第3章 第37話 「覚えていない文字」
アステルが本を持って菓子屋を訪ねたのは、西門が開いてから一時間ほど経った頃だった。
朝の客がひと段落するにはまだ少し早い時間で、店先には焼き上がったばかりのパンと菓子の匂いが満ちていた。
扉を開けると、小さな鈴が鳴る。
「いらっしゃ――」
棚の前で包み紙を折っていた青年が、途中で言葉を止めた。
「アステル」
「おはようございます」
「客?」
「今日は違います」
アステルが脇に抱えていたものを見せる。
一冊の本だった。
厚くはない。
濃茶色の布張りで、角は使い込まれて柔らかくなっている。装飾も題字も控えめで、研究書のような堅苦しさはなかった。
青年は包み紙を置いた。
「それ」
「約束したでしょう」
「本?」
「はい」
青年はすぐに近付こうとして、途中で止まった。
店の奥を見る。
「今、仕事」
「邪魔でしたか?」
「分からない。店主に聞く」
その判断が自然に出たことに、アステルは少しだけ目を細めた。
以前の彼なら、誰かに「こうしろ」と言われるまで動かなかった。
最近は違う。
自分で判断できない時、自分から確認する。
それも一つの選択なのだろう。
「店主!」
青年が奥へ声を掛けた。
「何だ!」
「アステル来た!」
「聞こえてる!」
「本持ってきた!」
「それも見りゃ分かる!」
厨房から店主が顔を出した。
手には粉が付いている。
「休憩まであと少しだ。急ぎじゃないなら、その辺で待ってもらってくれ」
「急ぎ?」
青年がアステルを見る。
「急ぎません」
「じゃあ待つ」
「お前も仕事に戻れ!」
「分かった」
青年は素直に棚へ戻った。
アステルは店の隅にある小さな席を借りることにした。
「何か買いますか?」
青年が聞く。
「仕事へ戻ったのでは?」
「注文取るのも仕事」
「そうでしたね」
棚を見る。
「では、薄焼きを一つお願いします」
「柔らかい方は?」
「今日は薄焼きで」
「固いよ」
「知っています」
「俺は好き」
「それも知っています」
青年は少し満足したように頷き、棚から菓子を一枚取った。
包み紙を広げる。
以前より手つきが速い。
ただし、折り目の一つが少し曲がった。
青年はそれを見て、直そうとした。
「そのままで構いません」
「曲がってる」
「中身は落ちません」
「でも昨日より下手」
「昨日より下手な時もあります」
青年の指が止まる。
「そうなの?」
「ありますよ」
「上手くなったら、ずっと上手いんじゃない?」
「疲れていたり、考え事をしていたりすれば失敗します」
「戻る?」
「何がですか?」
「下手に」
アステルは少し考えた。
「一時的に出来なくなることと、覚えたことが全部なくなることは別だと思います」
青年は曲がった包みを見る。
それから。
「じゃあ、これでいい」
と言ってアステルへ差し出した。
「ありがとうございます」
「銅貨二枚」
しっかり代金も取られた。
◇
午前の仕事が一段落すると、店主は青年へ休憩を言い渡した。
青年は二階へ上がらず、アステルの向かいへ座った。
「本」
「読みますか?」
「見る」
「読むのでは?」
「読めるか分からないから」
「そうでしたね」
アステルは本を机の上へ置いた。
「先に言っておきますが、難しい本ではありません」
「研究?」
「違います」
「黒翼?」
「まったく関係ありません」
「じゃあ何」
「旅行記です」
「旅行」
「昔、各地を歩いた人が、その土地で見たものや食べたものを書いた本です」
青年の表情に、少し興味が浮かぶ。
「食べ物も?」
「かなり」
「それなら見る」
「食べ物だけではありませんよ」
「分かってる」
アステルは本を開いた。
最初の頁。
紙は少し黄ばんでいる。
大きな文字で題名が書かれ、その下に作者名がある。
