第3章 第35話 「名前のない通行証」
菓子屋で働き始めて三日目の朝、青年は店主より先に一階へ降りた。
まだ表の扉は閉まっている。窓から差し込む朝日は薄く、厨房にも前日の熱がわずかに残っている程度だった。
昨日教わった通り、青年は最初に裏口の閂を確認した。それから水桶を持って共同井戸へ向かい、戻ってきてから作業台の脇へ置く。
床には粉が少し落ちていた。
箒の場所も覚えている。
昨日までなら、「これを掃いていいのか」と先に店主へ聞いていただろう。
今日は少し考えたあと、自分で箒を取った。
掃除をして困ることはないと思ったからだ。
店の奥から階段の軋む音が聞こえたのは、ちょうど半分ほど掃き終えた頃だった。
「……何してる」
眠そうな声に振り返ると、店主が階段の途中で立ち止まっていた。髪は乱れ、片方の袖にまだ腕を通し切っていない。
「掃除」
「それは見りゃ分かる」
「駄目だった?」
「いや」
店主は一度店内を見回した。
「何でやってるのかと思ってな」
「昨日、朝にやってた」
「俺が?」
「ああ」
「だから?」
「今日は俺の方が早かったから」
青年はそれ以上の理由を持っていなかった。
店主は何か言おうとしたものの、結局やめて残りの袖へ腕を通した。
「じゃあ頼む。角のところだけ粉が残りやすいから、そこもな」
「分かった」
「あと、水汲んだ?」
「そこ」
「……早いな」
店主の声が少しだけ変わった。
「何?」
「何でもねえよ」
青年はまた箒を動かし始めた。
掃き終えた粉を塵取りへ集めていると、店主が厨房から顔だけを出した。
「そうだ。今日、午後から配達頼めるか?」
「配達?」
「菓子を持っていく」
「どこに?」
「旧採石場」
青年の手が止まった。
帰還者たちが一時的に暮らしている場所だ。
自分の胸にある黒火が、一度反応した場所でもある。
「嫌なら別にいいぞ」
すぐに店主が続けた。
「昨日の売れ残りと今日焼くパンを持っていくだけだ。西門の人間が一緒に行くから、お前じゃなきゃ駄目って仕事でもない」
青年は胸へ手を当てた。
今は何も感じない。
「行く」
「大丈夫か?」
「分からない」
「おい」
「でも、行きたい」
青年は店主を見る。
「前に行った時は、胸が動いた。でも今度も同じか知りたい。それに……」
「それに?」
「仕事で行くのは初めて」
店主はしばらく青年の顔を見ていた。
「分かった。ただ、変だと思ったら荷物放り出してでも戻れよ」
「荷物、壊れても?」
「お前が壊れるより安い」
青年は、その言葉を少し考えた。
「菓子なのに?」
「そこじゃねえよ」
◇
昼を回る頃には、配達用の籠が二つ用意された。
一つには固めのパン。もう一つには前日の売れ残りの焼き菓子が入っている。
もちろん食べられないほど古いものではない。形が崩れたものや、店頭へ並べるには焼き色が悪かったものを安く買い取る形で、灰都側が採石場へ回しているらしい。
「無料じゃないんだ」
青年が聞くと、店主は籠に布を被せながら答えた。
「全部ただで出してたら店が潰れる」
「でも、向こうの人はお金ない人もいる」
「だから灰都側が一部払ってる。残りは配給の計算に入れる」
「難しい」
「世の中、飯食わせるだけでも意外と難しいんだよ」
店主は二つの籠を見比べ、一つを青年へ渡した。
「重い方持てるか?」
「どっち?」
「パン」
青年は持ち上げてみる。
「持てる」
「じゃあ頼む」
「もう一つは?」
「俺が――」
「私が持ちます」
店の外から声がした。
セリカだった。
灰色の短外套を羽織り、折り畳んだ小型弩を腰に提げている。
「門から?」
青年が尋ねる。
「今日の西側巡回を兼ねてる。採石場まで同行するようにハルトから言われた」
「見張り?」
セリカは青年の表情を見て、一度考えた。
「護衛。あなたの監視だけが目的ではない」
「本当に?」
