第3章 第34話 「名前のない店員」
目を覚ました時、青年はしばらく天井を見ていた。
見慣れない木目だった。
検査区画の白い天井ではない。黒翼の観測塔で最初に目を開けた時に見た、継ぎ目のない灰色の天井とも違う。
古い木板には小さな染みがあり、右端の一枚だけわずかに反っている。夜のうちに冷えたらしく、窓の隙間から入る朝の光もまだ青かった。
どこにいるのか分からなくなったのは、ほんの数秒だった。
身体を起こしたところで、枕元に置いた鉄の鍵が目に入る。
青年は手を伸ばし、それへ触れた。
冷たい。
昨日、自分で扉を閉めた。
ヴェスパーとレイラが帰ったあと、自分で鍵を掛けた。
そして、そのまま眠った。
「……ここか」
誰に聞かせるでもなく呟いた。
胸の黒火は静かだった。
痛みもない。昨日のような、知らない記憶が自分の奥から浮かび上がってくる感覚もなかった。
代わりに、階下から音がする。
何か重いものを台へ置く音。
戸棚が開く音。
金属の器がぶつかり合う音。
その後、少し遅れて香ばしい匂いが二階まで上がってきた。
青年は寝台の上で鼻を動かした。
昨日食べた焼き菓子とは違う。
甘さより先に、小麦を焼く匂いがする。
しばらくすると、階段を上る足音がした。
青年の身体がわずかに強張る。
足音は扉の前で止まった。
扉は開かない。
少し間を置いてから、二度。
こん、こん、と木を叩く音がした。
「起きてるか?」
店主だった。
青年は枕元の鍵を見た。
「起きてる」
「入っていいか?」
昨日までなら、誰かが部屋へ入ってくる時に、自分へそんなことを聞く人間はいなかった。
聞かれることにまだ慣れていない。
だから、返事をするまで少し時間が掛かった。
「……いい」
「鍵掛かってるぞ」
「あ」
青年は寝台を降りた。
素足で床を歩き、鍵を開ける。
扉の外では、店主が湯気の立つ木杯を二つ持っていた。
「遅い」
「返事待つって言った」
「そうだったな」
「何で文句言う?」
「待つのと文句言うのは別だ」
青年にはよく分からなかった。
「変」
「朝からそれかよ」
店主は部屋へ入り、木杯の一つを机へ置いた。
「茶。あと下にパンがある。食ったら降りてこい」
「仕事?」
「やるならな」
青年は店主を見る。
「やらなくてもいい?」
「昨日の話だと、今日もやりたいんじゃなかったのか?」
「やりたい」
「じゃあ来い」
「でも、やらなくても?」
同じことを聞かれ、店主は少し眉を寄せた。
青年が何を確かめたいのか、考えたらしい。
「昨日、ハルトから聞いた。仕事と部屋の話は別にしろって」
「ああ」
「だから今日休んだくらいで、いきなり部屋から追い出したりはしねえよ。ただ、ずっと働かないのに家賃も払わないってなったら、その時は話し合う」
「話す?」
「そうだ」
「すぐ出ていけじゃなくて?」
「すぐ出ていってほしい時は、ちゃんとそう言う」
店主はそう言ってから、自分で何かおかしかったのか鼻を鳴らした。
「朝から何の話してんだ、俺は」
青年は考える。
やりたいから、仕事へ行く。
やらなければ捨てられるから、ではない。
その違いは、まだ完全には理解できなかった。
けれど、昨日食べた焼き菓子を思い出す。
箱を運んだ。
終わった。
自分の分を受け取った。
「行く」
青年は言った。
「仕事」
「分かった。じゃあ顔洗ってこい」
「顔?」
「その顔で店に立つのか」
「変?」
「寝起き」
「寝起きは変?」
店主は天井を見上げた。
「……一個ずつ覚えような」
◇
菓子屋の朝は、青年が思っていたより忙しかった。
昨日は店が落ち着いた午後に箱を運んだだけだったため、開店前にこれほど多くの作業があるとは知らなかった。
昨夜のうちに仕込んでおいた生地を窯へ入れる。
焼き上がった菓子を冷ます。
棚を拭く。
包み紙を補充する。
釣り銭を数える。
店先の看板を外へ出す。
青年が最初に任されたのは、焼き上がった菓子を並べる木箱を倉庫から運ぶ仕事だった。
