第3章 第42話 「旅支度」
ヴェスパーが本格的に旅支度を始めたのは、三本目の煙突について聞いた翌朝だった。
灰都の西門詰所では、アルドが古い街道図と現在使われている地図を机いっぱいに広げている。二枚を重ねることはできない。道そのものが変わり、消えた集落もあれば、新しく出来た町もあるからだ。
そのためアルドは、両方の地図を何度も見比べながら、使えそうな道へ細い炭筆で印を付けていた。
「ここまでは今の街道を使える」
アルドの指が、灰都から南東へ延びる太い線をなぞった。
「途中の宿場で一泊。翌朝、この分岐から旧街道へ入る。ただし、馬車が使えるのはこの辺までだと思う」
「思う?」
レイラが机越しに覗き込む。
「確認してないから」
「アルドでも分からないことあるんだな」
「ある」
「もっと悔しそうにしろよ」
「どうして」
「反応が薄い」
アルドはレイラを無視して地図へ戻った。
ヴェスパーもその横から道を追う。
「ここから村まで、どれくらいだ」
「ガルムの記憶が正しければ、徒歩で半日程度。ただし二十四年前の話だ」
机の反対側にいたガルムが鼻を鳴らした。
「正しければ、って何だ」
「昨日、三本目の煙突の話を聞いたばかりだから」
「……嫌な言い方覚えやがったな」
「必要な確認」
アルドは表情を変えない。
レイラが楽しそうに笑う。
「ガルム、負けてるぞ」
「何の勝負だ」
ヴェスパーは二人を横目に、古い地図へ視線を落とした。
その先に、村の名は書かれていない。
正確には、ガルムがそこだけ指で隠していた。
「そこまでやる必要あるか?」
ヴェスパーが言う。
「ある」
返事は短かった。
「地図に残ってる名前まで駄目?」
「今はな」
「灰星が辿るかもしれないから?」
「ああ」
「でも俺は場所へ行く」
「場所へ行くのと、名前を呼ぶのは別だ」
ヴェスパーは口を閉じた。
納得したというより、今ここで押しても答えは変わらないと分かったからだ。
ガルムもそれ以上は説明しない。
以前なら、その態度だけで腹が立っていたかもしれない。今も、まったく腹が立たないわけではない。
ただ。
話さないことと、勝手に決めることは違う。
少なくともガルムは、今回は自分の目の前で理由を言っている。
「日程は?」
アルドが尋ねた。
ヴェスパーは地図から顔を上げた。
「明日じゃ早い?」
「俺は構わない」
レイラが即答する。
「お前には聞いてない」
「何で!」
「聞くまでもないから」
「なら最初からそう言え!」
アルドは二人のやり取りが終わるのを待ってから続けた。
「装備の確認に一日欲しい。旧街道の入口までは、今日中に巡回隊から情報を集められる」
「じゃあ」
ヴェスパーは少し考える。
「明後日」
口に出すと。
思っていたより現実味があった。
二十四年間、一度も戻らなかった場所へ。
明後日。
向かう。
「それでいい」
ガルムが言った。
「……あんたも来るんだな」
「誰が案内する」
「地図だけ置いて逃げるかと思った」
「やっぱりやめるか」
「来いよ」
「命令すんな」
ヴェスパーは一度黙り。
それから。
「一緒に来てくれ」
と言い直した。
ガルムは。
ほんの少しだけ。
視線を逸らした。
「何回言わせる」
「まだちゃんと返事聞いてない」
「面倒な奴だな」
「誰に育てられたと思ってる」
「勝手に育った」
「それ便利すぎない?」
レイラが笑う。
ガルムは無視した。
「行く」
それだけ。
今度は。
はっきり答えた。
◇
問題は、誰が同行するかだった。
「全員で行く必要はない」
そう言ったのはセレスだった。
昼前、宿の食堂に集まった一行へ、ヴェスパーが明後日に出る予定を伝えた直後のことだ。
リクもいる。
今日は体調が良く、自分で食堂まで歩いてきた。ただしセレスからは、帰りは無理をしないよう先に言われている。
ノアは木の狼を机の隅に置き、話を聞いていた。
