第3章 第38話 「窓辺の白線」
名前のない青年が異変に気付いたのは、目を覚ましてすぐのことではなかった。
朝の支度を済ませ、店へ降りる前に昨夜読んでいた旅行記を机へ戻そうとした時だった。
窓から差し込む朝日はまだ弱い。夜の冷気が残る硝子には薄く曇りが生じ、外の西通りも輪郭が滲んで見えている。
青年は窓辺に立ち、習慣になり始めたように通りを見下ろした。
菓子屋の主人が裏口から薪を運んでいる。向かいの家では老婆が玄関前を掃き、少し離れたところを眠そうな門衛が歩いていた。
昨日と同じ朝だった。
違っていたのは、窓の右隅だけだった。
「……これ」
青年は顔を近付けた。
硝子に付いた曇りの中へ、一本の白い線が浮かんでいる。
最初は、指で触れた跡だと思った。
自分が昨夜、本を読みながら窓へ手を置いたのかもしれない。あるいは、外側へ灰が付着しただけかもしれない。
青年は袖口で硝子を軽く拭いた。
周囲の曇りだけが消えた。
白い線は残った。
「……違う」
もう一度、今度は指先で触る。
表面に凹凸はない。
爪を立てても引っ掛からない。
青年は窓を開け、身を乗り出さないよう気を付けながら外側も確かめた。
そこにも傷はない。
白いものが付着しているわけでもなかった。
線は。
硝子の中にあるように見えた。
一本。
途中で折れ曲がり。
その先に、ごく短い線が交差している。
青年は、その形を知っていた。
旧採石場で見つかった黒い灰。
その裏側に刻まれていた白い線。
イリスが黒翼の資料と並べていた、小さな図。
完全に同じではない。
それでも。
似ている。
青年は窓から一歩離れた。
胸元へ手を当てる。
黒火は暴れていない。
痛くもない。
けれど、普段より少しだけ熱い気がする。
昨日までなら。
自分の感じ方が正しいのか分からず、そのまま誰かが来るのを待っていたかもしれない。
今は。
扉の鍵を自分で開けた。
廊下へ出る。
階段を降りる途中で、店主と鉢合わせた。
「お、起きたか。ちょうど呼ぼうと思ってた。昨日の粉――」
「店主」
「何だ」
「見てほしいものがある」
声がいつもと違ったのだろう。
店主は途中まで持ち上げていた粉袋を、その場へ静かに下ろした。
「身体か?」
「違う。窓」
「窓?」
「白い線がある」
店主の眉が寄る。
「傷か?」
「触れない」
「どういう意味だよ」
「見れば分かる」
「お前までそれ言うようになったか」
普段なら続く軽口は。
そこで終わった。
◇
店主は窓を三度調べた。
最初は室内。
次に外側。
最後は物置から持ってきた布へ水を含ませ、硝子を丁寧に拭いた。
それでも白線は消えなかった。
「昨日からあったか?」
店主が尋ねる。
「分からない。夜は気付かなかった」
「窓に何かぶつけたとか」
「ない」
「本は?」
「本?」
「硬い物でもぶつけたかと思ってな」
「机から動かしてない」
店主は腕を組み、硝子を横から覗いた。
「中に入ってるみたいに見えるな」
「俺もそう思った」
「気のせい、って言って終わらせたいんだが」
「終わる?」
「終わらねえから困ってる」
青年は少し黙った。
「イリス呼ぶ?」
「呼ぶ」
店主の答えは早かった。
「ただし、お前が嫌じゃなければだ」
青年は反射的に窓を見た。
「嫌」
「来てほしくない?」
「違う」
言葉を選ぶ。
「これがあるのが嫌。調べるのは……来てほしい」
「分かった」
店主は階段へ向かった。
「下の小僧に西門まで走らせる。店は俺一人でも何とかなる」
「俺も仕事する」
「今日は先にそっち片付けろ」
「でも」
「お前の部屋に変なもん出てんのに、菓子包ませてる場合か」
青年の表情が僅かに曇った。
店主はそれを見逃さなかった。
「仕事から外すって意味じゃねえぞ」
「……本当に?」
「落ち着いたら降りてこい。午前全部休んでも今日の仕事がなくなるわけじゃない」
「分かった」
「あと」
店主は部屋を出る直前に振り返った。
「誰か来ても、嫌なら勝手に入れなくていいからな」
「イリスも?」
「特にイリス」
「聞こえたら怒る」
