまう。


「明日の朝なら明るい」


 レイラは。


 少し。


 不満そうだった。


 でも。


「分かった」


 反対しなかった。


 ガルムも。


 何も言わない。


「宿場は左?」


 ヴェスパーが聞く。


 アルドが地図を見る。


「今夜は左。明朝ここまで戻って右」


「面倒だな」


 レイラ。


「野宿する?」


 セレスが聞く。


「左行こう」


「早いね」


「風呂あるかもしれない」


「靴洗いたいだけだろ」


「それもある」


 一行は。


 道標を離れる。


 ヴェスパーは。


 最後。


 一度だけ。


 右の道を見る。


 そして。


 左へ。


 歩き始めた。


     ◇


 宿場へ着いた頃には、すっかり日が暮れていた。


 小さな集落だった。


 宿が二軒。


 食堂が一つ。


 馬小屋。


 道具屋。


 昔。


 もっと栄えていたらしい。


 今は。


 新しい街道から。


 少し外れている。


 旅人の数も。


 多くない。


 宿の主人へ。


 六人。


 名乗る。


 ガルムだけ。


 周囲を。


 少し気にしていた。


 村の名前。


 ここでは。


 言わない。


 目的地は。


「旧道の先」


 それだけ。


 宿の主人も。


 深くは聞かなかった。


「最近あっち行く奴いないぞ」


 食事を運びながら言う。


「猟師くらいだ」


「道標から右?」


 アルドが聞く。


「ああ」


「何がある?」


「何も」


 主人は。


 あっさり答える。


 ヴェスパーの匙が。


 止まる。


「何も?」


「森。古い道。もっと先は知らん」


「昔、村があったとか」


 宿の主人が。


 少し。


 考える。


「聞いたことはある」


 ガルムが。


 顔を上げる。


「どんな話」


「さあ」


 主人は。


 皿を置く。


「子どもの頃、あっち行くなって言われたくらいだ」


「何で」


「危ないからだろ。道も悪いし」


「それだけ?」


「たぶんな」


 主人は。


 肩をすくめる。


「昔の話なんか、詳しい爺さん連中はもう死んじまった」


「道標」


 ヴェスパーが言う。


「右の文字、削られてた」


 宿の主人が。


 一度。


 ヴェスパーを見る。


「昔からだぞ」


「いつから?」


「俺がガキの時には、もうああだった」


「何年前?」


「四十……いや、四十五くらいか」


 ヴェスパーと。


 ガルムが。


 同時に。


 顔を上げた。


 四十五年。


 それなら。


 二十四年前より。


 前。


「本当に?」


 イリスが。


 すぐ聞く。


「たぶんだぞ」


 主人は。


 少し困る。


「俺の記憶だ。ガキの頃、親父に『削られた石の先は行くな』って言われた」


 ヴェスパーは。


 ガルムを見る。


「でも」


 ガルムの顔。


 硬い。


「二十四年前」


 低く。


 言う。


「あそこには名前があった」


 宿の主人が。


 首を傾げる。


「見間違いじゃなく?」


 ガルムの目が。


 一瞬。


 鋭くなる。


 でも。


 老人の話。


 三本目の煙突。


 思い出す。


 怒らない。


「見間違いじゃねえと思ってる」


「そうか」


 主人も。


 それ以上。


 争わなかった。


「じゃあ、俺の覚え違いかもしれんな」


 二人。


 違う記憶。


 同じ道標。


 ヴェスパーは。


 食事へ。


 視線を落とした。


 名前を削られた。


 時期。


 そこまで。


 揺れる。


 それでも。


 石に。


 工具の痕が。


 残っている。


 誰かが。


 あの名前を。


 削った。


 その事実だけは。


 変わらない。


     ◇


 夜。


 ヴェスパーは。


 宿の外にある。


 小さな水場へ。


 出た。


 空。


 星。


 灰都より。


 少し。


 よく見える。


「眠れない?」


 後ろ。


 セレス。


「まだ寝る時間じゃないだろ」


「そうですか?」


「……ちょっとだけ」


「でしょうね」


 セレスは。


 隣に立つ。


「四十五年前」


 ヴェスパーが言う。


「宿の主人の記憶が正しければ」


「うん」


「ガルムは二十四年前に見た」


「うん」


「両方、正しいことってある?」


 セレスは。


 少し考える。


「同じ石を見ていない可能性もあります」


「場所は同じ」


「石が交換された可能性」


「あ」