「街道側の見回りが主。あなたが来なかったとしても行く予定だった」
「ならいい」
「分かりやすくなったね」
「何が」
「嫌な時の顔」
「レイラにも言われた」
「でしょうね」
店主が二人の間へもう一つの籠を押し出した。
「話してないで持ってけ。夕方までには返せよ」
「俺を?」
「籠をだよ!」
「俺も帰る」
「分かってる!」
セリカが口元を押さえた。
「笑った?」
「少し」
「最近みんな笑う」
「悪い意味じゃない」
「ならいい」
◇
西門を出ると、風の匂いが変わった。
街の中にある炭火や食事の匂いが薄れ、乾いた土と石、それから遠くの草地の匂いが混じる。
青年は片手で籠を持ちながら、もう片方の手を胸元へ添えた。
黒火は反応していない。
セリカはそれを横目で確認したが、何も聞かなかった。
「言わないの?」
青年の方から尋ねた。
「何を?」
「火、大丈夫って」
「自分で分かる?」
「ああ」
「なら、変化があった時に教えてくれればいい」
「毎回聞かなくていい?」
「あなたの身体でしょう」
青年は少し黙った。
「セリカも変わった?」
「どうして?」
「前は、もっと確認された」
「あなたが自分から話せるようになったから」
「それで減る?」
「任せられることが増えれば」
セリカは歩きながら街道の先を見る。
「全部をこっちで確認する必要はなくなる」
「仕事と同じ?」
「似てるかもね」
青年は籠を見る。
初日は、箱を持つたびにどこへ運べばいいか聞いた。
今日は、薄焼き用とパン用の箱を間違えなかった。
誰かに任されるということが、少しずつ分かり始めていた。
「セリカ」
「何?」
「俺、ちゃんと帰ったら店主に言う」
「何を?」
「火、動かなかったって」
「それは私じゃなくてセレスにも教えてあげて」
「店主は?」
「店主にも言えば安心すると思う」
「店主も心配する?」
「たぶんかなり」
青年は意外そうだった。
「何で」
「それ本人に聞いたら?」
「今度聞く」
◇
旧採石場には、昨日より多くの洗濯物が干されていた。
仮設の屋根にも補強が増えている。アルドが何度も手を入れたのだろう。曲がった柱には新しい添え木が取り付けられ、雨水が流れ込まないよう地面には浅い溝まで掘られていた。
青年たちが到着すると、数人が食事用の机を運んでいた。
「菓子屋からです」
セリカが声を掛ける。
すぐに何人かが集まった。
「今日はパンもあるのか」
「灰都側の配給分です。こっちは菓子屋から安く回してもらったもの」
「形悪い?」
昨日、青年と話した少年が籠を覗き込んだ。
妹のいる「向こう側」へ戻りたがっている少年だ。
「悪い」
青年が言った。
「でも味は同じらしい」
「本当?」
「店主が言ってた」
「お前は食べてない?」
「朝、一個食べた」
「仕事中に?」
「割れたから」
「ずるい」
「店主に言って」
少年が笑った。
そのまま籠を受け取ろうとして、ふと青年の胸元へ目をやる。
「今日、平気?」
「ああ」
「火、動いてない?」
「今は」
「そっか」
それ以上。
少年は聞かなかった。
青年も、それが少し嬉しかった。
籠を食事係へ渡したところで、採石場の反対側から言い争う声が聞こえた。
大声ではない。
だが、周囲の何人かが気にしている。
「だから、閉じ込めるとは言ってない」
「じゃあ何で行けねえんだ」
「行けないんじゃなくて、手続きが――」
「同じじゃねえか」
青年が声の方を見る。
古びた外套を着た老人が一人、灰都の若い門衛と向かい合っていた。
青年も見覚えがある。
最初の聞き取りで、
「土が固い。飯が熱い。それで十分だ」
と言っていた老人だった。
彼は「こちらへ帰れた」と考えている。
その老人が今、肩に小さな荷袋を掛けていた。
「何してる?」
青年が近付く。
門衛が少し困った顔をした。
「街道へ出たいらしい」
「行けばいいんじゃない?」