イリスの前には紙がある。
けれど今は何も書いていない。
「村まで行くなら、途中から馬車が使えないんだよね?」
セレスがアルドへ確認する。
「おそらく」
「道の状態によっては?」
「担架は使える。だが長距離を運ぶ前提にはしたくない」
その言葉で。
リクが自分の足を見る。
ヴェスパーは、その小さな動きを見逃さなかった。
「リク」
「何」
「行きたい?」
食堂が少し静かになった。
リクが顔を上げる。
「……俺に聞くの?」
「うん」
「行けるかじゃなくて?」
「それは後でセレスに聞く」
リクは。
すぐには答えなかった。
自分の膝の上で。
指を組む。
「行きたい」
「何で?」
「黒翼と関係あるかもしれないから」
ヴェスパーは待つ。
それだけではない顔をしている。
リク自身も。
少ししてから続きを話した。
「村に、先生たちより前の研究の跡があるかもしれないんだろ」
「ああ」
「だったら、俺が見れば分かるものもあるかもしれない」
「役に立ちたい?」
アステルが静かに尋ねる。
リクは。
少しだけ。
嫌そうな顔をした。
「それだけじゃない」
「では?」
「……みんなが行くのに」
声が。
少し小さくなる。
「俺だけ残るのが嫌」
誰も。
すぐに言葉を返さなかった。
「置いていかれる感じ?」
ノアが尋ねる。
リクは頷く。
「また会えるって分かってても?」
「ああ」
「僕も前、ちょっとそうだった」
「いつ」
「みんな別々に動いてた時」
ノアは木の狼へ指を置く。
「誰かが出ていくと、戻ってくるって言われても不安になる」
リクがノアを見る。
「今は?」
「少し平気」
「何で」
ノアは考えた。
「本当に戻ってきたから」
王都。
観測所。
灰都。
何度も。
誰かが別の場所へ行き。
戻ってきた。
「最初から信じられた?」
「無理」
ノアの返事は早かった。
「だからリクもすぐ平気にならなくていいと思う」
リクは。
小さく息を吐いた。
セレスがそこで口を開く。
「医療的な話をしてもいいですか?」
「うん」
「現在の体力では、旧街道以降の徒歩移動は勧められません」
リクの顔が曇る。
セレスは。
それを見ても。
曖昧にはしなかった。
「街道区間だけであれば、休憩を多く取れば可能です。ただ、その先は道の状態が分からない。もし無理をして体調を崩せば、リク自身がつらいだけではなく、帰路も難しくなります」
「じゃあ行けない?」
「今の予定通りなら」
セレスは頷いた。
「私は勧めません」
「……そっか」
リクは。
それだけ言った。
誰かが慰める前に。
「じゃあ」
ヴェスパーが言う。
リクが顔を上げる。
「明後日は行かない?」
「ヴェスパー」
イリスが少し驚く。
でも。
ヴェスパーは続けた。
「俺が決めるんじゃなくて」
リクへ戻す。
「セレスの話を聞いて、それでも行きたい?」
リクは。
長く。
考えた。
行きたい。
その気持ちは。
なくなっていない。
でも。
歩けないのも。
分かっている。
「……行きたい」
「ああ」
「でも」
唇を。
少し噛む。
「今行ったら、たぶん迷惑かける」
「迷惑って決めなくていい」
「でも止まるだろ」
ヴェスパーは返せなかった。
止まる。
たぶん。
止まる。
それが悪いわけではない。
けれど。
リクは。
自分が何を嫌がっているのか。
少しずつ。
言葉にしている。
「俺のために遅くなるのは」
リクが続ける。
「嫌」
「じゃあ」
ヴェスパーは。
今度は。
急がなかった。
「残る?」
リクの指が。
少しだけ。
強く組まれる。
「……残る」
それは。
嬉しそうな選択ではなかった。
でも。
自分で。
答えた。
◇
昼食の後。
リクは宿の外にある低い石段へ座っていた。
日差しは暖かい。
風は少し冷たい。
ヴェスパーは。
食堂から出てきたところで。
その姿を見つけた。
「隣いい?」
