↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
灰の星  作者: ウルフルマル


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

81/98

第3章 第36話 「門の内側で」

 翌朝。


 ノアが西門へ向かうと、少年は昨日と同じ場所にいた。


 門の外。


 旧採石場へ続く道から少し離れた石壁の脇に座り、膝を抱えている。


 最初に会った時より服はきれいになっていた。灰都から渡された着替えを使っているらしい。髪にも以前ほど灰は残っていない。


 それでも。


 少年が座る場所だけは変わっていなかった。


「おはよう」


 ノアが声を掛ける。


 少年が顔を上げた。


「今日も来た」


「来るって言ったから」


「昨日も言ってた」


「昨日言ったから今日来たんだよ」


「そういうこと?」


「たぶん」


 少年は少し笑った。


 朝の西門は、すでに忙しくなり始めている。


 夜番と朝番が交代し、門衛たちは街道の様子を確認していた。帰還者たちが暮らす旧採石場へは、水と朝食を積んだ小さな荷車が向かっている。


 門を出ていく商人もいる。


 入ってくる農夫もいる。


 少年は、その一人一人を目で追っていた。


「今日もここ?」


 ノアが聞いた。


「うん」


「寒くない?」


「ちょっと」


「中、風少ないよ」


 少年の目が。


 門へ向く。


「入らない」


 やはり。


 返事は早かった。


 ノアは無理に勧めなかった。


 隣へ座る。


 壁際には朝日がまだ届かない。


 石が冷たい。


「お尻、冷たい」


「だから俺、布敷いてる」


 少年が、自分の下にある古い毛布を少し持ち上げた。


「最初に言ってよ」


「聞かなかったから」


「ずるい」


「何が」


 ノアは立ち上がり。


 近くに置かれていた薪束から、使われていない麻袋を一枚借りてきた。


 それを折って敷く。


「これなら平気」


「門の人に聞いた?」


「聞いた」


「ちゃんとしてる」


「僕だってちゃんとするよ」


「ほんと?」


「ほんと」


 少年の口元がまた少し緩む。


 ノアは。


 急いで本題へ入らなかった。


 昨日、ヴェスパーたちと話したあと。


 自分なりに考えた。


 少年へ、


「向こう側へ戻るのは危ない」


 と言うことは簡単だった。


 実際。


 危ない。


 星見も、空白も、門がどう開くのか完全には分かっていない。


 帰れる保証もない。


 もし戻れたとして。


 そこに少年の妹がいる保証もない。


 でも。


 少年は。


 それをだいたい知っている。


 知ったうえで。


 戻りたい。


「昨日」


 少年の方から口を開いた。


「煙突の人、行ったんだって」


「うん」


「北の方?」


「そう」


「行きたい場所があるから?」


「うん」


「名前なくても行けた?」


 ノアは少し考える。


「名前を書かない通行証を作ったみたい」


「通行証」


「道を通るための紙」


「俺も作れる?」


 予想していた。


 それでも。


 ノアは。


 すぐには答えなかった。


「どこに行くの?」


「妹のところ」


「向こう側?」


「ああ」


「……そこ、道ないよ」


「知ってる」


 少年は門を見る。


 灰都の西門。


 木と鉄。


 開けば。


 普通に街道へ出る。


 その先に。


 向こう側へ続く道はない。


「でも」


 少年が言う。


「通行証があれば、行きたい場所へ行けるんだろ」


「普通の道なら」


「じゃあ、向こう側用の作ればいい」


「誰が?」


「門の人」


「ハルト?」


「たぶん」


「怒ると思う」


「何で」


「書けないから」


「何を?」


「行き先」


 少年は黙った。


「向こう側って書けば?」


「たぶん、それで困る」


「何でみんなすぐ困るんだ」


「分からないこと多いから」


「大人なのに」


「イリスも、大人は何でも分かるわけじゃないって言ってた」


「便利だな、それ」