「今いねえから平気だ」
青年は。
少しだけ笑った。
◇
最初に来たのはセレスだった。
その後ろにイリスとアステル。
さらに少し遅れて、ヴェスパーも階段を上がってきた。
「ガルムは?」
青年が尋ねた。
ヴェスパーが変な顔をした。
「最初にそれ聞く?」
「来た?」
「来てない。古い街道図をアルドと見てる」
「ならいい」
「まだ警戒してるのか」
「勝手に入ってきそうだから」
「本人に言うなよ」
「もう言った」
「……いつ?」
「昨日」
ヴェスパーは天井を見た。
「何て?」
「鼻で笑った」
「それなら大丈夫だ」
「何で」
「たぶん気を付ける」
「たぶん?」
「ガルムだから」
そこで。
扉が二度叩かれた。
「入っていい?」
廊下からイリスの声。
青年は少し驚く。
すでに扉は開いていた。
それでも。
彼女は入らず待っている。
「いい」
「ありがとう」
イリスはそこで初めて部屋へ入った。
手にはいつもの道具箱がある。
ただし、蓋は閉じたままだ。
「どこ?」
青年が窓を指した。
イリスはすぐ近付こうとして、途中で青年を見る。
「見るだけなら、そばへ行っていい?」
「ああ」
「触るのは?」
「先に言って」
「分かった」
アステルが。
そのやり取りを静かに見ていた。
セレスはまず青年自身へ向かう。
「胸の火に変化は?」
「少し熱い気がする」
「痛みはありませんか?」
「ない」
「息苦しさ、目眩、吐き気は?」
「ない」
「触診しても?」
青年が頷く。
「いい」
セレスは胸元へ手を当て、呼吸と鼓動を確認した。
「心拍は少し速いですが、大きな異常はありません。火が原因か、不安によるものかは今の段階では分かりません」
「怖いから?」
「それもありえます」
「怖いだけで速くなる?」
「なります」
「普通?」
セレスはほんの少し笑った。
「とても普通です」
その言葉を聞いて。
青年の肩がわずかに下がった。
◇
イリスはしばらく窓を見ていた。
近付く。
角度を変える。
朝日に透かす。
外へ回り込む。
戻ってくる。
けれど。
道具箱は開けない。
「どう?」
青年が尋ねた。
「分からない」
「早い」
「先に正直に言っとく方がいいでしょ」
「それはそう」
イリスは机を借り、紙へ白線の形を写し始めた。
「まず確認できることだけ。線は硝子の表面についてない。傷にも見えない。外側からも内側からも触れない」
「中?」
「そう見える。でも、本当に硝子の内部に何かがあるのか、それともそう見えているだけなのかはまだ分からない」
ヴェスパーが窓を覗く。
「採石場の灰と似てるな」
「私もそう思う」
「同じ?」
「そこまでは言えない」
イリスは紙を二枚並べた。
一枚は今日の窓。
もう一枚は、以前灰から写し取った白線。
折れ方は似ている。
ただし。
完全には重ならない。
「黒翼の観測図とも?」
アステルが尋ねた。
「一部は似てる」
イリスは手を伸ばしかけ。
途中で止まった。
道具箱。
青年。
交互に見る。
「拡大鏡だけ使っていい?」
「星脈の?」
「普通の光学式」
「何も流さない?」
「流さない」
「ならいい」
そこでようやく道具箱を開ける。
小さな拡大鏡。
それ以外。
触らない。
青年は、その様子をじっと見ていた。
「イリス」
「何?」
「使いたくない?」
「何を?」
「いっぱい道具」
イリスの手が止まる。
「使いたい」
素直に答えた。
「すごく」
「じゃあ何で使わない」
「あなたの部屋だから」
青年は。
少しだけ。
目を見開いた。
「それだけ?」
「それだけで十分じゃない?」
イリスは拡大鏡を窓へ向ける。
「それに、強い観測をしたら現象そのものが変わる可能性もある。今回は慎重にする理由が二つある」
「俺と」
「現象」
「どっちが先?」
イリスは。
今度は。
考えなかった。
「あなた」
短い答えだった。
けれど。
青年は。
それ以上聞かなかった。
◇
調査は驚くほど地味だった。
白線の長さを測る。
窓の厚さを確認する。
昨日の天気を店主へ尋ねる。
