第3章 第44話 「削られた道標」
灰都の西門が見えなくなるまで、ヴェスパーは一度も振り返らなかった。
振り返らないと決めていたわけではない。ただ、朝の街道には思っていた以上に人の往来があり、荷車を避けたり、アルドの示す道を確認したりしているうちに、気付けば城壁は遠くなっていた。
やがて街道が低い丘を回り込み、灰都の塔も完全に見えなくなる。
「もう見えないぞ」
レイラが言った。
「何が?」
「灰都」
「分かってる」
「振り返らなかったな」
ヴェスパーが横を見る。
「見てたのか?」
「暇だから」
「歩き始めてまだ一時間も経ってないぞ」
「だから暇なんだろ」
「どういう理屈だよ」
先頭を歩いていたアルドが振り返りもせずに言う。
「暇なら荷物を持って」
「持ってる」
「もう一つ」
「お前、昨日から私に厳しくない?」
「荷物を減らせと言ったのに保存食を増やしたから」
「食べ物は必要だろ」
「六人分を一人で三日余計に持つ必要はない」
「もし足りなくなったら?」
「宿場がある」
「潰れてたら?」
「予備は全員に分けてある」
「敵に襲われたら?」
「食料を守る前に自分を守って」
レイラが口を開き。
少し考え。
「……正論ばっかり言うなよ」
「仕事だから」
イリスが後ろで笑った。
王都への旅とは違う。
あの時は先に何があるか分からず、誰もがどこか張り詰めていた。今も目的地に不安がないわけではないが、灰都から半日の範囲は日常的に商人や巡回隊が使う道だ。
畑もある。
荷車も通る。
途中には石工たちの小さな作業場があり、朝から槌の音が響いていた。
ヴェスパーが二十四年間近付かなかった故郷へ向かっていることなど、街道を歩く他人には関係ない。
その当たり前さが、ありがたかった。
◇
昼前には、南東の第二監視所へ着いた。
石造りの小さな詰所と、馬を休ませるための柵。街道脇には井戸があり、旅人用に長椅子まで置かれている。
ハルトから出発届が届いていたらしく、当番の門衛はヴェスパーたちの顔を見るなり帳面を開いた。
「六名。灰都発、南東方面。帰還日未定」
「そこまで書いてあるんだ」
ヴェスパーが言う。
「ハルトさんの字です」
「分かる?」
「読みにくいから」
「本人に言っていい?」
「やめてください」
門衛は真顔だった。
ヴェスパーは笑いながら署名欄へ現在の名を書く。
ガルムが隣から覗く。
「雑だな」
「あんたに言われたくない」
「俺の方が読める」
「本当?」
門衛が二人の字を見比べる。
「……同じくらいです」
「ほら」
「余計なこと言うな」
レイラが声を上げて笑った。
イリスとセレスも記入を済ませ、最後にアルドが現在の道路状況を尋ねた。
「旧街道への分岐、最近誰か通った?」
門衛が帳面とは別の紙束を探す。
「南の猟師が四日前に。あと、薬草採りが一組」
「崩落は?」
「大きいものは聞いてません。ただ昨日の雨で、低地はぬかるんでるかもしれないです」
「橋は?」
「どの橋です?」
アルドが古地図を開き、街道から南へ外れた位置を示した。
「この川」
門衛が首を傾げる。
「橋なんてありました?」
ガルムの視線が地図へ落ちた。
「昔はあった」
「かなり昔?」
「二十四年」
「ああ……」
門衛は少し申し訳なさそうな顔をする。
「それなら俺が生まれる前ですね」
「言わなくていい」
「何がです?」
「歳を実感する」
ガルムの返しに、レイラがまた笑う。
だがアルドは地図から目を離さなかった。
「川自体は?」
「あります。今の街道は少し上流で渡るんで、そっちの古い道は使わないですね」
「渡れる?」
「水量次第です。昨日の雨がありますから、現地で判断してください」
「分かった」
必要な情報を聞き終えると、一行は監視所の脇で早めの昼食を取ることにした。
干し肉。
硬いパン。
そして菓子屋から持たされた焼き菓子。
レイラが包みを開き、目を輝かせる。
「これ、全部食べていい?」
「六人分」
イリスが言った。