「最近僕もそう思う」


 二人で少し笑った。


 でも。


 少年の目は。


 まだ門を見ていた。


     ◇


「駄目とは言わん」


 ハルトはそう言った。


 ノアが少年を連れて詰所へ来た時のことだった。


 朝から通行記録を整理していたらしく、机の上には紙が何枚も積み重なっている。


「でも作れねえ」


 少年の顔が曇る。


「ほら」


 ノアが言う。


「何が『ほら』だ」


「困るって」


「お前、俺が困るの楽しんでないか?」


「ちょっとだけ」


「最近の子どもは遠慮がねえな」


 ハルトは椅子へ座り直した。


「まずな。通行証ってのは、どこへでも行ける魔法の紙じゃない」


「煙突の人は行けた」


「行き先へ繋がってる道があるからだ」


「俺も行き先ある」


「道がない」


「探せば?」


「誰が」


「俺」


 ハルトが。


 少年をじっと見た。


「街道歩き回って見つかる場所じゃないぞ」


「分かってる」


「じゃあどうする」


「分からない」


 少年は。


 少し腹を立てたようだった。


「分からないから探したいんだ」


 ハルトは。


 そこで。


 軽く返すのをやめた。


「そうか」


 それだけ言う。


 少年も。


 少しだけ驚いた顔をした。


「でも」


 ハルトは続ける。


「一人で探しに行かせる気はない」


「何で」


「門の外を歩く話じゃないからだ。今分かってる範囲だと、向こうへ行くには例の観測所か、その近くにある門が関わってる」


 ノアの兎耳が小さく動く。


「観測所へ行けば?」


 少年が聞いた。


「今は崩れてる」


「入れない?」


「入れない場所が多い。地下はもっと駄目だ」


「修理したら?」


「建物直したら済む話じゃねえ」


 ハルトは。


 机の端に置かれていた古い木札を指で弄んだ。


「それに、門が開いたらお前だけの問題じゃなくなる。向こうから何が来るか分からん」


「人」


「人だけだと誰が言った」


 少年は答えなかった。


 四十七人。


 星見。


 名前のない青年。


 確かに。


 戻ってきたものが。


 全部同じではない。


「じゃあ」


 少年は言う。


「ずっと待つ?」


「今はな」


「いつまで?」


「分からん」


「そればっかり」


「悪いな」


「前も言った」


「覚えてる」


 少年は。


 明らかに不満そうだった。


 ハルトはその顔を見ながら、少し考えた。


「一つ聞くぞ」


「何」


「お前、なんで街の中へ入らない」


「妹のところへ帰るから」


「それは知ってる」


「じゃあ何で聞く」


「街へ入ったら、帰れなくなるのか?」


 少年の口が止まった。


「……違う?」


 ハルトが尋ねる。


 少年はすぐに答えない。


 ノアも。


 黙って待った。


「入ったら」


 やがて。


 少年が言う。


「こっちに住むみたいになる」


「誰が決めた」


「みんな」


「誰のみんなだ」


「……分からない」


「俺は決めてない」


 ハルトは。


 机の上の紙を一枚避ける。


「門を通ったら、そこで一生暮らさなきゃならんなんて決まりはない」


「でも」


「商人なんか朝入って夕方出ていくぞ」


「それと俺は違う」


「何が」


「俺は帰ってきた人だから」


 ハルトは。


 少しだけ。


 眉を寄せる。


「誰にそう呼ばれた」


「みんな」


「またみんなか」


「だって本当だろ」


「本当かもしれん。でも、それでお前が門の外にいなきゃならん理由にはならない」


 少年は。


 黙って。


 机の木目を見る。


「中へ入ったら」


 小さく言う。


「妹を置いてきたみたいになる」


 ノアは。


 少年の横顔を見る。


 ようやく。


 そこまで。


 言葉になった。


「向こうにいるかもしれないのに」


「うん」


「俺だけ、こっちで寝て、飯食って、あったかい部屋にいたら」


 少年の指が。


 膝の布を握る。


「妹が一人なのに」


 詰所の外。


 門衛の声。


 荷車。


 馬の蹄。


 朝の音が。


 普通に続いている。