昨日と同じ。
それなら分かる。
「これは?」
青年は箱を一つ持ち上げた。
「表の棚」
「こっちは?」
「それは裏」
「違いは?」
「大きさ」
二つを見比べる。
ほとんど同じに見える。
「同じ」
「よく見ろ。こっちの方が指一本分浅いだろ」
青年は箱の縁へ指を当てた。
「……本当だ」
「それが焼き菓子用。深い方はパン」
「何で分ける?」
「菓子を深い箱に入れると下のが割れる」
「じゃあ浅い箱にパンを入れれば?」
「積めない」
「難しい」
「店ってそういうもんだ」
店主は作業の手を止めない。
説明しながら、次の生地を天板へ並べている。
「全部今日覚える必要はない。間違えたら聞け」
「間違えたら怒る?」
「同じこと三十回やったら怒る」
「二十九回は?」
店主の手が止まった。
「お前、たまに面倒臭い質問するな」
「何回ならいい?」
「回数を決めようとするな」
青年は、少し笑った。
昨日までは。
分からないことを聞く時、どこかで正しい答えが一つあるものだと思っていた。
どうすればいい。
何が正しい。
どれを選ぶ。
けれど、店主の答えはかなり曖昧だった。
それでも店は動いている。
箱を一つ間違えたところで、世界は壊れない。
「次、何する?」
「棚拭いてくれ」
「布は?」
「あそこ」
青年は店の隅へ向かった。
少しして。
「どれ?」
「青いの!」
「青いの二つある」
「薄い方!」
「両方薄い」
「……持ってこい、俺が選ぶ!」
そのやり取りを聞いていた厨房の奥の女が笑った。
青年は初めて見る人だった。
四十代くらいの小柄な女性で、店主よりもずっと手際よく生地を扱っている。
「朝から楽しそうね」
「どこがだよ」
「昨日より喋ってる」
「こいつが何でも聞くからだ」
女は青年を見る。
「新しい子?」
「子じゃない」
青年が答えた。
「そう? じゃあ新しい人」
「それならいい」
「細かいわね」
「よく言われる」
「誰に?」
「みんな」
女は笑いながら手を洗った。
「私は昼まで手伝ってるだけ。生地は勝手に触らないでね。店主の箱より面倒だから」
「触る前に聞く」
「それなら大丈夫」
青年が頷いたところで。
店先の扉が開いた。
最初の客だった。
◇
朝一番に来たのは、白髪の老人だった。
毎朝ほとんど同じ時間に来る常連らしい。
「いつもの」
店へ入ってすぐ、老人はそう言った。
青年は店主を見る。
「いつものって何?」
「薄焼き二枚と固いパン一つ」
「何で言わなくても分かる?」
「毎日来るから」
老人はそこで青年へ気付いた。
「見ない顔だな」
青年は答えようとして。
止まった。
何と答えるのが正しいのか。
「昨日からいる」
結局、そのまま言った。
「店員か?」
「たぶん」
店主が奥から声を上げる。
「そこは『はい』でいい!」
「まだ決まってないかと思った」
「今日働いてるなら今日は店員だ!」
「明日は?」
「明日も来るなら明日もだ!」
老人が楽しそうに笑う。
「面白いの雇ったな」
「俺はまだ雇ったってほどじゃねえ」
「仕事してる」
青年が言う。
「なら雇ってるだろ」
老人はあっさり言った。
それから。
「名前は?」
青年の動きが止まった。
店主も。
奥にいた女も。
ほんの少し静かになる。
「ない」
青年は答えた。
老人が瞬きをする。
「ない?」
「ああ」
「忘れたのか」
「たぶん、最初からない」
老人はしばらく青年を見た。
胸の黒火について噂を聞いているのかもしれない。
しかし。
「そうか」
とだけ言った。
「じゃあ、今は何て呼べばいい」
青年は困った。
ここまでは考えていなかった。
「おい」
店主を見る。
「俺に振るなよ」
「何て呼ばれてる?」
「昨日は箱運びって呼んだ」
「それでいい」
「本当に?」
「嫌じゃない」
老人がまた笑った。
「じゃあ箱運び。俺のいつもの持ってきてくれ」
青年は棚を見る。
薄焼き二枚。
固いパン一つ。
さっき聞いた。
取り出す。