「六人で全部食べるんだろ?」
「一人で全部食べる顔してた」
「してない」
「してた」
セレスまで加わる。
レイラは不満そうにしながら、一枚だけ取った。
「名前のない奴、これ好きなんだっけ」
ガルムが焼き菓子を見る。
「硬いやつな」
ヴェスパーが答える。
「最近は柔らかいのも好きらしいけど」
「随分詳しくなったな」
「店に行ってるから」
「お前、甘いのそんな好きだったか?」
「嫌いじゃない」
「昔は干し肉ばっか食ってたぞ」
「子どもの頃の話だろ」
「十五くらいでも」
「十分昔だよ」
言い返してから。
ヴェスパーは少しだけ。
言葉に引っ掛かった。
昔。
その言葉を口にしても。
思い浮かぶのは。
ガルムと過ごした日々ばかりだ。
五歳より前。
村にいた頃。
そちらは。
まだ穴が空いている。
「どうしました?」
セレスが気付く。
「いや」
ヴェスパーは焼き菓子を一口齧った。
「硬いなと思って」
「今さら?」
イリスが笑う。
「歯折るなよ」
ガルム。
「そこまでじゃない」
ヴェスパーも笑った。
今日は。
まだ。
それでいい。
◇
監視所を出てから二時間ほどで、街道の景色が変わり始めた。
畑が減る。
道幅も少し狭くなる。
低い丘と雑木林が増え、人家はほとんど見えなくなった。
アルドが一度足を止める。
「次の分岐から南」
そこには。
道と呼ぶには心許ない。
草に半分埋もれた細い筋があった。
「これ?」
レイラが顔をしかめる。
「旧街道」
「街道ってもっと道らしいものじゃないのか」
「使われなくなればこうなる」
アルドは地面へしゃがみ、草を分けた。
下には平らな石がある。
かなり古い。
だが。
確かに人が敷いたものだった。
「こっちで合ってる?」
ヴェスパーがガルムを見る。
ガルムは周囲を見回している。
北。
南。
木々。
丘。
「……ああ」
返事が。
わずかに遅れた。
「本当に?」
「たぶん」
レイラが目を丸くする。
「ガルムがたぶんって言った」
「何だよ」
「いや。珍しいなって」
「二十四年経ってんだぞ」
ガルムは少し苛立ったように言った。
ヴェスパーには。
その苛立ちの向きが。
レイラではなく。
自分自身へ向いているように見えた。
「道が変わってても普通だろ」
ヴェスパーが言う。
「分かってる」
「煙突の爺さんも」
「分かってるって言ってんだろ」
少し強い。
ヴェスパーは。
そこで止めた。
ガルムが。
先に旧道へ入る。
アルドはその後ろ。
ヴェスパーたちも続く。
草。
湿った土。
昨日の雨がまだ残っている。
道は。
ゆるやかに。
森の中へ消えていた。
◇
使われなくなった道は、思っていた以上に歩きにくかった。
石畳は部分的に崩れ、木の根が道を持ち上げている。低い場所には雨水が溜まり、アルドが杖で地面の深さを確かめなければならない場所もあった。
レイラが一度、泥へ足を突っ込んだ。
「深っ!」
「そこ避けてって言った」
「聞こえなかった!」
「言った」
「小さいんだよ声!」
「普通」
「普通じゃない!」
片足を泥から抜く。
靴。
半分。
茶色。
「最悪だ……」
レイラが本気で落ち込む。
イリスが笑いながら。
「川で洗えるよ」
「橋あるんだろ?」
「昔はな」
ガルムの返事。
レイラが。
「今ない可能性あるのか……」
と、さらに落ち込んだ。
セレスは。
転ばないよう。
足元を確認しながら歩いている。
「レイラ」
「何」
「靴の中まで濡れてます?」
「ちょっと」
「止まった時に替えてください」
「替えある」
「珍しく準備いいね」
ヴェスパーが言う。
「誰が持たせたと思ってんだ」
ガルム。
「ガルム?」
「俺じゃねえ」
「じゃあ誰」
アルドが。
前を向いたまま。
「俺」
レイラが。
何とも言えない顔。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
「何か負けた気がする」
「誰と戦ってるんだよ」
ヴェスパーが笑う。
その時。
