第3章 第41話 「三本目の煙突」
老人が灰都へ戻ってきたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
西門の詰所で昼食を取っていたハルトは、門外から上がった声を聞いて匙を止めた。
「北の巡回便、戻りました!」
予定より早い。
しかも、声の調子がおかしかった。
事故を知らせるほど切迫してはいない。けれど、いつもの帰還報告より明らかに緊張が混じっている。
ハルトは残っていたスープを二口で飲み干し、皿を机の端へ押した。
「食器、後で下げる!」
厨房へ声を掛ける。
「自分で持ってけ!」
宿の主人から即座に返ってきた。
「帰ってきてから!」
「忘れんなよ!」
返事をしながら外へ出る。
門前には、北側の街道から戻ってきた荷車が一台止まっていた。
車輪と荷台には乾いた泥が付いている。馬も疲れているらしく、鼻から荒い息を吐いていた。
護衛が二人。
御者が一人。
そして。
荷台の後ろに腰掛けている老人。
数日前。
三本の煙突がある故郷を探すため、名前のない通行証を持って灰都を出た男だった。
「早かったな」
ハルトが声を掛けた。
老人は顔を上げる。
「帰っちゃ悪いか」
「悪いとは言ってねえ。予定より一日早い」
「見つかったからな」
ハルトの足が止まった。
「町が?」
「ああ」
老人は荷車から降りようとする。
足が少しもつれた。
護衛が手を貸そうとしたが、老人は一度自分で踏ん張ったあと、その手を借りた。
「無理すんな」
「歳のせいだ」
「出る時はもっと元気だったろ」
「帰ってきたら急に歳取った」
「便利な言い訳だな」
軽口を返しながらも、ハルトは老人の様子を見ていた。
怪我はない。
服に血も付いていない。
それでも。
何かが違う。
「町はあったんだな」
もう一度。
確認する。
老人は。
今度はすぐ答えなかった。
「あった」
「じゃあ、何で戻ってきた」
老人の顔に。
笑いとも。
怒りともつかないものが浮かんだ。
「煙突が」
言う。
「二本しかなかった」
◇
話を聞く場所として選ばれたのは、西門詰所の奥にある小さな会議室だった。
大人数を集めるつもりはなかった。
老人本人。
ハルト。
北巡回便へ同行したアルド。
セリカ。
イリス。
セレス。
ヴェスパー。
そして、老人から希望があったため、菓子屋で働く名前のない青年も呼ばれた。
「俺?」
青年は店主に事情を伝えに来た門衛へ何度も確認したという。
本人が詰所へ到着した時も、最初に老人を見て尋ねた。
「俺、何かした?」
「してねえ」
老人が答える。
「じゃあ何で呼んだ」
「お前が証人だったから」
「何の?」
「俺が出る時の」
青年は少し考え。
「ああ」
二つの箱を描いた通行証。
そのことを思い出した。
「通れた?」
「通れたよ」
「本当に?」
「北の検問所で十分くらい止められたがな」
ハルトが露骨に嫌そうな顔をする。
「何で」
「初めて見る紙だって散々言われた」
「事前連絡しただろ」
「来てた。でも現場の奴が『本当にこれでいいのか』って」
「後で話す」
「喧嘩?」
青年が尋ねる。
「話し合いだ」
セリカが横から訂正した。
「まだ何もしてねえよ」
「先に言っておきます」
老人が笑った。
笑える。
そこだけ見れば。
出発前と。
それほど変わっていない。
けれど。
机の上へ置かれた手は。
ずっと同じ場所を。
親指で擦っていた。
「最初から」
イリスが言う。
紙は出している。
でも。
まだ筆は持っていない。
「町へ着くまでのことから聞いてもいい?」
「何で」
「途中で何か変わったことがあったか確認したい」
「普通だったぞ」
「普通?」
「街道歩いて、野営して、雨降って」
「雨?」
「夜中に少しだけな。アルドが嫌そうな顔してた」
全員の視線がアルドへ向く。
「地面が緩むから」
「それだけ?」
「それだけだ」
アルドは真顔だった。
「雨自体に何かあったわけじゃない」