紙で包む。
店主の真似をする。
途中、端が少しずれた。
「それでいい?」
「中身落ちなきゃいい」
老人が言う。
「店主より優しい」
「聞こえてるぞ!」
包みを渡す。
老人が銅貨を机へ置いた。
「ありがとう、箱運び」
青年は。
ほんの少し遅れて。
「……どういたしまして」
と答えた。
老人が出ていったあと。
青年は扉を見たまま立っていた。
「どうした?」
店主が尋ねる。
「呼ばれた」
「箱運びって?」
「ああ」
「嫌だったか?」
青年は自分の中を確かめた。
「嫌じゃない」
「じゃあ、しばらくそれでもいいんじゃねえか」
「名前にする?」
「それはやめとけ」
「何で」
「俺が適当に付けた呼び方で一生生きる気か?」
「駄目?」
店主は手に持っていた布巾を置いた。
「駄目じゃねえけど……そういう大事なことは、もう少し考えろ」
「どのくらい?」
「知らん」
「またそれ」
「名前なんて俺も自分で付けたことねえんだよ!」
確かに。
青年は納得した。
◇
午前が進むにつれて、客は少しずつ増えた。
青年は箱を運び、包み紙を折り、店主が言った品を棚から取った。
最初は何をするにも確認していたが、同じ作業を何度か繰り返すうちに少しずつ聞く回数が減っていく。
薄焼きは浅い箱。
固いパンは深い箱。
温かい菓子をすぐ紙へ包むと湿気る。
銅貨五枚なら小さい菓子が二つ。
店主が「奥」と言った時は厨房ではなく倉庫。
店には店の言葉がある。
それを覚えていくのは、青年にとって思ったより面白かった。
知らないことが。
怖いことだけではない。
そう思えた。
昼前。
扉が開いて。
「いた」
ノアが顔を出した。
後ろにはヴェスパーもいる。
「何で?」
青年が尋ねる。
「お菓子買いに来た」
「ノアが?」
「レイラ」
ヴェスパーが答える。
「本人は?」
「アルドに捕まった」
「何した?」
「壊しかけた屋根の補修」
「やっぱり壊した?」
「壊してないって言ってる」
青年は少し笑った。
店主が奥から顔を出す。
「客なら買え。話だけなら外でやれ」
「厳しい」
ノアが言う。
「店だからな」
ヴェスパーは棚を見る。
「何がいい?」
「俺に聞くの?」
青年が少し驚く。
「店員だろ」
朝の老人と同じ言葉。
「今日は」
青年が言う。
「店員」
「じゃあ店員さん、おすすめは?」
ノアが聞いた。
青年は真剣に棚を見る。
好きなのは薄焼きの菓子。
でも。
それは自分が好きなだけ。
ノアが好きとは限らない。
「甘いの好き?」
「好き」
「固いのは?」
「歯が疲れるの嫌」
「じゃあこれ」
青年は焼き上がったばかりの丸い菓子を指差した。
「何で?」
「柔らかいって店主が言ってた」
「食べた?」
「まだ」
「じゃあ、おすすめなの?」
青年が止まる。
「……分からない」
ノアが笑った。
「じゃあ一緒に食べてみる?」
「俺、仕事中」
店主が横から言う。
「休憩入れ。朝から動いてたろ」
「今?」
「今」
「客いる」
「俺もいる」
「じゃあ」
青年は少し考える。
「休む」
「いちいち宣言しなくてもいい」
「言った方が分かる」
「それはそうだな」
四人は店先の小さな長椅子へ移った。
ノアが買った丸い菓子を半分に割る。
青年へ差し出した。
「半分」
「ノアが買った」
「一緒に食べるって言ったから」
「俺の?」
「半分は」
青年は受け取った。
一口食べる。
昨日の薄焼きより柔らかい。
甘みも強い。
「どう?」
ノアが聞く。
「好き」
「僕も」
「同じ」
「うん」
ヴェスパーはそのやり取りを見ながら、薄い茶を飲んでいた。
「何?」
青年が気付く。
「いや。仕事どうかなと思って」
「箱は分かるようになった」
「そこ?」
「包むのも少し」
「楽しい?」
青年は考えた。
「分からないこと多い」
「うん」
「でも昨日みたいな分からないと違う」
「どう違う?」
「聞いたら」
店の中にいる店主を見る。
「だいたい教えてくれる」
向こう側。
黒火。
