第3章 第39話 「見ない時間」
翌朝、青年は目を覚ましても、すぐには窓掛けを開かなかった。
薄い朝日が灰色の布を透かし、部屋の輪郭だけをぼんやりと浮かび上がらせている。
窓の向こうには、昨日見つけた白い線がある。
消えているかもしれない。
増えているかもしれない。
何も変わっていないかもしれない。
確かめようと思えば、寝台から起きて数歩歩き、布を横へ引くだけでいい。
青年は枕元に置いていた鍵へ手を伸ばした。
そこにあることを指先で確かめてから、今度は机を見る。
アステルから借りた旅行記が置いてある。
昨日読み終えたところには、自分で買った細い栞が挟まっていた。
窓を開けるより先に、青年はそちらを手に取った。
一頁だけ読む。
まだ知らない文字が二つあった。
印を付ける。
あとで聞けばいい。
それから顔を洗い、服を着替え、扉の鍵を開けた。
結局。
窓掛けには触れなかった。
◇
「今日は見ないのか?」
一階へ降りると、店主が粉袋を持ったまま尋ねてきた。
青年は階段の最後の一段で足を止めた。
「何を?」
「窓だよ」
「見てない」
「怖い?」
「少し」
「じゃあ、見ないのか」
青年は考えた。
「それもある。でも」
「でも?」
「昨日、最後に『今日はもう見ない』って決めた」
「ああ」
「朝になったからって、すぐ見なきゃいけない?」
店主は粉袋を作業台へ置いた。
「俺に聞かれてもな」
「店主ならどうする?」
「気になったら見る」
「気にならない?」
「めちゃくちゃ気になる」
「じゃあ見る?」
「たぶん」
青年は少し笑った。
「俺も気になる」
「じゃあ?」
「でも、今は仕事する」
店主はしばらく青年を見ていた。
「……そうか」
「駄目?」
「駄目じゃない。昨日の騒ぎで店開けるの遅れたから、今日は助かる」
「昨日、俺休んだ?」
「午前の一部だけな」
「給料減る?」
「減らしてない」
「何で」
「俺が休めって言ったからだ」
「仕事してないのに?」
「お前、それ毎回聞くのか?」
「分からないから」
「働いた時間だけきっちり銅貨一枚ずつ払う仕事ばっかりじゃねえんだよ」
「難しい」
「そのうち覚えろ」
店主は棚を指差した。
「ほら。昨日冷ましておいた箱、表へ出してくれ」
「浅い方?」
「そう」
青年は箱を持ち上げた。
少し歩いてから。
「店主」
「今度は何だ」
「白い線、俺が見なくてもある?」
店主の手が止まった。
「……あるんじゃないか?」
「どうして分かる?」
「どうしてって」
答えに詰まる。
青年も。
すぐには次を言わなかった。
「見てない時」
ゆっくり続ける。
「どうなってるか、誰も分からない」
店主は青年を見る。
「そういう怖いこと、朝一番に言うのやめろ」
「怖い?」
「ちょっとな」
「俺も」
「じゃあ箱運べ」
「何で」
「俺まで考え始めるだろ!」
◇
イリスが再び菓子屋へ来たのは、開店からしばらく経ってからだった。
今日は一人ではない。
空白と星見が一緒だった。
三人が店へ入ると、青年はちょうど年配の客へパンを渡しているところだった。
「銅貨四枚」
「昨日は三枚だっただろ」
「それ別のパン」
「同じに見えるぞ」
「こっちは麦多い」
「本当か?」
青年が店主を見る。
「本当だ!」
奥から声が飛ぶ。
老人はまだ納得していない顔をしていたが、結局銅貨を四枚置いた。
「高くなったかと思った」
「俺も最初、全部同じに見えた」
「今は?」
「少し違う」
「じゃあ俺より詳しいな」
老人はパンを抱えて店を出ていった。
青年が振り返る。
「イリス」
「仕事中だった?」
「今終わった」
「少し話せる?」
青年は奥を見る。
「店主」
「聞こえてる。次の客来るまでならいいぞ」
「じゃあ話す」
青年は空白と星見を見る。
「二人も?」
「ああ」
星見が答えた。
「昨日の線について聞いた」
青年の表情が少し硬くなる。
星見はそれを見て、すぐに付け加えた。
「嫌なら、部屋には入らない」
「空白も?」
「お前の部屋だ」
空白は短く答えた。
「お前が決めろ」
青年は少しだけ迷った。
「見るだけ?」