ガルムが。
突然。
足を止めた。
◇
「どうした?」
ヴェスパーが。
前を見る。
ガルムは。
道ではなく。
右側の森を見ていた。
「ここ」
「何?」
「昔」
少し。
言葉を探す。
「杉があった」
レイラが周囲を見る。
「木ならいっぱいあるぞ」
「でかい杉だ」
ガルムが。
腕を。
広げる。
「三人で囲っても届かないくらいの」
「なくなった?」
「ないな」
周囲は。
若い雑木。
古くても。
二、三十年。
それより前の木もあるが。
ガルムが言うほどの巨木は。
見当たらない。
「切られたんじゃない?」
イリスが言う。
「かもな」
ガルムは。
道の脇へ。
少し入る。
「確かこの辺に」
土。
落ち葉。
低木。
探す。
アルドも。
少し離れたところで。
地面を見る。
「ガルム」
「何だ」
「これ?」
指差した場所。
大きな。
古い切り株。
ただし。
地面と。
ほとんど一体化している。
苔。
腐食。
中は。
半分。
土へ戻っていた。
ガルムが。
しゃがむ。
手。
置く。
「……これだ」
「分かる?」
ヴェスパーが尋ねる。
「傷」
ガルムが。
切り株の横。
僅かに残った木肌を。
指でなぞる。
「昔、ここで剣の練習した」
「木で?」
「違う。俺じゃない」
ヴェスパーの胸が。
少し。
動く。
「誰」
ガルムは。
手を止めた。
「お前の母親」
風。
葉。
一瞬。
それだけ。
聞こえる。
「ここまで来てた?」
「あいつの村から灰都方面へ行くなら、昔はこの道を使った」
「じゃあ」
ヴェスパーは。
切り株を見る。
自分も。
ここを。
通ったことがあるのか。
「俺も来た?」
「分からん」
ガルムは。
素直に答えた。
「子どもの頃のお前とここで会った記憶はない」
「そっか」
「でも」
「何」
「お前の母親とは、何度もここ通った」
ヴェスパーは。
もう一度。
切り株へ。
手を置いた。
何か。
思い出すか。
期待する。
でも。
何もない。
匂いも。
音も。
景色も。
自分の中へ。
戻ってこない。
「……何も思い出さない」
思わず。
声になる。
ガルムが。
横を見る。
「そうか」
「それだけ?」
「何を言えってんだ」
「こういう場所来たら、何か戻ると思ってた」
「誰が?」
「俺が」
ガルムは。
少し。
考える。
「なら」
立ち上がる。
「戻らなかったって分かったな」
ヴェスパーが。
少し。
眉を寄せる。
「慰め下手だな」
「慰めてねえ」
「分かってる」
でも。
少しだけ。
楽になった。
思い出さない自分が。
間違っているわけではない。
今は。
ただ。
何も戻らなかった。
それだけ。
◇
道を再び進み始める。
森。
少しずつ。
深くなる。
日差しも。
弱くなる。
途中。
アルドが古い排水溝を見つけた。
「道としては合ってる」
ガルムが。
少し。
肩の力を抜く。
「疑ってた?」
レイラが聞く。
「お前は黙って歩け」
「絶対疑ってた」
「レイラ」
セレスが。
静かに。
名前を呼ぶ。
「はい」
レイラは。
少しだけ。
おとなしくなった。
ヴェスパーが笑う。
「セレス強いな」
「今さら?」
イリスも笑った。
午後。
日が傾き始める頃。
旧道は。
一度。
森から出た。
目の前に。
浅い谷。
その下。
川。
そして。
「橋」
レイラが。
ほっとした声を出す。
確かに。
橋は。
あった。
ただし。
ガルムが覚えていたものではない。
「石じゃない」
ガルムが言う。
今あるのは。
太い木材を渡した。
簡素な橋。
比較的新しい。
「猟師用か」
アルドが。
橋の端を確認する。
「補修はされてる」
「渡れる?」
「一人ずつなら」
レイラが。
橋を見て。
自分。
見る。
「私も?」
「特に」
「分かったよ!」
アルドが。
最初。
渡る。
中央。
少し。
沈む。
でも。
問題ない。
次。
セレス。
イリス。
ヴェスパー。
ガルム。
最後に。
レイラ。
「斧置いていけ」
「一本しかない!」
「渡ってから取る」
「信用しろ!」