 ハルトは。


 長く息を吐いた。


「それなら」


 言う。


「俺からは『入れ』とは言えんな」


 少年が顔を上げる。


「いいの?」


「いいとは言ってない」


「どっち」


「お前がそう思ってるのに、力ずくで中へ入れても意味がないって話だ」


「じゃあ外?」


「ただし」


 ハルトは。


 少年の服を見る。


 朝露で。


 裾が少し湿っていた。


「今夜から冷える」


「平気」


「昨日も寒いって言ってたろ」


 ノアが横から言う。


「ちょっとだけ」


「ちょっとでも寒い」


「ノア」


「何」


「どっちの味方」


「寒さは敵」


 ハルトが吹き出す。


「それは合ってる」


「笑うなよ」


「悪い」


 少年は不満そうだったが。


 少し。


 空気が緩んだ。


「今日一日」


 ハルトが言う。


「考えろ」


「何を」


「街に入ることと、向こうへ帰るのを諦めることが、本当に同じか」


 少年は。


 何も答えなかった。


     ◇


 昼前。


 ノアは少年と一緒に旧採石場へ戻った。


 採石場では、帰還者たちがそれぞれの時間を過ごしている。


 洗濯をする人。


 小屋の補修をする人。


 灰都へ入るための聞き取りを受ける人。


 反対に。


 通行証の相談をする人もいる。


 昨日。


 一人の老人が北へ出た。


 それだけで。


「自分も」


 と言い始める人が増えた。


 灰都に残る。


 昔の故郷を探す。


 親族を探す。


 何も決めず、しばらくここにいる。


 同じ場所から帰ってきたはずなのに。


 向かう先は。


 少しずつ。


 分かれていく。


 少年は。


 それを見ていた。


「みんな行く」


「全員じゃないよ」


「でも決めてる」


「決めてない人もいる」


「俺も決めてる」


「妹のところ?」


「ああ」


 ノアは。


 少し考えた。


「僕も」


「何」


「会いたい人いる」


「誰」


「お母さん」


 少年がノアを見る。


「向こう側?」


「声は聞いた」


「会った?」


「会ってない」


「じゃあ行きたい?」


「行きたい」


「なら一緒に行こう」


 あまりにも自然に言われ。


 ノアは少し困った。


「今すぐは嫌」


「何で」


「怖いから」


「俺も怖い」


「じゃあ何で行くの」


「妹いるかもしれないから」


「僕もお母さんいるかもしれない」


「じゃあ同じ」


 ノアは。


 すぐには否定しなかった。


 似ている。


 でも。


 同じではない。


「僕は」


 言葉を探す。


「今、ここにいたい人もいる」


「誰」


「ヴェスパー。レイラ。イリス。セレス。アステル。リク」


「多い」


「うん」


「でも妹一人」


「一人でも大事でしょ」


「大事」


「僕もお母さん大事」


「じゃあ」


「でも」


 ノアは。


 少年の言葉を遮るためではなく。


 自分の考えを。


 ちゃんと最後まで話すために続けた。


「会いたい人がいるからって、今ここにいる人とご飯食べちゃ駄目とは思わない」


 少年が。


 少し眉を寄せる。


「妹忘れない?」


「ご飯食べたら?」


「違う」


「笑ったら?」


「……そう」


 ノアは。


 木製の狼を。


 腰の小袋から取り出した。


 兄が。


 残したもの。


「僕、兄ちゃんもいる」


「どこ?」


「分からない」


 少年の視線が。


 木の狼へ落ちる。


「死んでるかもしれない?」


「うん」


「それでも持ってる?」


「うん」


「ずっと悲しい?」


 ノアは。


 木の狼を指でなぞる。


「ずっと同じじゃない」


「どういうこと」


「寂しい時もある。忘れたくない時もある。でも、レイラが変なことして笑う時もある」


「レイラって変なの?」


「うん」


「聞こえてたら怒られるぞ」


「今いないから平気」


 二人とも。


 少し笑った。


 ノアは。


 その笑いが終わるまで待つ。


「笑ったからって」


 続ける。


「兄ちゃんいらないことにはならない」


