第3章 第40話 「ひとつではない音」
翌朝も、青年は窓掛けを開けなかった。
前の日と違って、迷った末にそうしたわけではない。
起きて、顔を洗い、服を着替えた。枕元の鍵をいつもの場所へ戻し、机の上に開いたまま置いていた旅行記へ栞を挟む。
それから一度だけ、灰色の布が掛かった窓を見た。
白い線が増えているかもしれない。
消えているかもしれない。
夜のあいだに、昨日とはまったく違うものになっている可能性だってある。
気にはなった。
けれど、それを確かめるためだけに朝を始めるのは嫌だった。
青年は扉の鍵を開け、階段を降りた。
一階では、店主がすでに窯へ火を入れていた。
「おはよう」
「おう。今日は早いな」
「昨日も同じくらい」
「そうだったか?」
「たぶん」
「朝から自信ねえな」
店主は火掻き棒を置き、青年の顔を見る。
「窓は?」
「見てない」
「昨日の夜も?」
「見てない」
「……気にならないのか?」
「気になる」
「じゃあ何で見ない」
青年は作業台の上に積まれた木箱を一つ持ち上げた。
「先に仕事するって決めたから」
「誰が?」
「俺」
「そうか」
店主は、それ以上何も言わなかった。
青年も説明を続けない。
浅い箱を表へ運び、前の日に洗って乾かしておいた布を棚へ戻す。水桶を確認すると、まだ半分ほど残っていた。
「これ、汲む?」
「開店前に満杯にしといてくれ」
「分かった」
「あと戻る時、隣の八百屋に寄ってくれ。昨日頼んだ木の実が届いてるはずだ」
「何に使う?」
「今日の菓子」
「俺も食べる?」
「売れ残ればな」
「売れない方がいい?」
「店員がそれ言うな!」
青年は少し笑って、空の水桶を持った。
扉を開ける。
外へ出たところで。
立ち止まった。
「店主」
「今度は何だ!」
「今日、窓見る時」
「おう」
「ノア呼んでもいい?」
店主が厨房から顔を出した。
「兎耳の子か?」
「ああ」
「何で?」
青年は。
少しだけ言葉を探した。
「前に、俺の火の音を聞いた」
「聞いたな」
「窓の線も、何か聞こえるかもしれない」
「……お前が頼みたいのか?」
青年は頷いた。
「でも、嫌なら頼まない」
「そこは俺じゃなく本人に聞け」
「分かった」
水桶を持ち直す。
「それと」
「まだあるのか」
「セレスにも聞く」
「何を?」
「ノアが聞いていいか」
店主は一瞬だけ黙った。
それから。
「それがいい」
と答えた。
◇
話を聞いたノアは、すぐには「やる」と言わなかった。
以前なら。
誰かが困っていて、自分なら聞けると言われれば、少し無理をしてでも耳を澄ませたかもしれない。
今は違う。
西門近くの詰所。
セレスと青年。
イリス。
その三人の前で、ノアは椅子に座ったまま両耳へ手を当てた。
「窓から音がするかは分からないよ」
「うん」
青年が答える。
「黒い火みたいに聞こえないかもしれない」
「それでもいい」
「何も聞こえなかったら?」
「何も聞こえなかったって分かる」
「それなら」
ノアは少し考えた。
「聞いてみたい」
青年の表情が僅かに明るくなる。
だが。
「条件があります」
セレスが続けた。
「まず、ノアが途中で嫌になったら、その時点で終わります」
「うん」
青年が頷く。
「耳鳴り、頭痛、吐き気、強い疲労感のどれかが出た場合も中止します。聞こえている途中でもです」
「分かった」
「そして」
セレスはノアへ視線を移した。
「数えない」
ノアもすぐに頷いた。
「うん」
青年が二人を見る。
「何を?」
「音」
ノアが答えた。
「前に、君の黒い火を聞いた時、足跡みたいなのがいっぱい重なってた」
「ああ」
「何個あるのか知ろうとしたら、もっと深く聞かなきゃいけない」
「危ない?」
「たぶん」
ノアは少し迷ってから言い直す。
「前なら、それでも聞いたかもしれない。でも今はやらない」
