第3章 第33話 「自分で閉める扉」
翌朝、イリスは黒い灰の入った木箱を開けなかった。
前日までなら、起きて最初に確かめていたかもしれない。灰の裏側に現れた白い線と、黒翼の記録に残された遠隔観測技術との類似。さらに、名前のない青年が「見るための身体」として作られた可能性まで浮かび上がっている。
知りたいことはいくらでもあった。
机の上には昨夜のうちに整理した資料が積まれている。黒翼から回収された写本、灰星観測記から抜き出した記述、星見から聞いた「向こう側」の性質についての覚え書き。少し手を伸ばせば、また一日中それらと向き合うことができた。
それでもイリスは、箱の蓋へ鍵を掛けた。
小さな金具が、かちりと乾いた音を立てる。
「……本当に閉めるんだな」
背後から声がした。
振り返ると、詰所の入口にヴェスパーが立っていた。朝食を終えたばかりなのか、片手にはまだ木杯を持っている。
「その言い方、私が開けると思ってたみたいだけど」
「昨日までなら開けてただろ」
「否定できないのが腹立つ」
イリスは鍵を腰の小袋へ入れ、椅子の背にもたれた。
臨時の作業場として借りている西門詰所の一角には、朝の光が斜めに差し込んでいた。窓の外では、荷車を引く男が門前の坂を上っていく。荷台には麻袋が積まれ、その横を二人の子どもが競争するように走っていた。
世界の正体が分からなくても、街は朝を始める。
その当たり前の光景を、イリスは少し長く眺めた。
「今日は調べないのか?」
「調べないわけじゃない。昨日までに分かったことを整理する。でも、新しいことは増やさない」
「珍しい」
「昨日からみんなそれ言うね」
「みんな思ってるんだろ」
「ヴェスパーもその一人じゃない」
言い返しながらも、イリスの声には本気の苛立ちはなかった。
「昨日、あの人が自分のことを話してる時に思ったの。私、質問したいことが途中からどんどん増えてた」
「名前のないあいつ?」
「うん。向こう側で同じ顔を見た人がいる。白い場所を本人も覚えてる。黒翼に観測用の素体研究があった。そこまで揃ったら、次は何を聞けばいいかって、勝手に頭が動き始めてた」
「イリスらしいな」
「それ、たぶん褒めてないよね」
「半分くらい」
「レイラみたいなこと言わないで」
ヴェスパーは笑ったが、すぐに黙って続きを待った。
「でも、あの人にとっては昨日だけでも十分重かったと思う。自分の身体が誰かの目的で作られたかもしれないって知って、そのうえ向こう側から見られるための窓だった可能性まで出てきた」
イリスは机の上に置いた指先を、ほんの少し握った。
「そこで私が『じゃあ次を調べよう』ってやったら、たぶん順番が逆になる」
「何と?」
「謎と、人」
ヴェスパーの表情が静かになる。
「黒翼は、知りたいことのために人間を使った。私が同じことをするつもりはないよ」
「……そうだな」
「だから今日は待つ。本人が話したいなら聞く。でも、私からは追わない」
「大変そうだな」
「何が?」
「待つの」
イリスは露骨に嫌そうな顔をした。
「ものすごく大変」
「やっぱり」
「でも練習する」
ヴェスパーが笑った。
イリスは机の上の布巾を丸めて投げたが、今度は届く前に避けられた。
◇
その頃、検査区画では別の問題が起きていた。
「だから、監禁してるわけじゃない」
「でも、ずっと人がいる」
「見張りだからな」
「それが嫌だって言ってる」
「俺だって分かってるよ!」
廊下の奥まで響いたハルトの声に、様子を見に来たヴェスパーは足を止めた。
セレスとアステルもすでにいる。
扉の前には若い門衛が一人。昨日、食事の途中で口の端に芋を付けていた男だった。
そして、その向かい。
名前のない青年が部屋の中ではなく、廊下へ出て立っていた。
「朝から元気だな」
ヴェスパーが声を掛けると、ハルトが勢いよく振り返った。
「ちょうどいい。お前からも何か言ってくれ」
「何を?」
「俺もそこから聞いてる」
青年が答える。
ハルトは額を押さえた。
「俺だけ悪いみたいになってるだろ」
「話し方は少し悪いですね」