 少年は。


 何も言わなかった。


     ◇


 昼食。


 帰還者たちへ配られたのは、野菜と豆の入った薄いスープ。


 少年は椀を受け取った。


 ノアも。


 隣へ座る。


 少し離れたところでは。


 昨日から灰都への入城を考えていた角持ちの女性が、ハルトの部下と話している。


「一日だけでも?」


「構いません。夕方に出たいなら出られます」


「本当に?」


「門は一方通行じゃありません」


「でも、また戻ってきたら?」


「また確認します」


「面倒じゃない?」


「面倒です」


 門衛が即答した。


 女性が笑う。


「言うんだ」


「面倒なのと、やらないのは別です」


 少年の匙が。


 止まる。


 聞いていたらしい。


「一日だけ」


「うん」


 ノアも。


 同じ会話を聞いていた。


「入って出る」


「うん」


「帰ってきた人でも?」


「たぶん」


 少年はスープへ視線を落とす。


 表面に。


 小さく。


 油が浮いている。


「ノア」


「何?」


「街の中、何ある?」


「いっぱい」


「例えば」


「宿。店。鍛冶屋。菓子屋」


「菓子屋」


「名前ない人が働いてる」


「あいつ?」


「うん」


「店員?」


「今は」


「変なの」


「本人は結構楽しそう」


「そうなんだ」


「あと風呂」


 少年の顔が。


 ほんの少し動く。


「風呂?」


「ある」


「湯?」


「湯」


「大きい?」


「宿のはそんな大きくない」


「入った?」


「うん」


「熱い?」


「最初ちょっと」


 少年は。


 自分の袖を。


 見る。


 服は変えた。


 身体も。


 一度。


 採石場で洗っている。


 でも。


 浴槽。


 温かい湯。


 そういうものは。


 向こう側へ行く前から。


 長く入っていないのかもしれない。


「……風呂だけ」


「何?」


「入って」


 少年は。


 慎重に言う。


「風呂入ったら、また外に出ていい?」


 ノアは。


 嬉しそうに。


「ハルトに聞こう」


 と言いかけた。


 でも。


 一度止める。


「たぶんいい。でも一緒に聞こう」


「何で」


「僕が勝手に決めることじゃないから」


「めんどくさい」


「ハルトみたい」


「嫌だ」


 ノアが笑った。


     ◇


「風呂だけ?」


 ハルトは眉を上げた。


 午後。


 再び西門詰所。


 少年は。


 朝より少し。


 落ち着いて立っている。


「あと」


 考える。


「菓子屋」


「増えたな」


「見るだけ」


「何を」


「名前ない店員」


 ハルトがヴェスパーを見る。


 ちょうど詰所へ来ていた。


 ガルムと村への道を確認するため、古い地図を借りに来たところだった。


「有名になってるぞ、あいつ」


「本人は喜ぶかな」


「知らん」


 少年が。


 ハルトを見る。


「入っていい?」


「入るなら」


 ハルトは。


 いくつか確認する。


「今日は夕方まで。泊まるかどうかは、その時お前が決める。外へ戻りたいなら戻れる」


「本当に?」


「ああ」


「明日も?」


「入りたければ、また来い」


「妹のところ戻りたいって言ってても?」


「それとこれとは別だ」


 少年は。


 その言葉を。


 少し長く聞いていた。


「……別」


「ああ」


「街に入ったら」


「うん」


「妹を諦めたことにならない?」


 ハルトは。


 少年の目を見る。


「少なくとも、俺はそうは思わん」


「他の人は?」


「知らん」


「知らない?」


「全員がどう思うかなんて俺には決められない。でも」


 ハルトは。


 少しだけ。


 門の方を見る。


「この門を通った記録に『妹を諦めた』なんて書く欄はない」


 少年が。


 少し。


 笑った。


「本当に?」


「見せてもいいぞ」


「字、読めない」


「じゃあノアに見せる」


「僕も難しい字は分からないよ」


「使えねえな」


「ハルト!」


 詰所の空気が。


 少し緩む。