夜間に誰かが外階段へ上がらなかったか確かめる。
店主は、寝る前に一階の戸締まりをした時には何も見ていない。
青年自身も、夜に窓を開閉している。
それでも白線には気付かなかった。
「じゃあ夜から朝の間?」
ヴェスパーが言う。
「可能性が高い、くらい」
イリスは書きながら答える。
「断定はしない」
「誰も責めてないぞ」
「最近みんな私のこと心配しすぎ」
「前科があるから」
「ヴェスパーまでガルムみたいなこと言わないで」
青年が窓を見る。
「これ」
「うん?」
「誰か見てる?」
今まで。
誰も口にしなかった問いだった。
部屋の空気が。
わずかに変わる。
イリスは紙から目を上げた。
適当な慰めは言わない。
「分からない」
青年は。
少しだけ唇を結ぶ。
「でも」
イリスは続けた。
「前に見つけた灰の線と、黒翼が『逆観測』って呼んでいた研究には似ている部分がある。だから、可能性を完全に否定はできない」
「向こう側から?」
「それも分からない」
「じゃあ何も分からない」
「うん」
青年の声に苛立ちが混じる。
「嫌だ」
「何が?」
アステルが静かに聞いた。
「ここ」
青年は部屋を見回した。
「やっと俺が閉める場所になったのに」
誰も。
口を挟まない。
「扉はノックする。店主も。ヴェスパーも。イリスも今聞いた」
窓へ視線を戻す。
「でも、これが誰かが見てる印なら」
白い線。
「勝手に入ってきたのと同じじゃないか」
アステルの目が。
僅かに細くなる。
彼女には。
その嫌悪が。
よく分かるのだろう。
「部屋を変えますか?」
セレスが尋ねた。
「別の場所を用意してもらうことはできます」
青年は。
すぐには答えなかった。
ベッド。
机。
アステルから借りた本。
自分で買った細い栞。
昨日までに稼いだ銅貨。
焼き菓子の包み紙。
少しずつ。
増えてきた。
自分のもの。
「変えたら」
青年が言う。
「これ、来ない?」
イリスは首を横に振った。
「約束できない」
「俺についてきたら?」
「可能性はある」
「窓についてきたなら?」
「それもある」
「じゃあ」
青年は。
少し。
困ったように笑った。
「どこ行っても分からない」
「そうですね」
セレスが答えた。
青年は。
もう一度。
窓を見る。
「……ここにいる」
アステルが尋ねる。
「無理をしていませんか?」
「怖い」
「はい」
「嫌」
「はい」
「でも」
青年は。
机の上の本へ手を置く。
「これのせいで出ていくのも嫌」
アステルは。
ほんの少し。
表情を緩めた。
「では、残りましょう」
「いい?」
「あなたの部屋でしょう」
◇
問題は。
窓だった。
「ずっと見えるの嫌」
青年が言った。
「白線を?」
「ああ」
「布でも掛けるか?」
ヴェスパーの言葉に。
青年が顔を上げる。
「布?」
「窓掛け」
店主が階段を上がってきたところで話を聞き、腕を組んだ。
「古いやつなら物置にあるぞ」
「閉められる?」
「何を」
「窓」
「窓そのものは今も閉まってるだろ」
「違う」
青年は少し考え。
「見えなくする」
「ああ、そういうことか」
店主は窓の上を見た。
「棒一本付けりゃ布垂らせる。昼も閉めたいなら厚手の方がいい」
「自分で開ける?」
「布を?」
「ああ」
「そりゃ自分で好きにしろ」
「閉めるのも?」
「好きにしろって」
青年は。
少しだけ。
考えた。
「欲しい」
「じゃあ昼までに付けてやる」
「買う」
店主が眉を上げる。
「古布だぞ」
「お金ある」
「別に金取らなくても」
「買いたい」
今度は。
青年が譲らなかった。
店主は顔を見て。
理由を聞かなかった。
「分かった。布代だけな。取り付けは俺がやる」
「何で?」
「大家だから」
「店主じゃない?」
「両方なんだよ!」
青年が笑った。
ヴェスパーも。
少し。
笑う。
白線は。
まだそこにある。
それでも。
さっきまでの張り詰めた空気は。
少しだけ。
薄くなった。
◇
午後。
窓掛けが付いた。
濃い灰色の布だった。
古い。
端には何度か縫い直した跡がある。
けれど。
窓を隠すには十分。