「俺もそう言ってる」
老人が答えた。
「採石場へいろって命令は受けてねえ。もう二日休んだ。身体も動く。だったら行く」
「どこに?」
青年が尋ねる。
「北」
「何がある?」
「俺のいたところ」
老人は少しだけ目を細めた。
「鉱山町だ。赤い土の坂があって、その上に煙突が三本立ってた」
セリカが横から口を挟む。
「町の名前は?」
老人はすぐに答えなかった。
この場で。
本当の名前を。
口にすることを躊躇ったのだろう。
「言わない方がいいんだろ」
「無理に聞きません」
「場所、分かるのか?」
「赤土の坂と三本煙突だけでは難しい。でも、古い鉱山ならいくつか候補を絞れます」
「なら連れてってくれ」
「今日すぐ、とはいかない」
老人の眉が寄る。
「またそれか」
「道の状態を確認する必要がある。あなたが覚えている道が今も残っている保証もない」
「分かってる」
「それと」
セリカは門衛が手にしている紙を見る。
「北側の街道を通るなら、通行記録が必要です」
老人が鼻を鳴らした。
「それで揉めてんだよ」
青年は門衛の紙を覗き込んだ。
上。
大きな欄。
『氏名』
青年は。
昨日。
菓子屋の帳簿で見た。
同じ空欄を思い出した。
「名前、書く?」
「普通はな」
門衛が答える。
「誰がどの道へ行ったか記録する。途中の検問所でも使うし、事故や盗賊被害があった時の確認にも必要になる」
「名前ないと行けない?」
「それが今困ってる」
門衛も。
老人を止めたいわけではない。
それは声を聞けば分かった。
「適当な名前で書けって言われても嫌だ」
老人が言った。
「俺には名前があった。今もたぶん覚えてる。だが、それをここで書くなって話なんだろ」
「はい」
セリカが答える。
「灰星が名前を辿る可能性を考えるなら、本来の名前を書くことは勧められません」
「だからって、紙一枚のために新しい名前付けろってのも違うだろ」
「そう思います」
セリカはあっさり認めた。
「じゃあどうする」
「考えます」
「また考えるか」
「急いで適当に決めるよりは」
老人は不満そうだった。
だが。
それ以上怒鳴らなかった。
青年は。
紙の大きな空欄を。
しばらく見ていた。
◇
話は西門の詰所へ持ち込まれた。
老人本人も一緒だ。
青年は配達を終えたら店へ戻る予定だったが、なぜかそのまま付いてきた。
セリカに、
「店へ戻らなくていいの?」
と聞かれて、
「気になる」
と答えた。
その結果。
店主には門衛を一人走らせ、
「配達先で少し遅れる」
と伝えることになった。
返ってきた返事は、
『日が暮れる前に戻ればいい。ただし籠は忘れるな』
だった。
「俺より籠」
青年が言うと、門衛は苦笑した。
「そういう意味じゃないと思うぞ」
「みんな言う」
「何を?」
「そういう意味じゃないって」
「それだけ色々勘違いしてるんじゃないか?」
「たぶん」
詰所へ着くと、ハルトが机いっぱいに広げていた書類から顔を上げた。
「今度は何だ」
「通行証です」
セリカが答える。
「嫌な予感するな」
「当たりです」
「まだ何も聞いてねえ!」
老人も部屋へ入り、肩の荷袋を床へ置いた。
「北へ行きたい」
「それは聞いてる」
「でも名前書かないと道を通れないらしい」
ハルトが門衛を見る。
若い門衛は申し訳なさそうに紙を差し出した。
「今の様式だと、氏名が必須です」
「空けとけ」
「北検問所で止められます」
「面倒だな」
「俺に言わないでください」
「お前に言ってない」
そこへ。
イリスまで現れた。
今日は新しい謎を追わないと決めたため、帰還者たちの聞き取り記録を整理していたらしい。
「名前のない人の通行証?」
「そう」
ハルトが椅子を一つ引いた。
「お前も考えろ」
「私は書式係じゃないんだけど」
「記録を疑う者だろ」
「便利に使わないで」
文句を言いながら。