「これ」
青年が指差した。
「何て書いてある?」
「先に、あなたが読んでみませんか?」
「分からない」
「見ても?」
青年は頁へ顔を近付けた。
文字を。
一つずつ。
目で追う。
最初は。
本当に分からない顔をしていた。
だが。
数秒。
その表情が変わる。
「……北」
アステルは何も言わない。
青年の指が。
次の文字へ動く。
「北……海?」
また。
一文字。
「歩……記」
青年が顔を上げた。
「何で?」
「読めましたね」
「知ってる?」
「あなたが?」
「ああ」
「そうみたいです」
青年はもう一度題名を見る。
「俺、習った?」
「私は知りません」
「覚えてない」
「はい」
「でも読める」
「そうですね」
青年は。
嬉しそうにはしなかった。
むしろ。
少し不安そうだった。
「もう一回」
頁を戻す。
別の箇所。
短い文章。
青年はゆっくり読む。
「冬……海沿い……道は、風が……」
そこで止まる。
「強い?」
アステルが尋ねる。
「たぶん」
「合っています」
青年は手を引いた。
まるで。
本の方が急に。
知らないものへ変わったように。
「俺の?」
「何がですか?」
「読めるの」
「今、あなたが読んでいました」
「でも覚えてない」
アステルは。
すぐに答えなかった。
この不安は。
簡単な言葉で消していいものではない。
「身体が覚えていることはあります」
「身体?」
「歩き方や、匙の持ち方のように。どこで習ったか思い出せなくても、出来ることはあるでしょう」
「俺、歩けた」
「はい」
「話せた」
「そうです」
「文字も?」
「可能性はあります」
青年は。
自分の手を見る。
「誰が覚えた?」
「……それは分かりません」
「俺じゃない?」
「そこを私が決めるのは違うと思います」
青年の眉が寄る。
「また分からない」
「はい」
「アステルも?」
「分からないことはあります」
「大人なのに」
「大人だから増えることもあります」
「それ、便利」
「ノアにも言われました」
少しだけ。
青年が笑った。
けれど。
まだ。
本には触れない。
◇
「読めた?」
昼を少し過ぎた頃。
菓子屋へ顔を出したリクが、椅子へ腰掛けながら尋ねた。
今日はセレスの許可を得て、短時間だけ外へ出ている。
長く歩くのはまだ難しいため、店まではアルドが作った簡易椅子で運んでもらった。
今は店先。
背もたれへ身体を預けている。
「少し」
青年が答える。
「覚えてた?」
「覚えてない」
「じゃあ何で読めるの」
「それで困ってる」
「そうなんだ」
リクは本を見る。
「俺も読める」
「覚えてる?」
「ああ」
「誰に教えてもらった?」
リクの表情が。
わずかに曇った。
「研究所」
「黒翼?」
「うん」
青年は。
すぐに質問を続けなかった。
最近。
相手が嫌そうにした時。
止めることも。
少しずつ覚えている。
「嫌?」
「何が」
「思い出すの」
リクは。
しばらく。
答えなかった。
「嫌な時もある」
「じゃあ忘れたい?」
「前は」
リクは。
自分の膝へ。
目を落とす。
「全部なくなれば楽だと思ってた」
青年が。
黙って聞く。
「命令とか。研究所のこととか。痛かったこととか。誰が死んだとか」
言葉は。
急がない。
「でも」
「うん」
「今は、全部なくなるのは嫌」
「何で?」
「覚えていたい人もいるから」
青年の表情が変わる。
「黒翼の人?」
「黒翼にいた人」
「違う?」
「……たぶん」
リクは少し考えた。
「同じところにいたからって、全部同じ人じゃなかった」
アステルは。
少し離れた席で。
口を挟まず聞いている。
「優しい人?」
青年が尋ねる。
「いた」
「オルディス?」
リクの顔が。
あからさまに嫌そうになる。
「違う」
「分かった」