セレスが淡々と言う。
「セレスまでか」
「少しです」
「それ本当に少しか?」
アステルが小さく息を吐いた。
「最初から説明した方がいいでしょう」
彼女は青年へ視線を移した。
「本人は、この部屋を出たいそうです」
ヴェスパーは青年を見る。
「外出なら昨日もしただろ」
「違う」
「じゃあ?」
「ここに戻りたくない」
青年は背後の部屋を見た。
白い壁。
簡素な寝台。
小さな窓。
牢屋ではない。
扉に鍵も掛けられていない。
それでも青年の表情には、はっきりとした拒絶があった。
「部屋そのものが嫌なのか?」
「部屋は嫌じゃない」
「なら、何が?」
青年は答えようとして、少し迷った。
以前なら、そこで「嫌」の一言だけで終わっていたかもしれない。
今は違う。
「寝る時も」
ゆっくりと口を開く。
「起きた時も、扉の外に人がいる。外に出れば一緒に来るし、戻るとまたここに立ってる」
門衛の男が居心地悪そうに足を動かす。
「俺のこと嫌い?」
青年は首を横に振った。
「嫌いじゃない」
「本当か?」
「昨日、芋食べてた人」
「覚え方それなの?」
「口についてた」
門衛が反射的に口元を拭った。
「今日は大丈夫だ」
「今は」
「確認すんな」
ほんの少しだけ空気が緩んだ。
しかし青年は、すぐに真剣な表情へ戻る。
「この人が嫌なんじゃない。誰かがずっと外にいるのが嫌なんだ」
ハルトも、今度は遮らなかった。
「昨日、自分の身体が何かを見るために作られたかもしれないって聞いた」
「ああ」
「それで、向こうから俺を使ってこっちを見てたかもしれないって」
「まだ可能性の話だ」
「分かってる」
青年は答える。
「でも、分かってても嫌なんだ。目を覚ました時から、自分の身体のことを自分より他の人が知ってる。何を食べたか、どう寝たか、火がどう動いたかも見られる」
言葉を選びながら話すうちに、青年の指が自分の袖を握っていた。
「ここに戻ると、まだ俺が誰かに見てもらうためのものみたいに感じる」
廊下が静かになった。
遠くでは誰かが水桶を置く音がする。
外から差し込む朝の光が、青年の足元へ細長く伸びていた。
「……そこまで言われると」
ハルトは顎を掻いた。
「俺も『我慢しろ』で終わらせるのは嫌だな」
青年が顔を上げる。
「じゃあ出ていい?」
「話を最後まで聞け」
ハルトは苦笑した。
「お前の言ってることは分かった。だから、今のやり方を変えることは考える。でも、安全確認そのものを全部なくすのは無理だ」
「何で?」
「お前を疑ってるからだけじゃない」
ハルトは、少し考えてから言葉を続けた。
「こっちはまだ、お前の胸にある黒火を知らない。昨日だって採石場に近付いたら反応しただろ。もし街の中で急に何か起きた時、お前一人で止められるかどうかも分からない」
「俺が悪くなくても?」
「悪い悪くないの話じゃない」
「火が勝手に動くかもしれないから?」
「そう」
青年は自分の胸元へ手を置いた。
黒火は今、静かだ。
「それも嫌だな」
「ああ。俺も嫌だ」
ハルトの返事は意外なほど素直だった。
「お前をここに置きっぱなしにするのも嫌だし、何も考えず街へ出すのも嫌だ。だから別のやり方を探す」
「別の?」
「そう」
「誰が決める?」
青年の質問に、ハルトは少し眉を上げた。
「俺たちと」
一度区切る。
「お前で」
「俺も?」
「お前の暮らす場所の話なのに、お前抜きで決める方がおかしいだろ」
青年は、しばらく何も言わなかった。
その表情が。
ほんの少しだけ。
驚いているように見えた。
◇
話し合いは西門詰所へ移った。
狭い長机を囲んだのは、ハルト、セレス、アステル、ヴェスパー、イリス、そして青年本人。
レイラもいた。
「何でお前がいる」
ハルトが尋ねる。
「暇だった」
「採石場で仕事しろ」
「アルドに『今日は勝手に柱に触るな』って言われた」
「それ、お前が昨日壊しかけたからだろ」
「壊してない。壊れそうだっただけだ」
「同じだ!」
青年がレイラを見る。
「レイラも部屋決める?」
「私は宿に部屋あるぞ」
「見張りは?」
「いない」
「ずるい」