リクが顔を上げる。
「うん」
ヴェスパーは一段下へ腰を下ろした。
「怒ってる?」
「誰に」
「俺たち」
「……分からない」
「そっか」
しばらく。
二人とも。
何も言わなかった。
通りでは。
木材を積んだ荷車が。
ゆっくり通る。
「行きたかった」
リクが言った。
「ああ」
「今も」
「うん」
「でも残るって言った」
「聞いた」
「それで」
リクの声が。
少し。
不安定になる。
「本当に置いてかれるみたいになった」
ヴェスパーは。
そこで。
何かを否定しようとして。
やめた。
本人が。
そう感じている。
「じゃあ」
少し考える。
「帰ってきた時、最初にお前のところ行く」
リクが顔を上げた。
「最初?」
「宿に着いたら」
「セレスより?」
「セレスが一緒に行くならな」
「あ」
そこまで。
考えていなかったらしい。
ヴェスパーが笑う。
「誰が行くかまだ全部決めてない」
「そっか」
「でも、俺は戻ったらお前に話す」
「何を?」
「見たもの」
「全部?」
「話せる範囲で」
「何で全部じゃない」
「俺にも嫌なことあるかもしれないだろ」
リクが。
少し。
考える。
「……そうか」
「お前も、俺がいない間に何かあったら、全部話さなくていい」
「でも」
「話したいことだけでいい」
「それでいい?」
「ああ」
リクの肩から。
少しだけ。
力が抜けた。
「帰ってくる?」
「ああ」
「約束?」
ヴェスパーは。
その言葉を。
軽く扱わなかった。
観測所。
ガルム。
帰ってこい。
自分が。
誰かへ。
言った。
だから。
今度は。
「約束する」
答えた。
◇
その日の午後。
リクは菓子屋へ行った。
散歩の途中ということにしていたが、実際には昨日から少し気になっていた。
名前のない青年は、ちょうど店先で包み紙を折っていた。
「リク」
「仕事?」
「うん」
「忙しい?」
「今は少し暇」
店主が奥から口を挟む。
「暇じゃねえぞ。次の箱折れ」
「でも話す時間はある」
「勝手に決めるな!」
青年は。
店主の声を。
もう半分くらい。
日常の音として聞いている。
「座る?」
「うん」
リクは店先の長椅子へ腰を下ろした。
青年も。
仕事台の横へ立ったまま。
包み紙を折る。
「明後日」
リクが言う。
「ヴェスパーたち、村行く」
「知ってる」
「聞いた?」
「ヴェスパーが昨日来た」
「何て?」
「行くかって」
リクが。
少し驚く。
「お前も?」
「ああ」
「行く?」
「行かない」
返事は。
迷いがなかった。
「何で」
青年は。
紙の角を合わせる。
「仕事ある」
「それだけ?」
「本の続きも読む」
「……それだけ?」
青年が。
手を止めた。
リクを見る。
「駄目?」
「違う」
リクは。
自分の方が。
変なことを聞いた気がした。
「村、君の火と関係あるかもしれないんだろ」
「うん」
「知りたくない?」
「知りたい」
「じゃあ」
「でも今行きたくない」
青年は。
言葉を。
以前より。
少し長く使うようになっていた。
「俺は、ここでやってることがまだ途中だから。仕事も、文字も。窓の線も分からない。それ全部置いて、知らない場所へ行くのは今は嫌」
リクは。
黙って聞く。
「ヴェスパーには言った?」
「言った」
「何て」
「分かったって」
「それだけ?」
「『帰ってくる』って」
青年は。
少し笑った。
「俺、店主に言われた」
「何を」
「帰ってくる奴がいるなら、残る奴も店開けなきゃ駄目だって」
奥から。
「そんな格好よく言ってねえぞ!」
と声が飛ぶ。
青年が。
少し。
首を傾げる。
「似たこと言った」
「『客来るから店閉めるな』って言ったんだよ!」
「だいたい同じ」
「全然違う!」
リクが。
思わず笑った。
青年も。
笑う。
「リクは?」
「俺?」
「行く?」
笑いが。
少し。
消える。
「行かない」
「行きたくない?」
「行きたい」