同じ顔。
自分が何のために作られたか。
聞いても。
答えがない。
それとは違う。
「それはいいな」
ヴェスパーが言った。
「あと」
青年は少し迷った。
「名前聞かれた」
ヴェスパーの目が彼へ向く。
「何て答えた?」
「ない」
「うん」
「今は箱運びって呼ばれてる」
ノアが吹き出した。
「似合う?」
「何が」
「箱運び」
青年は自分を見る。
「分からない」
「名前にはしない方がいいと思う」
ノアが真面目な顔で言った。
「ノアも?」
「だって、ずっと箱運ばないかもしれないよ」
「確かに」
青年はヴェスパーを見る。
「名前って、どうやって決める?」
ヴェスパーの木杯を持つ手が少し止まった。
「それ、俺に聞く?」
「名前ある」
「あるけど」
「誰が決めた?」
知っている。
でも。
青年自身の問題として聞きたいのだろう。
「ガルム」
「自分じゃない?」
「ああ」
「嫌じゃない?」
ヴェスパーは少しだけ遠くを見る。
店の向かいでは、荷車から野菜を下ろしている男がいる。風が吹くと、薄い灰が石畳を転がった。
「嫌じゃない」
「何で?」
「呼ばれたら、自分のことだと思うから」
青年は黙って聞いている。
「最初にその名前だったわけじゃないかもしれない。俺にも分からないことはある。でも今、レイラやノアやイリスが『ヴェスパー』って呼んだら、俺は振り向く」
「ガルムが付けたのに?」
「ああ」
「じゃあ人に付けてもらっても、自分の名前?」
「俺はそう思ってる」
ヴェスパーは一度言葉を切った。
「ただ、だからってお前も誰かに付けてもらわないといけないわけじゃない」
「自分で?」
「それでもいいと思う」
「今決める?」
「決めたい?」
青年は。
しばらく。
答えなかった。
「まだ」
「じゃあ、まだでいい」
あまりにも簡単に言われたため。
青年はヴェスパーを見た。
「困らない?」
「店主は困るかもな」
ちょうど扉から顔を出した店主が言う。
「困ってるぞ!」
「聞いてた?」
「店先で喋ってんだから聞こえる!」
店主は青年を指差した。
「配達頼む時も帳簿付ける時も、ずっと『おい』じゃ面倒なんだよ!」
「箱運び」
「それも期限付きにしてくれ!」
青年が少し笑う。
ヴェスパーも。
「でも」
店主は少し声を落とした。
「面倒だからって、今日中に決めろとは言わねえよ」
青年が店主を見る。
「何で?」
「お前、何でも何でって聞くな」
「知りたい」
「……名前ってのは、俺が菓子の値札付けるのとは違うだろ」
「違う?」
「たぶんな」
店主は言いながら、自分でも自信がなさそうだった。
「俺には分からん。だから勝手に決めない」
青年は。
その言葉を。
少し長く覚えていた。
◇
午後になって。
初めて。
客の一人が青年を怖がった。
それまでにも、顔を見て店へ入るのを迷う人はいた。
遠くから胸元を気にする人もいる。
けれど、直接口に出した人はいなかった。
その女性は。
五歳くらいの男の子を連れていた。
店へ入った時には普通だった。
棚の菓子を選び。
青年が紙袋を取ろうとしたところで。
女性の目が。
彼の胸元で止まった。
衣服の下。
黒火は見えない。
それでも。
噂で。
顔を知っていたらしい。
「……あなた」
女性が。
少しだけ。
子どもの肩を自分の方へ引いた。
「黒い火の人?」
青年の手が止まる。
「ああ」
嘘をつく理由はない。
女性の顔が強張る。
「食べ物、触ってるの?」
店の中が。
少し静かになった。
奥にいた店主も。
作業を止める。
青年は。
自分の手を見る。
朝から。
箱。
包み紙。
菓子。
何度も触った。
「触ってる」
「大丈夫なの?」
青年には。
答えられない。
何をもって。
大丈夫と言うのか。
「体調と火は毎日確認してます」
奥から。
店主ではない声。
昼の手伝いに来ていた女性が答えた。
「食べ物に何か影響が出てる様子は今のところないって、治療師さんからも聞いてます」
「でも、絶対じゃないんでしょう?」
