第3章 第36話 「門の内側で」
翌朝。
ノアが西門へ向かうと、少年は昨日と同じ場所にいた。
門の外。
旧採石場へ続く道から少し離れた石壁の脇に座り、膝を抱えている。
最初に会った時より服はきれいになっていた。灰都から渡された着替えを使っているらしい。髪にも以前ほど灰は残っていない。
それでも。
少年が座る場所だけは変わっていなかった。
「おはよう」
ノアが声を掛ける。
少年が顔を上げた。
「今日も来た」
「来るって言ったから」
「昨日も言ってた」
「昨日言ったから今日来たんだよ」
「そういうこと?」
「たぶん」
少年は少し笑った。
朝の西門は、すでに忙しくなり始めている。
夜番と朝番が交代し、門衛たちは街道の様子を確認していた。帰還者たちが暮らす旧採石場へは、水と朝食を積んだ小さな荷車が向かっている。
門を出ていく商人もいる。
入ってくる農夫もいる。
少年は、その一人一人を目で追っていた。
「今日もここ?」
ノアが聞いた。
「うん」
「寒くない?」
「ちょっと」
「中、風少ないよ」
少年の目が。
門へ向く。
「入らない」
やはり。
返事は早かった。
ノアは無理に勧めなかった。
隣へ座る。
壁際には朝日がまだ届かない。
石が冷たい。
「お尻、冷たい」
「だから俺、布敷いてる」
少年が、自分の下にある古い毛布を少し持ち上げた。
「最初に言ってよ」
「聞かなかったから」
「ずるい」
「何が」
ノアは立ち上がり。
近くに置かれていた薪束から、使われていない麻袋を一枚借りてきた。
それを折って敷く。
「これなら平気」
「門の人に聞いた?」
「聞いた」
「ちゃんとしてる」
「僕だってちゃんとするよ」
「ほんと?」
「ほんと」
少年の口元がまた少し緩む。
ノアは。
急いで本題へ入らなかった。
昨日、ヴェスパーたちと話したあと。
自分なりに考えた。
少年へ、
「向こう側へ戻るのは危ない」
と言うことは簡単だった。
実際。
危ない。
星見も、空白も、門がどう開くのか完全には分かっていない。
帰れる保証もない。
もし戻れたとして。
そこに少年の妹がいる保証もない。
でも。
少年は。
それをだいたい知っている。
知ったうえで。
戻りたい。
「昨日」
少年の方から口を開いた。
「煙突の人、行ったんだって」
「うん」
「北の方?」
「そう」
「行きたい場所があるから?」
「うん」
「名前なくても行けた?」
ノアは少し考える。
「名前を書かない通行証を作ったみたい」
「通行証」
「道を通るための紙」
「俺も作れる?」
予想していた。
それでも。
ノアは。
すぐには答えなかった。
「どこに行くの?」
「妹のところ」
「向こう側?」
「ああ」
「……そこ、道ないよ」
「知ってる」
少年は門を見る。
灰都の西門。
木と鉄。
開けば。
普通に街道へ出る。
その先に。
向こう側へ続く道はない。
「でも」
少年が言う。
「通行証があれば、行きたい場所へ行けるんだろ」
「普通の道なら」
「じゃあ、向こう側用の作ればいい」
「誰が?」
「門の人」
「ハルト?」
「たぶん」
「怒ると思う」
「何で」
「書けないから」
「何を?」
「行き先」
少年は黙った。
「向こう側って書けば?」
「たぶん、それで困る」
「何でみんなすぐ困るんだ」
「分からないこと多いから」
「大人なのに」
「イリスも、大人は何でも分かるわけじゃないって言ってた」
「便利だな、それ」
「最近僕もそう思う」
二人で少し笑った。
でも。
少年の目は。
まだ門を見ていた。
◇
「駄目とは言わん」
ハルトはそう言った。
ノアが少年を連れて詰所へ来た時のことだった。
朝から通行記録を整理していたらしく、机の上には紙が何枚も積み重なっている。
「でも作れねえ」
少年の顔が曇る。
「ほら」
ノアが言う。
「何が『ほら』だ」
「困るって」
「お前、俺が困るの楽しんでないか?」
「ちょっとだけ」
「最近の子どもは遠慮がねえな」
ハルトは椅子へ座り直した。
「まずな。通行証ってのは、どこへでも行ける魔法の紙じゃない」