「行くか」


 ハルトが言った。


 少年の身体が。


 わずかに。


 固くなる。


 朝から。


 何度も。


 門を見ていた。


「……今?」


「嫌なら後でもいい」


 少年は。


 西門へ。


 視線を向ける。


 大きな。


 門。


 開いている。


 商人。


 農夫。


 門衛。


 人が。


 何人も。


 普通に。


 行き来している。


「ノア」


「うん」


「一緒に?」


「行く」


 少年は。


 頷いた。


     ◇


 門へ近付くほど。


 少年の歩みは遅くなった。


 誰も急かさない。


 ノアは横。


 少し後ろにヴェスパー。


 ハルトは門衛のところで待っている。


 門の影が。


 地面へ落ちていた。


 少年は。


 その境目で。


 止まる。


 門外の土。


 門内の石畳。


 ほんの。


 一歩。


 それだけ。


「ここ?」


 少年が聞く。


「何が?」


「入ったことになるところ」


 ノアが。


 地面を見る。


「たぶん、ここ」


「たぶん?」


 ハルトが後ろから。


「門の中入れば入城だ」


「じゃあここ?」


「そこだな」


 少年は。


 右足を。


 少し前へ出す。


 止める。


 戻す。


「……やっぱり」


 声。


 小さい。


「怖い」


 ノアが。


 少年を見る。


「うん」


「妹が」


「うん」


「俺がこっち選んだと思ったら」


 ノアは。


 何も言えなかった。


 その代わり。


 ヴェスパーが。


 少し離れたところから口を開いた。


「選ぶって、一回で全部決めることじゃないと思う」


 少年が振り返る。


「何で」


 ヴェスパーは。


 少し困った。


「俺も」


 答える。


「今度、昔いた村に行こうと思ってる」


「帰るの?」


「分からない」


「じゃあ何で行く」


「見たいから」


「見たら、そこに住む?」


「たぶん住まない」


「じゃあ」


「行くことと、そこを帰る場所にすることは別だろ」


 少年は。


 じっと聞いている。


「お前も」


 ヴェスパーが続ける。


「街の中へ一回入ったからって、向こうへ戻りたい気持ちまで誰かに決められるわけじゃない」


「でも」


「怖いなら、今日はやめてもいい」


 少年が。


 少し驚く。


「入れって言わない?」


「俺が決めることじゃない」


 沈黙。


 少年は。


 また。


 門内の石畳を見る。


 しばらく。


 動かない。


 やがて。


「風呂」


 言う。


「うん?」


「入りたい」


 ノアが。


 笑う。


「菓子屋も」


「うん」


「それで」


 少年は。


 息を吸う。


「夕方、またここに来る」


「分かった」


 ノアが答えた。


 少年は。


 足を出す。


 今度は。


 戻さなかった。


 一歩。


 門の内側。


 二歩目。


 石畳。


 少年は。


 何かが変わるか。


 確かめるように。


 周囲を見る。


 門。


 街。


 人。


「……何も起きない」


「何か起きると思った?」


「ちょっと」


「鐘とか?」


 ノアが聞く。


「分からない」


「鳴らすか?」


 ハルトが言う。


「やめろ」


 少年がすぐに答えた。


 ハルトが笑った。


「じゃあ入城」


「それだけ?」


「それだけ」


 少年は。


 もう一度。


 門の外を見る。


 採石場。


 街道。


 その先。


 見えない。


 向こう側。


「妹」


 誰にも聞かせるつもりではなかったのかもしれない。


 小さく。


 呟く。


「戻るから」


 そして。


 街の中へ。


 歩き始めた。


     ◇


 最初に向かったのは。


 風呂だった。


 宿の主人に事情を説明すると。


「昼なら空いてるぞ」


 と。


 あっさり案内された。


 少年は。


 脱衣所で。


 しばらく。


 服を脱ぐのを躊躇った。


「ノア」


「何?」


「一緒?」