座る。
少ししてアルドも呼ばれた。
北側街道の状態を確認するためだ。
「赤土の坂。煙突三本」
老人から話を聞いたアルドは、古い街道図を広げた。
「今の地図では煙突はない」
「壊れたか」
「可能性は高い。鉱山自体が閉じられてる場所も多い」
「赤土は?」
「北西に二箇所。北北西に一箇所」
老人が地図を見る。
「分からん」
「川は?」
「川?」
「町の近くに」
「一本あった。細い。雨降るとすぐ増えた」
「橋?」
「木だった」
「橋は残らない」
アルドは別の記録を取る。
「でも川筋なら候補を絞れる」
老人の顔に。
ほんの少しだけ。
期待が浮かぶ。
「行けるか」
「今の街道で二日。途中までなら明日の巡回便に同行できる」
「そこからは?」
「現地で判断」
「それでいい」
問題は。
やはり。
紙だった。
「そもそも何のために名前が必要なんだ?」
ヴェスパーが詰所へ来たのは、その話を聞いた後だった。
壁際へ立ち、通行証を手にしている。
「本人を特定するため」
セリカが答える。
「道の途中で事故があった時、誰か分からないと家族や街へ連絡できない。検問所側も、通過した人間を記録する」
「名前以外じゃ駄目?」
「今までは必要がなかった」
イリスが紙を覗き込む。
「普通はみんな名前を持ってるから」
青年は。
部屋の端で黙って聞いていた。
菓子屋の帳簿。
空欄。
今日の老人。
大きな『氏名』の欄。
「俺も」
青年が口を開いた。
「街から出る時、名前ないと出られない?」
ハルトが彼を見る。
「今のままなら検問所で揉めるな」
「仕事で別の街に行く時も?」
「たぶん」
「名前決めないと?」
ハルトは。
すぐには答えなかった。
「……それは変だな」
「変?」
「ああ」
ハルトは腕を組む。
「名前が危ないから書くなって言っておいて、名前書かないと道を通さないってのは、こっちの都合が悪すぎる」
若い門衛が困った顔をする。
「でも、誰か分からない通行証を作ったら、使い回しされませんか?」
「そこなんだよな」
ハルトは机を指で叩いた。
「顔描く?」
青年が言った。
全員が彼を見る。
「何?」
「いや」
ヴェスパーが尋ねる。
「どうして顔?」
「店の箱」
青年が説明する。
「名前じゃなくて、印で分ける。浅い箱。深い箱。菓子の箱には横に線がある」
イリスが少し身を乗り出す。
「つまり、名前じゃなく本人だと分かる印?」
「たぶん」
「似た発想は使えるかも」
セリカが新しい紙を一枚出した。
「顔を描くだけだと精度が低い。でも、年齢の目安、身長、髪、種族特徴、傷や身体的特徴。それに本人が選んだ印を組み合わせれば」
「選んだ印?」
老人が尋ねる。
「名前ではありません」
セリカは説明する。
「この通行証を持っている本人だと確認するための印です。あなた自身が選ぶ」
「他の奴が同じ印にしたら?」
「灰都の門印と発行番号を付ける」
「番号」
青年の顔が。
僅かに曇った。
リク。
黒翼。
個体二十三。
セリカもすぐに気付いた。
「人間に番号を付けるんじゃない」
彼女は青年の方を見る。
「紙に番号を付ける。通行証そのものを管理するため」
「俺が二十三とかになるんじゃない?」
「ならない」
「ならいい」
老人が。
少し笑った。
「難しい話だな」
「それに」
セリカは続ける。
「本人確認のため、発行時に二人の証人を付ける。出発地点での確認だけなら十分でしょう」
「検問所では?」
若い門衛が尋ねる。
「紙に本人の特徴が書いてある。持っている人間と一致するか見る。紛失した場合は再発行」
「偽造は?」
「今の名前式だって偽名を書けば完全ではない」
イリスが言った。
「大事なのは、名前を絶対条件にすることじゃなくて、その紙が本人へ正しく発行されたと確認できる仕組みじゃない?」
ハルトが紙を見た。
「……試す価値はあるな」