「私に言われても困る」
青年が明らかに不満そうな顔をしたため、レイラが思わず笑う。
「お前、顔に出るようになったな」
「嫌そう?」
「かなり」
「嫌だから」
「知ってる」
ハルトが机を叩いた。
「話戻すぞ」
灰都西側の簡易地図が広げられる。
「まず、今すぐ普通の住民と同じ条件でどこにでも住んでいい、とは言えない」
青年の眉が寄る。
「さっきと同じ?」
「似てるが違う。最後まで聞け」
ハルトは地図へ小石を三つ置いた。
「俺なりに候補を探した。お前が嫌なことと、こっちが必要なこと。その両方をなるべく避けられる場所だ」
「三つ?」
「そうだ」
「そんなにある?」
「灰都は古い街だからな。使ってない部屋だけは意外とある」
一つ目は、西門詰所の空き部屋。
門衛が常にいるため、黒火に異常があればすぐ対応できる。
説明を聞き終える前に、青年は首を横へ振った。
「嫌」
「理由は聞かなくても分かる」
「人が多い」
「だろうな」
二つ目は旧採石場。
帰還者たちの近くにいれば、もし黒火が向こう側から来た者へ反応した場合も気付きやすい。
今度は青年が少し考えた。
「昨日、あそこに行った時、胸が動いた」
セレスが尋ねる。
「痛みはありましたか?」
「なかった。でも、ずっとあの感じがするなら落ち着かないと思う」
「眠れなさそうですか?」
「たぶん」
「では、住居としては外しましょう」
セレスは地図の印へ小さく線を引いた。
三つ目。
ハルトの指が、西通りの一角で止まる。
「ここ」
青年が覗き込む。
「菓子屋?」
「その二階」
ヴェスパーも地図を見る。
「昨日の店か」
「ああ。住み込み用に使ってた部屋が一つ空いてる」
「何でそこが候補に?」
「向こうから話が来た」
青年が顔を上げる。
「店の人から?」
「昨日、お前が箱運びしただろ」
「ああ」
「今日も手伝えるなら来ないかってさ。その話をしてる時に、空き部屋のことを思い出したらしい」
「俺に貸してもいいって?」
「条件次第ではな」
「何で?」
青年は本当に分からないらしい。
ハルトが少し困った顔をした。
「昨日ちゃんと仕事したからじゃないか」
「それだけ?」
「店主本人に聞け」
レイラが横から口を挟む。
「菓子一枚で信用買ったんじゃない?」
「そんな安い信用あるか?」
「でもあいつ、昨日すごい嬉しそうだったぞ」
青年は少しだけ視線を逸らした。
「……好きだったから」
「知ってるよ」
ハルトは地図へ視線を戻した。
「問題は安全だ。菓子屋は人通りのある通りにある。でも二階の部屋は外階段で独立してる。異常があった時はすぐ下の店主に伝えられるし、西門からも遠くない」
「見張りは?」
青年が真っ先に尋ねた。
「扉の前には置かない」
ハルトの答えに、青年の目が少し大きくなった。
「いない?」
「ただし、最初の何日かは遠くから一人付ける。外へ出るのを止めるためじゃない。何かあった時すぐ動けるようにするためだ」
「見られる」
「完全にゼロには出来ない」
青年の表情が曇った。
ハルトは、その反応を見ながら言葉を続ける。
「お前が嫌だと言えば、街の側が全部我慢する。街の人間が怖いと言えば、お前が全部我慢する。それじゃ、どっちかがいつか無理になる」
「……うん」
「だから最初は少し離れて見守る。朝と夜に体調を確認する。黒火に変化があったら、お前から知らせてほしい」
「誰が体を見る?」
「基本はセレスか、セレスが認めた人間」
青年はセレスを見る。
「勝手に触る?」
「いいえ」
セレスは迷わず答えた。
「あなたが意識を失っているなど、命に関わる緊急時を除けば、先に説明して許可を取ります」
「胸も?」
「はい」
「服も?」
「必要なら理由を説明します」
「断れる?」
「緊急でなければ」
青年はそれを聞いてから、今度はイリスを見る。
「道具」
「勝手には使わない」
「星脈のも?」
「使いたい時は、何のために使うか話してから聞く」
「嫌って言ったら?」
イリスは一瞬だけ口を閉じた。
知りたい。
その気持ちは消えていない。
それでも。
「使わない」
自分で答えた。