「橋を信用してない」
「私じゃない?」
「両方」
「アルド!」
結局。
レイラは。
斧を。
ヴェスパーへ投げる。
「落とすなよ!」
「投げるな!」
受け取る。
重い。
ヴェスパーが。
よろける。
「重っ」
「軽いだろ!」
「感覚おかしいよ!」
レイラも。
無事に渡る。
橋の向こう。
全員揃う。
「次から川飛ぶ」
レイラが言う。
「やめて」
セレスが。
即答した。
◇
川を越えると。
道は。
二つに分かれていた。
左。
やや広い。
右。
ほとんど。
草に埋もれている。
中央。
古い。
石の道標。
「これ」
アルドが。
足を止める。
高さ。
腰ほど。
四角い。
表面は。
風雨で。
かなり削れている。
それでも。
左側の面には。
文字が残っている。
「南の宿場」
イリスが読む。
「距離は……四里?」
「昔の単位だな」
ガルム。
右側。
ヴェスパーが。
見る。
そこにも。
本来。
何か。
書かれていた。
はず。
でも。
読めない。
「削れてる?」
レイラが。
顔を近付ける。
アルドが。
指で。
表面をなぞる。
「違う」
「何が」
「自然に削れたんじゃない」
ヴェスパーが。
道標へ。
近付く。
右面。
他の場所とは。
削れ方が違う。
文字があった部分だけ。
深く。
斜めに。
削り取られている。
何度も。
硬い道具を。
打ち付けた痕。
「誰かが消した?」
イリスの声。
アルドが頷く。
「意図的に」
ヴェスパーが。
ガルムを見る。
男は。
道標を。
見たまま。
動かなかった。
「ここ」
ヴェスパーが聞く。
「何て書いてあった?」
返事が。
ない。
「ガルム」
「あの村だ」
低い声。
「右へ行けば」
道標。
削られた面。
「お前の村だった」
◇
イリスが。
反射的に。
記録紙を出しかけ。
止めた。
「写していい?」
ヴェスパーではなく。
ガルムへ聞く。
「名前は残ってねえ」
「傷だけ」
「それなら」
ガルムが頷く。
「いい」
イリスは。
道標の形。
削られた範囲。
工具痕。
周囲の状態。
必要なところだけ。
写す。
「いつ削られたか分かる?」
ヴェスパーが。
アルドへ聞く。
「正確には無理」
「二十四年前?」
「可能性はある」
「もっと後?」
「それもある」
アルドは。
石の隙間へ。
土。
苔。
見る。
「古い。少なくとも最近ではない」
「火事の後?」
「だから分からない」
ガルムが。
無言。
道標へ。
手を。
伸ばす。
削られた面。
触れる。
「これ」
ヴェスパーが。
男の横顔を見る。
「知ってた?」
「知らん」
「最後に通った時は?」
ガルムが。
少し。
目を細める。
「書いてあった」
「村が燃えた日?」
「ああ」
「帰りも?」
そこで。
ガルムが。
止まる。
ヴェスパーを。
見る。
「帰りは」
声が。
少し。
低くなる。
「道標なんか見てねえ」
幼い。
ヴェスパーを。
抱え。
燃えている村から。
逃げた。
その夜。
後ろで。
何が起きていたのか。
道のどこを。
通ったのか。
確認する余裕。
あったはずがない。
「じゃあ」
ヴェスパーは。
道標を見る。
「その後、誰かが消した」
「可能性が高い」
イリス。
「誰が」
「分からない」
今度は。
ヴェスパーが。
自分で。
先に言った。
イリスが。
少しだけ。
頷く。
「そう」
黒翼の前身。
研究組織。
村の生存者。
役人。
別の誰か。
考えれば。
いくらでも。
候補は出る。
今は。
どれも。
証拠がない。
「名前を隠すため?」
レイラが聞く。
誰も。
すぐには。
答えない。
「灰星から?」
もう一度。
レイラ。
ガルムが。
削られた石へ。
視線を置いたまま。
「そうかもしれねえ」
「じゃあ味方?」
「そうとも限らん」
ヴェスパーが。
答える。
「場所そのものを消したかったかもしれない」
ガルムが。
彼を見る。
ヴェスパーも。
道標を見る。
右。
草に。
埋もれた道。
二十四年前。
そこへ。
人が。
普通に。
行き来していた。