「いきなり正式制度にする?」
「しない」
イリスが即座に答えた。
「まず暫定」
「珍しく慎重だな」
「今日はもうそれ禁止」
◇
老人自身に印を選んでもらうことになった。
紙と炭筆を渡される。
「好きなものを書けって言われてもな」
老人は困った。
「名前じゃないなら、本当に何でもいい」
セリカが言う。
「誰かに読ませる必要もありません。あなたが自分で選んだと確認できれば」
「絵下手だぞ」
「上手さはいらない」
「じゃあ……」
老人は炭筆を持った。
しばらく。
白紙の上で。
手が止まる。
やがて。
三本の縦線。
その下。
斜めの線。
一本。
「何?」
青年が覗き込む。
「煙突」
「三本」
「ああ」
「下のは?」
「坂だ」
赤土の坂。
三本の煙突。
老人が。
今から探しに行く場所。
「それにする」
セリカが尋ねる。
「本当に?」
「名前じゃないんだろ」
「ええ」
「ならこれでいい」
セリカはその印を写し取らず。
老人自身に。
通行証へ。
もう一度描いてもらった。
少し形が違う。
でも。
同じ三本の線。
同じ坂。
「氏名欄は?」
若い門衛が尋ねた。
セリカは。
少し考え。
線を引いた。
消すのではない。
書かない。
その横に。
『本人希望により記載なし』
と書いた。
「理由まで必要?」
ヴェスパーが聞く。
「検問所で『書き忘れ』だと思われないように」
「なるほど」
さらに。
年齢。
『本人申告不明/外見六十代前後』
身長。
髪色。
古い傷。
左手の人差し指が第一関節から欠けていること。
現在の行き先。
『北西旧鉱山地帯・候補未確定』
同行。
『灰都北巡回便・途中まで』
証人欄。
一人目。
ハルト。
二人目。
老人は周囲を見る。
「誰でもいいのか」
「あなたを今ここで確認した人」
セリカが答える。
老人の視線が。
青年で止まった。
「お前」
「俺?」
「一緒に見てたろ」
「名前ない」
「俺も書いてねえ」
「証人になれる?」
青年がセリカを見る。
セリカも。
少し考える。
「名前がないから証人になれない、では同じことになる」
「じゃあ?」
「あなたも印を付ける?」
青年が。
戸惑った。
「俺の印?」
「名前ではない。あなたがこの場でこの人を見た、という印」
青年は。
菓子屋の帳簿を。
思い出した。
名前欄。
空白。
「まだ決めたくない」
「それなら無理にしなくていい」
「違う」
青年は首を横に振った。
「名前は、まだ決めたくない。でも印は……」
考える。
何を書く。
黒火。
嫌だ。
扉。
少し好き。
菓子。
好き。
箱。
仕事。
たくさんある。
「紙」
「うん?」
「別のある?」
セリカが練習用の紙を渡す。
青年は炭筆を持った。
最初に。
小さな四角を描いた。
その横。
もう一つ。
小さな四角。
「何だ?」
老人が尋ねる。
「箱」
「箱?」
「二つ」
「何で二つ」
青年は少し考えた。
「浅いのと深いの」
ヴェスパーが吹き出した。
「本当にそれにするの?」
「駄目?」
「駄目じゃない」
「ならこれ」
青年は。
老人の通行証の証人欄に。
二つの小さな四角を描いた。
文字ではない。
名前でもない。
それでも。
自分が。
ここにいた。
そう示す印。
セリカはその横へ、
『灰都西通り・菓子店勤務者/本人選択印』
とだけ記した。
青年が紙を見る。
「勤務者」
「嫌?」
「嫌じゃない」
「じゃあ残す」
青年は。
もう一度。
二つの箱を見る。
少し。
嬉しそうだった。
◇
「これで本当に通れるのか?」
老人が出来上がった紙を持ち上げた。
「明日、北検問所へ先に連絡を出す」
ハルトが言う。
「暫定書式だ。向こうにも説明する」
「駄目って言われたら?」
「俺が喧嘩する」
「ハルト」
セリカが低い声を出す。
「話し合う」
「今、喧嘩って言った」
「言葉の綾だ」
「門番がそれ言うと怖いんだけど」
老人は笑った。