青年は次にヴェスパーを見る。
「ガルムは?」
部屋が一瞬静まった。
レイラが吹き出した。
「何でそこでガルムが出るんだよ」
「勝手に入ってきそう」
「……分かる」
ヴェスパーも頷いた。
「後で俺から言っとく」
「ちゃんと?」
「ちゃんと言う」
「『面倒だ』って言うかもしれないぞ」
レイラが笑う。
「でも守るだろ」
ヴェスパーが答える。
「たぶん」
「そこは信じてやれよ!」
少し笑いが起きる。
青年も、わずかに口元を緩めた。
それから。
もう一度地図を見る。
「仕事は?」
「菓子屋で働きたいのか?」
ハルトが尋ねる。
「昨日やった」
「どうだった」
「箱運んだ」
「楽しかった?」
青年は少し考える。
「楽しいかは分からない。でも、終わったら菓子が俺のになった」
ハルトが一瞬理解できず、ヴェスパーを見る。
ヴェスパーが説明した。
「働いた分として貰ったのが嬉しかったらしい」
「ああ」
「またやりたい」
青年は言った。
「今度はお金でもいい」
「現実的になってきたな」
ハルトが笑う。
「住むなら家賃もいるしな」
「家賃?」
「部屋を借りるための金」
「払う?」
「最初の一週間は灰都側の保護扱いでいい。その後、住み続けるなら店主と話せ」
「働いて払う?」
「そういうことになる」
青年は、想像するように少し黙った。
そして。
「できると思う」
「ならやってみろ」
ハルトは言った。
「ただし、一つ覚えとけ。仕事するかどうかと、ここにいていいかどうかは別だ」
「別?」
「働けない日があったら追い出される、と勝手に思うな。体調悪いなら休め。部屋の話は部屋。仕事は仕事だ」
青年は、しばらくハルトを見た。
「別なんだ」
「ああ」
「全部繋がってない?」
「何が」
「役に立つから置いてもらえるとか」
その言葉。
アステルの視線が静かに青年へ向いた。
彼女は何も言わなかった。
代わりにハルトが答える。
「俺は門番だ。働ける奴だけ街に入れるなんて決まりは知らん」
「店主は?」
「それは本人に聞け」
「分かった」
青年は少し考え。
「部屋、見たい」
「今から?」
「見てから決めたい」
ハルトが頷いた。
「それが普通だ」
◇
昼を少し回った頃。
一行は西通りの菓子屋へ向かった。
結局、レイラも付いてきた。
「何でまだいるんだ」
ハルトが言う。
「引っ越しになったら荷物運べる」
「荷物ほとんどないぞ」
「じゃあ家具」
「店にある」
「役に立てないじゃん」
「別に役に立たなくても来ればいいだろ」
ヴェスパーが言うと、レイラが変な顔をした。
「お前がそういうこと言うと気持ち悪いな」
「帰れ」
「ほらすぐそれ!」
青年は二人のやり取りを聞きながら歩いていた。
灰都の昼は人通りが多い。
荷車がすれ違うたび、歩行者が店先へ寄る。金物屋の軒下では職人が槌を振るい、パン屋からは焼いた麦の匂いが流れてくる。
青年へ目を向ける者もいた。
噂はすでに広がっている。
名前のない人。
黒い火を持つ人。
向こう側から帰った人なのか、それとも黒翼が作った人なのか分からない人。
視線を感じるたび、青年は少しだけ肩を強張らせた。
昨日のように足を止めることはない。
ヴェスパーは横を歩きながら、しばらくその様子を見ていた。
「まだ嫌か?」
「何が」
「見られるの」
青年は街路の向こうへ目を向ける。
「嫌」
「戻る?」
「戻らない」
「そうか」
「昨日よりは」
「うん?」
「少し平気」
「何で?」
青年は、自分でも答えを探すように店先を見た。
「俺も見てるから」
昨日。
菓子屋の前でも言っていた。
自分の目で。
見る。
「でも」
青年が付け足す。
「ずっと同じ人に見られるのは嫌」
「それは俺も嫌だな」
「ヴェスパーも?」
「普通に嫌だろ」
「そっか」
その返事だけで。
青年の肩から、少し力が抜けた。
◇
菓子屋の店主は、一行を見るなり露骨に顔をしかめた。
「多いな」
「審査団だ」
レイラが答える。
「誰が審査すんだよ」
「たぶんハルト」
「俺に全部押し付けるな」
店主は呆れた顔をしたが、青年を見ると少しだけ表情を緩めた。