「煙突の人は行けた」
「行き先へ繋がってる道があるからだ」
「俺も行き先ある」
「道がない」
「探せば?」
「誰が」
「俺」
ハルトが。
少年をじっと見た。
「街道歩き回って見つかる場所じゃないぞ」
「分かってる」
「じゃあどうする」
「分からない」
少年は。
少し腹を立てたようだった。
「分からないから探したいんだ」
ハルトは。
そこで。
軽く返すのをやめた。
「そうか」
それだけ言う。
少年も。
少しだけ驚いた顔をした。
「でも」
ハルトは続ける。
「一人で探しに行かせる気はない」
「何で」
「門の外を歩く話じゃないからだ。今分かってる範囲だと、向こうへ行くには例の観測所か、その近くにある門が関わってる」
ノアの兎耳が小さく動く。
「観測所へ行けば?」
少年が聞いた。
「今は崩れてる」
「入れない?」
「入れない場所が多い。地下はもっと駄目だ」
「修理したら?」
「建物直したら済む話じゃねえ」
ハルトは。
机の端に置かれていた古い木札を指で弄んだ。
「それに、門が開いたらお前だけの問題じゃなくなる。向こうから何が来るか分からん」
「人」
「人だけだと誰が言った」
少年は答えなかった。
四十七人。
星見。
名前のない青年。
確かに。
戻ってきたものが。
全部同じではない。
「じゃあ」
少年は言う。
「ずっと待つ?」
「今はな」
「いつまで?」
「分からん」
「そればっかり」
「悪いな」
「前も言った」
「覚えてる」
少年は。
明らかに不満そうだった。
ハルトはその顔を見ながら、少し考えた。
「一つ聞くぞ」
「何」
「お前、なんで街の中へ入らない」
「妹のところへ帰るから」
「それは知ってる」
「じゃあ何で聞く」
「街へ入ったら、帰れなくなるのか?」
少年の口が止まった。
「……違う?」
ハルトが尋ねる。
少年はすぐに答えない。
ノアも。
黙って待った。
「入ったら」
やがて。
少年が言う。
「こっちに住むみたいになる」
「誰が決めた」
「みんな」
「誰のみんなだ」
「……分からない」
「俺は決めてない」
ハルトは。
机の上の紙を一枚避ける。
「門を通ったら、そこで一生暮らさなきゃならんなんて決まりはない」
「でも」
「商人なんか朝入って夕方出ていくぞ」
「それと俺は違う」
「何が」
「俺は帰ってきた人だから」
ハルトは。
少しだけ。
眉を寄せる。
「誰にそう呼ばれた」
「みんな」
「またみんなか」
「だって本当だろ」
「本当かもしれん。でも、それでお前が門の外にいなきゃならん理由にはならない」
少年は。
黙って。
机の木目を見る。
「中へ入ったら」
小さく言う。
「妹を置いてきたみたいになる」
ノアは。
少年の横顔を見る。
ようやく。
そこまで。
言葉になった。
「向こうにいるかもしれないのに」
「うん」
「俺だけ、こっちで寝て、飯食って、あったかい部屋にいたら」
少年の指が。
膝の布を握る。
「妹が一人なのに」
詰所の外。
門衛の声。
荷車。
馬の蹄。
朝の音が。
普通に続いている。
ハルトは。
長く息を吐いた。
「それなら」
言う。
「俺からは『入れ』とは言えんな」
少年が顔を上げる。
「いいの?」
「いいとは言ってない」
「どっち」
「お前がそう思ってるのに、力ずくで中へ入れても意味がないって話だ」
「じゃあ外?」
「ただし」
ハルトは。
少年の服を見る。
朝露で。
裾が少し湿っていた。
「今夜から冷える」
「平気」
「昨日も寒いって言ってたろ」
ノアが横から言う。
「ちょっとだけ」
「ちょっとでも寒い」
「ノア」
「何」
「どっちの味方」
「寒さは敵」
ハルトが吹き出す。
「それは合ってる」
「笑うなよ」
「悪い」
少年は不満そうだったが。
少し。
空気が緩んだ。
「今日一日」
ハルトが言う。
「考えろ」
「何を」
「街に入ることと、向こうへ帰るのを諦めることが、本当に同じか」
少年は。
何も答えなかった。
◇
昼前。
ノアは少年と一緒に旧採石場へ戻った。