青年が。
包み紙を置く。
「じゃあ何で」
「歩けないから」
それを口にすると。
やっぱり。
少し悔しい。
「今は」
青年が言った。
リクが見る。
「何?」
「今は歩けない」
「……うん」
「店主も、最初俺に包み紙やらせなかった」
「それと一緒?」
「分からない」
青年は。
少し考える。
「でも、今はやる」
リクが。
青年の手元を見る。
最初に会った時より。
包み紙の折り目は。
かなり揃っている。
「俺も」
リクが言う。
「そのうち歩ける?」
「セレスに聞いて」
「お前は?」
「俺は」
青年は。
少し困った顔をした。
「歩けると思う」
「何で」
「リク、前より歩いてる」
それだけ。
単純だった。
でも。
嘘ではない。
「そっか」
リクは。
少しだけ。
前を向いた。
◇
「だったら、座って出来る仕事を探すか?」
店主が奥から出てきた。
リクが顔を上げる。
「俺?」
「他に誰がいる」
「仕事?」
「ああ」
「でも」
「毎日じゃなくていい」
店主は。
青年の手元に積まれた。
まだ折っていない包み紙を指差した。
「こいつ一人だと、包む前に話し始めて仕事止まるからな」
「止まってない」
「今止まってる」
「あ」
「ほら」
店主はリクを見る。
「紙折るくらいなら座って出来る。出来る日だけ。嫌ならやらなくていい」
「給料?」
青年が聞く。
「お前じゃねえ!」
「大事」
「分かってる!」
店主は。
少し考えて。
「最初は出来高だな。十枚で銅貨一枚」
「安い?」
青年。
「普通」
店主。
「本当?」
「お前、自分の仕事まで値上げ交渉し始めるな!」
リクが。
また笑う。
「やってみたい」
店主が。
少し。
驚いた顔。
「今?」
「少しだけ」
「セレスに聞かなくていいのか」
「座ってやるだけならいいって言われてる」
「なら」
店主は。
椅子を一つ出した。
「五枚だけな。疲れたらやめろ」
「十枚じゃないの?」
「初日から金稼ぐ気満々か」
「十枚で一枚って言った」
青年が。
真面目な顔で。
リクを見る。
「交渉した方がいい」
「お前は黙ってろ!」
◇
その頃。
宿では。
同行者が。
少しずつ決まり始めていた。
「私は行く」
イリスは。
迷わなかった。
「村に残ってるかもしれない研究施設の痕跡を見たい。ただし、着いた瞬間に掘り返したりはしない」
「自分で言うんだな」
ヴェスパーが言う。
「先に言っとかないと、みんな同じ顔するから」
セレスも。
同行を選んだ。
「ヴェスパーの黒火と過去の接続が関係している可能性があります。体調面を考えるなら、私はいた方がいいでしょう」
「俺のため?」
「主に」
「……断りにくいな」
「断っても構いません」
「来て」
「はい」
レイラは。
そもそも確認する前から。
荷物をまとめ始めていた。
「何で斧二本あるの」
ノアが尋ねる。
「予備」
「いつも一本じゃない?」
「村に何いるか分からないだろ」
「荷物重いよ」
「私が持つ」
「ならいいのかな」
「良くない」
アルドが。
横から一本抜き取った。
「何すんだ!」
「旧道。足場悪い。荷重増やすな」
「これくらい」
「屋根壊しかけた人の『これくらい』は信用しない」
「みんなまだ言うの!?」
セリカは。
灰都へ残る。
「帰還者の出入りが増えてる。ハルト一人に任せるには、人手が足りない」
「一緒に行かなくていい?」
ヴェスパーが聞く。
「行ってほしい?」
逆に聞かれ。
少し。
困る。
「いや」
「なら残る」
「簡単だな」
「必要になったら呼んで」
「どうやって」
「伝令」
「普通」
「普通で悪い?」
「悪くない」
アルドは同行する。
旧街道の状態を確認し。
今後。
もし再訪する必要が出た場合。
安全な経路を残すため。
「お前は?」
ヴェスパーは。
最後に。
ノアを見る。
ノアは。
かなり前から。
この質問が来ると。