客の女性は。
責めるようにではなく。
本当に不安そうだった。
青年は。
その顔を見た。
怖い。
たぶん。
自分が。
怖い。
胸の中に。
嫌な感覚が生まれる。
怒りとは少し違う。
自分がここにいることで。
店に問題が起きる。
「俺」
青年が。
紙袋を置いた。
「奥に行く」
店主がすぐ顔を上げる。
「何で?」
「この人、嫌」
客の女性の表情が変わる。
「違う。あなたが嫌いって意味じゃ――」
「怖い?」
青年が聞いた。
女性は。
答えに迷った。
その迷いが。
答えだった。
「なら」
「待て」
店主が青年を止めた。
「勝手に話終わらせるな」
「でも」
「この人が怖いと思うのと、お前が店から消えるのは別の話だ」
青年は店主を見る。
「違う?」
「違う」
店主は客の女性へ向き直った。
「心配する気持ちは分かります。俺だって最初は何者か分からなかったし、今だって全部分かってるわけじゃない」
女性は子どもの肩へ手を置いたまま、黙っている。
「ただ、こいつは昨日からここで働いてます。今のところ食い物に変な影響は出てない。手も洗わせてる。体調も見てもらってる」
「それでも心配なら?」
「今日は買わなくてもいいです」
女性が少し驚く。
店主は続ける。
「別の日に来てもいいし、他の店で買ってもいい。それで俺があんたを悪い客だと言うつもりもない」
「じゃあ」
「でも」
店主が。
今度は。
はっきり。
言った。
「怖がる客が一人来たからって、こいつに『お前は裏へ隠れてろ』って言うつもりもない」
青年は。
動けなかった。
「こいつが何かしたなら別です。でも今はしてない。だったら、そこで働くかどうかは俺とこいつの話です」
店主は青年を見る。
「お前も勝手に客の分まで決めるな」
「俺が?」
「この人が怖いなら、自分で買うか帰るか決める。お前が『怖いだろうから俺が消える』って先回りするな」
青年は。
何かを言おうとして。
言葉が出なかった。
客の女性も。
しばらく黙っていた。
腕を引かれていた子どもが。
母親の顔を見上げる。
「お母さん」
「何?」
「お菓子」
「……うん」
女性は。
青年を見る。
まだ。
完全に不安が消えた顔ではない。
「今日は」
少し迷う。
「店主さんが包んでもらえますか」
店主は。
すぐに頷いた。
「分かりました」
それだけだった。
青年の代わりに包む。
女性は代金を払う。
子どもが袋を受け取る。
帰る前。
女性が青年へ小さく頭を下げた。
謝罪なのか。
挨拶なのか。
青年には分からなかった。
青年も。
どう返せばいいか分からず。
少しだけ。
頭を下げた。
扉が閉まる。
店の中に。
いつもの音が戻る。
「……怒らない?」
青年が尋ねた。
「誰に」
「今の人」
「何で俺が怒るんだ」
「俺を怖いって」
「怖いものは仕方ねえだろ」
「でも」
「その人がお前に石投げたら怒る。店壊したらもっと怒る。怖いって思っただけなら、俺が頭の中まで決められん」
店主は。
さっき途中で止まった箱を持ち上げる。
「お前だって見られるの嫌だろ」
「ああ」
「でも街の奴全員に『見るな』って命令できない」
「できない」
「だったら」
店主は。
棚へ箱を置く。
「こっちも、出来ることと出来ないこと分けるしかねえよ」
青年は。
しばらく立っていた。
「仕事」
やがて言う。
「続けていい?」
店主が振り返る。
「お前が続けたいなら」
青年は。
紙袋を一枚取った。
「続ける」
「じゃあ次の客来る前に袋補充しろ」
「分かった」
それで。
話は終わった。
◇
夕方。
仕事が終わる頃には。
青年の足は少し重くなっていた。
昨日は箱を数個運んだだけ。
今日は朝から立ちっぱなしだった。
手も。
粉と紙で。
少し乾いている。
「疲れた」
青年が言うと。
店主は笑った。
「普通だ」
「これも普通?」
「仕事したら疲れる」
「アステルに言う」
「何で」
「普通って言われたって」
「好きだな、その言葉」