採石場では、帰還者たちがそれぞれの時間を過ごしている。
洗濯をする人。
小屋の補修をする人。
灰都へ入るための聞き取りを受ける人。
反対に。
通行証の相談をする人もいる。
昨日。
一人の老人が北へ出た。
それだけで。
「自分も」
と言い始める人が増えた。
灰都に残る。
昔の故郷を探す。
親族を探す。
何も決めず、しばらくここにいる。
同じ場所から帰ってきたはずなのに。
向かう先は。
少しずつ。
分かれていく。
少年は。
それを見ていた。
「みんな行く」
「全員じゃないよ」
「でも決めてる」
「決めてない人もいる」
「俺も決めてる」
「妹のところ?」
「ああ」
ノアは。
少し考えた。
「僕も」
「何」
「会いたい人いる」
「誰」
「お母さん」
少年がノアを見る。
「向こう側?」
「声は聞いた」
「会った?」
「会ってない」
「じゃあ行きたい?」
「行きたい」
「なら一緒に行こう」
あまりにも自然に言われ。
ノアは少し困った。
「今すぐは嫌」
「何で」
「怖いから」
「俺も怖い」
「じゃあ何で行くの」
「妹いるかもしれないから」
「僕もお母さんいるかもしれない」
「じゃあ同じ」
ノアは。
すぐには否定しなかった。
似ている。
でも。
同じではない。
「僕は」
言葉を探す。
「今、ここにいたい人もいる」
「誰」
「ヴェスパー。レイラ。イリス。セレス。アステル。リク」
「多い」
「うん」
「でも妹一人」
「一人でも大事でしょ」
「大事」
「僕もお母さん大事」
「じゃあ」
「でも」
ノアは。
少年の言葉を遮るためではなく。
自分の考えを。
ちゃんと最後まで話すために続けた。
「会いたい人がいるからって、今ここにいる人とご飯食べちゃ駄目とは思わない」
少年が。
少し眉を寄せる。
「妹忘れない?」
「ご飯食べたら?」
「違う」
「笑ったら?」
「……そう」
ノアは。
木製の狼を。
腰の小袋から取り出した。
兄が。
残したもの。
「僕、兄ちゃんもいる」
「どこ?」
「分からない」
少年の視線が。
木の狼へ落ちる。
「死んでるかもしれない?」
「うん」
「それでも持ってる?」
「うん」
「ずっと悲しい?」
ノアは。
木の狼を指でなぞる。
「ずっと同じじゃない」
「どういうこと」
「寂しい時もある。忘れたくない時もある。でも、レイラが変なことして笑う時もある」
「レイラって変なの?」
「うん」
「聞こえてたら怒られるぞ」
「今いないから平気」
二人とも。
少し笑った。
ノアは。
その笑いが終わるまで待つ。
「笑ったからって」
続ける。
「兄ちゃんいらないことにはならない」
少年は。
何も言わなかった。
◇
昼食。
帰還者たちへ配られたのは、野菜と豆の入った薄いスープ。
少年は椀を受け取った。
ノアも。
隣へ座る。
少し離れたところでは。
昨日から灰都への入城を考えていた角持ちの女性が、ハルトの部下と話している。
「一日だけでも?」
「構いません。夕方に出たいなら出られます」
「本当に?」
「門は一方通行じゃありません」
「でも、また戻ってきたら?」
「また確認します」
「面倒じゃない?」
「面倒です」
門衛が即答した。
女性が笑う。
「言うんだ」
「面倒なのと、やらないのは別です」
少年の匙が。
止まる。
聞いていたらしい。
「一日だけ」
「うん」
ノアも。
同じ会話を聞いていた。
「入って出る」
「うん」
「帰ってきた人でも?」
「たぶん」
少年はスープへ視線を落とす。
表面に。
小さく。
油が浮いている。
「ノア」
「何?」
「街の中、何ある?」
「いっぱい」
「例えば」
「宿。店。鍛冶屋。菓子屋」
「菓子屋」
「名前ない人が働いてる」
「あいつ?」
「うん」
「店員?」
「今は」
「変なの」
「本人は結構楽しそう」
「そうなんだ」
「あと風呂」
少年の顔が。
ほんの少し動く。
「風呂?」
「ある」
「湯?」
「湯」
「大きい?」
「宿のはそんな大きくない」
「入った?」
「うん」
「熱い?」
「最初ちょっと」