分かっていたようだった。
「僕」
少し考える。
「残る」
ヴェスパーが。
意外そうな顔。
「いいの?」
「うん」
「村、気にならない?」
「気になる」
「なら」
「でも」
ノアは。
最近。
自分で止めることを。
覚えた。
「耳、まだ休ませた方がいいってセレス言ってた」
「言いました」
セレスが頷く。
「それと」
ノアは。
木の狼を。
手の中で。
少し回す。
「門の外の子、明日も街入るって」
「あの子?」
「うん」
「約束した?」
「風呂のあと菓子屋行く」
「また菓子屋」
「好きみたい」
ノアは。
少し笑う。
「僕、あの子が来るって言ったから、いたい」
ヴェスパーは。
それ以上。
誘わなかった。
「分かった」
「それだけ?」
「それだけ」
「寂しい?」
ヴェスパーが。
少し。
考える。
「ちょっと」
ノアが笑う。
「僕も」
「でも残る?」
「うん」
「そっか」
それで。
決まった。
◇
アステルも灰都へ残ることにした。
「リクがいるから?」
ヴェスパーが聞くと。
アステルは。
少し。
眉を寄せた。
「それだけだと思いますか?」
「違うの?」
「リクもいます。名前のない彼もいる。帰還者たちもまだ落ち着いていない。それに」
アステルは。
街の外。
採石場の方へ。
目を向ける。
「今の私は、ここで出来ることがあります」
「村へ行きたくない?」
「興味はあります」
「じゃあ」
「興味がある場所へ、全部行く必要はないでしょう」
ヴェスパーは。
何も言えなかった。
その答え。
最近。
色々な人から。
少しずつ。
教えられている気がする。
「……そうだな」
「帰ってきたら」
アステルは。
少し。
表情を緩める。
「話は聞かせてください」
「約束する」
◇
夕方。
ヴェスパーは。
一人で。
菓子屋を訪れた。
店の中では。
リクが。
包み紙と格闘していた。
「違う」
青年が言う。
「何が」
「そこ先に折る」
「でもこっちからでも出来る」
「出来るけど形違う」
「中身落ちなきゃいいってアステル言ってた」
「それは俺の時」
「何で俺は駄目」
「……店主!」
「俺を巻き込むな!」
ヴェスパーは。
入口で。
しばらく。
その光景を見ていた。
リクが。
気付く。
「ヴェスパー」
「仕事してる?」
「五枚だけ」
「今三枚」
青年が言う。
「二枚成功」
「一枚は?」
「ちょっと変」
「落ちない」
「形違う」
「店主は?」
「売れるって」
奥から。
「売れるとは言ってねえ!」
声。
ヴェスパーが。
笑った。
「何?」
リクが。
少しむっとする。
「いや」
答える。
「残る場所、出来たなと思って」
リクの手が。
少し。
止まった。
青年は。
包み紙を折りながら。
リクを見る。
「ここだけじゃない」
「何が?」
「宿もある」
少し考える。
「アステルも。ノアも。セリカもいる」
リクが。
黙る。
「ヴェスパーも」
「俺は明後日出るぞ」
「帰ってくる」
青年が。
当たり前のように言った。
ヴェスパーは。
一瞬。
返事が遅れた。
「……うん」
「約束した?」
リクが聞く。
「ああ」
「なら帰ってくる」
青年が言う。
「簡単に言うな」
「違う?」
ヴェスパーは。
少し。
笑う。
「違わない」
◇
店を出る前。
青年が。
ヴェスパーを呼び止めた。
「何?」
「村」
「ああ」
「俺と同じ火のこと」
「何か分かったら?」
青年は。
少しだけ。
迷った。
「知りたい」
「分かった」
「でも」
続ける。
「帰ってきてからでいい」
ヴェスパーは。
青年を見る。
「途中で急いで伝えなくていい?」
「ああ」
「どうして」
「店あるから」
いつもの。
答え。
でも。
それだけではない。
「それに」
青年は。
少し長く。
考えてから。
「俺、待てるようになった」
ヴェスパーは。
何も言わず。
少しだけ。
笑った。
「じゃあ待ってて」