店主が壁へ棒を固定し、布を掛ける。
「引っ張るなよ。壁ごと落ちたら俺が泣く」
「レイラじゃない」
「お前がレイラみたいにならない保証はない」
「嫌」
「そこまで嫌がる?」
青年は。
新しい窓掛けを。
ゆっくり閉じた。
白い線が。
見えなくなる。
「……いい」
「暗いぞ」
「開けたい時は開ける」
「まあ、それが窓掛けだからな」
青年は布の端へ触れる。
そして。
もう一度。
開く。
白線。
ある。
閉じる。
消えるわけではない。
ただ。
見えなくなる。
その違いを。
青年は。
何度か。
自分で確かめた。
「遊ぶなよ」
「遊んでない」
「じゃあ何してる」
「閉められるか確認」
店主は。
少しだけ。
黙った。
「そうか」
それ以上。
何も言わなかった。
◇
その日の午後。
イリスは西門詰所へ戻り、調査記録を一枚だけ追加した。
窓に現れた白線。
形。
大きさ。
発見時刻。
身体への影響は不明。
黒火は僅かな熱感のみ。
星脈器具による観測は行わず。
原因不明。
最後。
一行。
『逆観測現象との関連――未確定』
書き終える。
紙を閉じる。
「それだけ?」
向かいにいた空白が尋ねた。
「それだけ」
「窓の位置は?」
「書いた」
「青年との距離」
「書いた」
「向こう側との関連」
「未確定」
「仮説は?」
「頭の中にはある」
「書かない?」
「まだ」
空白は。
少しだけ。
イリスを見る。
「変わったな」
「それ今日言ったら四人目」
「そうか」
「もっと違う感想ない?」
「ない」
「空白らしいね」
イリスは。
記録を箱へ入れた。
「一個だけ気になる」
「何」
「灰の白線は、人が拾って初めて見つかった」
「そうだな」
「今日のは」
窓。
青年の部屋。
「向こうから見つけに来たみたいに感じる」
空白が。
すぐに答えない。
イリスも。
その言葉を。
記録へは書かなかった。
「感じるだけ」
自分で付け加える。
「今はね」
空白が頷いた。
「それでいい」
◇
夜。
青年は仕事を終え。
二階へ戻った。
今日は少し疲れている。
朝から。
色々あった。
それでも。
店の仕事はした。
箱も運んだ。
客へ菓子を渡した。
昼には。
昨日の女性が。
店へ来た。
少し迷ったあと。
青年から。
菓子を一つ買った。
触ることも。
包むことも。
止めなかった。
会話は。
「これ」
「はい」
「ありがとう」
それだけ。
でも。
青年には。
それで十分だった。
部屋へ入る。
鍵を掛ける。
窓を見る。
灰色の布。
閉じている。
向こうには。
白線がある。
青年は。
すぐには開けなかった。
机へ座る。
アステルから借りた旅行記を開く。
栞。
昨日。
分からなかった文字。
今日は。
店主に聞いた。
『外套』
旅人は。
帽子より先に。
外套をしっかり閉じた方がいい。
そんな文章だった。
「外套」
声に出して。
読む。
分かる。
一行。
次。
また。
知らない文字。
青年は。
指で。
小さな印を付けた。
明日。
誰かに聞く。
外。
風。
少し強い。
窓掛けが。
わずかに揺れる。
青年の目が。
そちらへ向く。
白線。
まだ。
ある。
たぶん。
誰かが。
見ているのかもしれない。
違うのかもしれない。
それは。
まだ。
分からない。
青年は。
本へ。
視線を戻す。
一頁。
読む。
次の頁へ進む。
しばらくして。
本を閉じた。
今度は。
自分から。
窓辺へ立つ。
布の端へ。
手を掛けた。
一度。
開く。
夜の硝子。
白い線。
朝と同じ場所。
変わっていない。
胸の黒火も。
静かだった。
「……まだいる」
白線へ向かって。
言う。
誰も。
答えない。
青年は。
少し。
考えた。
「今日はもう見ない」
窓掛けを閉じる。
今度は。
そのまま。
手を離した。
白線は。
消えていない。
謎も。
解けていない。
それでも。
今夜。
それを見るかどうかだけは。
自分で決められた。
青年は。
机へ戻り。
油灯の明かりを少し落とした。
そして。
眠る前に。
もう一頁だけ。
本を開いた。