「うん」


「先入って」


「何で?」


「いいから」


「分かった」


 ノアが先に浴場へ入る。


 少しして。


 少年も。


 扉から。


 顔だけ出した。


 湯気。


 石造りの小さな浴槽。


 大浴場と呼ぶほどではない。


 宿泊客が数人入れる程度。


「熱い?」


「少し」


「嘘じゃない?」


「入れば分かるよ」


「それが怖い」


「足から」


 少年は。


 恐る恐る。


 湯へ足を入れた。


「熱っ」


「言った」


「少しじゃない!」


「慣れる」


「本当?」


「たぶん」


「お前、それ多いな!」


 でも。


 しばらくすると。


 少年は。


 肩まで。


 湯へ浸かっていた。


「……あったかい」


「うん」


「向こうには」


 少年が言う。


「風呂あった」


「本物?」


「分からない」


「そっか」


「家もあった」


「うん」


「妹と」


 そこで。


 少し。


 声が止まる。


「昔入った風呂も出た」


「同じ?」


「たぶん」


 湯の表面が。


 小さく。


 揺れる。


「でも」


 少年は。


 手で。


 湯を掬う。


「今の方が熱い」


「それ、ここの宿の人に言ったら喜ぶかな」


「何で」


「分からない」


 少年が笑う。


 湯気の中。


 その笑いは。


 少し。


 幼く見えた。


     ◇


 菓子屋へ行くと。


 名前のない青年は。


 店先で。


 包み紙を折っていた。


「いた」


 少年が言う。


 青年が顔を上げる。


「誰?」


「門の外にいたやつ」


「ああ」


「覚えてる?」


「妹のところへ戻りたい人」


「それで覚えてるの?」


「違う?」


「違わない」


 ノアが笑う。


 店主は奥から。


「客なら買え」


 と声を掛けた。


「お金ない」


 少年が答える。


「見るだけなら見るだけって言え」


「見ていい?」


「いいよ」


 青年が。


 手元の紙を見せる。


「何してる?」


「包み」


「上手?」


「昨日より」


「本当?」


「店主が言った」


「自分では?」


 青年は。


 少し。


 考える。


「昨日より速い」


「じゃあ上手くなったんじゃない?」


「同じ?」


「たぶん」


「ノアの友達、それ好きだな」


「みんな言う」


 店主が。


 小さな。


 端の欠けた菓子を。


 二つ。


 皿へ置いた。


「これなら試食」


 少年がすぐ見る。


「無料?」


「無料」


「何で?」


「欠けて売れないから」


「食べる」


「即答だな」


 青年も。


 一つ取る。


「俺も?」


「店員の試食」


「仕事?」


「半分」


「半分って何」


 少年が。


 菓子を食べる。


 少し硬い。


 でも。


 甘い。


「うまい」


「俺も好き」


 青年が言う。


「お前、ここに住んでる?」


「ああ」


「妹いない?」


「いない」


「戻りたい人も?」


「いない」


「じゃあ何でここいる?」


 青年は。


 少し。


 考える。


「店ある」


「それだけ?」


「部屋ある」


「他は?」


「ヴェスパーたち」


 さらに。


 少し。


 考える。


「今は」


 言う。


「ここにいたい」


 少年が。


 静かになる。


「向こう側」


「何?」


「行きたくない?」


 青年は。


 包み紙を。


 机へ置いた。


「分からない」


「何で」


「見たことある気がする。でも、何がいるか分からない」


「同じ顔のお前がいる」


「それも嫌」


「会いたくない?」


「怖い」


 青年は。


 素直に答えた。


「でも、いつか知りたい」


 少年が。


 青年を見る。


「じゃあ両方」


「何が」


「怖いけど知りたい」


「ノアも言ってた」


「みんなそれだな」


「みたい」


 二人。


 少し。


 笑う。


 店主が。


 奥で。


 それを聞きながら。