青年は。
少しだけ。
複雑そうな顔をした。
「俺、何個か知りたい」
「僕も気になるよ」
「じゃあ」
「でも、知りたいこと全部聞くと、僕がしんどくなる」
青年の口が止まった。
自分の部屋。
自分の身体。
勝手に見られること。
それが嫌だと。
何度も言った。
なら。
ノアの耳を。
自分の知りたいことのために。
勝手に使うのも。
違う。
「……数えなくていい」
青年が言った。
「本当に?」
「うん」
少しだけ。
残念そうではある。
それでも。
「聞けるところまででいい」
ノアが笑った。
「分かった」
イリスは。
そのやり取りを。
黙って聞いていた。
「イリス」
青年が見る。
「何?」
「今日は道具使う?」
「使わない」
「何で?」
「ノアが聞くなら、それだけで十分新しい情報になる。何個も同時にやったら、何に反応したのか分からなくなるから」
青年は。
少し驚いた顔をした。
「研究の理由?」
「今回はね」
「俺の部屋だからは?」
「もちろんそれもある」
「二つ?」
「二つ」
「ならいい」
青年は納得したようだった。
◇
昼前。
一行は菓子屋へ向かった。
店主には事前に話が通っている。
ただし、
「昼の一番忙しい時間に店を止めるな」
という条件付きだった。
「じゃあ、今ならいい?」
青年が店へ入るなり尋ねる。
「あと三十分」
「何で」
「予約の焼き菓子取りに来る客がいる」
「終わったら?」
「休憩にする」
青年は素直に作業台へ向かった。
「じゃあ仕事する」
「最初からそうしろ」
ノアは店の隅の椅子へ座った。
セレスも隣にいる。
イリスは棚に並んでいる焼き菓子を見ていたが、何かに気付いたように一枚を指差した。
「これ、新しい?」
「木の実入り」
青年が答える。
「朝取ってきた」
「食べた?」
「まだ」
「どうして」
「売れ残ってないから」
「まだ開店してそんな経ってないでしょ」
「店員は売れる方を願う」
店主が奥から満足そうに頷く。
「ようやく分かってきたな」
「でも一個は食べたい」
「台無しだよ!」
ノアが笑う。
セレスも小さく笑った。
青年は予約分の包みを作りながら。
「ノア」
「何?」
「終わったら半分買う?」
「半分だけ売ってくれるの?」
青年が店主を見る。
「売らん」
「駄目だって」
「じゃあ一個買って半分ずつ」
「それならいい」
「聞く前に食べていい?」
セレスがすぐに言う。
「少量なら。ただし先に休憩してください」
「僕じゃなくて耳?」
「両方です」
「分かった」
そんな話をしているうちに。
予約客が来た。
青年は包みを渡し。
代金を受け取る。
釣り銭を数える。
扉が閉じる。
「よし」
店主が言う。
「一時間休め」
「一時間?」
「窓のこと終わっても、残りは休め」
「仕事」
「朝から動いてたろ」
「給料」
「減らさん」
「何で」
「そこから説明すんのかよ!」
店主の声が店いっぱいに響いた。
青年は少しだけ笑った。
◇
二階へ上がる。
青年が鍵を開ける。
扉の前で。
一度。
全員を見た。
「入っていい」
ノア。
セレス。
イリス。
そして。
遅れて来たヴェスパー。
「何でヴェスパーいる?」
「イリスに呼ばれた」
青年がイリスを見る。
「呼んだの?」
「黒火に何か反応が出る可能性があるから。一応」
「ヴェスパーの火も?」
「あなたの黒火と一部重なってるからね」
「でもヴェスパーが嫌なら?」
ヴェスパーが少し笑った。
「今そこ聞く?」
「聞く」
「俺はいい」
「ならいい」
部屋。
昨日と変わっていない。
机。
旅行記。
栞。
壁に掛けられた二着の服。
そして。
閉じた窓掛け。
「朝から開けてない?」
イリスが確認する。
「うん」
「誰も?」
「店主も入ってない」
「分かった」
青年は窓の前へ立った。