今は。
行き先の名前すら。
石から。
消されている。
「行く?」
セレスが。
静かに。
ヴェスパーへ聞いた。
問いの意味。
分かる。
ここで。
戻っても。
いい。
名前を。
削られた。
村。
何が。
待っているか。
分からない。
ヴェスパーは。
草に埋もれた。
右の道を見る。
「今日は宿場まで行く」
レイラが。
少し驚く。
「村の道見つけたのに?」
「ああ」
空。
見る。
日が。
落ち始めている。
「暗くなる前に入るのは嫌だ」
アルドが。
すぐ頷く。
「賛成。旧道はさらに悪い可能性がある」
イリスも。
記録をしまう。
「明日の朝なら明るい」
レイラは。
少し。
不満そうだった。
でも。
「分かった」
反対しなかった。
ガルムも。
何も言わない。
「宿場は左?」
ヴェスパーが聞く。
アルドが地図を見る。
「今夜は左。明朝ここまで戻って右」
「面倒だな」
レイラ。
「野宿する?」
セレスが聞く。
「左行こう」
「早いね」
「風呂あるかもしれない」
「靴洗いたいだけだろ」
「それもある」
一行は。
道標を離れる。
ヴェスパーは。
最後。
一度だけ。
右の道を見る。
そして。
左へ。
歩き始めた。
◇
宿場へ着いた頃には、すっかり日が暮れていた。
小さな集落だった。
宿が二軒。
食堂が一つ。
馬小屋。
道具屋。
昔。
もっと栄えていたらしい。
今は。
新しい街道から。
少し外れている。
旅人の数も。
多くない。
宿の主人へ。
六人。
名乗る。
ガルムだけ。
周囲を。
少し気にしていた。
村の名前。
ここでは。
言わない。
目的地は。
「旧道の先」
それだけ。
宿の主人も。
深くは聞かなかった。
「最近あっち行く奴いないぞ」
食事を運びながら言う。
「猟師くらいだ」
「道標から右?」
アルドが聞く。
「ああ」
「何がある?」
「何も」
主人は。
あっさり答える。
ヴェスパーの匙が。
止まる。
「何も?」
「森。古い道。もっと先は知らん」
「昔、村があったとか」
宿の主人が。
少し。
考える。
「聞いたことはある」
ガルムが。
顔を上げる。
「どんな話」
「さあ」
主人は。
皿を置く。
「子どもの頃、あっち行くなって言われたくらいだ」
「何で」
「危ないからだろ。道も悪いし」
「それだけ?」
「たぶんな」
主人は。
肩をすくめる。
「昔の話なんか、詳しい爺さん連中はもう死んじまった」
「道標」
ヴェスパーが言う。
「右の文字、削られてた」
宿の主人が。
一度。
ヴェスパーを見る。
「昔からだぞ」
「いつから?」
「俺がガキの時には、もうああだった」
「何年前?」
「四十……いや、四十五くらいか」
ヴェスパーと。
ガルムが。
同時に。
顔を上げた。
四十五年。
それなら。
二十四年前より。
前。
「本当に?」
イリスが。
すぐ聞く。
「たぶんだぞ」
主人は。
少し困る。
「俺の記憶だ。ガキの頃、親父に『削られた石の先は行くな』って言われた」
ヴェスパーは。
ガルムを見る。
「でも」
ガルムの顔。
硬い。
「二十四年前」
低く。
言う。
「あそこには名前があった」
宿の主人が。
首を傾げる。
「見間違いじゃなく?」
ガルムの目が。
一瞬。
鋭くなる。
でも。
老人の話。
三本目の煙突。
思い出す。
怒らない。
「見間違いじゃねえと思ってる」
「そうか」
主人も。
それ以上。
争わなかった。
「じゃあ、俺の覚え違いかもしれんな」
二人。
違う記憶。
同じ道標。
ヴェスパーは。
食事へ。
視線を落とした。
名前を削られた。
時期。
そこまで。
揺れる。
それでも。
石に。
工具の痕が。
残っている。
誰かが。
あの名前を。
削った。
その事実だけは。
変わらない。
◇
夜。
ヴェスパーは。
宿の外にある。
小さな水場へ。
出た。
空。
星。
灰都より。
少し。
よく見える。
「眠れない?」
後ろ。
セレス。
「まだ寝る時間じゃないだろ」
「そうですか?」
「……ちょっとだけ」