イリスが答える。
「今日は、むしろ見ない話をしたい」
「見ない?」
「うん」
青年の眉が寄る。
「何で?」
星見と空白。
そしてイリス。
三人を順番に見る。
「先に」
青年が言った。
「ここで聞く」
「分かった」
イリスは素直に頷いた。
◇
店の隅にある小さな卓を借りた。
星見が椅子へ座り、空白は壁際に立ったまま。
イリスは紙すら出していない。
青年も向かいへ座る。
「昨日の線」
イリスが話し始めた。
「私たちは一度見た。形も記録した。でも、それだけではあの線が最初からあった傷なのか、昨日初めて出たものなのか、それとも今も変化しているものなのか分からない」
「傷じゃないって言ってた」
「普通の傷には見えない、とは言った。でも断定は出来ない」
「うん」
「それで空白に相談した」
青年は空白を見る。
「何で?」
「私より」
イリスは少し悔しそうに。
「見ないことに詳しいから」
青年が。
今度は本当に分からない顔をした。
「見るのに、詳しいじゃなくて?」
「逆」
星見が少し笑った。
「昔の観測所には、観測する役目だけじゃなく、あえて観測しない役目があった」
「空白?」
「ああ」
「何もしない?」
「そう見えるだろうな」
空白自身が答えた。
「見ることが、対象を変える可能性がある時がある」
「見たら変わる?」
「変わるかもしれない」
「見なかったら?」
「それを確かめるために、私がいた」
青年は。
しばらく。
空白を見る。
「どうやって確かめる?」
「最初に見る」
「見るんだ」
「何も知らなければ比較できない」
「それから?」
「目を離す」
「どのくらい」
「必要なだけ」
「必要って?」
「分からない」
「……空白もそれ言う」
「私は昔から言う」
星見が小さく吹き出した。
「そこ威張るところか?」
空白が一度だけ彼を見る。
「お前は見すぎた」
「否定できないな」
二人の間に。
昔から何度も繰り返したらしいやり取りの気配があった。
青年はそれを少し眺めてから、イリスへ戻る。
「それで俺の窓も見ない?」
「提案したい」
「何をする?」
「昨日の形は紙に残ってる。今、一度だけ線の状態を確認する。そのあと窓掛けを閉めて、全員部屋を出る」
「誰も見ない?」
「少なくとも、私たちは」
「どのくらい?」
「最初は一時間」
青年は黙った。
「そのあと?」
「あなたが窓掛けを開ける」
「俺?」
「嫌?」
「違う」
青年は少し考える。
「最初に俺が見る?」
「そのつもり」
「何で」
今度は空白が答えた。
「お前の部屋だからだ」
青年は。
その言葉を聞いて。
少しだけ視線を下げた。
「変わってたら?」
「記録する」
イリスが答える。
「変わってなかったら?」
「変わっていなかった、と記録する」
「それだけ?」
「今日はそれだけ」
「道具?」
「使わない」
「星脈も?」
「使わない」
「ノアは?」
「呼んでない」
「何で?」
「聞かせる必要があるか、まだ分からないから」
以前なら。
異常があれば。
能力を持つ者を集めていたかもしれない。
今は。
一度。
必要かどうかを。
考えている。
青年は。
ゆっくり頷いた。
「やる」
「本当に?」
アステルはいない。
代わりに。
イリス自身が確かめる。
「嫌になったら途中でもやめられる」
「一時間、見ないだけ?」
「そう」
「俺、仕事してていい?」
イリスが少し驚く。
「もちろん」
「じゃあやる」
◇
部屋へ入る前。
全員が扉の前で止まった。
青年が鍵を開ける。
それから。
自分で扉を開いた。
「入っていい」
三人が入る。
窓掛けは。
朝から。
閉じたままだった。
青年はその前に立つ。
「俺も朝、見てない」
イリスが動きを止める。
「一度も?」
「うん」
「起きてから?」
「ああ」
「どうして先に言わなかったの?」
「聞かれなかった」
店主の口癖が移ったような返事だった。
イリスは。
窓掛けを見る。
「じゃあ今の時点で、昨夜から誰も線を確認してない?」
「店主も見てない」
「何時間くらい?」
青年が首を傾げる。
「寝た時間、分からない」