「開ける」
誰も急かさない。
灰色の布を。
横へ引く。
昼の光が。
部屋へ差し込んだ。
白線。
昨日より。
増えていた。
◇
青年が。
最初に気付いた。
何も言わず。
机の上から。
昨日の写しを取る。
窓。
紙。
何度か見比べる。
「三本」
イリスの表情が変わる。
「増えた?」
「うん」
昨日。
最後に記録した形から。
さらに三本。
どれも短い。
主線から。
外へ。
枝分かれするように伸びている。
一本は上。
一本は横。
もう一本は。
斜め下。
「見てもいい?」
イリスが尋ねる。
「ああ」
近付く。
記録と照合する。
「……増えてる」
「寝てる間?」
「少なくとも、昨日最後に確認してから今までの間」
「俺が見なかったから?」
「まだ分からない」
「分かってる」
青年は。
前ほど苛立った声を出さなかった。
それでも。
窓を見つめる目には。
警戒がある。
「ノア」
「うん」
「これ」
青年は。
自分の胸。
次に。
窓。
「聞いてほしい」
ノアは。
セレスを見る。
セレスが頷く。
「まず短く。窓の近くには行かず、今いる場所から」
「分かった」
「少しでも変だと思ったら手を上げて」
「声じゃなくても?」
「何でも」
ノアは椅子へ座った。
窓から。
二歩半ほど離れている。
青年は。
自分から。
さらに横へ退いた。
「俺、近い方がいい?」
ノアが尋ねる。
「最初はそのままで」
セレスが答える。
「青年の黒火と窓、どちらを聞いているのか分からなくなるかもしれません」
「じゃあ最初は窓?」
「出来る範囲で」
ノアは頷いた。
両手を膝へ置く。
兎耳が。
ゆっくり。
動いた。
◇
最初に聞こえたのは。
灰都だった。
一階の店。
窯。
店主が天板を置く音。
外の通り。
荷車。
人の声。
少し遠く。
鍛冶屋。
西門。
もっと遠い。
風。
ノアは。
一つずつ。
普通の音から。
意識を外していく。
消すのではない。
必要なものだけ。
追わない。
以前。
空白と星見から学んだ。
聞くことは。
全部を拾うことではない。
白線。
窓。
その向こう。
耳を。
向ける。
しばらく。
何も。
変わらなかった。
「……聞こえない?」
青年が。
小さく尋ねる。
セレスが。
指先を口元へ当てる。
まだ。
待つ。
ノアの耳が。
僅かに。
右へ動いた。
次に。
左。
眉が。
少し寄る。
「ノア?」
セレスの声。
「大丈夫」
「続けられますか?」
「うん」
もう少し。
聞く。
声は。
ない。
名前を呼ぶものも。
「返せ」と言うものも。
誰かが話しているわけではない。
それでも。
何もないわけではなかった。
ノアは。
ゆっくり。
目を開いた。
「変」
青年が身を乗り出しかけ。
止まる。
「何が?」
「前に」
ノアは。
言葉を探している。
「君の火を聞いた時」
「うん」
「足跡みたいって言ったでしょ」
「ああ」
「あれとは違う」
「じゃあ?」
ノアは。
窓を見ない。
耳だけ。
そちらへ向けたまま。
「壁の向こうに」
一度。
言葉を止める。
「何人かいる時みたい」
部屋が。
静かになる。
イリスが。
反射的に聞き返しかける。
でも。
口を閉じた。
数。
聞かない。
約束した。
「人?」
青年が尋ねる。
ノアが首を横へ振る。
「分からない。人って言ったのは例え」
「音?」
「音っていうより」
ノアは。
両手を。
少し離して。
空中へ置く。
「向き」
「向き?」
「一つのところから来てない」
ヴェスパーが。
窓を見る。
「どういうことだ」
ノアは。
自分でも上手く説明できず。
眉を寄せた。
「例えば」
店の下。
耳。
傾ける。
「今、一階に店主いるでしょ」
「ああ」
「外に人もいる」
「うん」
「どっちもこの部屋から聞いたら、下の方から聞こえる。でも同じ人じゃない」