少年は。
自分の袖を。
見る。
服は変えた。
身体も。
一度。
採石場で洗っている。
でも。
浴槽。
温かい湯。
そういうものは。
向こう側へ行く前から。
長く入っていないのかもしれない。
「……風呂だけ」
「何?」
「入って」
少年は。
慎重に言う。
「風呂入ったら、また外に出ていい?」
ノアは。
嬉しそうに。
「ハルトに聞こう」
と言いかけた。
でも。
一度止める。
「たぶんいい。でも一緒に聞こう」
「何で」
「僕が勝手に決めることじゃないから」
「めんどくさい」
「ハルトみたい」
「嫌だ」
ノアが笑った。
◇
「風呂だけ?」
ハルトは眉を上げた。
午後。
再び西門詰所。
少年は。
朝より少し。
落ち着いて立っている。
「あと」
考える。
「菓子屋」
「増えたな」
「見るだけ」
「何を」
「名前ない店員」
ハルトがヴェスパーを見る。
ちょうど詰所へ来ていた。
ガルムと村への道を確認するため、古い地図を借りに来たところだった。
「有名になってるぞ、あいつ」
「本人は喜ぶかな」
「知らん」
少年が。
ハルトを見る。
「入っていい?」
「入るなら」
ハルトは。
いくつか確認する。
「今日は夕方まで。泊まるかどうかは、その時お前が決める。外へ戻りたいなら戻れる」
「本当に?」
「ああ」
「明日も?」
「入りたければ、また来い」
「妹のところ戻りたいって言ってても?」
「それとこれとは別だ」
少年は。
その言葉を。
少し長く聞いていた。
「……別」
「ああ」
「街に入ったら」
「うん」
「妹を諦めたことにならない?」
ハルトは。
少年の目を見る。
「少なくとも、俺はそうは思わん」
「他の人は?」
「知らん」
「知らない?」
「全員がどう思うかなんて俺には決められない。でも」
ハルトは。
少しだけ。
門の方を見る。
「この門を通った記録に『妹を諦めた』なんて書く欄はない」
少年が。
少し。
笑った。
「本当に?」
「見せてもいいぞ」
「字、読めない」
「じゃあノアに見せる」
「僕も難しい字は分からないよ」
「使えねえな」
「ハルト!」
詰所の空気が。
少し緩む。
「行くか」
ハルトが言った。
少年の身体が。
わずかに。
固くなる。
朝から。
何度も。
門を見ていた。
「……今?」
「嫌なら後でもいい」
少年は。
西門へ。
視線を向ける。
大きな。
門。
開いている。
商人。
農夫。
門衛。
人が。
何人も。
普通に。
行き来している。
「ノア」
「うん」
「一緒に?」
「行く」
少年は。
頷いた。
◇
門へ近付くほど。
少年の歩みは遅くなった。
誰も急かさない。
ノアは横。
少し後ろにヴェスパー。
ハルトは門衛のところで待っている。
門の影が。
地面へ落ちていた。
少年は。
その境目で。
止まる。
門外の土。
門内の石畳。
ほんの。
一歩。
それだけ。
「ここ?」
少年が聞く。
「何が?」
「入ったことになるところ」
ノアが。
地面を見る。
「たぶん、ここ」
「たぶん?」
ハルトが後ろから。
「門の中入れば入城だ」
「じゃあここ?」
「そこだな」
少年は。
右足を。
少し前へ出す。
止める。
戻す。
「……やっぱり」
声。
小さい。
「怖い」
ノアが。
少年を見る。
「うん」
「妹が」
「うん」
「俺がこっち選んだと思ったら」
ノアは。
何も言えなかった。
その代わり。
ヴェスパーが。
少し離れたところから口を開いた。
「選ぶって、一回で全部決めることじゃないと思う」
少年が振り返る。
「何で」
ヴェスパーは。
少し困った。
「俺も」
答える。
「今度、昔いた村に行こうと思ってる」
「帰るの?」
「分からない」
「じゃあ何で行く」
「見たいから」
「見たら、そこに住む?」
「たぶん住まない」
「じゃあ」
「行くことと、そこを帰る場所にすることは別だろ」
少年は。
じっと聞いている。
「お前も」
ヴェスパーが続ける。
「街の中へ一回入ったからって、向こうへ戻りたい気持ちまで誰かに決められるわけじゃない」