「即答するんだ」
「顔」
「そんなに?」
「分かりやすい」
リクが。
少し笑った。
「誰?」
青年が聞く。
今度は。
リクが。
自分で答える。
「名前、覚えてない人もいる」
「名前ない?」
「そうじゃなくて」
リクは眉を寄せる。
「顔は覚えてる。声も。何してくれたかも。でも名前だけ、出てこない」
「それでも覚えてる?」
「ああ」
「変」
「変かな」
「名前なくても」
青年は。
自分のことも含めて。
考える。
「覚えてるんだ」
「うん」
「じゃあ名前、なくてもいい?」
「俺に聞く?」
「名前あるから」
「リクは自分で決めた」
アステルが。
静かに言った。
リクが。
少し。
照れたように。
視線を逸らす。
「ノアに聞かれたから」
「何て?」
「何て呼ばれたいって」
「それでリク?」
「ああ」
「どうして」
リクは。
すぐには答えなかった。
「……短かったから」
「それだけ?」
「その時は」
「今は?」
青年の質問に。
リクは少し考える。
「呼ばれると」
店の中。
店主。
外。
人の声。
「俺のことだって分かる」
青年が。
以前ヴェスパーから聞いた答えを。
思い出す。
ほとんど。
同じだった。
「ヴェスパーも言ってた」
「何を?」
「呼ばれたら振り向くから、自分の名前」
「そうなんだ」
「リクも?」
「うん」
青年は。
少し。
不思議そうだった。
「みんな、同じ?」
「分からない」
リクが言う。
「でも俺はそう」
◇
店主が三人分の水を持ってきた。
「話すのはいいけど、こいつを研究対象みたいに囲むなよ」
アステルが店主を見る。
「私はそのつもりはありません」
「分かってる。念のためだ」
「私よりイリスへ言ってください」
「昨日言った」
「何て?」
「仕事中に機械持ち込むな」
青年が頷く。
「言ってた」
「イリスは?」
「嫌そうだった」
「だろうな」
「でも守るって」
「ならいい」
店主はリクを見る。
「お前、何か食うか?」
「金、少しある」
「聞いてるのは腹の話だ」
リクが。
少し戸惑う。
「食べたい」
「甘いの平気?」
「たぶん」
「じゃあ小さいの一個にしとけ。治療師に怒られるの俺だから」
「セレス?」
「あの人、静かに怒るから怖い」
アステルが少しだけ笑った。
「分かります」
「分かるんだ」
「ええ」
青年は。
店主が棚へ向かうのを見てから。
リクへ尋ねた。
「リク」
「何」
「忘れたいこと」
「うん」
「覚えてたいこと」
「ああ」
「分けられる?」
リクは。
しばらく。
黙った。
「出来たらいいけど」
「出来ない?」
「たぶん」
「嫌な記憶だけ消すとか」
「研究所ならやりそう」
リクの声に。
少し。
苦さが混じる。
「でも」
水を。
一口飲む。
「それを誰かに決められるのは、もう嫌」
青年が。
動きを止める。
「誰かに?」
「『これはいらない』『これは残す』って」
リクは。
自分の頭へ。
指を触れる。
「俺の中のことなのに」
青年は。
胸ではなく。
今度は。
自分の額へ手を当てた。
覚えていない。
でも。
文字を読める。
歩ける。
話せる。
食べられる。
誰が。
どこまで。
この身体へ。
残したのか。
分からない。
「俺の中にも」
青年が言う。
「誰かが残したもの、ある?」
「あるかもしれない」
「嫌?」
「俺に聞く?」
「違う」
青年は。
少し言い直す。
「俺は嫌なのかな」
リクが首を傾げる。
「自分で分からない?」
「ああ」
「じゃあ、まだ分からなくていいんじゃない」
青年が。
意外そうに。
リクを見る。
「それ、みんな言う」
「嫌?」
「前は嫌だった」
「今は?」
「少し慣れた」
リクが笑う。
「俺も」
◇
午後。
仕事へ戻った青年は。
しばらく本のことを忘れていた。
客が来る。