「灰は?」
「北へ行くほど少なかった」
セリカが答える。
「黒い灰も?」
「完全に消えたわけではありません。でも灰都周辺ほど多くない」
イリスはそこで初めて筆を取った。
必要なことだけ。
短く記録する。
「町までは?」
老人が続ける。
「二日目の昼過ぎに着いた」
「迷わなかった?」
「最後は迷った」
「最後?」
「ああ」
老人は目を伏せる。
「道が違ってた」
◇
昔。
老人が覚えていた鉱山町は、赤土の斜面に沿って作られていた。
街道から細い川を渡り、坂を二度折り返す。
最初の曲がり角から、一番低い煙突が見える。
二度目を曲がれば。
三本全部が見える。
老人はそう覚えていた。
「橋はなかった」
「なくなってた?」
「違う」
老人は首を振る。
「石橋になってた」
「建て替えられた可能性は?」
イリスが聞く。
「もちろんあるだろ。六百年とは言わねえが、俺がこっちから消えて何年経ったのかも分からん」
向こう側で過ごした時間。
こちらで流れた時間。
帰還者ごとに。
まだ正確には分かっていない。
「だから最初は気にしなかった」
老人は続ける。
「橋が変わった。道も少し太くなった。木も増えた。古い家はなくなってる。そんなもんだと思った」
「町は続いてた?」
「ああ」
「鉱山は?」
「一部だけ」
アルドが説明を引き継いだ。
「主坑道は二十年ほど前に閉鎖。今は西側の小規模坑と、石材の切り出しで町が残っている」
「人は?」
「いる」
老人が答えた。
「子どももいた。店もあった。酒場もあった」
「知ってる人は?」
セレスが静かに尋ねる。
老人の指が。
止まった。
「いなかった」
当然かもしれない。
どれだけの時間が。
経っているのか。
分からない。
「家族は?」
セレスは。
声を少し落とした。
老人は一度。
息を吸った。
「俺が覚えてる頃には、女房はもう死んでた」
「お子さんは」
「息子が一人」
少し。
間。
「墓があった」
部屋の中。
誰も。
質問を重ねなかった。
老人自身が。
続きを話す。
「俺より先に死んでやがった」
笑おうとした。
うまくいかなかった。
「馬鹿だろ。俺がいなくなって何年も生きたらしい。孫もいた。ひ孫までいたって」
「会えた?」
青年が。
思わず聞いた。
セレスが止めようとはしなかった。
「ひ孫の子にな」
老人は。
少しだけ。
口元を緩める。
「俺から見たら何だ。ひひ孫か?」
「たぶん」
ハルトが答える。
「たぶんって何だよ」
「家系の数え方まで俺に聞くな」
「門番だろ」
「何でも屋じゃねえ」
小さな笑いが生まれる。
老人も。
今度は少しだけ。
笑った。
「会ったよ。最初は盗人扱いされた」
「何で」
青年が聞く。
「家の昔話を知りすぎてたからだ」
「自分の家なのに?」
「今はあいつらの家だ」
老人は。
そこを。
言い直さなかった。
「俺が子どもの頃に隠したものまで知ってた。裏庭の石の下に、銅貨二枚と壊れた笛があるって」
「残ってた?」
「笛は腐ってた。銅貨は一枚だけ」
「誰か取った?」
「さあな」
老人は肩をすくめる。
「一枚残ってただけでも驚いたよ」
それなら。
故郷は。
確かに。
そこにあった。
家の場所。
古い裏庭。
石の下。
家族。
墓。
「じゃあ」
青年が。
ゆっくり聞いた。
「帰れた?」
老人は。
その質問へ。
すぐには答えなかった。
◇
「分からん」
長い沈黙のあと。
老人が言った。
「帰れたと思った」
誰も。
笑わなかった。
「最初、赤土見た時はな。これだって思った。川の匂いもそうだった。鉱山の風って、鉄みたいな匂いがするんだ。あれも覚えてた通りだった」
老人の目が。
机ではなく。
遠い場所を見る。
「坂を上がった」
一度目。
「何も見えない」
二度目。
「そこに」
煙突。
でも。
「二本だった」
「三本目が壊れた痕跡は?」
イリスが聞いた。
老人は。
その質問を。
待っていたようだった。
「なかった」