「でも」
「怖いなら、今日はやめてもいい」
少年が。
少し驚く。
「入れって言わない?」
「俺が決めることじゃない」
沈黙。
少年は。
また。
門内の石畳を見る。
しばらく。
動かない。
やがて。
「風呂」
言う。
「うん?」
「入りたい」
ノアが。
笑う。
「菓子屋も」
「うん」
「それで」
少年は。
息を吸う。
「夕方、またここに来る」
「分かった」
ノアが答えた。
少年は。
足を出す。
今度は。
戻さなかった。
一歩。
門の内側。
二歩目。
石畳。
少年は。
何かが変わるか。
確かめるように。
周囲を見る。
門。
街。
人。
「……何も起きない」
「何か起きると思った?」
「ちょっと」
「鐘とか?」
ノアが聞く。
「分からない」
「鳴らすか?」
ハルトが言う。
「やめろ」
少年がすぐに答えた。
ハルトが笑った。
「じゃあ入城」
「それだけ?」
「それだけ」
少年は。
もう一度。
門の外を見る。
採石場。
街道。
その先。
見えない。
向こう側。
「妹」
誰にも聞かせるつもりではなかったのかもしれない。
小さく。
呟く。
「戻るから」
そして。
街の中へ。
歩き始めた。
◇
最初に向かったのは。
風呂だった。
宿の主人に事情を説明すると。
「昼なら空いてるぞ」
と。
あっさり案内された。
少年は。
脱衣所で。
しばらく。
服を脱ぐのを躊躇った。
「ノア」
「何?」
「一緒?」
「うん」
「先入って」
「何で?」
「いいから」
「分かった」
ノアが先に浴場へ入る。
少しして。
少年も。
扉から。
顔だけ出した。
湯気。
石造りの小さな浴槽。
大浴場と呼ぶほどではない。
宿泊客が数人入れる程度。
「熱い?」
「少し」
「嘘じゃない?」
「入れば分かるよ」
「それが怖い」
「足から」
少年は。
恐る恐る。
湯へ足を入れた。
「熱っ」
「言った」
「少しじゃない!」
「慣れる」
「本当?」
「たぶん」
「お前、それ多いな!」
でも。
しばらくすると。
少年は。
肩まで。
湯へ浸かっていた。
「……あったかい」
「うん」
「向こうには」
少年が言う。
「風呂あった」
「本物?」
「分からない」
「そっか」
「家もあった」
「うん」
「妹と」
そこで。
少し。
声が止まる。
「昔入った風呂も出た」
「同じ?」
「たぶん」
湯の表面が。
小さく。
揺れる。
「でも」
少年は。
手で。
湯を掬う。
「今の方が熱い」
「それ、ここの宿の人に言ったら喜ぶかな」
「何で」
「分からない」
少年が笑う。
湯気の中。
その笑いは。
少し。
幼く見えた。
◇
菓子屋へ行くと。
名前のない青年は。
店先で。
包み紙を折っていた。
「いた」
少年が言う。
青年が顔を上げる。
「誰?」
「門の外にいたやつ」
「ああ」
「覚えてる?」
「妹のところへ戻りたい人」
「それで覚えてるの?」
「違う?」
「違わない」
ノアが笑う。
店主は奥から。
「客なら買え」
と声を掛けた。
「お金ない」
少年が答える。
「見るだけなら見るだけって言え」
「見ていい?」
「いいよ」
青年が。
手元の紙を見せる。
「何してる?」
「包み」
「上手?」
「昨日より」
「本当?」
「店主が言った」
「自分では?」
青年は。
少し。
考える。
「昨日より速い」
「じゃあ上手くなったんじゃない?」
「同じ?」
「たぶん」
「ノアの友達、それ好きだな」
「みんな言う」
店主が。
小さな。
端の欠けた菓子を。
二つ。
皿へ置いた。
「これなら試食」
少年がすぐ見る。
「無料?」
「無料」
「何で?」
「欠けて売れないから」
「食べる」
「即答だな」
青年も。
一つ取る。
「俺も?」
「店員の試食」
「仕事?」
「半分」
「半分って何」
少年が。
菓子を食べる。
少し硬い。
でも。
甘い。
「うまい」
「俺も好き」
青年が言う。
「お前、ここに住んでる?」
「ああ」
「妹いない?」
「いない」
「戻りたい人も?」
「いない」
「じゃあ何でここいる?」
青年は。