菓子を包む。
代金を受け取る。
店主から釣り銭を間違えるなと言われる。
昼過ぎには、昨日も来た子ども連れの女性が店の前を通った。
店へは入らなかった。
青年と目が合う。
女性は。
ほんの一瞬。
足を止めた。
青年も。
何も言わない。
女性は。
小さく。
頭を下げた。
青年は。
どうするか迷ってから。
同じように。
頭を下げた。
それだけ。
女性は歩いていった。
「今の人」
青年が店主へ言う。
「ああ」
「昨日の」
「知ってる」
「入らなかった」
「そうだな」
「俺いたから?」
「かもしれん」
「怒る?」
「誰にだよ」
「分からない」
店主は生地を切り分けながら。
青年を見ずに答えた。
「昨日も言ったろ。怖いと思うのは、俺らが決めることじゃない」
「うん」
「今日入らないのもあの人の自由」
「明日来たら?」
「売る」
「俺が?」
「向こうが嫌じゃなけりゃな」
「嫌なら店主?」
「そう」
青年は。
少し考える。
「それで店やっていける?」
「やっていくしかねえだろ」
「難しい」
「だから仕事なんだよ」
店主が。
切り分けた生地を青年へ渡した。
「ほら。これ奥」
「浅い箱?」
「今日は天板」
「違う」
「覚えろ」
「分かった」
青年は。
生地を持って厨房へ向かった。
途中。
少しだけ笑った。
分からないことが。
また一つ増えた。
でも。
この分からなさは。
それほど嫌ではなかった。
◇
仕事が終わる頃。
アステルとリクはまだ店にいた。
リクが予想より長く座っていられたため、セレスから許可された時間いっぱい休んでいたらしい。
「帰る?」
青年が尋ねる。
「そろそろ」
アステルが答える。
「本」
「どうしますか?」
「借りる」
「読めますか?」
青年は。
朝より。
少し考えてから答えた。
「読めるところまで」
「分からない文字があったら?」
「店主に聞く」
店主が奥から叫ぶ。
「俺に全部聞くな!」
「じゃあアステル」
「いつでも」
「イリスは?」
「たぶん喜びます」
「道具持ってくる?」
「文字を読むだけなら大丈夫でしょう」
「たぶん?」
「たぶん」
青年は。
少し笑った。
リクが。
立ち上がろうとする。
足元。
僅かに。
力が抜ける。
アステルがすぐに支えようとした。
リクは。
椅子の背へ手を掛け。
「待って」
自分で。
身体を立て直す。
「大丈夫?」
青年が聞く。
「ちょっと疲れた」
「休む?」
「帰って休む」
「一人?」
「アステルいる」
「セレスも待ってる」
「じゃあ大丈夫」
リクが。
少し笑う。
「何が?」
「誰かいるから」
リクは。
その言葉を聞いて。
しばらく。
青年を見た。
「うん」
静かに。
答える。
「でも」
「何」
「いつか、一人で歩けるようになりたい」
青年は。
すぐ頷く。
「俺も」
「何が?」
「分からないこと」
「歩くの?」
「違う」
青年は。
本を。
胸へ抱える。
「自分で分かるようになりたい」
リクは。
少し。
考えて。
「全部?」
青年も。
考える。
「……全部じゃなくていいかも」
「何で?」
「店主も全部分からない」
奥から。
「聞こえてるぞ!」
と声が飛んできた。
三人が笑った。
◇
その夜。
青年は二階の部屋で。
一人。
本を開いた。
机の上。
小さな油灯。
自分で稼いだ金で。
今日。
初めて買ったものが。
もう一つ増えている。
栞だった。
安い。
細い。
布紐だけのもの。
店主に、
「紙切れでいいだろ」
と言われた。
でも。
自分で。
欲しいと思った。
だから。
買った。
本を開く。
朝。
読んだ。
題名。
今度は。
少しだけ。
早く読める。
『北海沿岸歩記』
その下。
作者の名前。
青年は。
そこを。
読もうとした。
口が。
止まる。
「……分からない」