「完全に?」
「俺にも分かる」
元鉱夫。
建物。
地面。
基礎。
そういうものを。
見てきた人間だ。
「一本なくなったなら、跡が残る。全部撤去したとしても、土地の使い方がおかしくなる。煙道の位置も、作業場の向きもな」
「でも?」
「最初から二本で作った町みたいだった」
アルドが。
机に広げた。
現地で写した簡易図。
指で。
一箇所を示す。
「ここが老人の言う三本目の位置です」
現在。
そこには。
「何がある?」
ヴェスパーが尋ねる。
「貯水槽」
「新しい?」
「少なくとも百年以上前から使っていると町の記録にある」
「その前は?」
「町の古い図面を見せてもらった」
アルドが。
次の紙。
広げる。
「確認できた最古の図面でも、煙突は二本」
部屋が。
静かになる。
「図面が間違ってる可能性は?」
イリスが。
自分で聞く。
「ある」
アルドは答えた。
「でも」
「でも?」
「別年代の図面三枚。税記録。鉱山の出荷記録。全部二基」
イリスは。
そこで。
筆を止めた。
「現地の人は?」
ハルトが尋ねる。
「三本あったって話を知ってる人は?」
「一人もいなかった」
老人が言った。
「古い話に詳しい奴も呼んでもらった。九十近い婆さんだった」
「何て?」
「『二本だよ』って」
老人は。
少し。
腹が立ったように言う。
「俺が『三本だ』って言ったら、耳まで遠いのに『あんた耄碌したんじゃないか』って笑いやがった」
レイラがいれば。
笑ったかもしれない。
でも。
今ここにはいない。
「怒った?」
青年が聞く。
「最初はな」
「その人に?」
「違う」
老人は。
自分の頭へ。
指を当てる。
「こいつに」
青年が。
少し。
顔を曇らせた。
「自分?」
「ああ」
◇
老人は。
町へ着いた日の夜。
ひ孫の家へ泊めてもらった。
名前は言わなかった。
本当の名前を。
灰星が辿る可能性がある。
その話を。
最初からした。
信じてもらうまで。
時間が掛かった。
「何て呼ばれた?」
青年が聞く。
「爺さん」
「それ名前じゃない」
「俺くらいになると、それで十分だ」
「本当?」
「半分くらい」
「半分」
「便利な言葉だぞ」
「覚えとく」
老人は。
その夜。
自分が昔住んでいた。
同じ場所に建つ家で。
眠った。
もちろん。
建物は違う。
部屋も。
屋根も。
壁も。
違う。
それでも。
窓から見える。
山の形は。
覚えていた。
「眠れた?」
セレスが聞いた。
「寝られなかった」
老人は苦笑する。
「嬉しかったのに?」
青年。
「ああ」
「何で?」
「分からんからだよ」
また。
その言葉。
「全部ある」
老人は言う。
「俺が覚えてる坂がある。川がある。家の場所もある。息子の墓もある。あいつの子孫までいる」
なのに。
三本目だけ。
ない。
「たった一本じゃない?」
青年が。
悪意なく。
尋ねた。
老人も。
怒らなかった。
「そうだ」
「なら」
「俺もそう思おうとした」
老人の声が。
少し。
低くなる。
「でもな」
指。
机。
止まる。
「あの一本は」
言葉を。
探す。
「息子と働いた場所なんだ」
青年が。
黙った。
「鉱山へ連れてったの?」
「最初は嫌がった」
老人の顔に。
わずかに。
昔を見る笑み。
「あいつ、土の中なんか入りたくねえって。母親似だった」
「でも?」
「結局来た。三本目の煙突の下にある選鉱場で、最初の給金貰った」
息子。
仕事。
初めての給金。
「その日に」
老人は。
目を細める。
「酒買ってきやがった」
「子どもなのに?」
「もう十五だった」
「十五で酒?」
「昔は今より緩かった」
ハルトが口を挟む。
「そこは記録しなくていいぞ、イリス」
「してない」
少しだけ。
空気が和らぐ。
それでも。
老人の話は。
続く。
「二人で怒られた。女房に」
「一緒に?」
「ああ」
「それ」
青年が。
少し。
言葉を選ぶ。
「覚えてる?」
「覚えてる」
「はっきり?」