「来たか、箱運び」
「俺、名前ない」
「知ってるよ」
「じゃあ何で箱運び」
「呼びやすいから」
「嫌じゃない」
「ならいいだろ」
青年は少し考えて頷いた。
「部屋」
「ああ。見るんだったな」
店の脇に細い外階段がある。
木製。
少し古い。
レイラが一段目へ足を掛けた瞬間、店主が声を上げる。
「お前は最後!」
「何で!」
「階段が不安だからだよ!」
「私一人で壊れるほど弱いなら先に直せ!」
「正論みたいに言うな!」
アルドがいれば喜びそうな会話だった。
青年は、少し笑って先に階段を上がった。
二階には短い廊下と扉が二つある。
一つは倉庫。
もう一つ。
店主が鍵を差し込んだ。
「ここだ」
扉を開ける。
使われていない部屋特有の、乾いた木と埃の匂いが流れてきた。
広くはない。
壁際に一人用の寝台。
小さな机。
椅子。
棚。
窓。
それだけ。
でも。
検査区画とは違う。
部屋へ入った瞬間、青年は何も言わず窓へ向かった。
外を見る。
西通り。
人が歩いている。
屋根。
荷車。
遠くには灰都の外壁が見える。
店の下から。
菓子を焼く甘い匂いが上がってくる。
「どうだ?」
店主が尋ねる。
青年はすぐに返事をしなかった。
窓から離れ。
机へ触れる。
寝台の端を軽く押す。
「壊すなよ」
レイラが言う。
「レイラじゃない」
「そうだった」
青年は今度は扉を見る。
「ここ」
「何だ」
「俺だけで使う?」
店主が首を傾げる。
「誰かと住みたいのか?」
「違う」
「じゃあ一人」
「店主は?」
「用もないのに入らん」
「本当に?」
「店の天井が落ちてきたら入るかもしれん」
「火事も?」
「そりゃ入る」
「ハルトもそう言ってた」
「普通だろ」
青年は扉の内側へ近付いた。
鍵穴を見る。
「中から閉められる?」
「閉められる」
「俺が?」
「そうだよ」
店主は腰の鍵束から、小さな鉄の鍵を一本外した。
「住むなら、これをお前に渡す」
掌へ載せる。
青年は。
すぐには受け取らなかった。
「俺に?」
「部屋の鍵なんだから」
「店主のじゃない?」
「建物は俺のだ」
「じゃあ鍵も」
「貸してる間はお前が持つ」
「俺の?」
店主が頭を掻いた。
「厳密には俺のだけど……ああもう、面倒だな」
少し考えて。
「お前がここを借りてる間は、これはお前が使う鍵だ。勝手に俺が取り上げたりしない」
青年は。
ゆっくり手を出した。
鉄の鍵が。
掌へ落ちる。
大した重さはない。
それでも。
青年は長いこと見ていた。
「閉めていい?」
「何を」
「扉」
「いいよ」
「昼も?」
「好きにしろ」
「誰か来ても?」
「入れたくなきゃ閉めとけ」
「何で?」
店主が困り果てたようにヴェスパーを見る。
「お前、説明してやれ」
「何を?」
「自分の部屋の扉は自分で閉めていいってことを!」
ヴェスパーも少し考えた。
言葉にすると。
妙に難しい。
「誰かが来た時」
ヴェスパーは青年へ言う。
「会いたければ開ければいい。今は嫌だと思ったら、開けなくてもいい」
「怒られる?」
「緊急じゃなければ」
「ノックは?」
「する」
ハルトが答えた。
「返事を待つ」
「返事しなかったら?」
「帰る」
「本当に?」
「仕事の用事なら後でまた来る」
青年は。
鍵を握った。
「……ここ」
もう一度。
部屋を見る。
「好きかもしれない」
店主が笑った。
「まだ住んでもないのに?」
「でも」
青年は。
窓。
机。
寝台。
扉。
最後に。
自分の手の鍵。
「嫌じゃない」
◇
住むことは、その場で決まった。
ただし。
ハルトとの約束はそのまま残った。
朝と夜の体調確認。
黒火に変化があれば知らせること。
最初の数日は、街を移動する時に門衛が一定の距離を置いて同行すること。
夜中に門外へ出ないこと。
その代わり。
扉の前へ常駐の見張りは置かない。
部屋へ入る時は、必ず先にノックをする。
青年が返事をしない限り、緊急時以外は中へ入らない。
ハルトは、それらを一つずつ紙へ書き留めた。
「他に、お前から何かあるか?」
青年は鍵を持ったまま考える。
「俺から?」