声に出す。
でも。
嫌ではない。
指で。
次の行へ進む。
短い文章。
『冬の海沿いの道は、風が強い。』
読める。
次。
『旅人は帽子より先に――』
止まる。
知らない文字。
青年は。
眉を寄せる。
少し考え。
栞を挟んだ。
明日。
聞けばいい。
それで。
一度。
本を閉じる。
でも。
すぐに。
もう一度開いた。
読めることが。
誰かに。
入れられたものなのか。
自分が。
忘れているだけなのか。
まだ分からない。
その事実は。
変わっていない。
それでも。
今。
本を開くかどうかは。
自分で決めた。
次の頁へ。
進むかどうかも。
自分で決める。
青年は。
もう一行。
読んだ。
◇
同じ頃。
リクは宿の部屋で。
眠れずにいた。
身体が痛むわけではない。
黒翼から離れたあとも。
夜になると。
時々。
昔の夢を見る。
指示。
廊下。
足音。
番号。
命令。
そして。
今日。
青年へ話したこと。
『全部なくなるのは嫌』
自分で言った。
本当に。
そうなのか。
暗い部屋の中。
リクは。
目を閉じる。
黒翼の研究所。
冷たい。
部屋。
廊下。
嫌な記憶。
でも。
そこに。
一人。
水をくれた人がいる。
命令ではなく。
「今日はもう休め」
と。
小さな声で。
言った。
顔は。
覚えている。
名前は。
思い出せない。
リクは。
そのことが。
少し。
怖くなった。
忘れたい記憶と。
残したい記憶は。
同じ場所にある。
嫌なものだけを。
綺麗に。
切り取ることは。
たぶん。
出来ない。
扉が。
小さく。
叩かれた。
「リク?」
セレスの声。
「起きてますか?」
「起きてる」
「入っても?」
「うん」
扉が開く。
セレスは。
水差しを持っていた。
「眠れませんか?」
「少し」
「痛みは?」
「ない」
「では、無理に眠ろうとしなくても大丈夫です」
セレスは。
机へ水を置く。
それだけ。
「セレス」
「はい」
「忘れたくないことも」
「はい」
「そのうち忘れる?」
セレスは。
すぐに。
大丈夫とは言わなかった。
「忘れることはあります」
リクの顔が。
少し。
曇る。
「でも」
彼女は。
椅子へ座る。
「全部を一人で覚えておく必要はないと思います」
「どういうこと」
「あなたが忘れた時、誰かが覚えていることもあります」
「誰か」
「私かもしれません。アステルかもしれない。ノアかもしれない」
「覚えてもらう?」
「必要なら」
「嫌なことも?」
「それは、リクが話したい分だけ」
リクは。
水差しを見る。
「名前知らない人」
「はい?」
「研究所にいた。水くれた」
「名前は?」
「分からない」
「顔は?」
「覚えてる」
「何と言われました?」
リクは。
少し。
目を閉じる。
「今日はもう休めって」
「そうですか」
「忘れたくない」
セレスは。
静かに頷いた。
「では」
「うん」
「今夜は、私も覚えておきます」
リクは。
少しだけ。
息を吐いた。
何かを。
手放したように。
でも。
失ったわけではなく。
誰かへ。
少しだけ。
預けたように。
◇
名前のない青年は。
その頃。
本の二頁目へ進んでいた。
分からない文字へ。
小さな印を付ける。
明日。
聞くために。
覚えていないのに。
読める文字。
覚えているのに。
名前の出てこない人。
忘れたいのに。
残っていること。
残したいのに。
消えていくこと。
記憶は。
思っていたより。
自分の言うことを聞かないらしい。
それでも。
今夜読んだ頁だけは。
自分で開いた。
分からないところで。
自分で止まった。
明日続きを読もうと。
自分で決めた。
それなら。
今は。
十分だった。
青年は。
本を閉じた。
新しく買った栞が。
頁の間から。
少しだけ。
覗いていた。