「匂いまでな」
「向こう側で作られた記憶かもしれない?」
今度は。
部屋に。
別の緊張が走った。
でも。
老人は。
青年を責めなかった。
「そうかもな」
あっさり。
言った。
「分からない」
青年が。
少し。
目を見開く。
「怒らない?」
「俺も考えたからな」
老人は。
苦い顔をする。
「向こう側じゃ、覚えてるものが形になるって星見の兄ちゃんが言ってたろ」
「ああ」
「じゃあ俺の頭ん中へ、逆に何か入ることだってあるかもしれん」
「ある?」
「知らん」
老人は。
少し笑う。
「嫌になるだろ」
「なる」
青年は。
すぐ答えた。
◇
「向こう側で」
イリスが。
慎重に。
尋ねた。
「その煙突を見たことは?」
「ある」
老人が答える。
「いつ?」
「何度も」
「現実の町として?」
「……どう言えばいい」
老人が。
眉を寄せる。
「向こう側じゃ、時々故郷が出た」
「同じ町?」
「俺が覚えてる町だった」
「煙突は?」
「三本」
全員。
静かになる。
「息子も?」
「一度」
老人は。
目を伏せる。
「若い頃のまま」
「話した?」
「ああ」
「何を?」
「もういいだろ」
その声。
少しだけ。
強かった。
イリスが。
すぐに。
筆を置く。
「分かった。そこは聞かない」
老人は。
イリスを見る。
「悪い」
「謝らなくていい」
「記録」
「しない」
「俺が三本見たってとこまで?」
「そこまでは残していい?」
「それはいい」
「ありがとう」
話したくないところ。
話せるところ。
同じ記憶の中でも。
境目がある。
青年は。
そのやり取りを。
じっと見ていた。
◇
「じゃあ」
ヴェスパーが。
ここまで。
ほとんど口を挟まなかった。
ようやく尋ねる。
「お前は、どっちが本物だと思う?」
老人が。
ヴェスパーを見る。
「煙突?」
「ああ」
「三本だ」
即答だった。
イリスの指が。
少し動く。
でも。
何も言わない。
「町の記録は二本だぞ」
ヴェスパーが続ける。
「知ってる」
「現地の人も二本だって」
「聞いた」
「それでも?」
「ああ」
「どうして」
老人は。
長く。
考えた。
「そう覚えてるから」
それだけ。
「証拠にはならんのも分かってる。俺が間違ってるかもしれん。向こう側で頭がおかしくなったのかもしれん」
「おかしくなったって」
「言葉は悪いが、俺自身が一番考えた」
老人は。
自分の胸元へ。
手を置く。
「でも」
一度。
呼吸。
「じゃあ、息子と働いた記憶まで嘘だって誰かに決められたら」
ヴェスパーは。
黙って聞く。
「それは嫌だ」
「だから三本?」
「だから」
老人は。
少し言い直す。
「俺は三本だったって覚えてる。それだけは、今のところ手放さない」
正しい。
とは。
言わなかった。
世界が間違っているとも。
言わない。
ただ。
自分の記憶として。
残す。
「イリス」
老人が。
彼女を見る。
「どう書く」
イリスは。
しばらく。
自分の紙を見た。
それから。
読み上げる。
「『本人は、かつて煙突三基を有する鉱山町で生活したと記憶している』」
老人は黙っている。
「『現存する町および確認可能な記録では、煙突は二基』」
次。
「『現時点で、不一致の原因は不明』」
そこで。
止めた。
「これだけ」
老人が。
少し。
笑う。
「俺が耄碌したとは書かない?」
「それを確かめる証拠がない」
「世界が変わったとも?」
「同じ」
「向こう側が偽物の記憶入れたとも?」
「同じ」
「……面白くねえ記録だな」
「記録は面白さで書かない」
「いつも楽しそうに書いてるだろ」
「それとこれは別」
青年が。
横から。
「イリス、今日ちょっと嬉しそう」
「何で?」
「分からないこと増えたから」
「私を何だと思ってるの?」
老人が。
初めて。
声を上げて笑った。
◇
聞き取りを終えたあと。
セレスが老人の体調を診ることになった。
北への往復でかなり疲れている。
本人は旧採石場へ戻るつもりだったが。