「それみたい?」
「もっと遠いけど」
ノアは。
窓の向こうへ。
指を向けない。
「一緒に重なってる。でも」
少し。
息を吸う。
「同じじゃない気がする」
青年が。
ゆっくり。
窓へ視線を戻した。
「俺を見てるの」
声が。
少し。
低くなる。
「一つじゃない?」
ノアは。
すぐ答えなかった。
「それは分からない」
「でも」
「聞こえ方が一つじゃないだけ」
青年の顔には。
納得し切れないものが残る。
「何個?」
ノアの兎耳が。
僅かに。
下がった。
青年は。
その反応を見た。
数えるには。
もっと深く。
聞かなければならない。
さっき。
約束した。
「……ごめん」
青年が先に言った。
「何が?」
「聞かないって言った」
ノアは。
少しだけ。
安心したように笑った。
「気になるよね」
「うん」
「僕も」
「でも数えない?」
「うん」
「分かった」
それで。
終わらせた。
◇
「もう一つだけ」
ノアが言った。
セレスが。
顔を見る。
「まだ聞くの?」
「違う。聞こえたこと」
「話すだけなら」
「うん」
ノアは。
青年の胸を見る。
「君の黒い火」
「今?」
「窓を聞いてた時、少しだけ似た感じした」
「足跡?」
「ううん」
また。
難しい。
「窓の向こうの重なりと」
ノアは。
自分の耳。
軽く触れる。
「君の火の中の重なりが」
「同じ?」
「そこまでは分からない」
イリスが。
今度は。
質問する。
「似ているのは、何が?」
ノアは少し考える。
「一人分じゃない感じ」
それだけ。
イリスは。
すぐ。
何かを書こうとしなかった。
「それ以上は?」
「聞いてない」
「分かった」
「聞く?」
「今日は聞かない」
ノアが。
少し驚いた顔。
「本当に?」
「本当に」
「イリスなのに」
「ノア?」
「ごめん」
「絶対ごめんと思ってないよね」
ヴェスパーが。
少し笑う。
緊張していた。
空気が。
わずかに。
ほどけた。
◇
ノアの聴取は。
そこで終わった。
セレスが耳の後ろ。
首。
脈。
確認する。
「頭痛は?」
「ない」
「耳鳴り」
「ちょっとだけ」
セレスの表情が。
すぐ変わる。
「どちらの耳?」
「右」
「今も?」
「もう小さい」
「今日はもう聞かないでください」
「分かった」
「『少しなら』も駄目です」
「分かってる」
「本当に?」
「本当に」
青年が。
横から。
「俺も言う」
「何を?」
「ノアが聞こうとしたら止める」
「助かります」
ノアが。
少し不満そうな顔。
「二人になるの?」
「三人目です」
ヴェスパーが言う。
「俺も止める」
「増えた」
「嫌?」
青年が尋ねる。
ノアは。
しばらく考えて。
「ちょっと面倒」
セレスが小さく笑う。
「面倒でも守ってください」
「うん」
◇
窓の白線は。
その間。
変わっていなかった。
少なくとも。
全員が最後に確認した形から。
新しい線は増えていない。
「ノアが聞いたから止まった?」
青年が尋ねる。
「それは言えない」
イリスが答える。
「短い時間しか経ってない。それに昨日も一時間では一本増えたけど、同じ間隔で増えるとは限らない」
「じゃあ」
「今は」
紙を。
一枚。
取り出す。
「ノアが聞いた範囲では、単一の音源みたいには感じられなかった。それだけ」
「音源?」
「一つのものから出ている音、という意味」
「一つじゃない?」
「一つだと断定できない」
「言い方難しい」
「分かってる」
イリスは。
少し苦笑する。
「でも今は、簡単に言い切らない方がいい」
青年は。
白線。
見る。
「灰星」
「うん」
「一つじゃない?」
イリスは。
紙を持ったまま。
少し考えた。
「それも、まだ分からない」
「また」
「でも」
今度は。
逃げるための。
分からないではない。