青年は。
少し考える。
「嫌じゃない」
店主が今日の分の賃金を数えた。
銅貨。
何枚か。
机へ置く。
青年が見る。
「俺の?」
「今日働いた分」
「全部?」
「全部」
「家賃は?」
「まだ保護期間」
「じゃあ」
青年は。
硬貨を。
一枚ずつ。
手に取る。
昨日の焼き菓子とは違う。
これなら。
何に使うか。
自分で決められる。
「明日も来たら」
「明日の分が出る」
「休んだら?」
「出ない」
「分かりやすい」
「そこはな」
店主が帳簿を開いた。
そして。
手が止まった。
「そうだ」
「何?」
「お前の分、ここに書くんだが」
指。
一つの欄。
『氏名』
青年は。
文字を読めない。
でも。
何を書く場所かは。
説明されて。
分かった。
「名前」
「ああ」
「ない」
「知ってる」
「箱運び?」
「帳簿に『箱運び』って書くの嫌だな……」
「何で?」
「後で絶対俺が困る」
店主は頭を掻いた。
「何か仮の印でも――」
「待って」
青年が。
止めた。
店主が見る。
「俺」
青年は。
帳簿の空白を見る。
そこへ。
何かを書けば。
今日から。
その言葉で。
自分が記録される。
黒翼の研究記録。
番号。
器。
空。
自分が。
決めていない呼び方。
いくつも。
あった。
「今日は」
青年は。
ゆっくり言った。
「空けておいて」
店主は。
一瞬だけ。
何か言いかけた。
でも。
何も書かなかった。
「分かった」
「困る?」
「困る」
「ごめん」
「でも」
店主は。
帳簿の名前欄を。
そのまま空白にする。
隣の欄へ。
日付。
働いた時間。
賃金。
それだけ書いた。
「名前がなくても、今日働いたのは消えねえだろ」
青年は。
帳簿を見る。
空白。
その横に。
今日一日の記録。
「……うん」
「決めたくなったら言え」
「店主は決めない?」
「決めねえ」
「何で」
店主は。
呆れたように笑う。
「今日それ何回目だ」
「分からない」
「俺もだよ」
◇
夜。
青年は。
二階の部屋へ戻った。
扉を閉める。
自分で。
鍵を掛ける。
昨日より。
少しだけ。
その動作に慣れた。
机の上。
今日もらった銅貨。
一枚ずつ。
並べる。
焼き菓子なら。
何枚買える。
それは。
明日。
店主に聞けばいい。
窓を開ける。
夜の灰都。
通り。
店。
人。
遠く。
門。
名前を。
まだ。
決めなかった。
朝の老人は。
箱運びと呼んだ。
店主も。
時々そう呼ぶ。
ヴェスパーは。
名前は誰かから貰っても。
自分のものになれると言った。
自分で決めてもいい。
今は決めなくてもいい。
いろいろ。
言われた。
青年は。
窓枠へ腕を置く。
下の通りを。
眺める。
昼。
自分を怖がった女性。
その顔も。
思い出す。
嫌だった。
少し。
傷付いた。
たぶん。
それでも。
店を辞めなかった。
自分で。
続けると言った。
朝。
起きた。
仕事へ行った。
箱を運んだ。
包み方を覚えた。
客へ菓子を渡した。
ノアと半分ずつ食べた。
怖がられた。
それでも。
最後まで店にいた。
金を貰った。
そして。
名前の欄は。
空けてもらった。
青年は。
自分の掌を見る。
今日一日。
何度も使った手。
誰かに。
動かされたのではない。
自分で。
動かした。
名前は。
まだない。
でも。
名前が決まるまで。
何も始められないわけではなかった。
階下から。
店主の声が聞こえた。
「おーい!」
青年が。
窓から顔を出す。
「何!」
「悪い! 明日の粉、裏から運ぶの忘れてた!」
「今?」
「嫌なら明日でいい!」
青年は。
少し考える。
「菓子一枚?」
「給料払っただろ!」
「じゃあ明日!」
「現金な奴だな!」
青年は。
笑った。
窓を閉める。
鍵。
机。
銅貨。
自分の部屋。
明日。
また。
店へ降りる。
今は。
それでよかった。
呼ばれる名前を決めるのは。
もう少し。
自分が。
どんな時に振り向きたいのか。
知ってからでも。
遅くない。