「七、八時間はあると思う」
星見が窓の外の光を見て言う。
「なら」
イリスの声に。
わずかに好奇心が戻る。
すぐに。
自分で抑えた。
「……まず確認しよう」
青年が布へ手を掛ける。
少し。
止まる。
「怖い?」
星見が尋ねた。
「ああ」
「俺もだ」
「星見も?」
「こういう時に怖くなくなるほど、六百年は長くなかった」
「もっと長かったら?」
「それは試したくないな」
青年が。
ほんの少し笑う。
そして。
窓掛けを開いた。
◇
白線は。
残っていた。
昨日と同じ場所。
朝の光を受け。
硝子の中に浮かんでいる。
青年が。
最初に。
顔を近付けた。
「……増えてる?」
イリスの身体が僅かに動く。
でも。
青年が離れるまで。
近付かない。
「分からない」
青年は。
机の上にある。
昨日イリスが残していった簡単な写しを見る。
窓。
紙。
もう一度窓。
「ここ」
白線の。
下側。
「昨日なかった?」
イリスが。
「見てもいい?」
と確認する。
「ああ」
ようやく。
窓へ近付く。
紙と。
実物。
比べる。
「……一本」
星見が声を落とす。
空白は黙っている。
昨日。
一本の主線が曲がり。
短い線と交差していた。
今日。
その曲がった先。
さらに。
ごく短い線が。
伸びている。
長さにして。
指の爪ほど。
小さい。
見落としと言われれば。
否定し切れない。
「昨日、書き忘れた?」
青年が聞く。
イリスは。
窓から目を離さないまま。
「可能性はある」
「でも?」
「私は、なかったと思う」
「星見は?」
「昨日は見てない」
「空白」
「私も」
つまり。
昨日の記録が。
完全だという保証はない。
それでも。
白線は。
紙の写しより。
一つ。
多く見える。
「一時間」
青年が言った。
「まだやる?」
イリスが。
青年を見る。
「どうしたい?」
「変わったか」
窓。
見る。
「ちゃんと知りたい」
「ならやろう」
◇
イリスは今の状態を紙へ写した。
線の長さ。
曲がり。
新しく見える短い一本。
それ以上は何もしない。
終わると。
紙を持って部屋の外へ出た。
星見も続く。
空白も。
最後。
青年が。
窓を見る。
窓掛けへ手を伸ばす。
閉じた。
それから。
部屋の扉を。
自分で閉めた。
鍵を掛ける。
「鍵まで?」
星見が尋ねる。
「誰か入ったら、見えるから」
「なるほど」
イリスが時計代わりの砂器を置く。
「一時間」
青年が見る。
「その間、誰も開けない?」
「あなたが開けるまで開けない」
「本当に?」
「約束する」
「じゃあ」
青年は階段を下り始めた。
「仕事戻る」
「普通に?」
「他に何する?」
イリスは。
答えに困った。
星見が笑う。
「見習った方がいいんじゃないか」
「何を」
「待ち方」
「最近みんな私にそれ言う」
◇
一時間は。
思ったより長かった。
少なくとも。
イリスには。
青年は普通に仕事へ戻った。
パンを棚へ並べる。
客から銅貨を受け取る。
包み紙を折る。
店主に、
「それはそっちじゃない」
と二度言われる。
途中。
昨日灰都へ入り始めた少年が、ノアと一緒に店へ来た。
「今日も風呂?」
青年が聞く。
「今日は昼から」
「また?」
「悪い?」
「別に」
「ノアが来たから菓子見に来た」
「僕のせい?」
「半分」
少年が棚を見る。
「これいくら」
「銅貨三枚」
「持ってない」
「じゃあ買えない」
「厳しい」
「店だから」
店主が奥から。
「試食は今日はないぞ!」
と叫ぶ。
「まだ何も言ってない!」
「顔で分かる!」
「顔で分かるの流行ってる?」
青年が尋ねる。
「お前まで言うな!」
ノアが笑った。
その声を聞きながら。
イリスだけが。
何度も二階へ視線を向けそうになる。
そのたび。
自分で止めた。
「気になる?」
空白が尋ねる。
「すごく」
「見に行くか」
「行かない」
「なぜ」
「約束したから」
「なら、それでいい」
「試してる?」
「何を」
「私を」
「別に」
「絶対ちょっと楽しんでるでしょ」
空白は。
答えなかった。
星見は。
横で笑っている。
「星見」
「何も言ってない」