「そう。嫌なことがあれば今言え」
「後から増えても?」
「その時また話せ」
「全部聞いてもらえる?」
「聞く。通るかは別だ」
「それでいい」
青年は少し安心したようだった。
「じゃあ」
指を一つ立てる。
「勝手に胸を触らない」
「セレスがさっき言った通りだ」
「イリスの道具も」
「勝手には使わない」
イリスが自分で答える。
「ガルム」
また。
一瞬。
全員が黙った。
レイラが口元を押さえる。
「何で毎回ガルムだけ特別枠なんだよ」
「扉、普通に開けそう」
「否定できないのがつらいな」
ヴェスパーも苦笑した。
「俺からちゃんと言っとく」
「本当に?」
「分かったって」
「頼む」
青年は満足したらしい。
ハルトが紙を畳む。
「それで決まりだ」
◇
引っ越しは。
拍子抜けするほど早く終わった。
青年の荷物は少なかった。
検査区画で支給された服が二着。
歯を磨くための道具。
木杯。
昨日の焼き菓子を包んでいた紙。
それだけ。
レイラが小さな袋を持ち上げ、裏表を確かめる。
「本当にこれだけ?」
「ああ」
「何のために私来たんだ」
「暇だったからだろ」
ヴェスパーが言う。
「それ最初に私が言ったやつ!」
アステルは。
笑わなかった。
青年の荷物を見ている。
何かを思い出しているのかもしれない。
研究施設を出た時の自分。
持っていたもの。
持っていなかったもの。
「必要なものは」
アステルが静かに言った。
「これから少しずつ増やしていけばいいと思います」
青年が彼女を見る。
「何が必要?」
「それを決めるのも、あなたです」
「アステルは何持ってる?」
「私ですか」
予想外だったのか。
アステルは少し考えた。
「服。薬。昔から使っている小物がいくつか。それから、本」
「本?」
「はい」
「読む?」
「読みます」
「面白い?」
「ものによります」
「貸して」
アステルは一瞬。
青年の顔を見る。
「文字は読めますか?」
青年が止まった。
「……分からない」
イリスの目が、ほんの少し輝く。
すぐに自制した。
アステルが先に答える。
「では、落ち着いたら一緒に試しましょう」
「試験?」
「いいえ」
アステルは小さく首を振る。
「本を読むだけです」
「……そっか」
青年は。
少し嬉しそうに頷いた。
◇
夕方。
部屋の片付けが一段落した頃。
二階の扉が叩かれた。
こん。
こん。
青年は。
すぐに返事をしなかった。
聞き慣れない。
音。
でも。
今日。
何度も説明された。
「……誰?」
「俺だよ。下の店主」
「店主」
「そう。入っていいか?」
青年は。
扉を見る。
今。
鍵は掛けていない。
でも。
勝手に開かない。
向こう側の人は。
待っている。
「いい」
「開けるぞ」
扉が開く。
店主は小さな皿を持っていた。
焼き菓子が二枚。
「何?」
「余り」
青年は皿を見る。
「割れてない」
「今日は失敗してないからな」
「じゃあ商品?」
「一枚は」
「一枚?」
「昨日、予定より箱多く運んだ分。もう一枚は引っ越し祝い」
青年は。
意味が分からない顔をした。
「祝い?」
「住む場所が変わった時に、知り合いが何かくれることがある」
「何で?」
「知らん」
店主は真顔だった。
「そういうもんだ」
「俺、何もしてない」
「一枚目はしただろ」
「二枚目」
「してないから祝いなんだよ」
「返す?」
「返したら俺が悲しい」
「何で?」
「何でだろうな……」
店主が自分で頭を抱える。
「お前と話してると、普段考えないことばっかり考えさせられる」
「嫌?」
「面倒」
少しの間。
「でも嫌じゃない」
青年は。
少しだけ笑った。
「俺も」
「何が?」
「この部屋、まだ分からないけど、嫌じゃない」
見回す。
「それなら十分だろ」
店主は皿を机へ置いた。
「じゃあ下戻るぞ」
「店主」
「何」
「ありがとう」
店主は、一瞬だけ動きを止めた。
「ああ」
それ以上。
何も言わなかった。
扉へ向かう。
「鍵、忘れるなよ」
「閉める?」
「好きにしろ。お前の部屋だ」
店主は外へ出た。
扉が閉まる。
青年はしばらく。