「今まで私たちは、『灰星が返事をした』とか『灰星が名前を辿る』っていう記録を読んできた。だから知らないうちに、一つの何かが考えて動いてるみたいに想像してた部分がある」
ヴェスパーが。
静かに聞く。
「違う可能性?」
「ある」
イリスは頷く。
「場所かもしれない。仕組みかもしれない。向こう側にいる複数の何かを、こっちがまとめて灰星と呼んでるだけかもしれない」
「人?」
青年が聞く。
「それも決めない」
「何で」
「向こう側では、人に見えるものが本当に人か分からないって星見が言ってたでしょ」
「……ああ」
「だから」
イリスは。
新しい記録の一番下へ。
短く書く。
『単一主体とは限らない』
それだけ。
「主体って何」
「動いてるもの」
「じゃあもっと簡単に書いて」
「記録だから多少は我慢して」
「俺も読むかもしれない」
イリスの手が。
止まった。
「そうだね」
少し考え。
その下へ。
もう一行。
『ひとつとは限らない』
青年が。
覗く。
「それなら分かる」
「じゃあ両方残す」
◇
窓掛けを閉じる前。
青年は。
しばらく。
白線を見た。
昨日より。
増えている。
枝のように。
いくつかの方向へ伸びている。
それだけなら。
ただの模様。
でも。
ノアは。
一つのところから聞こえないと言った。
「閉める?」
ヴェスパーが尋ねる。
青年は。
少し考え。
「うん」
布を引く。
白線が。
見えなくなる。
ノアが。
部屋を出る前に。
振り返った。
「ねえ」
「何」
「怖くなった?」
青年は。
すぐには答えなかった。
「前より」
「うん」
「少し怖い」
「そっか」
「ノアは?」
「僕も」
「聞こえたから?」
「うん」
それだけでは。
ない。
ノアは。
灰星から。
今までにも。
声を聞いている。
見つけた。
返せ。
まだ遠い。
そういう言葉を。
一つの大きなものの声として。
どこかで。
考えていた。
「僕」
ノアが。
言葉を探す。
「前は、同じところから聞こえたら同じ声だと思ってた」
「違う?」
「人がいっぱいいる場所で、みんな一緒に喋ったら」
少し考える。
「遠くからは一つの声みたいに聞こえる時あるでしょ」
「あるかも」
「でも近くで聞いたら違う」
「じゃあ灰星も?」
「分からない」
ノアは。
自分から。
そう言った。
「でも、次に何か聞こえても」
兎耳が。
少し。
上がる。
「最初から全部同じ人だって思わないようにする」
青年は。
ゆっくり頷いた。
「それ、俺も」
「何が?」
「同じ顔なら俺だと思わないようにする」
向こう側で。
三人が見た。
自分と同じ顔。
青年は。
それが。
自分の過去なのか。
複製なのか。
別のものなのか。
まだ知らない。
「似てる?」
青年が聞く。
「ちょっと」
ノアが答える。
二人は。
少しだけ。
笑った。
◇
午後。
ノアはセレスと一緒に宿へ戻った。
耳鳴りは。
もう消えていた。
それでも。
今日は。
採石場へ行かない。
聞かない。
宿の食堂で。
温かい茶を飲む。
木の狼を。
机へ置く。
「暇」
ノアが言った。
「休むのも必要です」
「何も聞かないの、暇」
「では、耳を使わないことをしましょう」
「何?」
セレスが。
少し考える。
「絵を描くとか」
「僕下手」
「私も得意ではありません」
「一緒に?」
「よければ」
紙。
炭筆。
二人。
机。
ノアは。
木の狼を描いた。
最初。
耳が。
大きすぎた。
「兎みたい」
自分で言う。
セレスが。
笑いを堪える。
「直しますか?」
「このまま」
「いいんですか?」
「僕が描いたから」
ノアは。
少し。
得意そうだった。
◇
その頃。
イリスは。
空白と星見へ。
今日のことを話していた。
場所は。
西門の詰所。
昨日までに増えた。
紙。
記録。
窓の白線。
ノアの感覚。
「単一じゃない」
星見が。
その言葉を。