「顔」
「最近流行ってるらしいぞ」
◇
砂が落ち切った。
一時間。
青年は。
ちょうど客へ釣り銭を渡していた。
店主が言う。
「行ってこい」
「仕事」
「一時間経ったんだろ」
「今、客いる」
「俺がやる」
青年は客を見る。
中年の男。
「途中だけど」
「大丈夫だ」
客自身が言った。
「何かあるんだろ」
「窓」
「窓?」
「白い線」
「……聞かなかったことにした方がいいやつか?」
店主が。
「たぶんな」
と答える。
男は。
「じゃあ聞かん」
とすぐに棚へ視線を戻した。
「灰都の人、そういうの上手い」
青年が言う。
「何が」
「聞かないの」
「最近色々ありすぎるからな!」
青年は二階へ向かった。
イリス。
星見。
空白も続く。
ノアと少年は。
何かを察したのか。
店に残った。
「僕も行く?」
ノアが聞いた。
青年は少し考えた。
「今日はいい」
「分かった」
それだけ。
ノアは付いてこなかった。
◇
扉の前。
青年が鍵を開ける。
部屋へ入る。
窓掛け。
閉じたまま。
「誰が最初に見る?」
イリスが尋ねる。
青年は。
少し意外そうな顔をした。
「俺じゃないの?」
「嫌になったかもしれないから」
「俺が見る」
「分かった」
三人は。
青年より。
少し後ろへ下がった。
青年は。
窓の前へ。
立つ。
右手。
布の端。
一度。
息を吐く。
開いた。
朝の光は。
もう。
昼の明るさへ変わっている。
白線。
ある。
青年が。
動かない。
「どう?」
イリスが聞く。
「待って」
誰も。
近付かない。
青年は。
机に置かれた。
一時間前の写しを取る。
窓。
紙。
交互に見る。
「……増えた」
声は。
大きくなかった。
それでも。
部屋の空気が。
変わった。
「どこ?」
「ここ」
青年は。
指で。
硝子へ触れず。
位置だけ示す。
主線の上側。
一時間前にはなかった。
新しい。
短い線。
一本。
今度は。
イリスの記録にも。
はっきり存在していない。
「見てもいい?」
「うん」
イリスが近付く。
紙と照らす。
数秒。
十数秒。
そして。
大きく息を吐いた。
「増えてる」
星見の顔から。
普段の柔らかな表情が消える。
「見ていない間に?」
イリスは。
すぐ首を振る。
「そうとはまだ言えない」
「一時間前になかった」
「少なくとも私たちの記録にはない。でも『見ていないから増えた』のか、『時間が経ったから増えた』のかは分からない」
青年が。
白線を見る。
「誰かが書いてる?」
「分からない」
「向こうから?」
「分からない」
「俺を見ながら?」
「それも――」
「分からない」
青年が。
先に言った。
イリスの口が閉じる。
「……うん」
青年は。
窓から。
一歩。
離れた。
「嫌だな」
「怖い?」
星見が尋ねる。
「怖い」
青年は。
正直に。
答えた。
「でも」
机。
本。
鍵。
窓掛け。
自分の部屋。
「昨日よりは、逃げたくない」
空白が。
そこで初めて。
窓の近くへ行った。
「見ていいか」
「うん」
白線へ。
長くは。
視線を置かない。
一度見る。
紙を見る。
もう一度。
窓。
それから。
離れた。
「何か分かる?」
青年が聞く。
「一つだけ」
イリスと星見も。
空白を見る。
「これは」
空白は。
白線ではなく。
青年を見る。
「お前が見ていない間も、変化する可能性がある」
「可能性」
「そうだ」
「見てないから?」
「そこは分からない」
「じゃあ一つじゃない」
「大事なのは」
空白が続ける。
「お前が見張り続けても、止められるとは限らないということだ」
青年は。
何も言わなかった。
「昨日から」
空白は。
ゆっくり言う。
「窓を気にして、何度も見たくなっただろう」
「うん」
「見ていれば安全だと思ったか」
「少し」
「私も昔そう思った」
星見が。
空白を見る。
彼女は。
そちらを見ない。
「見ていれば、異変を早く見つけられる。見落とさなければ、誰かを守れる。そう思っていた」
「違った?」
「見続けること自体が、危険になる時もあった」
「だから見なくなった?」
「全部ではない」
空白は。