「うん」
◇
夜。
宿の部屋。
ヴェスパーは。
旅装を。
寝台の上へ並べていた。
剣。
外套。
水袋。
簡単な保存食。
火打ち。
包帯。
予備の紐。
そして。
いつも腰へ下げている。
剣帯。
ガルムが。
黒火の抑制に関わる素材を。
密かに組み込んでいたもの。
今は。
そのことを。
自分も知っている。
触れる。
昔なら。
知らないまま。
持っていた。
今は。
知った上で。
使う。
全部を。
まだ知っているわけではない。
それでも。
違う。
扉が。
二度。
叩かれた。
「誰?」
「俺だ」
ガルム。
「入って」
扉が開く。
ガルムは。
旅支度の途中らしい。
外套を。
片腕に掛けている。
「準備遅いな」
「まだ明日一日ある」
「明日になって慌てる奴の台詞だ」
「レイラに言って」
「もう言った」
「何て?」
「斧減らせ」
「アルドにも言われてた」
「聞かねえから二人で取り上げた」
「可哀想」
「どこが」
ガルムは。
寝台の上を見る。
「剣帯」
「持ってく」
「ああ」
「何かある?」
「何が」
「村に近付いたら反応するとか」
「知らん」
「そこは知らないんだ」
「二十四年前は抑えるために付けた。それから、お前が村へ戻ったことはない」
ヴェスパーは。
剣帯を見る。
「初めてか」
「何が」
「これ付けて、あそこへ戻るの」
「ああ」
少し。
沈黙。
「怖い?」
ガルムが聞いた。
「前にも聞いたな」
「答え変わったかと思って」
「少し怖い」
「そうか」
「ガルムは?」
男の動きが。
ほんの少し。
止まる。
「俺?」
「ああ」
「……面倒だな」
「逃げるな」
「怖いよ」
ヴェスパーが。
顔を上げる。
ガルムは。
笑っていなかった。
「お前より多分な」
「何で」
「覚えてるからだ」
それだけ。
部屋が。
少し。
静かになる。
ヴェスパーは。
質問を重ねなかった。
今。
無理に。
全部聞く必要はない。
「じゃあ」
「何だ」
「一緒に怖がって行くか」
ガルムが。
変な顔をする。
「気持ち悪い言い方すんな」
「何でだよ」
「もっと普通に言え」
「一緒に来てくれ」
「もう言っただろ」
「じゃあ」
ヴェスパーは。
少し笑う。
「明後日」
「ああ」
ガルムは。
扉へ向かう。
「寝ろ」
「まだ早い」
「寝とけ」
「ガルム」
「何だ」
「帰ってくるぞ」
男の足が。
扉の前で。
止まった。
振り返らない。
「当たり前だ」
そう言って。
出ていった。
◇
その夜。
灰都では。
それぞれが。
違う明日の準備をしていた。
イリスは。
必要最低限の記録道具だけを選び。
残りを箱へ戻した。
セレスは薬を確認し。
ヴェスパー用。
ガルム用。
レイラ用。
そして自分用に。
分けて包んだ。
アルドは。
旧街道で必要になる。
短い縄と。
小型の工具だけを。
道具箱から選ぶ。
レイラは。
斧を一本取り上げられたことに。
まだ文句を言っていた。
ノアは。
翌日。
門の外の少年と会う約束を。
木の狼へ。
話すように確認していた。
アステルは。
リクが無理をしないよう。
翌日の予定を。
一緒に考えた。
名前のない青年は。
菓子屋の二階で。
旅行記の続きを読んでいた。
窓掛けの向こうには。
白線がある。
でも。
今夜は。
まだ開けない。
明日。
仕事が終わってから。
見ると。
自分で決めた。
そして。
ヴェスパーは。
二十四年前の村へ向かう。
準備をしていた。
全員が。
同じ道を。
歩くわけではない。
残る者がいる。
行く者がいる。
待つ者がいる。
明日の店を開ける者もいる。
それでも。
別々になることは。
終わることではなかった。
明後日。
ヴェスパーたちは。
灰都を発つ。
その先に。
何が残っているのか。
まだ。
誰にも分からなかった。
だからこそ。
今夜は。
出来る準備だけをして。
眠る。
それで十分だった。