「じゃあ明日だな」
「ああ」
「外へ出ていいんだな」
「途中までは巡回便と一緒だ」
「一人にしない?」
老人の顔が。
少しだけ。
不満になる。
ハルトはそれを見て。
言い直した。
「道が今のお前の知ってる道と違うからだ。お前が危険人物だから付けるんじゃない」
「それならいい」
「目的地が見つからなかったら?」
老人は。
少し黙った。
これまで。
そこを。
考えていなかったわけではないだろう。
「その時考える」
ハルトが。
少し笑った。
「俺みたいなこと言うな」
「お前だけの言葉じゃねえ」
「そりゃそうだ」
老人は通行証を折らず。
丁寧に。
荷袋の内側へ入れた。
「帰ってきたと思ったんだ」
突然。
そう言った。
誰も。
遮らない。
「土が固くて、飯が熱かった。だから、もうそれでいいと思った。でも二日寝たら……昔の場所がまだあるのか見たくなった」
「怖くない?」
青年が尋ねた。
「何が」
「なかったら」
老人は。
青年を見る。
「怖いよ」
返事は簡単だった。
「でも、ないかもしれねえから行かないってのも嫌だ」
「そういうの」
青年は言う。
「みんな両方だな」
「何が?」
「怖いけど行く。帰りたいけど戻りたい。嫌だけど知りたい」
老人が笑った。
「お前、若いのにややこしいこと考えるな」
「みんなが言うから」
「そりゃ大変だ」
◇
老人の出発は翌朝になった。
北へ向かう灰都の巡回便は、朝の日差しが外壁の上へ届く頃に西側の集積所を出る。
荷車が一台。
護衛が三人。
アルドも途中まで同行する。
古い道の崩落状況を確認したいらしい。
「これ、忘れるな」
ハルトが老人へ紙を渡す。
昨日作った。
名前のない通行証。
灰都の門印。
発行番号。
身体的特徴。
三本煙突と坂。
そして。
証人欄の小さな二つの箱。
「忘れねえよ」
「なくすな」
「子ども扱いすんな」
「昨日、荷袋の底に入れてどこか分からなくなってただろ」
「見てたのか」
「通行証を探してたんだよ」
青年も。
仕事前に。
店主へ頼んで。
見送りに来ていた。
手には。
小さな紙包み。
「これ」
老人へ差し出す。
「何だ」
「店主から」
焼き菓子。
三枚。
「金ないぞ」
「昨日の売れ残り」
「なら貰う」
「店主、そこは否定してた」
「じゃあ何だ」
「餞別って言ってた」
青年は。
新しく覚えた言葉を。
少し慎重に発音した。
「旅に出る人へ渡すもの」
老人が紙包みを見る。
「何で?」
「俺も聞いた」
「答えは?」
「そういうものだって」
老人は。
大きな声で笑った。
「お前の店主、そればっかだな」
「ああ」
「ありがとうって言っといてくれ」
「俺から?」
「頼む」
「分かった」
老人は紙包みを荷袋へ入れた。
巡回便の準備が整う。
御者が手綱を持つ。
「そろそろ出るぞ!」
アルドの声。
老人が荷車の後ろへ向かう。
途中。
振り返った。
「箱の兄ちゃん」
「箱運び」
「どっちでもいい」
「よくない」
「細けえな」
老人は。
少し笑う。
「帰ってきたら、続き聞かせてやるよ」
「何の?」
「煙突が残ってたか」
「帰ってくる?」
老人の顔が。
少し。
変わった。
「……そうだな」
帰る。
その言葉が。
今度は。
灰都へ向いている。
「見つからなくても」
老人が言った。
「一回は戻ってくる」
「何で?」
「通行証返すんだろ」
ハルトが横から言う。
「返さなくていい」
「じゃあ」
「菓子食いに」
青年が言った。
老人が。
一瞬。
黙る。
それから。
「固くないやつな」
「高い」
「金取るのかよ!」
「店だから」
老人の笑い声が。
朝の集積所へ響いた。
◇
門が開いた。
巡回便の荷車が。
ゆっくり。
街道へ出る。
老人も。
歩く。
名前は。
呼ばれなかった。
誰かが。
無理に。
新しい名前を与えることもなかった。
それでも。
門衛は。