 何も言わず。


 次の生地を窯へ入れた。


     ◇


 夕方。


 少年は。


 本当に西門へ戻ってきた。


 ノアも一緒だ。


 ハルトが。


 門内の詰所前で待っていた。


「どうだった」


「風呂熱かった」


「そこ?」


「菓子うまかった」


「街は?」


 少年は。


 少し考える。


「人多い」


「そうだな」


「見られた」


「嫌だった?」


「少し」


「帰る?」


 ハルトが尋ねる。


 少年は。


 門の外を見る。


 旧採石場。


 夕方。


 薄い。


 灰。


「……今日は」


「うん」


「外で寝る」


 ノアが。


 少しだけ。


 寂しそうな顔をした。


 でも。


「分かった」


 と言った。


「止めない?」


 少年が聞く。


「止めない」


「ノアも?」


「うん」


「ハルトは?」


「寒くなったら入れって言う」


「それは分かってる」


「ならいい」


 少年は。


 門を出る。


 数歩。


 進む。


 そこで。


 振り返った。


「明日」


「何?」


 ノアが聞く。


「また風呂入っていい?」


 ノアの顔が。


 すぐに明るくなる。


「聞けば?」


「ノアも?」


「行く」


「じゃあ」


 少年は。


 少し。


 笑った。


「明日また入る」


 ハルトが。


 門柱へ。


 背を預ける。


「そのうち宿泊代取るぞ」


「風呂だけなら?」


「宿の主人に聞け」


「みんなすぐ他の人に聞けって言う」


「街は俺一人で出来てねえからな」


 少年は。


 その言葉へ。


 少しだけ。


 首を傾げた。


 それから。


 門外へ。


 歩いていく。


     ◇


 その夜。


 ノアは。


 宿へ戻る途中。


 ヴェスパーと並んで歩いた。


「入ったな」


 ヴェスパーが言う。


「うん」


「でも泊まらなかった」


「うん」


「残念?」


 ノアは。


 少し考える。


「ちょっと」


「そっか」


「でも」


「うん」


「明日また来る」


 ノアの声には。


 少し。


 嬉しさが戻っていた。


「だったらいいか」


「うん」


 二人。


 夜の灰都を歩く。


 西門の向こう。


 少年は。


 まだ外にいる。


 妹のところへ帰りたい。


 その気持ちは。


 今日一日で。


 何も変わらなかった。


 でも。


 風呂に入った。


 菓子を食べた。


 少し笑った。


 そして。


 また外へ戻った。


 どれも。


 妹を。


 諦めたことにはならなかった。


「ヴェスパー」


「何?」


「村行ったら」


「うん」


「戻ってくる?」


 ヴェスパーは。


 少し。


 足を緩めた。


「戻るよ」


「本当に?」


「ああ」


「灰都に?」


 その質問に。


 ヴェスパーは。


 すぐには答えなかった。


 宿の灯り。


 西門。


 菓子屋。


 旧採石場。


 王都へ続く道。


 どこを。


 帰る場所と呼ぶのか。


 まだ。


 一つには。


 決めていない。


「少なくとも」


 言う。


「帰ってきたって言える場所には、戻りたい」


 ノアは。


 難しそうに。


 眉を寄せる。


「よく分からない」


「俺も」


「じゃあ何で言ったの」


「今そう思ったから」


「変なの」


「そうかもな」


 ノアが笑う。


 ヴェスパーも。


 少しだけ。


 笑った。


 門を越えること。


 そこに留まること。


 そこから出ていくこと。


 どれも。


 一度きりの答えではない。


 朝は外にいて。


 昼は中へ入り。


 夜はまた外へ戻る。


 明日になれば。


 もう一度。


 選び直せる。


 灰都の西門は。


 その夜も。


 決められた時刻に。


 ゆっくりと閉じた。


 けれど。


 少年が明日入るための道まで。


 閉じたわけではなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。