少し。
考える。
「店ある」
「それだけ?」
「部屋ある」
「他は?」
「ヴェスパーたち」
さらに。
少し。
考える。
「今は」
言う。
「ここにいたい」
少年が。
静かになる。
「向こう側」
「何?」
「行きたくない?」
青年は。
包み紙を。
机へ置いた。
「分からない」
「何で」
「見たことある気がする。でも、何がいるか分からない」
「同じ顔のお前がいる」
「それも嫌」
「会いたくない?」
「怖い」
青年は。
素直に答えた。
「でも、いつか知りたい」
少年が。
青年を見る。
「じゃあ両方」
「何が」
「怖いけど知りたい」
「ノアも言ってた」
「みんなそれだな」
「みたい」
二人。
少し。
笑う。
店主が。
奥で。
それを聞きながら。
何も言わず。
次の生地を窯へ入れた。
◇
夕方。
少年は。
本当に西門へ戻ってきた。
ノアも一緒だ。
ハルトが。
門内の詰所前で待っていた。
「どうだった」
「風呂熱かった」
「そこ?」
「菓子うまかった」
「街は?」
少年は。
少し考える。
「人多い」
「そうだな」
「見られた」
「嫌だった?」
「少し」
「帰る?」
ハルトが尋ねる。
少年は。
門の外を見る。
旧採石場。
夕方。
薄い。
灰。
「……今日は」
「うん」
「外で寝る」
ノアが。
少しだけ。
寂しそうな顔をした。
でも。
「分かった」
と言った。
「止めない?」
少年が聞く。
「止めない」
「ノアも?」
「うん」
「ハルトは?」
「寒くなったら入れって言う」
「それは分かってる」
「ならいい」
少年は。
門を出る。
数歩。
進む。
そこで。
振り返った。
「明日」
「何?」
ノアが聞く。
「また風呂入っていい?」
ノアの顔が。
すぐに明るくなる。
「聞けば?」
「ノアも?」
「行く」
「じゃあ」
少年は。
少し。
笑った。
「明日また入る」
ハルトが。
門柱へ。
背を預ける。
「そのうち宿泊代取るぞ」
「風呂だけなら?」
「宿の主人に聞け」
「みんなすぐ他の人に聞けって言う」
「街は俺一人で出来てねえからな」
少年は。
その言葉へ。
少しだけ。
首を傾げた。
それから。
門外へ。
歩いていく。
◇
その夜。
ノアは。
宿へ戻る途中。
ヴェスパーと並んで歩いた。
「入ったな」
ヴェスパーが言う。
「うん」
「でも泊まらなかった」
「うん」
「残念?」
ノアは。
少し考える。
「ちょっと」
「そっか」
「でも」
「うん」
「明日また来る」
ノアの声には。
少し。
嬉しさが戻っていた。
「だったらいいか」
「うん」
二人。
夜の灰都を歩く。
西門の向こう。
少年は。
まだ外にいる。
妹のところへ帰りたい。
その気持ちは。
今日一日で。
何も変わらなかった。
でも。
風呂に入った。
菓子を食べた。
少し笑った。
そして。
また外へ戻った。
どれも。
妹を。
諦めたことにはならなかった。
「ヴェスパー」
「何?」
「村行ったら」
「うん」
「戻ってくる?」
ヴェスパーは。
少し。
足を緩めた。
「戻るよ」
「本当に?」
「ああ」
「灰都に?」
その質問に。
ヴェスパーは。
すぐには答えなかった。
宿の灯り。
西門。
菓子屋。
旧採石場。
王都へ続く道。
どこを。
帰る場所と呼ぶのか。
まだ。
一つには。
決めていない。
「少なくとも」
言う。
「帰ってきたって言える場所には、戻りたい」
ノアは。
難しそうに。
眉を寄せる。
「よく分からない」
「俺も」
「じゃあ何で言ったの」
「今そう思ったから」
「変なの」
「そうかもな」
ノアが笑う。
ヴェスパーも。
少しだけ。
笑った。
門を越えること。
そこに留まること。
そこから出ていくこと。
どれも。
一度きりの答えではない。
朝は外にいて。
昼は中へ入り。
夜はまた外へ戻る。
明日になれば。
もう一度。
選び直せる。
灰都の西門は。
その夜も。
決められた時刻に。
ゆっくりと閉じた。
けれど。
少年が明日入るための道まで。
閉じたわけではなかった。