止めなかった。
門外へ出たところで。
老人がもう一度。
振り返る。
ハルト。
アルド。
青年。
少し離れたところには。
ヴェスパーもいる。
手を。
大きく上げる。
青年は。
どう返せばいいか迷い。
同じように。
手を上げた。
やがて。
荷車は街道の先へ小さくなる。
門が。
閉じ始める。
「行った」
青年が言う。
「ああ」
ヴェスパーが隣へ並ぶ。
「名前なくても」
「うん」
「行けた」
「そうだな」
「俺も?」
ヴェスパーは青年を見る。
「どこか行きたいの?」
「今は店」
「なら急いで戻った方がいいんじゃないか」
青年の顔が変わった。
「仕事」
「何時から?」
「もう始まる」
「まずいな」
「店主怒る?」
「たぶん」
青年が。
走り出す。
「何で先に言わない!」
「俺、お前の仕事の時間知らないぞ!」
「セリカは知ってた!」
「俺はセリカじゃない!」
青年は一度も振り返らなかった。
西門を抜け。
西通りへ。
走っていく。
ヴェスパーは。
その背中を。
しばらく見送っていた。
隣。
ハルトが。
老人の通行証を作った時の控えを持っている。
「面倒が増えた」
言う。
「何が?」
「これから名前書きたくない奴、他にも出るぞ」
「駄目?」
「駄目じゃないから面倒なんだよ」
ハルトは控えを見る。
「書式作り直しだ。北門と南門にも説明しなきゃならん。検問所にも。商人組合にも」
「大変だな」
「他人事みたいに言うな」
「俺、門番じゃないし」
「お前も原因の一部だろ」
「何で」
「名前が一個じゃなくても人は生きていけるみたいな面倒な前例を増やしやがって」
ヴェスパーは。
少し笑った。
「俺のせいじゃない」
「知ってる」
ハルトも。
控えを畳む。
「だから面倒なんだ」
でも。
その声は。
嫌そうではなかった。
◇
昼前。
青年は。
菓子屋の帳簿を開いていた。
「遅刻」
店主が言う。
「少し」
「少しじゃねえ」
「老人見送ってた」
「聞いた」
「誰から?」
「門衛が菓子買いに来た」
「早い」
「狭い街だからな」
青年は。
昨日。
空けてもらった。
自分の名前欄を見る。
今日も。
空白。
でも。
隣には。
働いた時間。
賃金。
昨日の記録。
ちゃんと残っている。
「店主」
「何だ」
「ここ」
名前欄。
指差す。
「まだ名前は書かない」
「分かった」
「でも」
青年は。
炭筆を取った。
昨日。
通行証の証人欄へ描いた。
二つの箱。
浅い箱。
深い箱。
同じものを。
帳簿の端。
小さく。
描く。
「これ」
店主が覗き込む。
「箱?」
「ああ」
「名前?」
「違う」
「じゃあ何だ」
「俺のところ」
青年は。
昨日の記録を。
指差す。
「名前なくても、ここが俺だって分かるように」
店主は。
二つの小さな四角を見る。
「箱運びじゃん」
「違う」
「何が違う」
「これは呼ばなくていい」
「ああ?」
「俺が」
青年は。
自分で描いた印を。
見つめる。
「俺のだって分かればいい」
店主はしばらく黙っていた。
「まあ」
帳簿を青年へ戻す。
「お前がそれで分かるなら、しばらくそれでいいんじゃねえか」
「困らない?」
「ちょっと困る」
「やっぱり」
「でも」
店主は。
昨日から空いたままの氏名欄を。
勝手には埋めなかった。
「名前決まるまで仕事出来ないよりはマシだ」
青年は。
二つの箱の横へ。
今日の日付を書く店主の手を見ていた。
名前はない。
それでも。
昨日。
自分はここにいた。
今日も。
ここにいる。
明日も。
店へ来るつもりだった。
空いている欄が。
何もないことと。
同じではない。
青年は。
そのことを。
少しずつ。
分かり始めていた。
店の扉が開く。
「いらっしゃい」
店主の声。
青年も。
客の方を見る。
昨日より。
ほんの少しだけ。
自然に。
「いらっしゃい」
同じ言葉を。
口にした。