「今日は灰都内で休んだ方がいいです」
と言われ。
老人は顔をしかめた。
「元気だぞ」
「先ほど立つ時にふらついていました」
「見てたか」
「見ています」
「怖いな」
「仕事ですから」
「採石場じゃ駄目か?」
「駄目ではありません。ただ、今夜は冷える予報です」
「予報」
老人が。
青年を見る。
「俺も街入るか」
「風呂ある」
「知ってる」
「菓子屋も」
「それ目的で帰ってきたみたいになるだろ」
「違うの?」
「違うわ!」
青年が少し笑う。
「昨日言ってた」
「何を」
「帰ってきたら、固くない菓子食べるって」
老人が。
止まる。
「……覚えてたか」
「うん」
「なら行く」
「店?」
「まず宿だ」
セレスが言う。
「そのあとなら、体調次第で」
「厳しいな」
「あなたが帰ってきた時に倒れたら困ります」
「帰ってきた時」
老人が。
少しだけ。
その言葉を。
繰り返した。
「……そうだな」
◇
午後。
老人は宿でしばらく休んだあと。
本当に菓子屋へ来た。
青年は。
仕事中だった。
「いらっしゃい」
以前より。
自然に。
声が出る。
老人が。
店内を見回す。
「箱の兄ちゃん」
「今日は店員」
「名前は?」
「まだない」
「そうか」
「煙突の人は?」
「俺も名前書いてねえ」
「じゃあ煙突の人」
「もっと他にねえのか」
「ない」
店主が。
奥から笑う。
「どっちも似たようなもんだな」
「俺はもう少し立派な呼び方がいい」
「じゃあ客」
青年が答えた。
「急に雑だな」
「何買う?」
「固くないやつ」
「木の実?」
「何だそれ」
「最近人気」
「うまい?」
「俺は好き」
「ならそれ」
「銅貨三枚」
「金取るのか」
「店だから」
「前も言ったな、それ」
「うん」
老人は。
銅貨を置いた。
青年が。
菓子を包む。
「町」
青年が。
紙を折りながら聞いた。
「また行く?」
老人が。
少し。
驚いたように見る。
「どうだろうな」
「帰りたいって言ってた」
「行く前はな」
「今は?」
青年は。
最後の折り目を。
丁寧に。
押さえる。
老人は。
答えを急がなかった。
「また行きたい」
「同じ?」
「でも」
老人は。
店の入口。
外。
灰都。
人。
見る。
「ずっと向こうにいるかは、分からん」
「何で」
「家族いるのに?」
「いる」
「じゃあ」
「俺のこと知らない家族だ」
青年の手が。
止まる。
「嫌?」
「嫌じゃない」
老人が。
少し笑う。
「むしろ、よく生きてたと思う」
「じゃあ何で」
「俺が知ってる家族は、もういないからだろうな」
息子。
妻。
昔の町。
三本目の煙突。
今ある町を。
否定したいわけではない。
でも。
帰りたかった場所と。
同じでも。
ある。
違っても。
いる。
「難しい」
青年が言う。
「ああ」
「帰る場所」
「ああ」
「俺、まだ分からない」
「俺もだ」
「でも帰ってきた?」
老人が。
青年を見る。
「灰都に?」
「うん」
老人は。
しばらく。
店の外を見ていた。
「通行証」
言う。
「ここで作ったろ」
「うん」
「菓子も」
「うん」
「ハルトがうるさくて」
「うん」
「イリスが何でも書いて」
「それは本当」
「お前が変な箱の印書いた」
「変じゃない」
「そうか」
老人は笑う。
「じゃあまあ」
少し。
肩をすくめる。
「帰ってきたんだろ」
◇
夕方。
ヴェスパーは。
旧採石場ではなく。
西門の上にいた。
ガルムも。
隣にいる。
手元には。
古い地図。
灰都から南東へ。
いくつかの街道。
廃道。
森。
さらに。
昔は村があった場所。
「ここか」
ヴェスパーが。
地図の一点を。
指で押さえる。
「ああ」
ガルムが答える。
「今の街道から外れる?」
「半日」
「馬なら」
「荷物次第」
「リクは?」
「今の体じゃ馬はきつい」
「じゃあ」
ヴェスパーは。
そこで。
止まる。
以前なら。
全員で行く方法を。
すぐ考えていた。
リクを連れて行けないなら。