「でしょうね」
セレスは。
隣に立つ。
「四十五年前」
ヴェスパーが言う。
「宿の主人の記憶が正しければ」
「うん」
「ガルムは二十四年前に見た」
「うん」
「両方、正しいことってある?」
セレスは。
少し考える。
「同じ石を見ていない可能性もあります」
「場所は同じ」
「石が交換された可能性」
「あ」
「途中で一度削られ、後から書き直された可能性もあります」
「それも」
「宿の主人が年数を取り違えている可能性もあります」
「ガルムが?」
「それもあります」
「多いな」
「一つに決めなくていいからです」
ヴェスパーが。
少し笑う。
「最近、そればっかりだ」
「嫌ですか?」
「前は嫌だったかも」
「今は?」
「面倒」
「嫌より少し良くなりましたね」
「セレスまでそういうこと言う?」
「何のことです?」
「成長した、とか」
セレスが。
少し。
笑う。
「言ってません」
「顔が言ってる」
「最近流行ってますね、それ」
二人。
少し笑う。
そのあと。
セレスが。
静かに言う。
「明日」
「うん」
「無理に思い出そうとしないでください」
ヴェスパーの笑いが。
少し。
消える。
「切り株の時みたいに?」
「はい」
「思い出した方がいいんじゃない?」
「自然に戻るなら、止めません。でも」
セレスは。
ヴェスパーを見る。
「戻らないものを、戻そうとして壊す必要はないでしょう」
ガルムが。
記憶を。
切った。
直接ではない。
接続を。
断った結果。
欠けた。
記憶。
「……分かった」
「本当に?」
「たぶん」
「そこは、たぶんでいいです」
セレスは。
宿へ戻る。
ヴェスパーは。
少しだけ。
その場に残った。
明日。
道標。
右。
名前の。
消えた道。
その先。
二十四年前。
火。
村。
自分。
答えが。
あるかもしれない。
ないかもしれない。
あるものと。
覚えているものが。
違うかもしれない。
それでも。
行く。
今は。
それだけ。
決めておけばいい。
◇
同じ夜。
宿の別室。
ガルムは。
一人。
古い地図を。
開いていた。
道標。
場所。
間違っていない。
二十四年前。
確かに。
見た。
石。
文字。
村の名。
「……俺は」
声。
小さい。
誰も。
聞いていない。
「見た」
言い切る。
でも。
三本目の煙突。
老人。
自分の記憶。
手。
地図。
少し。
震える。
怖いのは。
村に戻ることだけではなかった。
二十四年間。
守るために。
隠してきた。
記憶。
それまで。
違っていたら。
自分は。
何を。
ヴェスパーへ。
伝えてきた。
ことになる。
扉。
二度。
叩かれる。
「ガルム?」
ヴェスパー。
ガルムは。
地図を。
閉じない。
「何だ」
「水」
「自分で取りに行け」
「ここに水差しあるって主人が」
「入れ」
扉。
開く。
ヴェスパーが。
入る。
地図。
見る。
「まだ見てた?」
「ああ」
「俺も」
「何が」
「怖くなった」
ガルムが。
顔を上げる。
ヴェスパーは。
水差しを取りながら。
言う。
「明日、何も覚えてる通りじゃなかったらって」
ガルムは。
少し。
黙る。
「お前も?」
「『も』ってことは」
「うるせえ」
ヴェスパーが。
少し。
笑う。
「じゃあ」
「何だ」
「明日、二人で見間違えるか」
ガルムが。
本気で。
嫌そうな顔をした。
「何だその言い方」
「一人よりいいだろ」
「全然よくねえ」
「でも」
ヴェスパーは。
水差し。
持つ。
「違ったら違ったで、一緒に見ればいい」
ガルムは。
返事を。
しなかった。
ヴェスパーも。
待たない。
「おやすみ」
「ああ」
扉。
閉じる。
ガルムは。
もう一度。
地図を見る。
削られた。
道標。
そこから。
右。
記憶の中では。
村へ。
続く。
道。
明日。
そこを。
もう一度。
歩く。
今度は。
一人で。
幼いヴェスパーを。
抱えて逃げるためではない。
大人になった。
本人と。
一緒に。
戻るために。