その扉を見ていた。
それから。
鍵を差し込む。
ゆっくり。
回した。
かちり。
小さな音。
扉が。
閉じた。
◇
夜になって。
ヴェスパーは西通りを歩いていた。
宿へ戻るには。
少し遠回りだった。
「なあ」
後ろから声がした。
レイラ。
「何でこっち歩いてんの?」
「宿に戻る」
「宿、反対だけど」
「……そうだった?」
「嘘下手だな」
レイラは横へ並ぶ。
二人の前。
菓子屋。
二階の窓には。
小さな灯り。
「気になるなら行けばいいだろ」
「何が」
「ちゃんと一人でいられるか」
「別に」
「じゃあ帰る?」
「……」
「行きたいんじゃん」
ヴェスパーは。
少し迷った。
「今日から、あいつの部屋だろ」
「だから?」
「用もないのに行くの、嫌かなって」
レイラは。
ほんの少し。
笑った。
「なら聞けば?」
「何を」
「入っていいか」
簡単だった。
それだけ。
ヴェスパーは二階の灯りを見る。
「そうだな」
「お前、たまに変なところ難しく考えるな」
「お前に言われたくない」
「何でだよ」
二人は外階段を上った。
レイラが上がるたびに。
木が少し。
軋む。
「ゆっくり歩け」
「普通だ!」
「店主に怒られるぞ」
「階段の方を直せ!」
扉の前。
ヴェスパーは。
手を上げる。
一瞬。
昨日までなら。
そのまま開けていたかもしれない。
検査区画では。
そうだった。
でも、今は違う。
こん。
こん。
「誰?」
青年の声。
「ヴェスパー」
少し間が空く。
「レイラもいる?」
「何で分かった」
「階段の音」
「私だけ特定されるのおかしくない?」
中から。
小さな笑い声。
「入っていい」
ヴェスパーは取っ手へ手を掛けた。
動かない。
「あれ?」
「どうした」
「鍵掛かってる」
一瞬の沈黙。
「あ」
青年の声が。
少し。
嬉しそうになる。
「待って」
鍵が回る。
かちゃ。
扉が。
内側から開いた。
青年が立っていた。
「閉めた」
「うん?」
「俺が」
鍵を見せる。
「自分で閉めた」
ヴェスパーは。
その言葉の意味を。
すぐに理解した。
「そうか」
「それで」
青年は。
鍵をもう一度。
指先で触る。
「今、自分で開けた」
「ああ。見てた」
「すごい?」
レイラが何かを言おうとした。
けれど。
ヴェスパーが先に答えた。
「すごいな」
青年の表情が。
少し明るくなった。
「入る?」
「いいのか?」
「俺の部屋だから」
今度は。
はっきり。
言った。
「俺が決める」
ヴェスパーは。
ほんの少し笑う。
「じゃあ、お邪魔します」
青年が首を傾げる。
「それ何?」
「人の部屋に入る時に言う」
「何で?」
ヴェスパーが、困る。
レイラが笑う。
「知らん。そういうもんだ」
「店主と同じ」
「こういう時はそれでいいんだよ」
青年は。
少し考えて。
扉を大きく開いた。
「じゃあ」
「入っていい」
◇
三人が入ると、部屋はやはり狭かった。
レイラが寝台へ腰を下ろそうとした途端、青年がすぐに言う。
「そこ俺の」
「座るだけだぞ」
「壊すかもしれない」
「お前までアルドみたいなこと言うな!」
「アルドが言ってた」
「何を」
「レイラは建物に触る前に聞けって」
ヴェスパーは。
耐えきれず笑った。
「笑うな!」
「ごめん」
「絶対思ってないだろ!」
結局レイラは椅子へ座った。
ヴェスパーは窓際。
青年は机の横。
机の上には二枚の焼き菓子。
一枚はまだ手を付けていない。
「二枚?」
ヴェスパーが尋ねる。
「一枚は仕事」
「もう一枚は?」
「祝い」
「店主から?」
「ああ」
「良かったな」
「うん」
青年は。
何度か。
その言葉を。
確かめるように頷いた。
「ヴェスパー」
「何?」
「ここ」
部屋を見回す。
「俺の場所?」
「借りてる間はな」
「店主も同じこと言った」
「じゃあ合ってる」
「でも街は俺のじゃない」
「それは当たり前だ」
「誰の?」
ヴェスパーは。
少し考えた。
「誰か一人のものじゃないと思う」
「難しい」
「俺も説明しててそう思った」
青年は。
鍵へ視線を落とす。
「この部屋は」
「うん」