「途中で一度削られ、後から書き直された可能性もあります」


「それも」


「宿の主人が年数を取り違えている可能性もあります」


「ガルムが?」


「それもあります」


「多いな」


「一つに決めなくていいからです」


 ヴェスパーが。


 少し笑う。


「最近、そればっかりだ」


「嫌ですか?」


「前は嫌だったかも」


「今は?」


「面倒」


「嫌より少し良くなりましたね」


「セレスまでそういうこと言う?」


「何のことです?」


「成長した、とか」


 セレスが。


 少し。


 笑う。


「言ってません」


「顔が言ってる」


「最近流行ってますね、それ」


 二人。


 少し笑う。


 そのあと。


 セレスが。


 静かに言う。


「明日」


「うん」


「無理に思い出そうとしないでください」


 ヴェスパーの笑いが。


 少し。


 消える。


「切り株の時みたいに?」


「はい」


「思い出した方がいいんじゃない?」


「自然に戻るなら、止めません。でも」


 セレスは。


 ヴェスパーを見る。


「戻らないものを、戻そうとして壊す必要はないでしょう」


 ガルムが。


 記憶を。


 切った。


 直接ではない。


 接続を。


 断った結果。


 欠けた。


 記憶。


「……分かった」


「本当に?」


「たぶん」


「そこは、たぶんでいいです」


 セレスは。


 宿へ戻る。


 ヴェスパーは。


 少しだけ。


 その場に残った。


 明日。


 道標。


 右。


 名前の。


 消えた道。


 その先。


 二十四年前。


 火。


 村。


 自分。


 答えが。


 あるかもしれない。


 ないかもしれない。


 あるものと。


 覚えているものが。


 違うかもしれない。


 それでも。


 行く。


 今は。


 それだけ。


 決めておけばいい。


     ◇


 同じ夜。


 宿の別室。


 ガルムは。


 一人。


 古い地図を。


 開いていた。


 道標。


 場所。


 間違っていない。


 二十四年前。


 確かに。


 見た。


 石。


 文字。


 村の名。


「……俺は」


 声。


 小さい。


 誰も。


 聞いていない。


「見た」


 言い切る。


 でも。


 三本目の煙突。


 老人。


 自分の記憶。


 手。


 地図。


 少し。


 震える。


 怖いのは。


 村に戻ることだけではなかった。


 二十四年間。


 守るために。


 隠してきた。


 記憶。


 それまで。


 違っていたら。


 自分は。


 何を。


 ヴェスパーへ。


 伝えてきた。


 ことになる。


 扉。


 二度。


 叩かれる。


「ガルム?」


 ヴェスパー。


 ガルムは。


 地図を。


 閉じない。


「何だ」


「水」


「自分で取りに行け」


「ここに水差しあるって主人が」


「入れ」


 扉。


 開く。


 ヴェスパーが。


 入る。


 地図。


 見る。


「まだ見てた?」


「ああ」


「俺も」


「何が」


「怖くなった」


 ガルムが。


 顔を上げる。


 ヴェスパーは。


 水差しを取りながら。


 言う。


「明日、何も覚えてる通りじゃなかったらって」


 ガルムは。


 少し。


 黙る。


「お前も?」


「『も』ってことは」


「うるせえ」


 ヴェスパーが。


 少し。


 笑う。


「じゃあ」


「何だ」


「明日、二人で見間違えるか」


 ガルムが。


 本気で。


 嫌そうな顔をした。


「何だその言い方」


「一人よりいいだろ」


「全然よくねえ」


「でも」


 ヴェスパーは。


 水差し。


 持つ。


「違ったら違ったで、一緒に見ればいい」


 ガルムは。


 返事を。


 しなかった。


 ヴェスパーも。


 待たない。


「おやすみ」


「ああ」


 扉。


 閉じる。


 ガルムは。


 もう一度。


 地図を見る。


 削られた。


 道標。


 そこから。


 右。


 記憶の中では。


 村へ。


 続く。


 道。


 明日。


 そこを。


 もう一度。


 歩く。


 今度は。


 一人で。


 幼いヴェスパーを。


 抱えて逃げるためではない。


 大人になった。


 本人と。


 一緒に。


 戻るために。


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