窓掛けへ視線を向ける。
「見る時を選ぶようになった」
青年の指が。
自分で買った。
灰色の布へ触れる。
「俺も?」
「お前が決めろ」
また。
その答え。
でも。
青年は。
以前ほど困った顔をしなかった。
「今日は」
布。
閉じる。
「仕事終わるまで見ない」
イリスが尋ねる。
「その間に、また変わるかもしれないよ」
「うん」
「怖くない?」
「怖い」
「それでも?」
青年は。
窓掛けから手を離した。
「ずっと見てたら」
少し考える。
「仕事出来ない」
星見が。
思わず。
笑った。
「そこか」
「大事」
「そうだな」
星見は。
本当に。
楽しそうに頷いた。
◇
その日の調査は。
そこで終わった。
イリスは。
もう一度一時間。
試したいとは言わなかった。
星脈器具も。
出さない。
ノアに。
音を聞いてもらおうとも。
しなかった。
ただ。
新しい線を。
紙へ書き加える。
『非観察時間、一時間後に一線増加を確認』
その下。
少し。
考え。
『原因未確定。非観察との因果関係は不明』
さらに。
もう一行。
『次回観察は本人希望を優先』
青年が。
横から。
それを見る。
「俺?」
「そう」
「書くんだ」
「嫌?」
「嫌じゃない」
「じゃあ残す」
その紙を。
イリスは。
青年へ見せてから。
箱へ入れた。
◇
店へ戻ると。
ノアたちはまだいた。
「増えた?」
ノアが尋ねる。
青年が。
少し驚く。
「何で分かった」
「顔」
「また?」
「違う」
ノアは兎耳を揺らす。
「イリスがすごい考えてる顔してた」
「分かる?」
「うん」
イリスが。
少し不満そうに。
「私そんな分かりやすい?」
星見。
空白。
青年。
ノア。
四人とも。
何も言わない。
「何で黙るの!」
店主が奥から笑った。
少年は青年を見る。
「怖いの?」
「ああ」
「部屋変える?」
「変えない」
「何で」
青年は。
さっき。
自分が言ったことを。
もう一度。
考える。
「俺の部屋だから」
「変な線あるのに?」
「ああ」
「怖いのに?」
「ああ」
「……俺、門の外にいるのと似てる?」
青年が。
少年を見る。
「何が」
「怖いけど」
少年は。
少し。
言葉を探す。
「そこにいたい」
青年は。
しばらく考えてから。
「少し似てる」
「じゃあ両方」
ノアが笑う。
「またそれ」
青年も。
少し。
笑った。
◇
夜。
青年が仕事を終え。
二階へ戻ると。
窓掛けは。
昼に閉めた時のままだった。
誰も。
触っていない。
店主も。
イリスも。
ヴェスパーも。
入っていない。
青年は。
扉を閉め。
自分で。
鍵を掛ける。
机へ。
今日の賃金を置く。
旅行記。
開く。
しばらく。
読む。
二頁。
三頁。
知らない文字。
一つ。
今日は店主も寝る前で忙しい。
明日。
聞けばいい。
窓。
見ない。
白線が。
増えているかもしれない。
変わっていないかもしれない。
消えているかもしれない。
気になる。
胸の奥が。
落ち着かない。
青年は。
一度。
本を閉じかける。
窓へ。
視線が行く。
でも。
立たなかった。
もう少し読む。
一頁。
旅行記の中では。
海辺の町へ。
旅人が着いていた。
冬。
強い風。
塩で白くなった家。
知らない食べ物。
読める文字。
読めない文字。
青年は。
その中へ。
少しずつ。
進む。
やがて。
本を閉じた。
窓掛けは。
まだ。
閉じている。
今夜。
開くか。
開かないか。
青年は。
考えた。
そして。
開かなかった。
「明日でいい」
声に出す。
白線が。
待ってくれる保証はない。
謎が。
こちらの都合を考えてくれるわけでもない。
それでも。
自分まで。
謎の都合に。
全部合わせる必要はない。
青年は灯りを落とし。
寝台へ入った。
しばらく。
窓の方を見ていた。
布の向こう。
何が起きているのか。
分からない。
怖い。
それでも。
今夜。
自分が見るものは。
もう決めた。
旅行記の。
海辺の町。
焼き菓子の棚。
昼に笑った少年。
明日覚える文字。
青年は。
目を閉じた。
窓掛けは。
朝まで。
開かなかった。