出発を遅らせる。
あるいは。
誰かが背負う。
そういう。
全員を。
一つの行動へ。
まとめる考え方。
「リクに聞く」
「そうしろ」
ガルムが。
地図を見たまま。
答える。
「行きたいか。灰都に残りたいか」
「ああ」
「セレスにも」
「分かってる」
風。
城壁の上。
吹く。
ヴェスパーは。
地図から。
北側へ。
視線を移す。
「老人の話、聞いた?」
「ああ」
「どう思う」
「知らん」
「早いな」
「煙突が二本だった。それが事実。爺さんが三本覚えてる。それも事実」
「両方?」
「今んとこはな」
ヴェスパーは。
少し。
笑う。
「イリスみたい」
「嫌なこと言うな」
「本人に言おう」
「やめろ」
少し。
間。
「俺の村も」
ヴェスパーが。
地図を見る。
「違ってるかもしれない?」
ガルムは。
今度は。
すぐ答えなかった。
「何が」
「俺が覚えてるのと」
「お前、ほとんど覚えてねえだろ」
「だから」
ヴェスパーは。
自嘲するように。
少し笑う。
「どれが違うのかも、分からない」
火。
村。
黒い星。
誰かの声。
母親。
ガルム。
自分。
覚えている。
はず。
でも。
その記憶の。
どこまでが。
正しいのか。
「怖くなったか?」
ガルムが聞いた。
「少し」
「行くのやめる?」
ヴェスパーは。
地図を畳まない。
「いや」
「そうか」
「むしろ」
地図。
指。
昔の村。
「自分で見ないと分からないって、増えた」
ガルムが。
ほんの少しだけ。
口元を緩める。
「面倒な奴だ」
「誰に育てられたと思ってる」
「勝手に育った」
「またそれ」
◇
夜。
菓子屋の二階。
青年は。
仕事を終え。
自分の部屋へ戻った。
鍵を掛ける。
今日は。
窓掛けを。
すぐには見なかった。
机。
旅行記。
開く。
海辺の町を出た旅人が。
次の土地へ向かう。
途中。
道を間違える。
戻る。
また進む。
青年は。
一行ずつ。
読む。
少しして。
窓の方を。
見る。
灰色の布。
向こう。
白線。
増えているかもしれない。
今日。
昼には。
増えていなかった。
今は。
分からない。
青年は。
本へ。
視線を戻す。
その時。
階下から。
声。
「おーい!」
店主。
「何!」
「明日、朝ちょっと早いぞ!」
「何で!」
「木の実の仕入れ!」
「俺も?」
「行きたけりゃ!」
「行く!」
少し。
間。
「あと!」
店主。
「何!」
「煙突の爺さんから伝言!」
「何!」
「菓子うまかったって!」
青年は。
少し。
笑った。
「分かった!」
足音。
遠ざかる。
静かになる。
青年は。
旅行記。
一頁。
進める。
それから。
ようやく。
窓掛けへ。
手を伸ばした。
開く。
白線。
ある。
じっくり。
見る。
昨日までの。
形。
比べる。
「……同じ」
たぶん。
増えていない。
でも。
自信は。
完全ではない。
青年は。
紙を持ってこなかった。
イリスの記録とも。
比べない。
今夜は。
それでいい。
窓掛けを。
閉じる。
昼。
老人が。
言った。
『俺は三本だったって覚えてる。それだけは、今のところ手放さない』
青年は。
自分の記憶を。
ほとんど持っていない。
だから。
その感覚は。
まだ。
よく分からなかった。
でも。
今日。
自分が店にいたことは。
覚えている。
木の実の菓子を売った。
老人へ包んだ。
明日の仕入れへ。
行くと答えた。
それは。
今。
自分が覚えている。
青年は。
机に置いた。
二つの箱の印がある帳簿の控えを。
少しだけ。
指でなぞった。
過去が。
正しいか。
間違っているか。
分からなくても。
今日あったことまで。
急いで疑わなくていい。
そう思った。
旅行記を閉じる。
栞を挟む。
明日は。
少し早い。
青年は。
灯りを落とした。
白線の向こうは。
今夜も。
分からないままだった。
けれど。
今夜。
眠る前に覚えていたいものは。
ちゃんと。
自分で選べた。