「俺が閉めていい」
「ああ」
「街は閉められない」
「普通はな」
「人も?」
「閉める?」
「違う」
青年自身も言葉を探す。
「誰かが来たら」
「うん」
「ここなら、今は嫌って言える」
ヴェスパーは。
返事を急がなかった。
「検査区画は」
青年が続ける。
「扉が閉まってても、俺が閉めたわけじゃなかった」
机の上。
鍵。
「ここは」
「俺が閉める」
それから。
ヴェスパーとレイラを見る。
「俺が開ける」
レイラも。
もう軽口を挟まなかった。
「いいじゃん」
代わりに。
それだけ言った。
青年がレイラを見る。
「いい?」
「ああ」
「何が」
「自分で決められる扉が一個くらいあった方が」
レイラは。
少し照れ臭そうに。
机の菓子へ目を逸らした。
「暮らしやすいだろ」
青年は。
しばらく。
その言葉を考えた。
「たぶん」
答える。
「好き」
「何が?」
「扉」
レイラが笑う。
「変なもん好きになったな」
「レイラは肉」
「何でそこで私の好み出すんだよ」
「ヴェスパーはまだ分からない」
「覚えてたのか」
「聞いたから」
三人。
小さな。
部屋。
笑う。
胸の黒火は。
その間。
一度も動かなかった。
◇
帰る時間になった。
ヴェスパーとレイラは扉の外へ出る。
「何かあったら呼べ」
ヴェスパーが言う。
「何かって?」
「黒火が変なら。具合悪くても」
「それ以外は?」
「それ以外?」
「分からないこと」
ヴェスパーは。
少し笑った。
「それでもいい」
「焼き菓子食べすぎたら?」
「それは自分で考えろ」
レイラが横から言う。
「腹痛くなったらセレス呼べ」
「それは分かる」
「じゃあ寝ろ」
「まだ寝ない」
「好きにしろ」
青年が。
少し笑う。
「ハルトと同じ」
「それは嫌だな」
「何で」
「知らん」
扉が閉まる。
ヴェスパーとレイラは。
そのまま数秒。
廊下に立っていた。
内側から。
鍵が回る。
かちり。
小さな。
音。
「閉めたな」
レイラが言う。
「ああ」
「嬉しそうだった」
「うん」
「ヴェスパーも」
「俺?」
「そう」
「……そうかな」
「そうだよ」
二人は。
古い階段を。
ゆっくり降りていった。
◇
部屋の中。
青年は。
しばらく扉を見ていた。
閉じている。
でも。
外から。
閉じられたわけではない。
誰かに。
そこへいろと。
命じられたわけでもない。
自分が。
閉めた。
机へ。
鍵を置く。
鉄の小さな塊。
その隣。
二枚の焼き菓子。
一枚は、自分が働いて受け取ったもの。
もう一枚は。
何もしていないのに。
引っ越したから。
と言われて貰った。
まだ。
その違いを。
上手く説明できない。
青年は。
窓を開けた。
夜の灰都の空気が入ってくる。
下の店では。
皿を片付ける音。
遠く。
職人の笑い声。
西門の鐘。
知らない誰かの足音。
人は。
いる。
たくさん。
見られることもある。
自分も。
見る。
それでも。
今いる部屋だけは。
誰かが入る時。
先に音を鳴らす。
待つ。
そして。
自分が。
答える。
青年は窓を閉めた。
灯りを落とし。
寝台へ横になる。
暗闇。
けれど。
研究所の暗さとは。
違った。
扉の外に。
見張りはいない。
最初は。
そのことが。
少しだけ。
怖かった。
誰もいない。
何か起きても。
すぐには。
誰も来ない。
青年は。
枕元の鍵へ。
手を伸ばした。
触れる。
冷たい。
固い。
ある。
ちゃんと。
そこに。
誰もいないことと。
一人にされたことは。
同じではない。
下には。
店主がいる。
少し歩けば。
西門がある。
ヴェスパーも。
レイラも。
セレスも。
アステルも。
いる。
必要なら。
自分から。
扉を開ければいい。
青年は。
鍵から手を離した。
目を閉じる。
白い空も。
黒い灰も。
自分と同じ顔をした誰かも。
その夜は。
夢に出てこなかった。
代わりに。
下の階から残っていた。
焼き菓子の甘い匂いが。
ほんの少しだけ。
部屋の中へ。
漂っていた。
青年は。
その匂いを。
嫌ではないと思った。
そして。
誰にも聞かれないまま。
眠った。