ゆっくり。
繰り返した。
「断定はしてない」
イリスがすぐ付け加える。
「分かってる」
「星見は、向こう側でどうだった?」
男は。
長く。
黙った。
六百年。
いくつもの。
自分。
亡くなったはずの母。
知らない時代から来た者。
記憶から出来たかもしれない人。
「向こうでは」
星見が言った。
「真実らしいものが、何度も入れ替わった」
「うん」
「ある時は、世界そのものが俺へ話していると思った」
空白が。
視線を向ける。
「後では?」
「俺自身の別の形が話していたと思った」
「その後」
「誰かの記憶かもしれないと思った」
イリスは。
何も書かない。
今は。
聞く。
「結局」
星見が。
薄く。
笑う。
「分からなくなった」
「だから断言しない?」
「ああ」
「でも」
空白が。
静かに口を開く。
「一つでない方が」
星見を見る。
「お前の経験には近い」
星見は。
すぐには頷かなかった。
「近いだけだ」
「そうだな」
「まだ記録するなよ」
イリスが。
少しむっとする。
「しないよ」
「本当に?」
「最近みんな私を何だと思ってるの」
空白が答えた。
「記録する者」
「それはそうだけど」
「なら間違ってない」
星見が。
少し笑った。
◇
夕方。
青年は。
普通に仕事を終えた。
今日。
一番売れたのは。
朝に届いた木の実を使った焼き菓子だった。
売れ残りは。
二つ。
「食べていい?」
青年が尋ねる。
「一つはな」
「もう一つ?」
「明日の朝用」
「何で」
「味がどう変わるか確かめる」
「俺が?」
「俺も食う」
「仕事?」
「仕事」
「ならいい」
青年は。
一つ。
手に取る。
一口。
噛む。
少し。
甘い。
木の実。
香ばしい。
「好き」
「そりゃ良かった」
「明日も作る?」
「売れ行き見たらな」
「今日売れた」
「じゃあ作るかもな」
「分からない?」
「材料の値段もあるんだよ」
「難しい」
「店はずっと難しい」
青年は。
残りを食べる。
それから。
二階へ上がった。
◇
部屋へ入る。
鍵。
掛ける。
窓掛け。
閉じている。
今日は。
朝。
長い時間。
見なかった。
昼。
開けた。
白線は。
増えていた。
ノアが。
聞いた。
一つではないように聞こえた。
それだけ。
真実は。
分からない。
青年は。
窓へは向かわず。
机へ座った。
旅行記。
開く。
栞から。
続きを読む。
今日は。
海辺の町を。
旅人が出る場面だった。
宿の主人が。
旅人へ。
干した魚を持たせる。
『また来い』
短い。
言葉。
青年は。
そこだけ。
二回読んだ。
「また来い」
声に出す。
昨日。
門の外にいる少年も。
今日また街へ来ていた。
明日も来るかもしれない。
自分も。
明日。
店へ降りる。
木の実の菓子が。
また作られるかもしれない。
白線も。
増えるかもしれない。
全部。
同じ明日。
青年は。
頁を一つ。
進める。
しばらくして。
本を閉じた。
窓を見る。
今夜。
確認するか。
少し迷う。
朝。
開けなかった。
昼。
開けた。
夜。
「……一回だけ」
自分で決める。
立ち上がる。
窓掛け。
開いた。
白線。
昼と。
同じ。
少なくとも。
青年の目には。
そう見えた。
「増えてない」
声に出す。
安心したのか。
少し。
肩の力が抜ける。
でも。
そこに。
意味を足さない。
今日は。
増えなかった。
それだけ。
窓掛けを。
閉じる。
机へ戻る。
白線の向こうに。
一つの何かがいるのか。
いくつもの何かがいるのか。
誰かが見ているのか。
ただの現象なのか。
分からない。
けれど。
分からないものを。
一つだと決める必要も。
もうなかった。
青年は。
油灯を落とす。
眠る前。
自分で買った栞を。
指で。
一度だけ。
確かめた。
明日。
続きを読むために。




